第二章 ノルウェー調査隊の遭難


― グリーンランドのノルウェー調査隊 ―


 二〇六〇年九月 グリーンランドのカーナークから数十㎞離れた北極海の大氷原の公海とされている地点では、ノルウェー政府から派遣された調査隊が観測調査に当っていた。調査内容は、氷原の標高の変化、海と氷原の境界位置の測量、ボーリングによる海底地層のサンプル採取などである。調査隊から実働部隊として現地に赴く派遣班の隊員数は六人。天候が比較的に安定化する六月から仮設の建物を建設し、調査を行っていた。これまでのニケ月余りの間は天候にも恵まれ、当初の計画通りに調査を進めてきた。


 ノルウェー政府は、北極圏の数ケ所に調査キャンプを設置しており、定期的に調査隊を派遣して大気や氷の計測、キャンプ地点付近の海底地層のサンプリングを行い、データや採取物を蓄積している。その目的の大きなウェートを占めるのは海底の地層に存在するかもしれない化石燃料やレアメタルなどの天然資源を発見することである。


二十世紀の国際協定により、自国の大陸棚と連続している範囲の海底には、当事国の開発占有権が及ぶため、北極海の沿岸諸国は天然資源の発見に躍起になり、ゴールドラッシュならぬ“コールドラッシュ”と言われるほど“熱い”資源発見競争を繰り広げてきた。二十一世紀前半には大方の有望な地点は発見され、最近では極寒地での氷原及び海底の採掘技術を持った会社が、発掘地点に関係なく、どこの国の領域でも発掘を請け負うようになっている。


かつて中東において、石油を求めて欧米のオイルメジャーが油田発見と権益確保のため、産油国とサイクス・ピコ条約のような、今では考えられないような奇妙な契約を結び、それがやがて今日の国境線成立に至っている。もともと砂漠地帯に国境線を引くなど、そこで暮らすベドウィンのような人々にはまるで関係のないことであるが、天然資源という誘惑物に対しては、資本主義社会で生きていく人々と飽くなき拡大を目指す会社組織は、甘い物に群がる蟻のように競って征服の手を伸ばしてきた。二十一世紀後半の今日でも、過去の無節操な競争の空しさを顧みることなく、歴史は北極圏においても繰り返されている。


 ノルウェー政府に籍を置く資源開発会社「ノイア」は、ノルウェーの権益が及ぶ大陸棚から連続した地域に止まらず、その採掘技術力を背景に、他国や公海上の地域での海底資源の発見請負を行っている。今回はデンマーク領のグリーンランド沖の調査キャンプでの調査活動のために六名の派遣班を編成した。六人のメンバーには、その資源開発会社「ノイア」の社員三名のほかに、政府の科学省の調査員一人、ロシア人科学者一名、デンマークの科学者一名が含まれている。資源開発には、国境を越えた体制で官民一体として推進されているのである。


 流氷海域が後退したとはいえ、グリーンランドの東海岸には今でも流氷が集積されているため、北極海沿岸の諸国でさえも天然資源の探査が進んでいない。これは、地球の自転によって生じる“コリオリの力”によって、北半球で北極地点から見て右方向に見かけの力が加わって、流氷がグリーンランド東海岸に押されるためである。


 ノルウェー政府はこれまでの北極圏での天然資源開発で培ってきた技術を売りにして、デンマーク政府に共同で天然資源開発を実施する計画を提案した。デンマーク政府は自らの権益が及ぶグリーンランド沖の北極海域での共同探査に合意した。デンマーク政府とすれば「ノイア」の技術力を高く評価していて、自ら開発するよりも「ノイア」と組んだ方が開発のスピードを早めることができると考えたのだ。


 また、ノルウェー政府は、北極海沿岸国の中で最も広範囲な海域の権益を確保しているロシアにも声をかけた。天然資源の開発においては、ライバルに当たるロシアではあるが、天然資源が多く埋蔵されていることが明確になった、グリーンランドからシベリアまで延びる海底山脈であるロモノソフ海嶺は、デンマークとロシアがその権益を二十世紀から主張しており、両国の緊張が継続されたまま未だに本格的な採掘調査が実施されていなかった。「ノイア」とすれば、デンマークとだけ合同調査を実施するのではなく、政治的なバランスを取る意味でも、ロシアを巻き込むことによって、今後の両国の資源開発計画の調整役を果たせる可能性を念頭に置いていたからである。


こうして、ノルウェーの資源開発会社「ノイア」が実施的には主体となって、調査団を結成してはいるが、表向きは“ノルウェー調査隊”としてノルウェー政府を立てる形にした。“ノルウェー調査隊”の調査計画の概要は、カーナークから比較的近い調査地点のベースキャンプを経由して、今回の調査地点で一ケ月間の調査を実施するという計画であった。


 具体的な調査計画の立案事務所は、「ノイア」の本社があるオスロに置かれ、そこにノルウェー科学省、ロシア、デンマークからそれぞれ一名ずつ調査員を受け入れた。そして、調査項目やそれに必要な物資の手配、三国間の連絡体制、調査結果からもたらされる権益の配分などが決められた。こうした政治的な制限を受けながらも、調査隊員は各人の担当業務が決められ、各人はそれぞれの担当業務に必要な物資を「ノイア」を通じて比較的自由に確保することができた。


政府が結成する調査隊では国の方針と予算が優先されるが、今回の合同調査隊ではノルウェー政府からの予算の他に「ノイア」からの多額の資金援助が得られた。この点でも「ノイア」が今回の合同調査に賭ける意気込みが読み取れる。

ただ、こうした寄合い世帯によく見受けられる、緊急時における責任者の不明確さが懸念される。何事も起こらなければそうした弱点が露呈することはないが、何か予期せぬ事態に遭遇した場合に、悪い面での組織の官僚的側面が事態をうまく解決できなくする可能性もある。ともかく、サイは投げられ六名による派遣班が結成されたのだった。



  ― 調査区域のベースキャンプ ―


 調査区域において、計画どおりの地点にベースキャンプが設置された。仮設ハウスであるが、ひと昔前のテンドもどきのものとは違い、ハウスの中は外気からほぼ完全に密封され、中は快適な温度を保っていた。また、ハウスの外壁は軽量にもかかわらず、堅牢な作りで、断熱効果も抜群な機能を有していた。そんな良好な作業環境の中で調査隊の隊員たちはそれぞれの調査を、オスロで作成した当初の計画に従って順調に行っていた。


 外での調査でも天候が安定していたおかげで予定通り進んでいた。事前に設置されていた大型機械の作動には何のトラブルも発生せず、ボーリングによる地質サンプルの採取作業も順調だった。アルファ海嶺の水深の比較的浅い山頂部の上部の氷原に設置されたボーリングヘッドは分厚い氷床を突き破り、海底に到達して地層サンプルを採取した。


 調査が開始されて三週間が経ち、調査終了まであと一週間となった。これからの調査活動は、氷原に落ちてきた宇宙からの隕石採取であった。広い範囲を探査しなければ、そう簡単には隕石を見つけることはできない。調査隊の中から、予定通りの六名が派遣班として雪上車に乗り込み、調査器具の他に、四日間の調査期間に必要な食糧、燃料などを積み込んだ。


 六名の派遣班は、事前に調査に必要な物資を搬入しておいた目的地である仮設小屋に到着した。派遣班員は四日間にわたる各自の調査範囲を再確認し、携帯用金属探知機など必要な資の他に、宿泊用テント、無線機、食糧、燃料などを各自が点検した。この先は各自が自分の判断で四日間を活動しなければならない。派遣班員たちの表情には厳しさが現れていた。これまでの快適な仮説ハウスでの活動とは違い、自然の中で調査しなければならない。普通の調査員には克服できない環境での活動である。ここに来た六名は皆、過酷な環境に耐えられる実績を持つ者だけが選ばれた。


 何度も北極海調査に来た経験があっても、単独行動ほど危険が伴う活動はない。トラブルに遭遇しても自分の力で生きなければならない。そのうえ、極地であるがゆえに天候の急変があり得る。仲間が必ずしも救助してくれるとは限らない。隊員たちは四日間の調査をしながら、孤独と寒さに耐えぬかなければならなかった。通常の屋外行動の場合は、二人がいっしょになって行動するのが基本であるが、今回の調査では、「ノイア」からの指示によって、できるだけ広範囲を調査することが優先されたために単独行動となったのだ。しかし、それに臆する隊員は一人もいなかった。


「よし、全員準備はいいな。決して決められた範囲を超えないこと。トラブルに見舞われた時には無線機で連絡を取ること。無理に自分だけで解決しようとしないことだ。・・以上。出発」

 班長からの注意事項の後、六名の派遣班は二台の雪上車に分乗し、目的地に向かって出発した。その時の天候は曇り空で、特に変わった様子はなかった。



 ― 採取調査一日目 ―


 二台の雪上車は目的地点に到着した。途中には大きなクレバスもなく、時々ある氷の段差に注意しながら順調に走行を続けていた。隊員たちは雪上車から順番に一人筒降りてきて、装備の再点検をした。隕石採取には、放射線の測定機能も備えた金属探知機が必要である。それも人間が実際に現地で探知機の反応を確認するしか方法がなかった。氷床のない地表がむき出しになっている地域であれば、地質探査機能を備えた人工衛星から送られてくるデータを解析すれば、おおよその場所や鉱物を特定することができたが、北極海の氷原の上では人工衛星のデータでは解析不能なため、人の手で地道な徒歩による調査しかできなかった。


 班員は金属探知機のほかに、背中のリュックサックにテント、防寒具、食糧、水、燃料、医薬品など合計で二十㎏ほどの荷物を背負っての雪中行軍を強いられる。相当タフな人間でなければこの任務を全うすることができない。だからこそ、無事帰還したら多くのねぎらい、評価と名誉が彼らを待っていた。食糧と水は消耗品なので少しずつ減っていくが、背中に担いでいる重さはそれほど変わらない。それでも調査の初日は疲労感に悩まされることなく、隕石採取のために金属探知機を見つめたまま、決められたルートを歩くことができた。


しかし、肝心の金属探知機のアラームが鳴ることはほとんどなかった。ごくたまに鳴ると隊員は金属探知機のアラームの間隔が短くなる方向を探し、その周辺の氷をピッケルで叩き割って、隕石らしきものがないか探さなくてはならない。その時だけは背中に背負った重いリュックサックを下すことができたので、アラームがなった時は反応があった喜びと重いリュックサックを下す開放感が湧き出てきた。そして、石ころを見つけると採取棒を使って、放射線を遮断する鉛を含有した特殊容器に入れた。  


こうした単純作業を四日間続けなければならない。隊員にとっては辛くて単純な作業であり、できればやりたくない調査項目だ。しかし、「ノイア」にとっては、隕石採取も重要な調査対象である。たかが石ころが高価な値段で取引されているからだ。


 夕刻になっても空は明るいままだ。極地ではこの時期は白夜が続く。初日の作業終了時刻が来た。班員はそれぞれ別の場所で重いリュックサックを下し、テントの設営作業にかかった。暴風に遭っても吹き飛ばされないように、アンカーを氷原にしっかりとハンマーで打ち込み、部材をアンカーに括り付け、それを円形状に並べた。テントの特殊繊維は筒の形の容器に収められていて、強風の中でも一人で設営できるようにスイッチ一つで自動的に傘を開閉するようになっている。テントを張り終え、中に入ればまるで別世界だ。遮蔽された独特の空間がそこにあった。吐く息は白いものの、ホッとする瞬間だ。

それと同時に疲労感と空腹感が一度に体を覆ってくる。班員によって個人差はあるものの、次には食事の支度にかかるのは自然の成り行きだ。極地用の携行食であるが必要な栄養素は含まれていて、空腹感を満たすことはできないが、ないよりはましだ。

 

シュラフに入る前に、班員は今日の作業報告をハンディターミナルで行うことになっている。それと、野営場所での気象データの確認も欠かせない。その時、各隊員は一様に気圧が下がっていることに気付いた。「明日以降の天候が悪化するかもしれない」と、少し不安な気持ちになりながらシュラフの中で各自、眠りについた。



   ― 採取調査二日目 ―


 翌朝、班長は目覚めるとすぐにシュラフから出て、テントの外の様子をうかがった。昨日よりは雲の様子が重く、太陽を直に見ることはできなかった。気圧計を見ると昨晩より下がっていた。他の隊員たちも同じように気圧の下がり方を気にしているだろうと思った。そして、昨日に引き続き、隕石採取の作業に取り掛かった。さすがに昨日の疲労から腕や足腰に筋肉痛を感じた。リュックサックが昨日より少し重くなった感じがした。


正午近くになったが、他の班員からは何の連絡もない。連絡がないことは採取作業が順調な証拠だと班長は思った。しかし、気圧計を見ると朝よりも気圧が下がっている。班長は嫌な感じがした。すぐに無線機を取り出して他の班員に伝えた。


「気圧が下がり続けている。天候が悪化するかもしれないから、雪上車までの距離を計算に入れて、あまり雪上車から離れないようにして採取作業を続けてくれ。また、局地的に吹雪になる可能性もあるから、各自の判断で行動してくれ。以上だ」


 無線機をしまった班長は再び空の様子を見てから、隕石採取作業に戻った。


やがて、作業終了時刻が近づいてきた頃、風が強くなってきたことに班長は気付いた。他の班員たちにもこの風は吹いているのだろうか。作業終了時刻にはまだ時間があったが、風がこれ以上強くなる前に野営の準備に入ることにした。

テントに入ってから気圧計を見た。やはり、昨日より下がっている。吹雪になるかもしれない。

班長は嫌な予感がしたが、この時刻からテントをたたんで雪上車に向かうことにはためらった。白夜とはいえ、気温は昼間より下がるし、体も疲れている。それにテントは極地の強風にも耐える設計になっている。いざとなれば外に出ているより、テントの中の方が安全だ。食糧、水、燃料の予備はある。それに明後日は採取作業の最終日だ。明後日になれば雪上車に戻って、ベースキャンプに帰れるとの思いがあった。


班長はシュラフに入ってから、気圧計を頭の横に置いてすぐに見えるようにした。それから間もなくすると、二日間の疲れからか、テントの外の風音を気にしながらも、すぐに眠りについた。



 ― 採取調査三日目 ―


 三日目の朝、班長はいつもより早く目を覚ました。それは風の音のせいだった。すぐに目をこすりながら気圧計を見た。また下がっていた。

シュラフから出た班長はテントののぞき窓代わりの覆いのマジックテープを外して、外を見た。視界が悪くなっていた。すぐにテントの出入り口のジッパーをゆっくりと下していった。ジッパーの間から風が自分の顔に吹き込んできた。昨日までとはまるっきり違った光景がそこにあった。これでは、とても隕石採取作業などできないと判断した班長は無線機を手にして、班員に呼びかけた。


「みんな聞こえるか。こちらは荒れた天気になっている。本日の隕石採取作業は中止する。ただちに雪上車に戻れ。視界が悪いから、足元に十分気を付けてくれ」


 班長からの無線連絡を聞いた他の隊員たちは、次々に自分の周辺の気象状況を連絡してきた。多少の違いはあるものの、強い風が吹き始めていた。班長は嫌な予感が当たってしまったと思った。しかし、今さらどうしようもない。ともかく早くテントを片付けて、雪上車に戻らなければならない。また、ベースキャンプに作業中止の提案連絡をしたが、磁気嵐の影響なのか無線は通じなかった。


この天候変化も磁気嵐のせいなのか。ベースキャンプでこの天候の変化を予測することはできなかったとすると、太陽フレアの急激な変化が発生したのか。それとも予測を見誤ったのか。

 班長はいろいろ想像してみたが、回答が出るものではなかった。ノルウェー科学省がもっと早く正確な天気予報を知らせてくれれば、こんな悪天候もなってから雪上車に戻らずに済んだことを恨んだ。


 他の班員たちも班長と同様に悪天候の中、足早に雪上車を目指した。これ以上に天候が悪化することが十分考えられたからだ。

それにしても、ベースキャンプから天候に関する何の情報提供もなされないことが不満であった。本当に自分たちの調査における安全を真剣に考えているのか疑わしいものだとノルウェー科学省に対し猜疑心を持った。二日目からの気圧の下降はサポートポイントでも計測しているはずだから、ノルウェー科学省に問い合わせするなりして、適切な指示をくれてもよさそうなものなのに、ベースキャンプからは注意喚起する連絡もなかった。


しかし、今はそんな愚痴めいたことをいくら言ってみても何の改善にもならないことは彼らが一番よくわかっている。彼らは強風で視界が遮られるなかをGPSで表示された雪上車の位置を確認しながら、最短コースを選択して息を荒げながら歩いていった。その頃には、既に金属探知機は背中のリュックサックにくくりつけられていた。

やがて、調査隊員の六名それぞれが無事に雪上車にたどり着いた。その頃には風が

さらに強くなってきて、氷原の雪を巻き込んで、遠くの風景は全く見えなくなっていた。


「どうだ、今日の成果はあったか」と班長は戻って来た班員の一人に尋ねた。


「いえ、今日も何もありませんでしたよ」とその班員は素気なさそうに答えた。


「私も成果なしだ。これ以上の外出は危険だな。風が止むのを待とう」と班長は恨めしそうに、雪上車の窓ガラス越しに外の風景を眺めていた。


「さあ、みんな、今日は雪上車の中で明日の朝まで過ごそう。明日になればこの風も少しは弱くなるかもしれない。雪上車から外に出る時には、私に必ず申し出るように。それと用件が済めばすぐに雪上車に戻ること」


隊長はわざと悲観的な見方をする発言は避けた。しかし、隊長の胸中には、何とも言えない不安が湧き上がってきていた。



   ― クヌッセン親子の猟場 ―


 ノルウェー調査隊の派遣班が四日目の朝を迎える頃、グリーンランドの北西部の都市カーナークのはずれに住むクヌッセン一家の父とその息子オーレは猟場に着いた。天候は数日前から風が強くなり、肌を刺すようになっていたが、それもいつもと変わらない風景が彼らを包み込んでいた。静寂と白、青のカラートーン、顔面に突き刺さる凍気、それと無臭。生物の気配を全く感じさせない世界であった。


 父親は電気スノーモービルのスイッチを切り、いつもと変わらない猟の支度にとりかかった。息子は何も父親から言われなくても、自分の電気スノーモービルの後部席に積んであった道具箱を取り外した。彼の道具の一つにライフルがあった。息子は個々の道具を箱から丁寧に取り出し、最後にライフルを大事そうに手に取り、右肩に担いだ。

 その様子を確認した父親は氷原の周囲をゆっくりと見渡した。彼の目指しているのはアザラシである。アザラシ猟では、根気よく幸運を待ち続ける忍耐力がないと獲物に出会うことはできない。


 父親は無言で歩き出した。息子は父の後ろについていった。


 氷原を三百六十度見渡しても何もない世界が広がっていた。父は何を目印にして歩いているのだろうか。少なくとも視界に入ってくるのは平らな氷原と、所々に点在する氷塊だけである。音も臭いもない。彼のこれまでの経験と勘だけを頼りにして歩いている。そんな父の背中を見ながら、息子は話しかけることもせず、父との距離を一定に保とうとやや速足気味に歩いた。そんな彼には周囲を見渡して獲物を見つける余裕などなかった。


 彼らが歩いている所は、外洋に近い、氷の厚さが比較的薄い場所である。アザラシは氷原に開いた小さな穴から出て氷の上で寝そべっていることがある。猟をするには、氷の上に出ているアザラシを見つけなければならない。真っ白な絨毯の上のけし粒を探すようなものである。人一倍優れた視力と注意力が求められる。しかし、アザラシを見つけることだけに神経を集中していると、氷の裂けを見落とし、思わぬところで滑落しかねない危険をはらんでいる。


また、知らないうちにアイスエッジの内側に入ってしまった場合、さらに運悪く、アイスエッジの割れ目が広がり、海流の向きが外洋だとしたら、あたかも大きな氷のテーブルが沖に流されるかのように、彼らが立っている氷原が分離してしまい、歩いてきた場所に戻れなくなってしまう。何かの偶然で分離した氷原が元の場所に戻らない限り、それは死を意味する。


 そうした氷に潜む危険性を察知する能力もここで生きていくためには必要なものである。これまで、そうした場所に行き当たった時には、父親は息子にアイスエッジの恐ろしさと見つけ方を幾度となく教えてきた。父親がその父親から教えられてきたように。生きるための知恵。その継承。極限の世界では先人の知恵が平凡に見える生活の中で、細々とではあるが確実に受け継がれている。


 父親は歩いている。獲物のアザラシを求めて。その息子も歩いている。父の背中を見ながら。極寒の地域の中で人間が生きていくには、そうするしかないのだ。普通の暮らしの中で、異常な怠慢と不運に見舞われた者には死が待ち受けている。


 生き伸びる者だけが持っている権利。それは自分の経験を語り継ぐ権利。権利といえども、一時で終わらせないためには権利が義務に替わる。しかし、クヌッセン一家に権利とか義務とかの概念はなく、「昔からしてきたことだ」という程度の意識しかなかっただろう。


 もうどれだけ歩いたことだろうか。息子はずいぶん前から下を向いて歩いている。獲物に出くわさないことと寒さのため、その足取りも重くなってきた。それでも父親に遅れまいと惰性ではあるが、弱音を吐くことなく父親についてきている。獲物との遭遇はいつになるのだろうか。いや、遭遇すること自体にも確信が揺らいでいるかもしれない。それでも彼らは歩かざるを得ない。家族のため、自分のため。この地域で生きていくには抗うことのできない宿命だった。環境変化によって、それは過去において、この地で命をつないできたどの世代よりも重い宿命を背負わされていた。



   ― ノルウェー調査隊 採集調査四日目 ―


 派遣班の六名は、二台の雪上車の中で四日目の朝を迎えていた。既に太陽は昇っており、外は明るかったが、強風による粉雪の乱舞によって、視界は全く無いといっても過言ではないくらいに閉ざされていた。誰もが本日の調査は無理だと判断していたが、それを口にする者はいなかった。ただ、隊長だけは、昨日までの調査成果が全く無かったため、最後となる四日目の最終作業に賭けていたところがあった。しかし、そんな隊長の思惑を裏切るかのように天候はますます悪化し、強風に雪が交じり始めたため、雪上車の窓ガラスからは雪が当たる音が激しくなってきた。二台の雪上車の中はどちらも無言のまま時が流れていた。先頭の雪上車の助手席に座っていた班長は、意を決したかのような険しい表情で後ろを振り返って言った。


「天候はますます悪化している。こんな状態では採集作業はできない。残念だが今日は諦めて出直そう。ベースキャンプに戻るように二号車にも伝えてくれ」


 それを聞いた班員たちは安堵の気持ちになったが、そんな素振りは誰も見せなかった。


「二号車、聞こえますか。こちら一号車。天候悪化のため本日の作業を中止し、これよりベースキャンプに戻る。隊長が判断した」と雪上車の運転手がマイクに向かって言った。


「こちら二号車。了解した。そちらの後をついて行くから、先導をよろしく頼む」とすぐに二号車から連絡が入った


「では、ベースキャンプには私から作業中止の連絡を入れよう」と班長はマイクを左手で握り、通信装置の周波数をベースキャンプとの回線に合わせた。


「こちら派遣隊。今朝から天候悪化し吹雪になった。本日の作業は実施不可能と判断し、これよりベースキャンプに戻る。なお、昨晩から六名は雪上車の中で過ごし、全員異常なし。どうぞ」


 班長は無線がベースキャンプに通じるか不安だった。近くで磁気嵐が発生していれば、無線は使えない。予定の調査を早く切り上げて戻ることをベースキャンプに伝えることができない。それでも、この状態で採集活動はできないとの自分の判断に誤りはないと確信していた。すると、雑音が混じっているものの、ベースキャンプからの通信を受信した。ベースキャンプからの受信音声はスピーカーから雪上車の中でも聞き取ることができた。


「こちら、ベースキャンプ。確かに気圧が下がってきたことはこちらでも確認できるが、これはここ数日間の傾向で、今以上に天候悪化するとは限らない。今日は採集調査の最終日だ。もう少し、そのまま雪上車の中で様子を見てはどうか?」とベースキャンプで派遣班からの連絡を待っていたノルウェー調査隊の隊長は言った。

それを聞いていた班員たちは一様に顔をしかめた。


「こちら、派遣班。それは無理です。吹雪で視界がきかないのです。この天候の中で作業をすれば、班員の中に受傷者が出るかもしれないし、遭難の可能性だってある」と班長は腹立たしい思いを殺しながら言った。


「視界が見えないと言っても、岩石採集には金属探知機を使うのだろう。君たちの目に頼ることはない」


 この隊長からの言葉からは、現場の状況を無視して作業を優先する立場をとっていることを班長は強く感じた。


「しかし、隊長、金属探知機を使う以前の段階で、外での作業ができないくらいの吹雪なのです。氷の段差で転倒、滑落するかもしれないし、氷の薄い所やアイスエッジを視認することができません」


「だが、外で歩けないほどではなかろう。ここでも強風だが、外で作業をしている者はいるぞ」


「整地された氷原にあるベースキャンプと現実の氷原は違います。そのうえ、作業には金属探知機の他に必要装備を背負って歩かなければならない。非常に危険です」


「それほど言うのなら、二人でペアを組んで作業してはどうか。装備も必要な物だけに絞れば軽くなるだろう」


 いったいどこまで無理強いをさせる気なのかと班長は次第に語気が強くなっていった。


「現場作業上の判断は私がします」


「いや、班長、君の班員の安全を守ろうとする使命感は評価する。しかし、君も含めて、君たちと取り交わした北極調査契約書では、作業の最終判断は調査隊の総括責任者に委ねられることになっている。つまり、君ではなくて私だ。嘘だと思うのなら、ハンディタームナルで確認してもらってもいいのだが」


「・・では、視界を確保できない中で何をしろと言うのですか」


「鉱石の採集作業だよ。二人ずつ三組に分かれてやれば一人でいるよりずっと安全だ。それに、天候が悪い割に通信状態は良好だ」


「二人同時に滑落することだってある」


「班長、悪い方の可能性だけに目を向けるのは如何なものかな。冒険心を吹雪で吹き飛ばされたわけではなかろう」


「吹雪の中で撤退するのにも冒険心が必要です。これを誤って事故につながった例はいくらでもある」


「班長、いいかね。昨日までの三日間における君たちの成果はゼロだ。今日がそれを取り戻すためのチャンスだとは思わないのかね」


「隊長、過ぎたことをそんなふうに言わないでいただきたい」


「そうだな。終わったことを今さら問うまい。君たちは何の成果も持たずに帰国するわけだ。そこではどんな質問が待っているのかな。私が思うに、次回の調査では人選を再考する必要がある」


「何を言いたいのですか。隊長はこの周辺の天候を見ていないからそんなことが言えるのです」


「なるほど、班長。確かにそちらの様子は詳しくはわからないが、契約内容はよく知っている。そうだな、それほどまでに外出困難な天候ならば、“悪天候手当”として、契約金とは別にその二倍の危険手当を支払うことができる」


「そんな口約束は信用できない」


「信用うんぬんではない。実際に契約書にはこう書かれてある。『実施作業における危険性が高いと責任者が判断した場合には、危険手当として契約額の二倍の金額を別途支給する』とある。嘘だと思うなら、ハンディターミナルで確認してみたまえ。契約書の第五十八条だ」


 そのやり取りを聞いていた二人の班員がハンディターミナルで契約書を検索し、その一文を確認した。そして、班長の目を見て無言で「やろうじゃないか」と言わんばかりの表情で、その一文を班長に見せた。それを見せられた班長はきまり悪そうにマイクに向かって言った。


「契約書は確認しました。だが、科学省が、危険性が高いと判断するとは限らない」


「そちらの気象データをこちらでもモニターしている。科学省に送ることもできるが、そんな面倒な手続きをしなくても、先ほど言ったように、総括責任者である私の権限で可能なのだ。嘘はつけない。この通信記録も記録されていることは知っているだろう」


「・・では、現場の責任者として他の班員の意見を参考にしたい。確認するまで通信を終わる」と言って、班長はマイクを切った。


 これからの会話は、二台の雪上車の中の世界に限定されるものになった。班長は不本意そうな表情で、同乗している二人の班員の顔を見た。


「二人ペアなら、やってもいいぜ」と一人の班員が言うと、もう一人の班員もうなずいた。


 班長は躊躇したが、もう一台の雪上車にいる副班長に、トランシーバーを使って隊長からの提案について、班員の意思を確認するよう連絡した。すると、間もなく二号車にいる副班長からトランシーバーで「二人ペアの条件ならば、採集活動再開可能。ロシアとデンマークからの“客人”は当方の判断に任せると言っています」との連絡が入った。それを聞いた班長は双方から突き付けられた提案の中でしばし悩んだ。そして、再びベースキャンプとの通信回線を開いて、マイクに向かって言った。


「隊長、聞こえますか」


「雑音が入っているがよく聞こえる。どうだね、そちらの様子は?」


「作業再開について班員の意思を確認した。二人ペアの条件ならば再開できる」


「よく言ってくれた。君たちの冒険心は失せていないようだな。気を付けて、二人ペアで作業をしてくれ給え」


 それを聞いた班長は、隊長からの通信の途中で一方的に切ってしまった。そして、再びトランシーバーに持ち返ると、二号車の副班長に二人ペアでの採集作業に当たることを告げた。すると、二台の雪上車からは順に班員たちが出てきた。その足取りは強風のせいか、いつもよりも重そうに見えた。



   ― 氷原上のクヌッセン親子 ―


氷原を歩き続けていたクヌッセン親子のうち、先頭をあるいていた父親の足が止まると同時に、彼の右手が後ろの息子を静止させた。息子も何かを感じ、うつむき気味だった顔を上げ、目を大きくして右前方を凝視した。その先には、黒い点のようなものがあった。しかし、息子のオーレはまだそれを見つけることができなかった。父親は右手でゆっくり伏せるようにとのをした。息子は、父が獲物を発見したのだろうと瞬間的にわかり、そのしぐさ通りに父親に合わせるように、身をかがめて腹ばいの姿勢になった。


「どこ? 見えないよ」と息子のオーレはほとんど聞こえないような声で父に尋ねた。風が強いため、本当に父親に聞こえているかわからないくらいの小さな声だった。


 父親は右手である方向を指さした。息子は腹ばいのまま父親の横に並んでみたが、何も見つけることはできなかった。


「まだ見えない」と息子のオーレは再び小さな声で尋ねた。


「伏せたまま、ゆっくり後ろについてこい。こちらは幸運にも風下だ」と父親も小さな声で息子に言った。


「わかった。伏せたまま後ろをついていく」と息子のオーレは、上からの強風と下からの氷に挟まれ、露出している顔の皮膚が痛くなるような感覚に襲われた。


それでも彼らにとっては、日常の延長上でしかなかった。息子は細かな指示がなされなくても、経験的にこんな時にどうすればいいかわかっていた。彼らは黒い点との距離を次第に詰めていき、息子にもその黒い点が獲物であることを認識できた。やがて、それがアザラシであることが分かるまでの距離になったところで、父親は再び息子を静止させ、肩に担いでいたライフルを右手にとり、その銃口をアザラシに合わせた。どこまで近づくかも経験則によるものだ。


アザラシにはクヌッセン親子の接近に気付いた様子はない。じっと動かないでいる。しかし、標的として照準を合わせても強風が吹いている。風を計算に入れて引き金を引かなければならない。風速、風向などの計測装置があるわけではないが、たとえあったとしても、瞬時に変わる強風下では役には立たないだろう。父親は狙いをすませて引き金を引いた。


「ズキューン」


 一発の銃声がしたが、強風に少しかき消されてしまった。アザラシは動かないままでいる。弾丸が当たったのかもしれない。しばらくしても動かないので、父親は息子に射撃練習をさせるために、息子のオーレに一発だけ撃って見ろと促した。息子は父と同じように伏せたまま、ライフルの照準を動かなくなったアザラシに合わせた。


「ズキューン」


 二発目の銃声が強風を引き裂くように鳴ったが、残音はすぐに消滅した。二人はすぐに立ち上がり、足元に注意しながら小走りでアザラシに向かった。まもなく津を流しているのが見て取れた。そばまで行くと、アザラシは生きていたが、動けないままでいた。弱弱しい声で「ウゴー」と威嚇し、手足を動かしていたが、逃げることはできないようだ。出血状態からすると弾痕は一つだけだった。


「誰の弾だろう?」と息子のオーレはポツリと言った。答えはわかっていたが、自分の弾であってほしいと願う心情がそのように彼に言わせたのだ。


 父親は無言のまま、いったんアザラシから少し離れ、その頭部にライフルの銃口を向けた。息子も父の傍らでその様子を見ている。父親のライフルが三回目の銃声を放った次の瞬間には。アザラシは目を閉じ、永遠の眠りについた。


それから、父親は右手をアザラシの分厚い毛皮に手をかざし、お祈りを捧げた。息子も同じようにつぶやいていた。強風によって肌には刺さるような冷たさがあったが、父親の右手からはアザラシの体温の暖かさが伝わってきた。祈りが終わってしばらくすると、強風に加えて雪が混じってきて、さらに肌を刺す寒気が強まってきた。彼らに対するこの天候悪化は、まるで自然が怒りを表しているようだった。


「これから吹雪になる。早く毛皮を剥いで解体するぞ」と父親は息子をせかすように言った。


 彼らは手慣れた手つきでアザラシを解体し、氷原のくぼみを削り取って肉の簡易な保冷庫を作った。それから、解体した肉をその中に入れ、他の動物に荒らされないように氷を固めて蓋をした。


「これでよし。後はモビルPCにこの場所を登録し、発信機を付けるだけだ。今夜は久しぶりに生肉が食べられるな。母さんも料理のやりがいがあるというものだ」


 父親はそう言うと、右手に握っていた物を広げて、息子に見せた。それを見た息子は言った。


「それは父さんの弾だ。やっぱり外れたか」


 父親は「この次があるさ」と言いかけたが、その言葉を飲み込んだ。この場面に、日常的な冗談も言えないほどの、北極周辺における狩猟の現実的な厳しさが伺われた。二人は雪が混じる強風の中を、そこから逃れるかのように帰路についた。



   ― ノルウェー調査隊の派遣班 ―


 調査隊の派遣班六名は三組のペアに分かれ、各々のペアが予め決められたルートに従って、二台の雪上車を後にして採集調査に出発した。移動するにつれて吹雪は激しさを増してきた。金属探知機は昨日までと同様にほとんど探知音を出さないでいる。それどころか、吹雪で位階不良のため、氷塊につまずいたり、窪みに足を取られたりして、歩行速度は次第に鈍くなっていった。


「定刻の連絡時刻だ。この辺で少し休憩しましょう。ハア、ハア」とペアを組んで採集調査をしている班員が息を切らしながらも、吹雪によってかき消されないように大声で言った。


「ああ、そうだな。ハア、ハア」ともう一人の班員も息を切らしながら答え、吹雪の中で体のバランスを取りながら、ゆっくりと金属探知機を足元に置いた。


「いつまで作業を続ける気なのでしょう? さっきの班長と隊長とのやり取りを聞いていると、調査隊には採集調査で成果を上げるという命題が課せられているようですね」


「いや、それしかないだろう。お前も『ノイア』の社員ならわかるだろう」


「ええ、まあ。・・ああ、それにしてもひどい吹雪だ」


「我々が行っている調査の実態は、調査隊と言うより隕石採集隊だ」と言って、通信機をリュックサックから取り出した。


「こちら第二班。班長、応答願います」


「こちら、班長。よく聞こえる」


「今のところ、何も発見できません。ところで、何時まで作業を続けますか? 吹雪が強烈で何も見えません。何回か転倒しましたが、大事には至っていません」


「そうか。今ほど第三班からも連絡があって、あちらも同じように言ってきた。もう限界だと判断する。これより持ち場から雪上車へ戻れ。撤収だ」


「了解しました」


 その後、すぐに班長は第三班に撤収する旨の指示を無線で連絡した。撤収することは、ベースキャンプにいる隊長に相談しなかったが、そのような天候の下での採集作業は命の危険にさらされると確信していたし、こちらの気象データをベースキャンプでもモニターしているはずだから、判断に誤りはないと考えていた。しかし、まったく連絡せずにいるのも問題だと考え、無線でベースキャンプの隊長を呼び出した。


「私だが、どうした?」


「悪天候のため、作業中止と考えました。もう限界です。何回も転倒しました」


「うーむ。・・気象データをこちらと比較すると、確かに悪いようだな。こちらでも風に加えて雪が混じり出した。よし、すぐに雪上車に戻るように。くれぐれも気をつけて六名全員が無事に戻ってきたまえ」


 隊長は、これ以上の作業は事故になりかねないと判断した。あれほど作業継続を唱えていた隊長だったが、もし、事故になれば責任問題になりかねないので、それだけは避けたかったのだ。採集作業の成果は期待できないが、事故を引き起こすよりいいと隊長は考えたのだった。


「了解しました」


 班長は、隊長が撤収を渋ると予想していたが、以外にも承諾してくれたので何やら拍子抜けした様子だった。


三つの班に分かれていた派遣班の六名は、順々に二台の雪上車にたどり着いた。車内に入って安心したのか、皆、同様にゴーグルと防寒用マスクを分厚い手袋をつけたまま、顔から剥ぎ取るように脱ぎ捨てた。


「こちら二号車。隊長、聞こえますか」と副班長からの通信が入った。


「こちら一号車。私だ」


「第三班の二名も無事戻りました。採集成果はありませんでしたが、いつでも出発できます」と副班長は、こわばった頬を右手で温めながら言った。


「わかった。視界が相当悪いから、注意して後についてきてくれ」


「了解しました」


 班長が乗車する一号車を先頭にして、二号車もベースキャンプを目指して出発した。一号車は吹雪の中をナビゲーションシステムで来た時にたどったルートを戻るようにして走行していた。二号車も視界が悪い中を、ナビゲーションシステムと目視を頼りに一号車との距離を一定に保つように走行していた。


 突然、一号車は足を踏み外したかのように、前のめりになって氷原の下り坂を滑り落ちた。氷原の裂け目に落ちてしまった。同乗者はシートベルトのおかげで、座席から放り出されることはなかったが、一瞬何が起こったのかわからなかった。衝撃のため、エンジンは停止してしまった。


「おい、大丈夫か」と班長は左隣にいる運転手に声をかけるのが精いっぱいの状況だった。


班長と運転手はシートベルトのおかげで前面の窓ガラスに落下せずに済んだ。また、後部座席の班員もまた、前面のシートにぶつからずに済んだ。三人ともシートベルトに支えられながら、手足をばたつかせていた。


一号車が氷原の裂け目に落ちてしまったことは、二号車にはすぐにはわからなかった。ただ、二号車のナビゲーションモニターに表示されている一号車との距離を示す数値はカウトダウンを始めていた。


「おかしいな。一号車が停止したのかな。・・」


 二号車の運転手が数値の異変に気付いた瞬間、隣に座っていた副班長が大きく目を開き、前方を窓ガラス越しに見たが、そこには相変わらず真っ白な吹雪しか見えなかった。


「おい、止まれッ」


 危険を察知した副班長が大声でそう言った次の瞬間、二号車も一号車と同様に、氷原の裂け目に滑り落ちてしまった。


“ザザザザァー、ガァーン”


二号車に衝撃が走った。一号車と違うのは、滑り落ちた下には一号車があったことだ。そのため、一号車はクッションの役割となって、二号車は一号車の屋根に乗り上げる形で止まった。しかし、二号車も完全に氷原の裂け目にその車体が没していた。


「くそ、何てこった。おい、後退できるか?」


 副班長が運転手に後退を促した。エンジンは停止していなかった。運転手はギアを後退に入れて慎重にアクセルを踏んだ。


“ガガガガァー”


 二号車のキャタピラーは空転するだけだった。


「聞こえるか、二号車」と一号車の班長からの無線が二号車に入った。


「三名とも無事です。そちらはどうですか? 班長」と副班長は返信した。


「こちらも何とか大丈夫だ。どうだ、後進できそうか?」


「今、やっていますが、キャタピラーが空回りしています」


「裂け目の勾配からすると、後進も前進も無理だ。いったん、停止しろ。こっちの屋根が二号車の重みでつぶされそうだ」


「了解、おい、後退止め。ただし、エンジンは切るな」


 すぐに副班長が運転手に指示した。キャタピラーの動く音はなくなったが、辺りには二号車の規則的なエンジン音だけが、吹雪の音にかき消されながらも響いていた。


 一号車では、車内の三人が前傾姿勢の中でシートベルトを慎重に外し、落ちないように体を支えながら雪上車のドアを開けようとしたが、二号車の重みでドアのピラーが曲がってしまったため、体を滑り込ませるだけのドアの隙間を確保できなかった。そこから、凍り付くような外気が車内に入ってきた。


「だめだ。こっちのドアも開かない」


後部座席の班員が両方のドアを開けようとしたが、どちらも開かない。二号車からなんとか出てきた三人は、一号車のドアを順に外から開けようとしたが、無理であった。そのうちの一人が雪上車の工具箱から、長さ約一メートルほどのバールを持ってきてドアと車体の隙間に挟み、ドアを開けようとしたが、足場も悪く力を込めにくいせいか、ギシギシと音がするだけで体を入れるまでには開かなかった。


「だめだ。電動のこぎりはないか?」


「いや、ない。工具箱にも入っていない」


それを聞いていた班長は、車内の足元に取り付けられているカッターナイフ付きハンマーを取ろうとしたが、前傾姿勢のためなかなか力が入らない。それでも思いっきり手を伸ばしてハンマーを握りしめ、窓ガラスを中から叩き割った。すぐに雪交じりの冷気が猛烈に車内に入ってきた。班長は寒さで顔をしかめながら、カッターナイフでシートベルトを切り裂いた。


「これを使え。今の要領で雪上車の窓から脱出するんだ」と班長は、カッターナイフ付きハンマーを運転手に手渡した。


班長は窓枠に手をかけて上半身を窓から出した。その様子を見ていた二号車の班員たちは班長の上半身をかかえ、雪上車からゆっくりと引きずり出した。


「この調子でみんなを窓から引きずり出せ」


 二号車のキャタピラーが頭に当たらないよう気を付けながら、順にドアの窓から班員を引っ張り出した。


「二号車はダメか?」と班長は副班長に尋ねた。


「前進も後退もダメです」と副長は答えた。


「仕方がない。必要な物を持ってこの斜面を昇るんだ。誰か先に昇って、上からザイルを垂らせ」


こうして、派遣班六名は雪上車での脱出を諦め、氷の斜面を順番に昇り、氷原の裂け目に立った。六名には滑落による負傷者はいなかった。採集の成果が無かったことが幸いして、引き上げる物資が比較的に少なくて済んだ。また、どうしたことか先ほどまでの吹雪がおさまってきた。雪がまばらになり、風の勢いも弱まってきた。


「天の助けだ。天候が安定している間に移動しよう。ベースキャンプには連絡がついたか?」と班長は副班長に聞いた。


「ベースキャンプとは交信できます。今、我々の状況を連絡したところです。回線がつながっています」


「よし、代わろう」と班長はマイクを副班長から受け取って、ベースキャンプにこれから徒歩で帰ることを連絡した。


 派遣班の六名は、ベースキャンプを目指して歩き出した。しかし、彼らは知らなかった。これから本格的な吹雪になることを。



   ― 帰路のクヌッセン親子 ―


 猟を終えたクヌッセン親子は、天候が悪化する中を、二台の電気スノーモービルで帰路を急いでいる。その先頭は父親である。後続する息子の電気スノーモービルにはナビゲーションシステムが搭載されており、これによって、先行する電気スノーモービルと一定の距離、速度を自動調節して、後続車が追従することができる。それでも父親は時折、後ろを振り向いて、息子がちゃんと後ろにいることを確認していた。一方、息子はナビゲーションシステムに助けられながらも、上下左右に揺さぶられるハンドルをしっかり握りしめ、父の後ろにピッタリとついていった。


 防寒用マスクをしているとはいえ、風を切って走る電気スノーモービルでの運転には相当の忍耐力と運転技術が求められる。氷原の凹凸、たたきつける雪、顔面や手足の感覚麻痺。いくら技術が進歩しても、北極の大地ではこれらと自分との闘いに常に勝っていることが求められる。


父親はもちろん、息子も日々の命を賭けた生活の中で、油断しないことを自然に身につけている。彼らの電気スノーモービルには専用の通信装置も装備されているが、父も子もそれを使うことはなかった。ただ、運転にのみ集中していた。そんな彼らをあざ笑うかのように吹雪という試練が、行く手を阻んでいる。それでも彼らは帰るべき場所に向かって、電気スノーモービルを走らせる。彼らの脳裏には、暖かい空調の聞いた部屋といった幻想はなく、厳しい自然という現実に立ち向かう、研ぎ澄まされたクールな精神性で満たされていた。


 彼らが氷原につけたキャタピラーの跡は、すぐに元通りになるだろう。彼らが仕留めたアザラシを隠した場所も雪が覆うことだろう。しかし、彼らはそんなこととは関係なしに、今はただ、電気スノーモービルを走らせる。それが生き残るための定めだとわかっているから。



   ― 帰路の六名の派遣班 ―


 二台の雪上車を放棄して、徒歩でベースキャンプを目指した六名に、容赦なく北極の吹雪が本格化してきた。帰路のルートは装置が明確に教えてくれるが、彼らの足取りを助けてくれるものはいない。先頭を歩く者は、一定時間ごとに交代して全員の負担が均等になるようにしていた。それでも、その歩行速度は次第に遅くなり、よろけながら転倒しないようにすることで精いっぱいだった。


皮肉にも向かい風のため、自然と目線は下向きになり、経験と勘頼りでの歩行を余儀なくされた。彼らは何度も北極での任務に就き、厳しい環境下で仕事をしてきた実績があった。窮地に陥った時の対処方法も訓練されていた。一般人であれば、このような過酷な天候の下では、既に落伍者が出ていることだろう。それでも、黙々と歩き続けていた彼らの資質と体力は相当なものであった。


 そんな彼らにも限界という定めが訪れた。先頭を歩いていた班員が氷の裂け目に足を取られ、転倒してしまった。彼だけでなく、全員が体力の消耗を感じていた。


「仕方がない。ここでビバークする。テントを張って吹雪をやり過ごす。遭難信号を発信しろ」と班長が決断した。


 吹雪の中であったが、負傷者をかばいながら、彼らは訓練通りにアンカーを氷原に打ち、テントを張ってその中に入った。吹雪の音は聞こえるが、ほっとする空間がその中にあった。六名は吹雪が弱まってくれることを願った。

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