猪八戒について、二

 そうして数年が経った頃だ。

 ある夜、俺は住処としている山中にいた。また飢えの虫が騒ぎ出して、獲物を求めて暗闇を彷徨っていたのだ。

 その時はもう始終心の空しさに胸をかきむしられ、昼と夜の区別もつかないくらい俺はおかしくなりかけていた。


 深い霧の奥に、動く者の影があった。よく目を凝らしてみると、それはみすぼらしい成りをした、痩せこけた僧侶とお付きの小僧だった。二人は杖を突きながら、よろよろと山道を登ってくる。


 俺は舌打ちした。骨と皮ばかりの坊主など、腹の足しにもならぬ。だがまあ、打ち殺してやれば憂さ晴らしにでもなるだろう――

 そう思い、俺は木陰から躍り出て、僧侶どもに襲いかかった。


 すると突如、僧侶の身が強烈な光を放ち、山中を真昼のように照らし出した。

 俺は一瞬、目を潰された。


 恐々と瞼を開くと、白い光の中心に、清らかな衣をまとった貴人が立っていた。

 美男子とも美女ともつかぬ、中世的な顔立ち。珠のように照り輝く白い肌に、微睡むような涼やかな目元。蝶の触角のような睫毛が、頬に憂いの影を添えていた。


 完全な美だ。傾国の美姫も魔境の妖女も足元にも及ばぬ、絶対的な美。まさに、貴人は現世を超越した美貌を体現していた。

 俺は貴人の放つ高貴な光に圧倒されて、息を吐くことすら忘れていた。



「控えよ、そこな豚よ」

 いつの間にかお付きの小僧も、凛々しい美丈夫へと姿を変えていた。彼は俺を錫杖で打ち据えて、


「我は托塔天子の二太子、木叉恵岸。ここに御座すのは、南海の観世音菩薩摩訶薩である。咎人から畜生に至るまで、慈しみ憐れみ給う我が師父が、汝の懊悩を見かねて特別に権限なされたのじゃ。心して師の御言葉を聞くがよい」


 と、高らかに言い放った。

 俺は地面に鼻先を擦りつけるようにしながら、平伏した。


 間もなくして、とろとろと絹糸のほどけるような声が、天より降り注いだ。


「愚かなる猪悟能よ、汝は今まで欲望のために生き、満たすために奪ってきた。今も耐えがたき飢えのために多くの殺生を重ねておるが、断言する、汝は今のままでは永劫に満ちぬ。渇きに囚われて狂死するであろう」


 ええ、と俺は思わず声を上げ、頭も上げそうになった。それを恵岸行者の錫杖で押しとどめられる。


「何故なら、汝は肉体の欲求のみを追求しておるからじゃ。肉体の充足には限りがある。快楽だけでは心は満ちぬ。下等な欲求を捨て、精神の高みを目指すことのみに精進せよ。それが、汝の飢えと孤独は癒す唯一の道じゃ」


 俺の後頭部に、温かく柔らかなものが触れた。畏れ多くも尊き観音菩薩が、憐れみを持って俺を撫でていたのだ。白い衣は、柔らかな麝香の香りを放っていた。


「これより後、二人の僧が汝の前に現れる。西方金蟬長老の生まれ変わりである玄奘法師と、その弟子・聖天大聖孫悟空じゃ。二人はこの世の衆生を救わんとするために、天竺国大雷音寺に大乗三蔵の真経を得んとて旅をしておる。猪悟能よ、汝も玄奘の弟子としてこれに従うのじゃ。そして、どれほど苦しくとも、この勤めを全うするのじゃ。さすれば、汝は必ず、真の充足とは何か、悟るであろう……」


 観音菩薩の声は羽毛のように俺の胸の中に舞い降りた。そして神々しい後光が遠のいていくのと同時に、俺の意識も薄れていった。


 気が付くと、俺は早朝の山道に倒れていた。まだぼんやりとかすみのかかった目で、あたりを見回す。当然、二人の修行者の姿はなかった。


 淡い朝日が空を翡翠色に彩っていた。ピカピカに磨き上げたような、すがすがしい空気が鼻腔に流れ込む。こんなに美しい朝を迎えたのは、数十年ぶりのような気分だった。


「へっくし!」

 俺は大きなくしゃみをした。一晩山中で眠りこけていたおかげで、すっかり風邪をひいてしまった。


 この不思議な一夜の事を、俺は単なる夢だと思った。だから、その後も里で人を襲い続け、飢えで飢えを紛らわせる不毛な生活を続けた。菩薩にかけられた言葉はぼんやりと頭に残っていたが、俺は食らう事意外に満たす術を知らなかった。


 後日、里山の人間たちに請われて、一人の行者が俺を退治するために使わされてきた。

 それが偉大なる英雄、孫悟空であった。


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