第三章 悩めるノルウェー政府


― ノルウェーの首都オスロ ―


 ノルウェー調査隊の派遣班からの遭難信号を受信したベースキャンプでは、隊長が救援隊の編成に当たると同時に、本国のオスロ市内にあるノルウェー科学省に向けて、六名が遭難した可能性が高いことを打電した。


調査隊の科学省内での位置づけは、環境部環境政策課北極班である。この北極班では定期的に調査隊と連絡を取り合っていたが、昨日から調査地からの連絡が入らなくなり、また、北極からのあらゆる通信手段を用いても、調査隊からの反応は全くなくなってしまったのだ。北極に近い高緯度では、気象条件によっては、電波による通信が不調になることはありうる。しかし、調査隊との通信途絶を天候のせいにすることで、環境部の責任が免れるわけではない。調査隊員六名の生存が確認されているわけではないので、早急に調査隊の現在位置及び六名の安否を確認する必要が出てきた。


 環境部では、これまで北半球を中心に、人間にとって過酷な条件の地域へ調査隊を派遣してきた実績がある。その中には実際に連絡途絶、遭難、死亡事故など、調査の成功の裏にあって日の当たらない事件は何度もあった。科学省としては、国民への説明責任の明朗性、あるいは諸外国に対しては、人道主義に立脚した責任ある政府、毅然としたリーダーシップを印象付けるために、調査自体より人命優先の立場を取り、自国のみならず、その調査隊に地理的、専門的な関連団体及び国家への支援も要請し、調査隊員の帰国を実現すべく努めてきた。


 今回の連絡途絶も過去に経験してきた緊急事態の一事例に過ぎなかった。ただし、調査隊の目的には、デンマーク領であるグリーンランドの北部地域にある天然資源の探査が含まれていることは、国民のほとんどは知らなかった。デンマークとの協力関係及び自国の資源開発会社「ノイア」との契約が国民に知られることは避けたいのがノルウェー科学省の環境部の幹部の本音でもあり、それがとりもなおさず国家の利益につながることと信じていた。


 調査隊との連絡途絶は、単にその救出のための目に見える活動を実施するパーフォーマンスに止まらず、首相への報告をいつの時点でどのようにするか、それと同時に報道機関にどのように声明を出すかを整理してから、組織のヒエラルヒーに従って、関連個所への協力要請、あるいはその逆の不作為な姿勢を判断しなければならなかった。


 環境部長は緊急時のマニュアルどおり、すぐに臨時的な救援本部の設置を決定し、自らその本部長となり、指揮する体制の設立を下命した。救援本部を構成する主なメンバーは、環境政策課長及びその事務局員、北極班長及びその班員のほとんどである。これも北極海での緊急時に召集される時と同じであった。彼らは、緊急時用に普段は使われることのない“緊急対策会議室”にあわただしく集まってきた。


 環境部長は緊急対策会議室に向かう途中で、科学省のプレスルームで道関係者を前にして、この調査隊の壮行式でスピーチしたことを思い出していた。


あの時は、今回の調査が安全優先で企画されたものであり、二十世紀における調査のような冒険ではないということを力説した。しかし、調査隊との連絡途絶がこれ以上続くならば、科学省として何らかの発表を報道関係者にしなければならないことが予想された。それも今日か明日かのタイミングで情報開示しなければ、都合の悪いときには情報隠ぺいする体制として科学省は糾弾されることになる。調査員の家族や所属団体にも連絡しなければならない。まず、それが最優先で、それから時間の間隔をあまり開けずに報道機関に連絡し、記者会見の場を設けなければならない。


また、科学省内でも広報部との連携が重要になる。もし、記者会見するとなると、自分と広報部長が報道関係者の矢面に立たされることが容易に想像できた。そのうえ、今回の調査隊には内密にロシア人とデンマーク人がそれぞれ一人ずつ含まれており、外交上の配慮も頭に置いておかなければならない。


「ふうー」


 環境部長は、入室前に思わず深いため息をついた。そして、緊急対策会議室の中に“環境部長“と書かれた座席を見つけて、重い足取りでそこへ歩いて行った。その右隣にはすでに広報部長や他のメンバーが既に座っていた。彼が最後の入室者だった。事務官が、記者会見の出席者が揃ったのを見計らって部屋のドアを閉めた。環境部長の右隣の席には、先に来ていた広報部長がいた。彼は黙って正面を向いたまま座っていた。環境部長が椅子を引いて着席した時、広報部長と目が合った。


「遅いぞ」と小さな声で一言、広報部長が迷惑そうに言った。


「まだ事故とは断定できない」と環境部長も小さな声で答えた。


 この会議室には、数十人が座って映像や情報を共有できる機器が設置されている円卓のほかに、首相官邸への緊急通信装置、各省庁及びその出先機関にいたるまで連絡の取れる通信装置、別室には報道機関対応用の部屋、仮眠室などこれまでの緊急時で必要だと考えうる設備が整えられている。


 召集されたメンバーは皆、憂鬱な表情をしている。会議の開始三分前にはすべてのメンバーが出そろったところで、会議の議長役を務める首相補佐官から、記者たちとその様子を見ている国民等の視聴者を意識した開催の挨拶がなされた。その姿と言葉を選びながらゆっくりとした話し方は、さすがに慣れたものであった。


「お集まりの皆さん。調査隊員のご家族、関係者の皆さん。ノルウェー政府を代表して、我が国の調査隊に関してこれまで把握している事実を発表します」


 報道関係者でザワザワしていたが、会場内はこの一言で静まり返った。その後、首相補佐官から遭難信号受信に至る経過説明があった。


「本日、北極のノルウウェー調査隊から、調査活動を行っていた六名のグループからの遭難信号を受信したとの情報が入りました。現地は急速な天候悪化のため、六名の安否確認が取れておりません。今後とも、政府は調査隊のベースキャンプと連絡を密にして、六名の安否確認を継続していきます。北極でも極めて稀な猛吹雪に加え、電波障害も発生しておりまして、通信が途絶しております。そのため、北極に調査基地を有する国に対し、外務省を通じて情報提供を呼びかけるとともに、必要とされる支援要請をいたします。・・何かご質問はありますでしょうか」


 首相補佐官の呼びかけに対して、報道陣の中から質問を希望する者が一斉に手を挙げた。


「はい、前列の中央の方、どうぞ」と首相補佐官が質問を受けつけた。


 今回のような政府主催の報道会見においては、政府の広報室が予め各報道機関から質問時事項を提出させ、それに対する政府見解を準備して臨む慣例になっている。また、質問する報道機関とその順番も決められており、首相補佐官はテレプロンプターに映し出される文字を読み上げれば、視聴者にも違和感なくテレビ目線で話しているように見える。


「遭難地点は特定されていますか?」


「北極ですので、町名や番地まではわかりかねます」


 会場は、この報道補佐官の一言で少し和んだ雰囲気になった。ただし、広報部長は苦々しい表情のままであった。


首相補佐官としては、遭難という重苦しい雰囲気を軽い冗談で緩和しようとした思いつきで言っただけだった。しかし、ネット社会においては、どんな発言であっても“言葉狩り”という網が張られている。社会に影響力のある人、場面に反比例してその網の目が小さくなり、ちょっとした他愛ない発言にも反応するようになっている。今の発言に対しても「遭難かもしれないのに冗談を言っている場合ではない。不真面目だ」といった意見がネット上で動き回るのである。広報部長としては、そうした“言葉狩り”による無責任かつ情緒的な意見のオクターブが上がるのを嫌っていたのだった。

「地図では、この辺りから発信されたものです。現地は猛吹雪に襲われておりまして、今、調査隊のベースキャンプから救援隊を出動させることは、二次災害になりかねません。むろん、いつでも出発できるように待機中です」と首相補佐官はテレプロンプターに映し出される文字を、抑揚をつけて読み上げた。


 次の質問者が挙手した。


「どうぞ」と首相補佐官がその質問者に言った。


「現地での天気予報では、これからどうなりますか? つまり、何日後に救援隊を出発させることができそうですか?」


「北極のベースキャンプからは、今週中には天候が回復するだろうと言ってきております。現地での天候の回復具合を見計らって速やかに救援隊を差し向ける計画です」


 別の質問者が挙手して言った。


「では、天候が回復するまでは、ただ待つということですか?」


「いいえ、そんなことはありません。先ほども申し上げましたように、政府として、現地に比較的近い北極基地を持つロシア、デンマークに支援要請を行いました。ただ、悪天候であるという条件は同じなので、天候の回復具合を見て救援に向かう計画であることを聞いております。また、国際連邦にも支援要請を行いました。国際連邦も同様に準備中であります」


 首相補佐官はそう言い終えると、少し間をおいてから記者会見を終えようとして言った。


「では、質問がもう無いようなので、これで今回のご報告を終わります。重ねても仕上げますが、遭難した六名の無事を確認してあります。この後は、新しい進展があれば、逐次ご報告いたします。ご家族の方、関係者の方々にはご心配をおかけしますが、もう少しご辛抱ください。政府は全力をあげて六名の安否を確認し、必要かつ現実的な対処方法を準備しております。それでは、会見を終わります」


 首相補佐官は、そう言って席を立った。報道関係者も仲間同士で何やら話しながら、プレスルームから出ていった。広報部長も一仕事を終えたというような安堵の表情でペレスルームを出た。環境部長は先に席を立った広報部長の顔を見ることなく、横を向いていた。そして、辺りの人の気配が少なくなった頃を見計らって、プレスルームを出て、環境部の部屋に戻っていった。



   ― 国際連邦本部 ―


 ノルウェー政府から、北極調査隊に関する安否確認の要請が、国際連邦本部の調査部に飛び込んできた。調査部内では、まだ遭難したわけではないが、最悪の場合を想定して、少なくとも何らかの初期対応を実施することに決定した。そして、この指示はすぐに国際連邦艦体本部にもたらされた。


艦隊本部では、北極という極寒地での活動を前提として、なおかつ速やかに現地に赴くことができる艦船を絞り込んだ。その結果、グリーンランドの沖合を航行中の潜水艦「ポセイドン」に白羽の矢が立った。「ポセイドン」には、艦隊本部からの緊急入電として、北極海における目標地点の座標が連絡された。



   ― グリーンランド沖のポセイドン ―


「艦長、本部からの緊急入電です」と通信担当のモントゴメリー大尉が、ティエール艦長のモニターに入電文を送信した。ティエール艦長は、すぐに航海長のドレイク少佐に転進を命じ、目標座標を転送した。


「何事です? 艦長」と、副長のビスマルク中佐が無表情のまま艦長に尋ねた。


「ノルウェーの北極調査隊の六名が、北極海のこの辺で遭難したらしいのだ。これより、本艦はその救出に向かう」


「“この辺”、“らしい”ですか? 艦隊本部からのこの入電から察するに、まだ、ノルウェー政府内では、正確な状況を把握していないようですね」と副長はモニター画面を見ながら言った。


「どうも、そのようだ。しかし、最悪の場合は人命にかかわる。しばらくすれば、新たな情報が艦隊本部から来るだろう。副長、六名の救出を前提にして、救援隊派遣の準備に取り掛かってくれ」と艦長は副長に向かって言った。


「了解しました」


 こうして「ポセイドン」は転進して、全速力で目標地点の座標を目指した。

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