第5話 【焦燥と静寂】
―――翌朝・学校。
「あれ?」
亜結樹は自分の下駄箱を見て、焦り始める。
たまたま海鳴が近くに居たので――、
「海鳴、あたしの上履き知らない?」
と尋ねる。
「え? 無いの?」
「うん」
「お前靴何㎝?」
「え? 24」
「じゃ、俺の履いとけよ」
海鳴は履きかけた上履きを亜結樹の足下に置いて、靴下のまま歩き出してしまった。
「え? ちょっと……」
「俺は大丈夫。来賓用のスリッパ借りてくるわ」
亜結樹の方へ振り向き、そう言い亜結樹の所から姿を消した。
海鳴の上履きは、亜結樹のとサイズが同じであった。
教室に入ると、いつもと空気が違うような気がした。
立花と一緒にいた生徒達が、亜結樹から視線をそらしている。
肝心の立花に挨拶をしようとすると――、
「あ……」
立花は知らん顔して、エミの所へ行ってしまった。
(あいつなんで上履き履いてんの?)
(あれ誰の?)
遠くでそんな会話が聞こえた。
海鳴が、教室に入ってくる。
立花達は海鳴がスリッパを履いてることに気づいたようだ。
「ははっ、柊、お前それどうしたの」
「ん? 上履き忘れた。そんだけ」
「マジかよ」
「持って帰るかフツー」
「ハハハ」
海鳴は上履きを履いてないことを、たいした事じゃないと思っている。
――上履きくらいどうってことない。それより――。
亜結樹は自分の席で、立ち込める空気に取り残されたように、立ち止まっている。
海鳴は亜結樹に声をかける。
「何ぼーっとしてんだよ」
「え、いや……」
――やっぱあいつらか……。
海鳴は、エミ達に目を向ける。彼はいつもと変わらない明るい表情を、彼女達に見せつけた。彼は内心、亜結樹をターゲットにしているグループは、彼女達だと気づいていた。
「何笑ってんのアイツ」
エミが言う。周囲の友人達も同じような態度でいた。
「……」
立花は、無表情で、亜結樹を見つめる。
笑ったり、怒ったりもしない。悲しんでいる様にも見せつけないようにした。
――彼女だけには。
亜結樹は立花と一瞬目が合った。だが、何かを恐れてすぐ視線を海鳴に移す。
「お前、立花となんかあったの?」
「心当たりは……あるよ」
亜結樹はそう言うと静かに席に着く。
「そうなんだ……」
海鳴は一言返事をすると、再び立花の方を向く。すると立花は、海鳴を少しの間だけ睨み付けていた。その目は、ドロドロした憎しみで溢れていた。
彼女の態度は、海鳴には、よく表れていた。
――何だよアイツ……。
海鳴は立花の視線に
チャイムがなった。
―――昼休み。
亜結樹は立花に声をかけようとするが――、
「友美香……一緒にお昼――」
立花は無言で席から立ち上がり、エミの方へ行ってしまった。
その光景を見た海鳴は、亜結樹の肩に手を軽く乗せ――、
「な、俺と食べようぜ」
と言った。
廊下を海鳴と歩いていると、すれ違い様にひそひそ話し声がする。
亜結樹は自分のことを言われているのだと思い、耳を
(あの転校してきたクローンの生徒ってレズだって)
(マジ!? それわかんねーわ)
(立花さん、氷峰さんに告白されたんだって)
(え? そうなの!? それで?)
(断れなかったんだってさ)
――逆なのに……何で?
――誰にも言わないって言ったのに……おかしい。
――あたしは、あたしがレズビアンだって認めた覚えはないのに。
「……裏切られた……のかな……」
「ん? 裏切られた?」
「いや、やっぱり違う。あたしが裏切ったんだ……」
亜結樹はこの状況を理解しようと、眉間に皺をよせている。海鳴も噂話を通りすがりに耳にする。彼も亜結樹と同じ様に、頭の中で噂話や教室での空気感を理解しようとしている。だが既に彼の中では答えが見え始めていた。
「はぁ……」
海鳴は、亜結樹の沈んだ顏を見て溜め息をついた。
「さっさと屋上行こうぜ」
「――! わ、ちょっと!?」
海鳴は亜結樹の手を掴んで階段をかけ上がる。亜結樹は海鳴に掴まれた手を離せず、釣られて自然と足が勝手に上がる。駆け上がっている時、彼女は理解した。
これがいじめの始まりだということを――。
―――同時刻・柊八束の居住アパート内。
八束は椅子の上で腕を組み、居眠りをしていた。
彼はどちらかと言われれば夜型人間だ。昼間は活動的になれない。
というより、活動そのものをして過ごすことをしていない。今は大学にも行かず、バイトもせず、俗に言うニートを貫いている。彼は退屈していた。その気持ちは海鳴と出会ってからも、それ以前もだ。
八束は允桧が自殺した後、高校を卒業するまでの間、一時的に居場所を無くしていた。仕方なく面倒を見ていた蔀に、 高校を卒業したと思ったら家を追い出され、アパートで海鳴と暮らすことになったのだ。不良仲間と縁を切ったその後、卒業単位を取るために必死で勉強してきた事を誰も褒める者は、存在しなかった。
何のために勉強してきたのか誰も答えを教えてくれる者も、存在しなかった。
そして、允桧が死んで哀しむ己が存在しないことに気づいた時、彼は
彼の『心の闇』を全て包み込む様に、海鳴は八束の元へやって来た。八束は出会って間もない純心な彼を、汚す真似をした。そうでしか、退屈から逃れる方法は無いと思ったからである。現に彼は、五年前から性依存症という病に
――やべ……海鳴抱いてる夢見ちまった……。
八束は目を閉じたまま、服の上から股間に手を宛てがう。
――あートイレ行くの面倒だな。俺以外誰もいねぇしここで――。
そう思っている所、スマートフォンのバイブレーダーが起動する。メロディも鳴り始めた。
――音が聞こえる。
――電話?
重たい瞼をわずかに開き、側に置いてあるスマートフォンを手に取る。無意識のうちに通話ボタンを押して耳に当てる。
――『もしもーし』
「……はい?」
――『あ、御兄さんからこの番号教えてもらったんだけど……君、八束君で間違いないよね?』
「あの……誰っすか?」
眠そうな声で話す八束に、流れる様に入り込む煩わしくない声。
――『あーごめんごめん。俺は陵莞爾。君の御兄さん――蔀君の上司をしているんだけども』
「あー……どうも、初めまして。柊八束っす」
――『はは、御兄さんとは違って気楽に話しやすそうだ』
「あのー……何で兄貴じゃなくてあなたが俺に?」
――『弟さんの声も是非聞いておきたいと思ったんでね。悪くないだろ?』
「悪くないっつーか…テレクラみたいなもんすかね」
――『あはははっ、君、今何歳だっけ? 何でそんな言葉知ってるの。俺との会話はそんなんじゃないだろ? ふふっ、遊びのつもりで掛けたわけじゃないんだけど』
「すみません……つい……っていうか――」
八束と陵の身軽な会話が交わされる中、八束の言葉を遮る様に陵が本題に戻す。
――『ああ、直接電話した理由は、簡潔に言うと海鳴君のことでね。君にひとつお願いがあるんだ』
「あー……アイツがどうかしたんすか?」
――『海鳴君を束縛して欲しい。あぁ、意味は精神的な意味でだよ』
「は? 束縛?」
――『うん。もう海鳴を誰にも振り向かせない――君のものだけにするんだ』
「アイツ今のところ……俺以外、眼中に無いと思うんすけど」
――『それがね、一人関心がある子がいるんだよ。彼の中に』
「へぇ……」
――『その子に海鳴が向いてしまわない様にすること。簡単なお願いだ。頼まれてくれるかい?』
「はい、いいっすよ。(――今以上に、海鳴を愛せばいい事なんかな…?)」
――『そういや、君の友達の氷峰君から亜結樹のことは聞いたかい?』
八束は陵の口から『氷峰』という言葉を聞いて、はっと目が覚める。
「アユキって誰っすか? ていうか俺、何も聞いてませんよ。ミネには暫く会ってねぇし……」
――『そうなんだ。ねぇ、俺、君の顔知らないんだよねぇ。亜結樹のこと、一度会って話しておくかい?』
「いや……めんどくさいっす。兄貴から詳しい話聞きますから。えーと……――」
――『ミササギカンジ。折り返しの番号登録しといてもいいよ。以後よろしく』
「あ、はい。よろしくお願いしゃーす」
電話が切れる。八束はスマートフォンを置くと、両腕を伸ばしながらあくびする。
「ふわぁ……ミササギカンジ……。兄貴の上司、か」
陵という男がなんで氷峰の名を出してきたのか、八束は理解していない。
彼はまだなにも知らない。氷峰と亜結樹が共に暮らしていることを。
―――放課後。
亜結樹と海鳴は一緒に帰ることにした。海鳴は何も言わずに亜結樹の手を握り、亜結樹もその握られた手の感触に応えるように、海鳴の手を握り返す。
昼休み、屋上で昼食を摂るときもふたりはなにも会話をしなかった。
掃除の時間、海鳴が亜結樹の上履きを何処からか持ってきて亜結樹に見せると、亜結樹は今にも泣きそうな顏をして、上履きを受け取った。
その時、海鳴が『エスカレートしない内に止めてやっから』と呟いたのだ。その言葉を聞いた亜結樹は、自分が守られていることに気づく。
そしてこう言った。
「ねぇ、今日、あたしの家に……来てくれない?」
「え? いいの?」
「うん、いいよ。だって友達だから……」
「ははっ。いちいち言わなくていいってそれ」
「……ごめん」
海鳴のその反応は、恋人としてではなく、友情としての反応だろう――。
亜結樹はそう思っていた。
海鳴は内心、亜結樹のことに興味がある。陵に聞けばいいことを、直接本人に聞けるチャンスだと思っていた。そんな会話をしたあと、自然と二人は一緒に帰ることになった。亜結樹の手を握る海鳴の手はカサカサに乾いていた。心情とは裏腹に汗をかかない手であった。亜結樹の手の方が温かい。
――なんか俺いいことしたのかな……って何自惚れてんだよ俺。
――亜結樹の家ってことはミネって人の家だよな。会えるかな……。
――こわそーな人だったらやだなぁ……会えるかわかんないけど。
海鳴はそんなことを考えながら、歩いていた。
夕日が沈みがかり、青紫色に空が映え始める。
亜結樹の住む家に着く。家の中はとても静かだった。人の気配はしない。
――ミネって人、仕事でまだ帰ってねぇのかな。
「海鳴、こっちの部屋に入ってて。水持ってくから」
亜結樹はそう言うと鞄を玄関前に下ろし、すたすたと廊下を歩いていく。
海鳴が亜結樹の後を追おうとすると――、
「あ、ダメ! こっちは来ちゃダメなの!!」
亜結樹は後ろに振り返り、両手で海鳴の胸板を軽く押す。
「え? そーなの?」
「いいからあたしの部屋入ってて!」
海鳴は亜結樹に背中を押され、部屋に無理に入れられる。ドアを閉められた。
「……」
――何かこの部屋……男っぽいな。
――前に誰か住んでた感じもするな……。気のせいかな。
ドアが開く。
亜結樹はトレイの上に置いてあるガラスコップを、卓上型テーブルに置く。
「海鳴、はいお水」
「あぁ……。ありがとな」
海鳴はコップを手に取り水を飲んだ。
「海鳴……。あたし、立花さん達と仲直りできないかな……」
「無理だと思うな」
「……」
「どうして仲直りしたいんだよ」
また水を一口飲む。釣られて亜結樹も水を一口飲む。続けて海鳴は質問する。
「そもそも何でお前……いじめられてんのか原因あんだろ?」
「うん……。海鳴は気づいたよね? あたしと友美香が付き合ってること……」
「ああ……」
――主犯はやっぱり立花か……。
「あたし、友美香に告白されてさ……。最初は「いいよ」って返事したの。だけど、やっぱりダメだって断っちゃったんだ……。最低だよね……」
「……わかんねぇな」
「何が?」
「お前が負い目感じること無いんじゃないの? だって立花が勝手にお前を好きになって、また突き放してるって事じゃん」
「そうだけど……。じゃあ、あたしはどうすればいいの?」
「アイツと同じ様に、知らん顔すればいいんだよ」
「……」
「俺がいるから……笑って過ごせるだろ?」
「そう……かな……」
「あと言っとくけど――」
「俺が思うに……はめられたんじゃねぇのかな……」
「え?」
「アイツ……お前と付き合ってること、誰にも言うなって言ってたくせに、アイツ本人が友人にばらしてんだぜ? たぶんその時……逆に言ったんだろうな」
「……」
「立花じゃなくてお前が同性愛者だって」
「そんな……」
「ま、俺は気にしないよ。噂話なんて気にしなきゃいい」
「待って……。だとしたら……その噂――」
――付き合ってること知られたんだから……ひっくり返ることだってある。
「……」
「――友美香が……」
――友美香が同性愛者だってバレた時はどうなるの?
「お前の言いたいこと……わかってるよ」
――優しいんだな……。
「海鳴……」
――友美香が苛められるかもしれない……そうなる前に――。
「言い方悪いけど、お前だけで済めばいいな。今のいじ――!?」
海鳴は咄嗟に腕で顔を防ぎ、目を閉じた。バシャッという音がした。
「っ――!」
亜結樹はコップに入った水を海鳴にかけてしまった。
「な、何すんだよ!! びっくりしたぁ」
海鳴は声を上げたが、怒らなかった。
「ご、ごめん……。手が出ちゃった……」
――口が悪くなるの押さえたら、行動に出ちゃった……。
――確かに、海鳴の言う通り、いじめはあたしだけで終わればいい。
――何だか、友美香のこと心配になるのって……――。
――あたしはまだ友美香のこと友達だと思っているからなんだよね。
亜結樹は慌てて、タンスからタオルを取り出し、海鳴に渡した。
「あ、このタオル……俺の家にもある」
「そうなんだ」
――八束と同じ奴だ……。
「そういやお前、ミネって人の事……どこまで知ってんの?」
「そういやまだ何も……」
「そっか……」
水を一口飲む。続けて――
「ミネって人には、今学校で起こり始めた事……無理して話さなくてもいいんだぜ」
「うん。……でも、話すきっかけが出来たら話すと思う」
「そっか。なぁ、施設にいた頃はさ、こんな人間関係で悩んだりしなかっただろ?」
「うん……」
「お前……施設では誰と過ごしてたの?」
「蔀さんとだよ?」
「やっぱ……そうだったんだ」
「やっぱ……って何?」
「あーまた過去なんか聞いちまった。ごめんな……」
――海鳴が過去を知りたがるのはなぜだろう。
――あたしと同じクローンだからかな……。
「海鳴……」
「なぁ……亜結樹って遺体を再生して造られたんだろ? お前自身は知らないの?」
「海鳴……出生の秘密は知っちゃダメだって……蔀さんに言われなかった?」
「そう……だけど、さ」
海鳴はぐずる。
――亜結樹のこと……もっと知りたいのにな。
「あたしは知らないよ。自分の体が誰の遺体かなんて事」
「そうなんだ。俺さ、そこらへんにいるクローンとは違う存在だって陵さんに言われてんだよね」
「陵さん?」
「あー俺の担当の医師。蔀さんの上司。あの人、蔀さんに俺のこと、何話してたかはよく知らないんだけどさ……俺も自分が誰から作られたのか知らないんだ」
「海鳴も出生の秘密知りたいんだね」
「うん……」
「あ、そろそろミネ帰ってくる時間かな……」
「え、そうなの? じゃ、そろそろ……」
「あ、うん」
「じゃ、邪魔したな」
海鳴は床に胡座をかいていた体勢から、素早く立ち上がる。
「あ、そんな慌てなくていいって――!」
鍵の掛ける音がした。ドアが開く。
海鳴は部屋から一歩足を前に出す。廊下に顔を出しかけると――
「あ……」
「ん?」
氷峰と目が合った。
「お、お邪魔しました」
海鳴は玄関前で氷峰とすれ違う。
「……」
氷峰は黙ったまま、海鳴の顏を上から見下ろす形でちらっと見る。見たらすぐ靴を脱いで狭い廊下を歩いて行き、自分の部屋へと向かった。彼はニッカを穿いていた。家に着いたらすぐに着替えたいのだろう。
――び……ビジュアル系……。
海鳴は思わず、心の中で呟いた。氷峰の背丈は海鳴より高く、髪の毛は後頭部の上部分だけ金色のメッシュが入っている。両サイドの中途半端な長さの髪は耳にかけており、前髪は左右に分けて高く上げている。
ドアが閉まる音がした。亜結樹がリビングへ向かうと、着替えを済ましてソファに横になっていた氷峰が、むくりと起き上がる。
彼は亜結樹の目を見ながら呟く。
「アイツがカイメイって奴?」
「うん」
「ふーん……」
――見た目悪そうな奴には見えねぇな……。
「さてと、たまには炒飯作るかな」
「ミネ料理できるの?」
「何言ってんの。炒飯ぐらい作れっぞ」
「ふーん……。あ、あたしの分も作ってくれるよね?」
「ああ」
氷峰は返事をすると台所に立って料理を始めた。
―――同時刻。
蔀は仕事を終え、家路に就く。
自宅に辿り着くと、玄関前で携帯電話の画面を見る。
「……何だ、今頃」
それは弟の八束からの着信履歴が数件入っていた。何回もしつこく電話をしてきたらしい。
「聞きたい事あるならメールくれればいいのに」
――ま、俺がアイツに返信なんてするわけないと思い込んでるんだろうな……。
リビングに向かうとコートをハンガーに掛け、ネクタイを緩める。
そしていつもの様にココアを一杯入れ、一人掛けのソファに座り込む。
――アイツは夜型人間だからな……。これ飲んだら電話掛けてやるか。
――今何時だ? ……まだ9時前か。電話掛けるの風呂入ってからにするかな。
――いや、話は済ませてから入ろう。
蔀はココアを飲みリラックスをしている。目を閉じ、暫し黙する。
彼は、八束から連絡が来たのが思いがけない半面、ほっとしている。何故なら、大学時代に八束を突き放した張本人であり、突き放した理由が『兄弟仲良く暮らすなんて俺が耐えられない』という自身の身勝手な言い分であったからだ。陵から海鳴の存在を知り、八束に引き渡したのがちょうど就職活動中であり――八束が高校を無事卒業した日でもあった。
蔀から見ると、弟の八束は子どもの頃から甘えん坊であり、何か気に入らない事があるとすぐ物に当たったり拗ねたりする、煩わしくて鬱陶しい存在であった。
蔀、八束の父と母は蔀が小学六年生の時、離婚した。父親がリストラし、母親は他の男を作って家を出て行ってしまった。見捨てられた父親は、酒に溺れ、精神的におかしくなり、まだ小学4年生だった弟の八束に当たるようになった。蔀に暴力を振るわなかったのは、蔀の伯父――司秋の影響もあった。
父親は暫くの間、司秋の財産を頼って生活をしていた。八束に対する暴力がエスカレートしてきた時、蔀は行き場の無い怒りを感じ始め、父親の行為を児童相談所に通告し、八束を助けた――つもりだった。
つもりであって彼は八束を助けたわけではなかった。救うつもりは一欠片も無かった。彼は弟の悲鳴が鬱陶しくて、父親の暴力を止めただけであって、自分には八束が縛められる要因は一つもないと考えていた。彼は八束を父親と引き離す事で、優越感を少なからず抱いていた。
――アイツを氷峰に会わせたのは間違いだったんじゃないのかな…伯父さん…。
児童相談所の意向で、蔀の父親と八束は引き離される事になる。だが、司秋の意向で八束は、司秋の養子であった年の近い氷峰の所で暮らす事になる。そこから氷峰と八束の共同生活が始まった。蔀は、大人しくなった父親の安定剤として彼を見守ってきた。蔀は中学時代の八束をあまり知らない。八束は蔀が中学三年生の頃、彼と同じ中学校に入学して来るのだが、氷峰からの話だと、柄の悪い友人達と遊び回っていたため、授業をよくサボっていたという。
そして――高校時代にある事件に巻き込まれた時、顔には出さなかったが、弟の豹変ぶりに息が詰まるくらい哀しんだ。
――中学時代まで遡ったって……。
――今の俺がアイツにしてやれる事って……あるのだろうか。
――あれから親父はちゃんと再就職して、俺が住んでる家から出て行ったけど……。
――取り残された俺は、人間の死と再生が繰り返される現場で働いている。
――麻痺してるな。家族愛なんて考えた事も無いな……。
携帯電話を片手に取る。そして――弟に電話を掛けた。
「もしもし……俺だ。……蔀だ。用件は何だ?――」
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