セフィロトの樹~萌芽(フリーワンライ)
【第136回フリーワンライ】
心電図で示す君への想い
白鳥姫は地に堕ちる
冬の冷たさ、君の温もり
愛を囁くトランプ兵
虹色に輝く吐瀉物
溺れる港
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冬の冷たさに君の温もりがやけに沁みたのを覚えている。気遣わしげに大丈夫と言い続ける君の手は背中に回したポーチにぶつかりながらも、何度も背中を往復した。既に吐くものなんて何もないのにまだ吐き気はこみ上げてきて、僕は道ばたから立ち上がることが出来ないでいた。
月が位置を変える頃になって、ようやく吐き気は治まってきた。そっと出された君の小さな手とハンカチと。ありがたく借りようと手を伸ばして衝動に再び身体を大きく折った。
君にまともにかかってしまった僕の吐瀉物は、虹色を纏いながら月光と共に宙に溶けた。
君は悲鳴すらも忘れていた。僕は瞬くことすら出来なかった。僕の口元を汚したはずの残滓さえ跡形もなく消えていた。
君は自分の手を見つめた。僕は壁に手を突き、起き上がった。
夢でも幻でもなくて。胃液とアルコールの混じった匂いが吹き来た風に攫われた。
*
――良いのか悪いのか判らないけど。奇跡で運命だと思ったの。
生物とは不可思議で有り続け、MANAという可能性は何処までも未来を照らすはず。
タブレットで作った輝く虹を二人で見ながら、君はいつか語っていた。
MANAにはまだまだ可能性があるはずだから。私はそれを掴みたい、と。
娘という枷で。思いもしない副作用で。
遠い旅へいつか旅立つはずの白鳥の姫を堕としたのは、紛れもなく、僕だった。
*
心電図は規則正しい線を描き続けていた。腕へと伸びたチューブには赤々とした液体が流されて、彼女の白い腕へと注がれる。白と、灰と、パステルカラーが動き回る部屋にあって、濃い鮮やかな色などそれしかなかった。
部屋は静かだった。時折言葉少なに声が飛ぶほか、機器から漏れるホワイトノイズが占めていた。薄くはないドアを通じて娘の泣き声が微かに聞こえた。聞き取れないほど微かに、彼女の母の、つまり、義母の、あやす声が混じっている。ぽーんぽーん、心電図は割って入るように音を鳴らし続けている。
僕はかろうじて同室を許されてはいたものの。いや、許されたというよりは見届けろと命じられたに等しかったのかも知れない。
配偶者として、そして、事態を引き起こした犯人として。
「こちらに」
促されるままに部屋を出た。義母の顔を見ることは出来ず、娘の彼女によく似た淡い髪をくしゃりと撫でることすら、出来なかった。
あの心電図の音が僕のものであれば良いのに。いや、僕のもので、あるべきだった。
心電図で君への想いを示せたならよかったのに。
それとも僕は、女王を取り巻くぺらぺらの、紙で書いたハートを後生大事に背負うばかりの、愛を囁くトランプ兵であるべきだったか。
所詮ハートはニセモノでしかないのだから。
握りしめた拳から滴り落ちるはずの僕の紅は、虹色を纏って宙に溶け。
娘が一時泣き止むほどに、拳に虹はまとわり続けた。
*
事故だった。手術に輸血が必要だった。僕は彼女と同じ血液型のはずだった。
まずは僕の血が使われた。センターに連絡し、輸血パックの到着を待つ間だった。
血相を変えた医者に、看護師に。
背負ったポーチが音を立てた。
*
涙の海に溺れると何度思った事だろう。涙は虹と消えることなく、確かに僕の頬を濡らした。
「ダッド、聞いて! 生物学で一番とれたわ!」
騒々しく駆け込んでくる君によく似た娘はまるで僕の港だった。
娘にはとても見えないと言われるまでに成長した君は、父でも兄でもお構いなしと僕の首根っこに抱きついてくる。
「私は、マムと同じ道を行きたい」
彼女によく似た薄茶の髪が立ち昇り続ける虹色にふわふわと揺れる。
「そして、いつか、ダッドのフォーマットを」
「それはダメだ。ナツミ」
タブレットをタップする。幾つもの円が立ち上る。円は組み合い枝を伸ばす。一つの図形を形作る。
――セフィロトの樹。
「母さんはもっと人の役に立つことを望んでいた。安価な包帯。ウィルス検出キッド。薬剤のベクター」
MANAは淡い画像を結び、娘の周囲に飛び回る。
電書魔術の包帯ならば、綺麗な布の難しい地域でも清潔に傷口を保護できる。ウィルスに反応するような電書魔術を発明すれば、多くの人の命が救える。薬剤を患部に運ぶことが出来るならば大きく副作用を減らせるだろう。
臓器を安易に変えてしまうのではなく。
スタンダートフォーマットでも、それならば。
「ナツミ」
「なぁに、ダッド?」
「父さん、しばらく出掛けようと思う」
細く柔く、懐かしい髪の感触が手に残る。
母親によく似た面差しが、きょとんと僕を見上げてきた。
旅出っても、僕はまた、ここに戻ってくる。溺れても縋ることの出来る桟橋を持ったこの港へ。
悲劇を無くすために。
タブレットマギウスシリーズ 森村直也 @hpjhal
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