満天の星の下で


 と、そんなこんな紆余曲折を経て、俺は三蔵法師の弟子となった。

 今は観音菩薩の教えを忠実に守り、人を食らう事も止め、師父に忠実に従っている。

 

 師父や悟空と旅を始めてからというもの、俺は以前のような恐ろしい飢餓感に襲われることはなくなった。今は心も平常を得て、陽気で怠惰な豚の八戒として生きている。


 ただ、――それでも、時折飢餓の感覚が、そっと俺の傍らに忍び寄ってきた。


 真夜中にふと目を覚ました時、たらふく食ってほっと一息吐いた瞬間、何かの折に師父たちと離れた時――言いようのない虚しさは、俺が気を抜いた瞬間を狙って、身の内にすっと入り込んでくる。そして堪らなく寂しくなって、また食う事で飢えを満たそうとするのだ。

 まだまだ俺は、菩薩の言う真の充足に至ってはいないだろう。


 やれやれ、菩薩ももっと具体的な方策を授けてほしいものだ。いったい何が真の充足なのか、俺には見当もつかない。いったいいつまで、俺はこの奇態な病に苦しめられるのだろうか。


 ある夜、俺はまたしても一かけらの渇きを感じて、目を覚ました。

 俺たちは適当な宿を見つけられず、山中で野宿していた。背伸びするように広がった枝葉の下に草を敷いて、その上にごろ寝している格好だ。

 夏の夜風は水晶のように澄みきって、火照った鼻先を優しく冷やした。夏草が、うっすらと夜露を含んでいた。


 俺はむくりと身を起こした。

 左を向けば悟空が大口を開けて鼾をかき、右を向けば師父が静かに寝息を立てている。悟空のざらついた鼾が、影絵のような木々の間に木霊していた。

 両者とも寝姿に違いはあれど、どこか幼子のように心安らかな、素直な表情をしていた。それは満ち足りた者の、安らかさだった。


 きゅうう――踏み潰された蛙のような、間抜けな音がした。

 俺は底なしの枯れ井戸になってしまったかのような、深い空腹を感じていた。もうすっかり身にしみついてしまった、苦しみの根幹となる飢えだった。


 賢い俺はこんなこともあろうかと、懐に饅頭を隠し持っていた。懐から革袋を引っ張り出し、中身を改める。中には小さな草饅頭が二つ、お利口に収まっていた。


 万が一悟空が目を覚まして、饅頭を食っているところを見られては大変だ。あの乱暴者の事だから、卑しん坊の豚め、とどやしつけられるに決まっている。俺は万全を期して寝床を抜け出し、安全に饅頭を食べられるところを探した。


 暗い山道を歩いていると、ふと、木々の間から星空が見えた。

 地上を覆う黒布のような夜空に、赤や、白、黄色や青色の小さな星々。ある星はちらちらと瞬き、ある星はぽつんと佇んでいたり、またある星はふっと流れて消えていく。

 そうやって鼻先を向けて見上げていると、星空の中に落っこちてしまいそうな、くらくらとした感覚に見舞われた。


 昔から、俺は星空というものがどうも苦手だ。

 何故か分からないが、星を見ていると、どうにも言いようのない、虚しさを感じて仕方がないのだ。

 あの星だの、空だの、月だのというものは、ずっと昔からそこに在って、これからもずっとそこに在り続けるものだ。俺がここにいる、いないに関わりなく――


 それはまあ、至極当たり前の事なのだが。

 しかし、その厳然とした事実が、無性に苦しいような、悲しいような気持ちにさせられるのである。

 俺は、星の事を頭から追い出した。今大事なのは、饅頭だ。饅頭のとろけるような甘さを味わえば、そんな寂しさも忘れられるだろう。


 しばらくすると、沢に出た。

 夜の木々が作り出す暗闇の底で、清流の奏でる涼しげな音がする。心の安らぐ、良い場所だ。ここに落ち着くことに決めた。


 と思ったら先客がいた。何やらしょぼくれた生き物が、岩の上にうずくまっていた。

 よくよく観察してみると、悟浄の丸まった背中であった。


 悟浄は背後に立つ俺にも気づかず、じっと暗い沢の流れを見下ろしていた。それはいやに真剣で、ともすればふっと水の中に身投げしてしまいそうな、そんな危うげな雰囲気が漂っていた。


 よう、と俺は声をかけた。悟浄はのっそりとした動きで、首だけ捻るようにして振り返った。


「どうした、眠れんのか」

「……ああ、まあ」


 川のせせらぎにも負けてしまうような声で、悟浄はそのような感じの返答をした。その眼は相変わらず、じとっと湿っていた。


 何となく、余所へ移るのは気が引けたので、俺は悟浄の隣の岩の上に腰を落ち着けた。夜更けの沢の流れは、夜空の色よりもなお濃かった。


 悟浄は俺の事など気にしたふうもなく、どこか遠いところを見つめていた。そしてもぐもぐと何かを反芻するように、血色の悪い唇が動いている。

 またぞろ、訳の分からない事を呟いているのだろう。濁った目は、すでに内省の沼に沈み込んでいた。


 ああ、何と惨めな姿だ――この世の孤独を押し固めたようなその姿に、背筋がぶるりと震えた。

 俺は悟浄から目を逸らし、饅頭に噛り付いた。


 中の餡子は甘く、練り込まれた蓬の香りは芳醇であった。ただ惜しむらくは、時間が経って生地が硬くなり、全体的にぼそぼそとして歯触りが悪くなっていることだ。やはり饅頭は出来立てを食らうに限る。


 俺は、ひっそりとため息を吐いた。硬くなっているというだけで、饅頭が泥団子程に無価値なものに変わってしまったような気がした。


 虚しい。ひどく、虚しい。

 山中に独りで暮らしていた時のような、あの嫌な感覚がぶり返してきた。身体の中身が空っぽになってしまったような、あるいは、塵となって消えていくような――ひんやりとした寂しさが、ひたひたと近付いてくる予感がした。


 夜空の星々が、冷やかにちっぽけなこの身を見下ろしている。彼らは悠久に空にあり続けるが、俺という存在は、いずれちりとなって消えていく。

 俺は、この孤独を抱えたまま、朽ち果てていくのであろうか――


 その時――不意に、師父の顔が思い浮かんだ。

 いつも陽だまりのように、のほほんと微笑んでおられる師父。俺の頭に触れる、しわしわだが柔らかな掌。師のもたらす温かみが、何の拍子か、ぽんと心の虚に浮かび上がってきたのである。


「――悟浄」

 俺は、石のように固まっている隣人を突っついた。

「ここに、饅頭があるんだ。お前も食わんか?」

 俺はもう一つの饅頭を差し出した。


 すると悟浄の奴、目ん玉を剥き出しにするようにして俺を凝視した。これほど驚いている彼の表情は、なかなかに珍しかった。


 悟浄は黙って饅頭を手に取った。生まれて初めて出会った物体のように、しげしげと饅頭を眺め、唇の先で啄むようにちびちびと食い始めた。小鳥が餌を突っつくような、しみったれた食い方だった。


「……旨い」

 饅頭の欠片を飲み込むと、ぽつり、と悟浄は呟いた。今度は芯の通った、はっきりとした声だった。


「旨いか」

「ああ」

「それはよかったな」


 こくり、と悟浄は子供のように頷いた。そして、「有難う」ともじもじとして言った。

 それは驚いている時よりも珍しい、そしてどこか可愛らしい顔だった。


 俺は、もう一口、饅頭を頬張った。

 生地は硬い。餡は湿気ってべたべたする。それなのに、今度はそれがひどく、甘美で素晴らしい食べ物のように感じた。


 饅頭はすぐになくなってしまった。とても満腹には至らなかった。

 けれども、それは確かに腹の中にしっかりと残っていた。胃袋を中心に広がる、ほわほわとした温かさ。どこか懐かしいぬくもりが、手足の先まで広がってくるように感じた。

 こんな感覚は、生まれて初めてだ。饅頭とは、こんなに旨いものであっただろうか。


 充足していた。何だかとても、満ちていた。


 俺は、ほんの少しだけ、師父の気持ちが分かったような気がした。

 俺の食っている姿を見ているのが好きだと言った、師の言葉。きっと師もまた、こんな気持ちを味わっているのだろう。


「悟浄」

 俺が話しかけると、「何だ」と悟浄は応えた。彼は小鳥でも慈しむように残った饅頭を抱えて、ゆっくりとそれを味わっている。


「星の下で食う饅頭も、いいものだな」

「……そうだな」


 俺は夜風の匂いを嗅ぎながら、悟浄が饅頭を食い終えるのを待った。

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八戒の憂鬱 矢口 水晶 @suisyo

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