第6話 【心得ること】


 ―――翌朝。


 亜結樹はいつものように登校する。上履きは海鳴のを借りたままだ。


「おはよう」

「ふわぁ……んはよ」

 下駄箱前で海鳴と会う。

「あの、上履きやっぱり……」

「あーいいっていいって履いとけって」

 彼はそう言いながらあくびをしてスリッパを履くと、亜結樹と共に教室へと向かった。


 ***


「なんだよこれ……」


 海鳴は自分の机に書かれた落書きを見る。

 そこには『』が油性マジックで海鳴の机の右端に書かれていた。


「亜結樹……お前のところはないよな?」

「え? 何が?」


 海鳴は亜結樹の机を見た。そこにはなにも書かれていなかった。 


 ――別にこんな嫌がらせ……平気だし。

 ――俺と氷峰を引き離したいんだろうけど……。逆効果だぜ。


「おい立花」


 海鳴は、読書をしていた立花に声をかける。


「あ、おはよう柊君」

「俺を巻き込まないでくれない? ……言ってる意味わかるだろ?」

「何の事かな? それ言っとくけど、あたしじゃないよ」

「は? お前が命令してんだろ?」

「……だとしたら、何?」


 そう言った立花は海鳴を睨み返した。


 ――何でこんな強気なんだ?こいつ……。


「ま、いいや。気にしない気にしない……っと」


 海鳴は平素を装って、一限目の授業の準備を始めた。


「亜結樹、おはよう」

「……」


 背後から立花の声がする。亜結樹は何かが怖くて振り向けなかった。

 亜結樹は立花の声を無視してしまう。


「……」


 立花は無表情のまま亜結樹の背中を見つめた。彼女の中では、まだ亜結樹の存在が大きくて手放せずにいる。それなのに彼女は、昨日亜結樹を無視してしまい、彼女を突き放してしまった。彼女が好き故に。彼女が自分の事を認めてくれなかったと思い込んでいたのだ。彼女を束縛したい。認めてくれなかった相手を恨んで――。好きという気持ち。その代償行為がこのいじめであるという事。


 ――なんで振り向いてくれないの……?

 ――あたしが昨日無視したから?

 ――柊君と二人で何コソコソしてるの?


「な、氷峰、今日も昼飯一緒に食おうぜ」

「う、うん……」



 ―――同時刻・キュプラモニウム施設内・研究室。


 青い水溶液の入った、巨大なメスシリンダーの様な機械に、遺体の下半身や上半身が入れられている。蔀は水溶液の中の人体から出る気泡や温度のデータをコンピューターでチェックしていた。


「……」


 なにも恐れることはない。これらの人体は再生を希望して届けを出された人の遺体だ。近親者もそれを認めている。

 別の容器に目を向ける。そこには小さな胎児の様な人の形をしたものが宙に浮いていた。


 ――問題は……こっちだ。陵さんが管理してるのか……。

 ――気になる。誰のはいから作られたのか……。


「あーあー、ちょっとそっちは関係ないでしょ? 蔀君」

 陵は、蔀の隙につけこみ彼の両肩を叩くと、自分の顔を彼の顔に近寄せる。


「な、何ですか! 脅かさないでくださいよ」


 振り返り、陵の顔を見る。


「あれは俺個人の研究……。君には関係ないよ」

「そうですね。あれがちょっと胎児の様に見えたのでつい気になって…」

「んー……胎児で間違いないよ。俺は完璧なクローン人間を作ろうとしている。海鳴が一例だけど、彼は未熟だ」

「!? 組織の方針とは違う方向に向いていませんか? それ」

「なぁに。一度死んだ人を生き返らせるのと、最初から希望の人類を生み出すの、どっちがいいかって話さ」

「天秤にかけるんですか……そういうこと……」


 蔀は陵を睨んだ。彼はをこの組織に入り始めた頃、司秋から聞かされている。


「それ……難題ですね」


 二人の会話に横槍を入れるように速水が言った。


「……そうそう。そうなんだよ~。速水君わかってるねぇ!」


 陵はへらへらしながら速水のデスクへと近づいていく。速水は陵の姿を避けるように、立ち上がり研究室を出て行ってしまう。


「あら?」

「……」


 蔀と陵二人だけになってしまった。


「陵さん……俺の弟に何話したんですか?」

「何? 電話掛けてもいいって君が許可してくれたじゃない。何話したっていいでしょ?」

「……」

「八束君と氷峰君、それと君や亜結樹…みんなの繋がりに首を突っ込む気はないよ?」

「……そうですか」


 ――他人の心を弄んでいるというか……。この人は――。

 ――人間観察が趣味なのか。

 ――八束が陵の言葉に翻弄される心配はなさそうだが。

 ――何だろうな……亜結樹の事聞いてきた八束の態度が少し気掛かりだったな。



 ―――昨晩・蔀宅内。


 ――『おう、やっと電話きやがった』

「用件を言え。俺は早く寝たいんだ」

 ――『んなおじいちゃんみてぇなこと言うんじゃネェよ。あのさ……アユキって誰?』

「ん? お前何で知ってるんだ?」

 ――『あーいや、今さっき、つうか今日の昼間、ミササギって人から電話あってさ。で、なんか、そいつの名前とミネの名前並べてきたからなんか関係あんのかと思ってさ』

「彼女は今週、海鳴のいる学校に転校してきたばかりで、俺が担当しているクローンだ。海鳴と同じクラスメートだ」

 ――『あ、マジ? そうなんだ』

 ――『そういや海鳴の奴、転校生がどうのこうの言ってたなぁ(……ったくアイツ名前言わなかったな)』

「亜結樹と……ミネのことなんだが……」

 ――『あ、そうそう何でミネからそいつのこと聞かなかったか? ってミササギって奴が言ってたからよ。お前何か知ってんだろ?』

「……(今、話すべきだろうか……いや、やめておこう)」

 ――『おい何黙ってんだよ! 無言電話キモいからやめろっての。お前ミネと会ったの? 会ってねぇの?』

「会った……。アイツも相変わらず元気で過ごしている」

 ――『そうか……。あーアユキって人? 俺には、その……なんだ……関係ねぇわ』


 何故か言葉が途切れ途切れになる。八束のその言い方に蔀は違和感を感じた。


「お前、海鳴とは最近どうなんだ?」

 ――『は? 何聞いてんの? おめぇには関係ねぇだろが。海鳴から聞けや』

「相変わらずの口調だな。まだ働き口なさそうだな」

 ――『はっ……るせーよ。そのうち探すって。わりぃなこんな弟でよ』

「声からして反省の色が見えないな。ところでお前はミネに会う気はないのか?」

 ――『あ? ……っわかんねーな。アイツ俺に会いたがってんの?』

「さぁな。俺にもわからない」

 ――『あっそ。じゃもう切るわ。じゃあ――』

「――おい、聞きたい事はもう――……」


 蔀が言いかけた所、電話が切れる。

 八束の一方的な切り方で電話は終わってしまった。


「ミネと亜結樹が一緒に暮らしてる事、言えなかったな……」


 蔀は食卓に携帯電話を置いて風呂へ入る準備を始める。

 蔀はシャワーを浴びる。浴びながら考え事をしていた。


 ――アイツ……亜結樹の事関係ないって言ってたけど……見え見えだな。

 ――海鳴と亜結樹との間に何かあるのか?

 ――ミネとアイツが会う機会ってあるのか?

 ――亜結樹と八束が二人きりになる事だけは避けておきたいな……。



 ―――昼休み。


「亜結樹、一緒に食べよ」

「え……!?」


 亜結樹は立花の思いがけない一言に何も言えず、その場から動けなくなってしまう。居合わせた海鳴が亜結樹の代わりに代弁する。


「昨日、亜結樹が同じこと言ったの断っといて、今日は一緒とか気まぐれなんだよお前は」


 亜結樹の肩に腕を回し――、

「今日も俺と飯食うの」

 と言い放つ。


「別にいつも一緒だなんて……思ってないわ」

「……友美香」

「じゃ、屋上行きますか」

「……」


 海鳴は亜結樹の手を取り歩き始めた。亜結樹は海鳴に連れられて教室を出る。そのとき一瞬だったが、後ろに振り返って窓際に座る立花の横顔を見た。


 ――ごめんね友美香。……あれ?

 ――何で謝ってるんだろ、あたし……。


 二人は教室から姿を消した。


「友美香食べよ」


 立花の周りにはいつもの面子が立っていた。エミが声をかけたが、立花は返事もせず座ったままだ。


「友美香?」


 立花は二人の姿が教室から無くなったのを見計らって、亜結樹の机の脇にかかっていた鞄を見る。そして鞄に結んであったエンジのスカーフを手にする。


「ちょっと、また物、隠す気?」


 エミが苦笑いをしながら言った。


「……違う」


 立花は静かにそう言うと、鞄から小さいサイズの裁縫用のハサミを取り出した。無言のままスカーフの端を少し切り始める。


「ちょっと……やばくない?」


 エミの隣にいた彼女が囁く。

 スカーフの真ん中辺りまで切ると、気が済んだのか切るのを止める。

 そして、スカーフを亜結樹の鞄に結び直す。


「氷峰さん気づくかな?」

「気づかないように結んだの」


 友美香は結び終えるとそう言いながら、自分の席に着いてお弁当を取り出す。


「そこ席空いてるから座んなよ。柊君の席と亜結樹の席」

「う……うん」


 エミともう一人の友人は、立花に促されて大人しく席に着いた。


 ***


 二人は屋上で昼食を摂っていた。金網が付いてる石段に腰をかける。海鳴は金網に寄り掛かるようにして足を伸ばす。


「はぁ、お前、そんな沈んだ顏すんなよ」

「……うん……だって……」


 ――友美香はあたしのこと……まだ好きなのかな?

 ――突き放したり、引き戻そうとしたり……。

 ――友美香はあたしのこと、まだ友達だと思ってくれているのかな。


「からかってるだけだよアイツら」

「そんな……」


 ――レズビアンって嘘だったのかな……でも――。

 ――図書室で手を握られた時、そんな気はしなかった。


「立花も言ってたろ? いつも一緒にいるわけじゃないって」

「……。じゃあ、海鳴は……」

「ん? なに?」

「海鳴はなんでいつもあたしと一緒にいてくれるの?」

「なんでって……。お前いつも言ってんじゃん」

「……――!」


 亜結樹は気づいたように目を見開いた。


「友達だからだよ」

「そ……そうか。そうだよね」


 ――そういや友美香も海鳴も知らないんだよね。

 ――あたしがイフだってこと――いや――。

 ――絶対にばらしちゃいけないんだ。ミネにそう言われてる……。でも――。

 亜結樹は自分でも知らずの内に、眉間に皺を寄せている。


「どした? 何そんな怖い顏して」

「あ……いや――」


 ――海鳴にならばれても平気かもしれない

 ――でもまだ言うべき時じゃないかも。

 ――気づく時って来るのかな?


「ん?」

「な、何でもないよ。あ、ほらお昼休み終わっちゃう」


 亜結樹は残り一つだけだったコンビニのサンドイッチを口に頬張る。


「ハハハっ……慌てんなよっ。待っててやるから」


 亜結樹は頷きながらお茶を飲む。


「もう大丈夫。行ける」

「じゃ、戻るか」


 海鳴は立ち上がる。手を亜結樹に差し出す。

 亜結樹は海鳴の手を握り海鳴に引っ張られる体勢になり立ち上がる。

 二人は恋人のように手を繋いで教室まで歩いていた。


 廊下を歩く。時偶ときたま、周囲のひそひそしてる声がする。


「海鳴……やっぱり恥ずかしいよ……」

「今更何言ってんの。お前知らないだろ?」

「落書き? ……うん」

「……相合い傘」

「何それ?」

「知らねーの?」

「……うん」

「あー説明めんどい。要するにだから……開き直って……その……」


 ――亜結樹と付き合いたい。


 海鳴は亜結樹にそう言いたかった。だが言えなかった。


「? 落書き見せてくれる?」

「ん……ああ」


 ***


 二人は教室に入る。友美香の友達は、二人が教室にやって来たことにすぐ気がつき、慌てて自分の席に着く。すると、ちょうどチャイムが鳴った。亜結樹は立花に視線をおくるが、立花は亜結樹と目を合わせようとはしなかった。立花は読書に無理矢理意識を集中させていた。彼女は亜結樹は海鳴の机の落書きを見た。亜結樹は海鳴の事を友達と思って接している。それに亜結樹は海鳴のことを特別、恋愛の対象としては意識してこなかった。だがこの相合い傘を見て、亜結樹は少なからず『恋人同士』という意識を持たざるおえなくなった。


 ――ミネにこのこと言ったら、怒られるかな?


「俺はお前の事、友達として好きだよ」


 海鳴は自分の席に着きながら亜結樹に告げる。彼は嘘をついている。海鳴は亜結樹の事が放っておけない、近しい存在になりつつある。恋愛感情も芽生え始めていた。


「うん……」


 亜結樹も自分の席に着く。


「……」


 立花は二人の後ろ姿を見つめていた。亜結樹に目を向けると、益々心の中で亜結樹に対する憎しみが込み上げて来る。愛憎が入り交じっている。


 ――海鳴しつこいし……。エミ、余計な事したなぁ……。

 ――相合い傘なんていつの時代の落書きよ。


 ――亜結樹って……本当に女の子なのかな?

  


 ―――夕方。


 蔀は研究室を出て総務部へ向かっていた。


「よう、元気か?」

「どうも……」


 廊下を歩いていると、書類を持った男がすれ違い様に挨拶する。潮崎しおざきは海鳴を施設から送り出し、俺と共に八束に引き渡す許可証を出してくれた人物だ。


「あ、ちょっとさ、話したい事あるから仕事終わったら一杯付き合えよ」

「え……まぁいいですよ」


 潮崎は蔀の高校時代の二つ上の先輩である。その昔、蔀と同じ剣道部に所属しており、一年間だったが馴れ親しんできた仲だった。蔀が大学に入学すると、就活中だった彼と再び再会することになる。そこで蔀が「組織が人員を増やす予定でいて、人手が足りない」と話した。潮崎は、組織の理念には理解し難い所もあったようだが、普通の会社に入るより面白そうだという興味本意で、キュプラモニウムに入った。


 一度死亡した人を他者の遺伝子と組み合わせて不特定多数の人々に再会させる。生と死のサイクルが行われている組織で平常心でいられる彼の精神は、どことなく麻痺しているのかもしれない。


「じゃ、仕事終わったら出入り口で待ち合わせよう」

「はい」


 ***


 蔀は総務室に入ると、戸室とむろという人物に会い、書類に印鑑を貰う。


「戸室さん……陵さんの個人的な研究って何ですか?」

「ん? 研究内容は知らないよ。君ら製造部の秘匿義務なんじゃないのか?」

「いや……陵さんの同期の戸室さんなら何か知ってるのかと思いまして……」

「はぁ……。あいつ、海鳴という名のコピー人間、無許可で勝手に作ったからな……今度は何する気なんだか……」

「無許可?」


 戸室は一瞬しまったという様な顔をしたが、冷静さを取り戻す。

 海鳴の事実を言ってしまった以上、今後言わないで黙っている訳にも行かない。

 陵と二人でいた時に彼本人から聞かされた事を。


「あ、ここではあまり大きな声では話せないんだ。機会があればその事はまた話す」戸室は『今はまだ話しておくべき事ではない』と判断したのだが――

「気になるじゃないですか」


 蔀の真剣な眼差しに少々狼狽える。


「――……」


 戸室は頭を少し掻きながら、歯を食いしばり口を少し開けて息を吸い込む。


「じゃ、仕事終わりにまたここに来い」

「今日は約束があるので無理です」


 機械のように断る。


「あーじゃあちょっと――」


 戸室は椅子から立ち上がり、隣の会議室に繋がるドアの前まで歩き出す。遠くにいた蔀を手を振って招く。彼がドアを開ける。


「こんな部屋あるんですね」

「手短に話そう。座って」

「何か重大な内容でも?」

「俺が知ってる事は、海鳴が国では違法なクローン人間ってことだ」

「違法!?」

「組織が発足する前の話なんだが……。再生医療自体、倫理問題で色々議論が交わされてきただろ? 今じゃ一度死んだ人間が生き返る事が当たり前な世の中になった訳だが、その内容の一つに生きてる人間のコピーについて話があったんだ」

「そもそもクローンという意味自体……今では変わってきてますね」

「そう……。植物と同じで枝葉とか……語源そのものの意味としてな。遺体に対して同じ様な事をしている。けど海鳴はそうじゃない」


 今では、クローンと呼ばれる人間は、遺体を切断、縫合し、臓器を再生し、任意の遺伝子と合成し、蘇生された人間だ。亜結樹やマサヒの肉体も、上半身のみ、下半身のみから成長し、上半身、或は下半身が形成されて誕生した。だからクローンには臍の下から背中にかけて円を描くような長いメスを入れた痕がある。だが海鳴には――それが無いという話だ。


「だとしたら、母胎が存在しますよね……それは知りませんよね」

「ああ」

「戸室さん、まだ誰にも話していない事ですよね?」

「お前が初めてだ」

「この事がばれたら組織は……」


 ――存在できなくなるだろうな。


「まぁ、俺もこの組織にいる以上……内部告発する勇気は持ち合わせていないんだ」

「……私も考えがまとまらない以上、この事は内密にしておきます」


 ――陵さんに直接伺うなんてことは……今はまだできない。


「ああ、頼むよ」


 戸室は席から立ち上がり、ドアを開ける。

 蔀は部屋を出て行く。そして、総務室からも一礼して立ち去った。


 廊下の角を曲がりエレベーターを待っていると、三人の女達の噂話を耳にする。だんだん声が大きく聞こえて来る。こちらに向かって歩いて来るようだ。


「速水さん大丈夫だったかしらね。陵さんと食事に行ったんだって?」

「え、そうなの?」

「陵さんて人、昔から女遊び好きらしいから、二人きりになった時点で危ないですよね。あたしも気をつけなきゃ」

「速水さんからメール来たんですけど、そういう展開にはならなかったって」

「あら、何て言って断ったのかしら。あの人相当しつこいのに」

「……」


 ――女誑しか……。速水に性的魅力なんてあるのか?

 ――何考えてんだ、俺。あの人はミネを振った女だ。

 ――どうせ恋愛なんて面倒だと思っている女だろう。俺と同じで。


 彼女達はエレベーターの前に立ち止まる。蔀と同じエレベーターに乗り込んだ。


「あ、すみません」


 蔀は端に乗り込み、閉ボタンを押した。


「何階ですか?」

「あ、二階お願いします。すみません」

「ありがとうございます」


 二階と一階のランプが付く。


「あの人製造部の人ね」

「梁川さんああいう感じの人タイプじゃない?」

「ちょっとやめてくださいよ」


 ――早く降りたい。女性のこういう会話は苦手だ。

 ――速水は多分こういうタイプじゃないだろうな。

 ――もし今もミネと付き合いがあるとしたら、おそらく受け入れるだろうな――。  

 ――同性愛を。速水はそういうタイプの人間だろうな。


 エレベーターが止まる。彼女達は降りた。

 そして再びエレベーターは動き出し、一階のボタンのランプが消える。

 研究室のドアを開けると速水が出迎えてくれた。


「随分時間かかりましたね。あと一時間で定時ですよ。今日は残業できないんですから、代わりにデータ印刷しておきました」

「あ、悪い……俺の分まで。……何でだ?」

「何でって……」


 速水は目を伏せる。暫し沈黙し――、

「貴方は年下ですけど……先輩ですから」

 そう言った彼女のその言葉は、しめやかだった。速水は、蔀が思っているよりも、女性的な部分がある。それは、彼女は蔀のことを好きでいるからだ。


「そうか……」

「あ、陵さんは今、養護施設に行ってます。今日はもうここには戻らないそうです。鍵当番任されましたので、時間になったら早めに帰ってください。私も早く帰りたいので……」

「あぁ、わかった」


 ――すること無くなってしまったじゃないか……。どうしてくれるんだ。


「コーヒー入れましょうか?」

「ん? ……俺はブラックは飲めない」

「そうなんですか……」


 速水はちょっとがっかりした態度で、返事をした。続けて蔀が――、

「昔から俺はココアが好きなんだ。コーヒーもミルクと砂糖を入れないと飲めない質でな……」

 と、自分の好みを付け加える。


「そうなんですか」


 今度は明るい声で返事をした。

 ――なんか見た目と違って、印象変わるな……。


「お前、陵と食事に行ったんだってな」

「――!? 何でそれ知ってるんですか……!」


 速水は静かに驚く。あまり抑揚の無い声だったが、内心とても驚いている。動揺していた。


「通りすがりに聞いてしまってな……。なにか話でも聞かされたか?」

「最初のイフ……允桧まさひという人物の話を少し聞かされました」

「――!」


 蔀は目を見開いた。


「それで私……亜結樹が柊さんのもとで育てられて良かったなって思いました」

「そうか」

「もし亜結樹が陵さんの近くにいたら、どうなっていたか……。陵さんの態度に内心苛々いらいらしていました」

「そうか。それで……断ったんだってな」

「……はぁ」


 速水は溜め息をついた。口には出さなかったが、蔀の言いたい事を理解していた――陵という男が女誑しである事を。


「どんな理由つけたか知らないけど、あの人しつこいらしいぞ」

「何言ってるんですか……女性達の間ではもう噂ですよ。陵さんがどういう人物かって事くらい」


 淡々と語る彼女の態度を蔀は忠告する。


「お前感情を表に出さないからな。そういう……相談も……いつでも乗る」

「ありがとうございます。でも余計な心配しないでください。私こう見えてガード堅いですから」

「はは……そうか」


 ――ま、余計なことは考えないでおこう。


「……」


 蔀は腕時計を見る。そして周囲を見渡す。


 ――給湯器置いてあるなら、今度ココアの粉でも持って来るかな。

 ――あ、でも冷蔵庫が置けないから、牛乳保管しておけないか。


「どうしたんですか?」

「あ……いや、どうでもいい事考えていた」

「あの……」

「何だ?」

「亜結樹と氷峰弓弦の関係って何かあるんですか?」

「関係? 詳しくは知らない。陵さんの命令で引き渡したからな……――!」


 ――そう言えば何故、亜結樹をミネの所へ引き渡したのだろうか……。理由を知らない。

 ――亜結樹の肉体が誰の遺体と遺伝子を受け継いでいるのか……知らないまま俺は――亜結樹を作り出してしまったんだ……。


「柊さん?」


 蔀は改めて畏怖クローンの存在に動揺し、怯えた様な顔をして立ち止まっていた。


 ――何を恐れているんだ……俺は。男か女かなんてこと……。性を勝手に決めつけないで自然に接すればいい事を。

 ――陵のように、イフを他とは差別化しない。

 ――どう生きるか……亜結樹自身で考えさせるんだ。

 ――亜結樹を……允桧と同じ様な運命にはさせたくない。


 蔀は唇を噛み締め、静かに口を開いた。


「あの二人の関係はな……これから築いていくんだ」

「私も出来るだけ力になります。一人で抱え込まないでください」

「ありがとう……」

「亜結樹は……今、どっちの性が強いんでしょうか……」

「それも来月報告書が上がってから、それをベースに俺がレポートを書く。実際一緒にいるのは氷峰だからな」

「……氷峰さんて今、仕事何してるんでしたっけ?」

「鳶職だ。お前、憶えてるのか? 氷峰の事」

「何の事をですか? ……忘れました」


 速水は蔀の『憶えてるのか?』という言葉の意味を、内心わかっていた。彼女は中学時代、氷峰を振ったことを憶えているが、しらばくれていた。


「そうか……。そろそろ時間になるな。それじゃ帰るとしよう」


 蔀は早々と身支度を始める。コートを着て研究室を出ようとする。その時――、


「待ってください!」


 速水が蔀を引き止めるように言う。


「?」

「机に置いてある本、借りてもいいですか?」


 蔀のデスクにはL G B T関連の書籍が数冊置かれていた。


「一通り目は通しているから好きなの持っていって構わない」

「ありがとうございます。来月には返しますので……」

「それじゃ先に失礼するよ」

「はい。お疲れ様でした」


 蔀は研究室からいなくなる。


 ――無関心でいる事が……最大の差別かもしれない。だとしたら陵さんは――。

 ――差別というよりかは……軽蔑しているのかもしれないな。イフの事を……。

 ――いや――クローンと呼ばれる人々の存在を。


 ***


 出入り口まで少し息を切らして、早歩きをした。蔀の方が先に門の前に立つ。潮崎が遠目に蔀の姿に気づき、手を軽く上げる。悠々たる面持ちで蔀の元へ近づいて来る。


「待ったか?」

「いや……っ……それほどでもない…です」

「あはは。息切れしてるけど大丈夫か?」

「待ち合わせというのはどうも苦手で……定時で終わっても焦ってしまうんです」

「先輩より早く着く事は偉いんじゃないか? あははは」


 蔀と潮崎は近場の居酒屋まで歩いて行った。



 ―――日没後・氷峰宅内。


 ――『もしもし?』

「……義父とうさん?」

 ――『ああ。元気にしてるか?』

「……まぁまぁかな」

 ――『まぁまぁって……ははは。仕事の方はどうだ?』

「怪我してないし順調だよ」

 ――『そうか。亜結樹とは仲良くしていけそうか?』

「まだわかんないよ……」

 ――『弓弦……。彼女と生活することはお前の為でもあるんだ。それだけは理解しておいてくれ』

「……うん」

 ――『私ももう長くは生きられないからな……』

「――今何て――!」

 ――『ハハハ。薬飲んでるから今のところは大丈夫だ。だが、もう進行は遅らせることはできるが――』

「義父さん……組織は嫌いだけど義父さんには感謝してる……」

 ――『弓弦。別に今すぐ死にに逝くわけじゃないんだからそういうこと言わないでくれ。恥ずかしい』

「そう……じゃなくて……」

 ――『?』

「亜結樹の事は蔀と俺に任せてくれ。仕事としてじゃなくて、プライベートでもさ」

 ――『お前……亜結樹といることが只の実験だと思っていたのか?』

「……いや別に(――だってキスしたし……)」


 ――『確かに組織から受け渡され、同居をさせられ、蔀がレポートを書く。だがお前自身は友人或いは恋人が出来たと思ってくれればいいんだ。難しく考えるなよ?』

「……うん(――亜結樹は恋愛とかそういうのまだわからねぇのかな……)」

 ――『私が言ってあげられるのはこのくらいだ。もう二十三だ。いやまだ二十三か。亜結樹との付き合い方は蔀にアドバイスを貰いなさい。はは。蔀も人付き合い下手だったから頼りないか』

「はは……付き合い方ぐらい自分で考えるよ」

 ――『急な電話で少し驚いたかもしれないが……元気でな。気が向いたらいつでも施設にきてもいいんだぞ』

「気が向いたら……な――!」


 玄関から鍵の音がした。亜結樹が帰ってきたようだ。


 氷峰は焦るような声で――、

「義父さん。じゃあまた……」

 そう言うと、司秋は電話越しに彼女が帰ってきたのだろうと気づき――

 ――『ああ、またな』

 静かに返事をした。電話は切れた。

  

「亜結樹……お帰り」

「今日非番?」

「ああ休みだった。晩飯にするか?」

「うん……。あ、ご飯少なめにしてくれる? 食欲あまりないから」

「……そうか」


 亜結樹は部屋に行き、鞄をドアの前に置いた。

 彼女はまだ気づいていなかった。鞄に結び付いているスカーフが真ん中辺りまで切れていることに。氷峰は料理を終えて、亜結樹を呼びに部屋まで向かう。

 彼女はドアを閉める癖がない。鞄をドアの前に置く癖があるからだ。

 机に向かって勉強をしている亜結樹の後ろ姿に声をかける。


「ご飯……作ったからあたたかいうちに――!?」


 氷峰はふと鞄に目がついた。いつも亜結樹を見送る時、見ていたスカーフの結び目がいつもと違うことに気づき、スカーフに手を伸ばす。

 氷峰はスカーフが切れていることに気づいた。


「……」


 亜結樹は椅子から立ち上がり振り返る。


「……ミネ?」

「お前これどうした?」


 深刻な顏をして亜結樹を問い詰める。

 氷峰の手にはスカーフが握られていた。端から真ん中まで切れていることに亜結樹は今気づいた。


「それ……――!」

「御守りって言った奴、何でこうなる……。大事に持っとけって言っただろ」


 冷静に言っているが、心の中では怒っている。


「学校で何があった?」


 亜結樹は氷峰から目を逸らす。


「あたしもさっきまで気がつかなかった。多分、友美香がやったんだ。あたしの知らない所で」


 亜結樹はスカーフが切れていることに気がつかなかった自分に悔しさを滲ませる。


 氷峰は溜め息をつくと――、

「そいつ、お前に告白した奴か」

 と言った。

「! なんで……でわかるの?」

「まぁいいから……。お前はそのユミカって子から逃れる方法を考えるんだ」

「逃げるの? どうして?」


 ――向き合ったっていいはず……。


「こういうことする奴の感情は、エスカレートしたらなにしてくるかわかんねぇからな……」


 亜結樹は自分の上履きを返してくれた海鳴の言葉を思い出す。


 ――『エスカレートしないうちに止めてやっから』――。


「……そっか」

「スカーフはしばらく置いとけ。直しておいてやるから」

「わかった。……ごめんなさい」

「……無くならなかっただけましだ……」


 氷峰はスカーフを眺めながら片手を首筋に宛がう。そして先程までの怒りが冷めたのか、顔を上げてほっとした表情を亜結樹に見せる。そして再びスカーフに目を遣る。


 ――まさか……これがこんな風になるとはな……。

 ――捨てるに捨てらんねぇな……。

 ――あの人のこと、まだどこかで思ってる自分がいたなんてな……。


「ご飯できたから、一緒に食べよう。な?」

「うん……」


 ――このスカーフ……初恋の人のだからな。



 ―――その日の夜。


 潮崎と蔀は居酒屋に来ている。


「ホントにお前今、組織に不満とか、何にも無いの?」

「特には……」

「じゃぁさ、プライベートでは? 同じ製造部に好きな人とかいないの?」

「いません……。というかそういう話は苦手です」

「まぁまぁ苦手とか言わずに、俺の彼女の話聞いてくれる?」


 ***


 蔀はビールのジョッキを片手に持ったが、これ以上飲もうとはしなかった。


 ――これで何杯目だろうか……わからない。


 潮崎は余裕で飲み干し、店員を呼んではまたお酒を注文する。彼は酒に強い男だ。

 蔀は顔を赤く染めながら、潮崎の話に耳を傾ける。半分寝ていたが、相槌を打つ。


「でさ、もう一人の女の子連れてきたわけ。そいつ、俺の彼女のこと本気で好きだって言ってさぁ……俺どうすればいいと思う?」

「それは……その彼女と……も同居すれば……良いん……じゃないですか?」

「え? お前冗談だろ?」

「はは……いいじゃないですか。二人の……女に囲まれて。彼女は……その子の事……も受け入れて……ついでに潮崎さんは……浮気とは認められ……てない……んですから」

「ついでって……。俺、彼女のついでなの? 同性愛に二股はないのか? ていうか彼女はそっち系だったとか言いたいの?」

「そっちもあっちもないですよ。同性婚も認められてるこの御時世……セクシャルマイノリティを拒否し……ちゃダメですよ。俺……はこ……っんな……世の…中好、き、だと……っ―――」


 蔀は何か言いかけた後、俯いたまま暗闇に落ちていってしまった。


「おい? 柊? どうした……ってここで目閉じんなっ! おい起きろー!」

「……」

「ったく……しょうがねぇな……。ちょっと酒飲ませすぎちゃったかな……」


 潮崎は蔀を彼の自宅まで送った。蔀は潮崎が歩いている途中目を覚まし、ふらつく足下を潮崎に支えれられながら、自分の足でゆっくり歩いて行った。



 ―――九年前。


 先輩が卒業する。中学二年である氷峰は一年上のある彼女に会うため何度も校門前で待ち伏せし、告白をしていたことがある。蔀に飽きられていたが、彼はいつも本気だった。そして、ついに最後の待ち伏せとなった。


「ねぇ、紫苑。またいるよあいつ……」


 氷峰はいつものように校門前で、彼女を待ち伏せていた。

 氷峰は彼女に近づき――、


「あの……俺と付き合ってください!」


 頭を下げ、片手を差し出す。


「あんた……しつこい」


 彼女はそう言って、自分のスカーフをほどくと差し出されたその手に強制的に渡した。


「!?――……」


 強引にスカーフが手渡された。


「これで涙でも拭けば?」

「あ……の、これ……」

「ストーカーにならないでよね」


 彼女はそう言うとそのまま歩き始めた。


「ま、待ってください!」


 彼女が足を止めることはなかった。氷峰は慌てて――、


「俺、あなたのこと忘れませんから!!」


 と言い放つ。


「だーかーらー、それがストーカーだっての!!」


 遠くから振り返り彼女はそう叫んだ。近くにいた蔀が言い寄る。


「ふったんだな……。お前、ふられたんだよ……完全に」

「……じゃあ何でこんなもん渡すんだよ」


 彼女のエンジのスカーフを握り締めて、呟いた。


「……新しいな。男子の第二ボタンじゃなくて……」

「ていうか俺、欲しがってねぇし」

「大事に持っとけよ。初恋の相手だろ? 結婚するまで持ってたらいいことあるかもよ」

「は? 結婚? 初恋とどう関係あんの? 意味わかんねぇ……」

「初めて心から人を好きになったことを、思い出させてくれるんじゃないのか? そのスカーフが……」


 蔀のさらりと言った言葉が、胸に突き刺さった。なんでお前がそんなきれいな言葉を吐くんだと思いながら。


「ふっ……お前が言うなよ……」


 俺はなにかがおかしくて、不意に笑いかけながら蔀に呟いた。

 氷峰はスカーフを鞄にしまう。蔀が思っているよりも、本当は深く傷ついていた。

 氷峰はいつものように彼と一緒に帰った。

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