Other Format Hero~ルビンの壺4

 ナツミ・リンガーソンに見送られてハイヤーに乗せられて、随分長い時間が経ったように加世子には感じられた。自分で姿勢を保持出来ず、凭れさせてもらったドアの向こうで、陽は低く目を刺しやがて地平へと沈んでいった。

 建物が見えれば灯る光もまた見えたが、広大な大地を有する国では気付くと灯り一つ無い道を走っていたりも珍しくない。日本では見ることの出来ないような、普段、加世子が暮らす街中では目にすることなどまず無いような美しい星空が、何もない地平の先から果てのない天蓋を形作り、きっと加世子の背後まで広がっていた。

 久瀬は無口だった。ハイヤーの運転手は職務以外には興味を持つタイプではないらしかった。ラジオから軽快な音楽だけが空回りするかのように響いていたが、久瀬は聞き入っているわけでもないのだろう。時折ウェストポーチをあさるような音が聞こえ、小さく咀嚼の音が聞こえた。

 天蓋の模様が動いていく。ゆっくりと昇り始めた欠け月が空の半ばまでさしかかる頃、景色は賑やかな街へと変わり始める。久瀬のみじろぎを衣擦れと僅かなシートの振動で感じた頃、ライトに照らされた噴水が美しいホテルのエントランスへと入っていった。

「代金は受け取っていますので」

 Bye.ハイヤーは役目を終えたと速やかに去っていく。久瀬は何事もなかったように、ボーイを断り加世子を抱き上げ、ロビーへ続く階段を踏む。加世子はやはりすがりつくことも出来ないまま、剥き出しの両腕に熱風の中に混じり込む涼風を感じている。少し寒い。

 ハイヤーはアンヘラの手配だった。加世子の移動が難しいことも、普通のタクシーでは詮索は無くとも不審扱いされるだろうことも、織り込み済みということだろう。

 硝子扉が開いていく。音もなくボーイが駆け寄ってくる。

「ミスター久瀬? ご案内します」

 人相、風体、若い女を抱えていること、荷物がないこと。

 久瀬はボーイに促されるまま歩みを進める。

「お部屋でアンヘラ様がお待ちです」

 スイート専用エレベータの扉が閉じる。


 *


 ひとりでに開いた扉の向こうでアンヘラは、ゆったりした部屋着に身を包みソファに深く身体を沈め、タブレットを物憂げに持ち、タップしたままの姿勢でにこりと笑みを浮かべていた。首元の黒いチョーカーにつけられたアクセサリーが淡い光を跳ね返し、ルームサービスで頼んだと思われるフルーツやらスイーツやらワインやらが映画のように似合っていた。

「こんばんは。ミスター・クゼ」

 タブレットをテーブルに置く。扉がひとりでに閉まっていく。

 久瀬は一瞬視線だけで振り返り、アンヘラへと直ぐに戻した。

「おまえがアンヘラ? お招き頂き光栄だな。ハイヤーといいスイートといい恐れ入ったよ」

「経費で落ちるんだ。最後だからちょっと贅沢に使わせてもらおうと思って」

 アンヘラは傍らのソファを指す。加世子は数人が並んで掛けられる広いソファに横たえられた。

 楽屋の端で、応接室で。見たときよりくつろいでいる風の、変わらない笑顔がそこにはあったが。

 加世子はまばたきを繰り返す。小麦色の肌、黒い短髪、柔らかそうなオフホワイトの部屋着の上下。膝下丈のハーフパンツからしなやかに真っ直ぐに伸びた足先、袖から覗く細い手首、ワイングラスを掲げる細いしなやかな指、細いチョーカーで飾られた首筋。魔術で『作られた』美しい貌。何も変わらない。変わらないのに。

 何かが引っかかる。

「ワインでもどう?」

 少し低いざらついた声でグラスを掲げてみせる。

「子供が飲むもんじゃないぞ」

 久瀬の言葉を肴にするかのように飲み干す。

「直ぐに子供じゃなくなるし。カヨコは、後でね。ミスター・クゼはいかが? 美味しいよ」

 グラスを置く。アンヘラは喉の奥が引っかかりでもするのか、一度、二度、鳴らしてみせる。

 加世子は瞬いた。瞬いて、アンヘラを見る。のど元を、薄い頬を、意志の強そうな瞳を。手首を、足を。ハーフパンツの中途半端な長さを。

「要らない。味音痴のおじさんが喰ってももったいないだけだからね」

 つまらない。思ったかどうか。アンヘラはメロンを口元へ運ぶ。一口かじる。笑みがこぼれる。

「何時間も掛けて、何万ドルも掛けて呼びつけた理由を聞いていいかい?」

 メロンを飲み込み、そして声を立ててアンヘラは笑う。少し、咳き込む。

「カヨコをこのままにはしておけないでしょ?」

 アンヘラの視線が飛んでくる。ねぇ? 言うかのように無邪気に笑まれる。

 加世子を治すには魔術を解くしかなく。解くことが出来るのは自分だけだと知っていて、つまり、掛けたのはアンヘラ自身で。

 加世子は精一杯、睨んでみせる。アンヘラは気付いたかどうか、笑みを崩さず久瀬を見やる。

「なんでこんな手の込んだことを?」

「ぼくはクゼに会いたかった。ぼくがクゼと会うことをパパに知られたくなかった。クゼの連絡先をぼくは知らない。カヨコとクゼにつながりがあるらしいのはパパから聞いて知っていた」

 革張りのソファがきゅるぎしと音を立てる。長い溜息が聞こえてくる。思った通り。そう、久瀬は思っただろう。

 ナツミ・リンガーソンとの会話で想定された通りだった。

 ――理由は知れてるんじゃない? 

「俺に会ってどうする」

「会ってみたかった、じゃ、だめ?」

 アンヘラはのんびりと足を組み替える。引っかかった声を気にするでもなく、小首を傾げる。

「こんな何処にでもいるようなおじさん捕まえて何言うの」

「見た目通りならね」

 見た目?

 懸命に見た久瀬は少しばかり苦みを顔に浮かべているように見える。

 アンヘラは気にせず続ける。

「ぼくは綺麗なものが好きで、可愛いものが好きで、綺麗になりたくてなったし、可愛いままでいたいんだ」

 アンヘラはライチをつまむ。世界三大美人と言われる楊貴妃がこよなく愛したという果物を、啄むように一つ食む。

「俺に会ったからって綺麗になるわけないだろ」

「少なくとも、おじさんは若いままだ」

 アンヘラはワインを注ぐ。一口含み、味を確かめ、ゆっくりと幸せそうに飲み下す。

「パパに聞いた?」

「まあね」

「パパはグレン・クラークで合ってるかな」

「気付いてなかった?」

「確信した」

 パパ。アンヘラを見出し保護したという人のことだ。

 沈黙が降りる。

 久瀬はソファに深く腰を下ろして足を組み、緩く指を組んでいる。

 アンヘラは今度はオレンジを。

「加世子ちゃんは、指輪と交換か」

 指輪?

 加世子は目だけを動かし懸命にクゼを見る。久瀬の左手、薬指に結婚指輪と言うには少しばかり大きく分厚い、けれどシンプルな指輪があった。久瀬は指輪を静かに見下ろす。

「That's right」

 アンヘラは笑む。とびきりの顔で。物わかりが良くて嬉しい。そんな風にも見える。

「ぼくは綺麗に可愛くなれたけど、もちろんずっと綺麗で可愛いままでいたい。パパは色々試しているけど、オリジナル程は育たない。ぼくの結晶クリスタルは出来は悪くないけど、出力が弱い。出力は魔術じゃ補えない」

 加世子は目を閉じる。一字一句落とさぬようにアンヘラの言葉に集中する。意味を汲み取ろうと懸命になる。時折ざらついた音が混じる。ざらつきに気付くと、少しだけ寂しさに似た気持ちになった。だまされて、利用されて、身動き叶わぬ状態にされて、怒っても良いだろうことを山ほどされているのに。

 ――最後だからちょっと贅沢に。

 発表は明日か、明後日か。きっと世界中が泣くだろう。

 少女にしか見えない少年は成長する。声が変わり背が伸び肉がつく。髭が生え体毛が茂り大人の男に変わっていく。魔術で装うことが出来る範囲を遙かに超えて。

天使アンヘラ』は消える。時間と共に。

「ぼくはぼくアンヘラのままでいたいんだ」

 耳が痛くなるほどの静寂が降り。

「そんな良いもんでもない」

 ぽつりと久瀬は呟き、続けた。

「子供は成長するものだ。成長して自分を自分で見つけていく。魔術が無くても装わなくても笑える場所をやがて見つける。そうしてまた、新しい自分を見つける。自分で自分を選択する」

「ぼくだって自分を選択してる。選択した自分でいたいから努力だってしてる。でも、ぼくの努力じゃどうしようもないこともある。努力じゃどうしようもないことに解決策があるなら、解決策のためになんだってする」

「それはワガママって言うんじゃないのか」

「ワガママを言ってはいけないの?」

「結果、人をあやめてしまってもそう言えるか?」

「だからとっても気をつけたよ?」

 違う。加世子は感じる。

 アンヘラは無邪気に加世子を見る。アンヘラの言うのは加世子のことだ。しかし、久瀬は。

「おまえさんは、まだ、子供だって言うことさ」

「そんなこと知ってるよ。ぼくは子供のままでいたいんだから」

 溜息が聞こえる。諦めとも、疲労の末とも、取れなくもなく。

 久瀬は乱暴にワイングラスを取り上げる。ボトルを掴みなみなみと注ぎ。一息に喉を潤すように呷る。まるで水を飲んだように、顔色一つ変えることなく。

「グレンに聞いてみればいい、『何故』俺がこうなったかも、それで何があったかも。グレンもドクター・タトコフも『やって』ないだろう?」

「パパが若い頃にはぼくはいなかった。ドクターはもう高齢過ぎて適さないって言ってる。それでぼくが思いとどまるとでも思った? パパの医学とぼくの魔術で出来ないことなんてない。あとはあんたの指輪、『樹の欠片』のオリジナルがあれば」

「俺がNOと言ったら、加世子ちゃんはこのままか」

「……一月もすれば薬も魔法も切れるよ。それなりの設備の医療機関にかかれば問題なく回復する。ぼくだって何も好き好んで人殺しをしたいワケじゃない。カヨコは割と気に入っているし。アンヘラの最後を飾ってくれたし」

「そうか」

「どうするの」

 久瀬はソファに背を預ける。天井を見上げる。シーリングが柔らかく空調の風をかき回している。

 アンヘラはじっと久瀬を見つめている。笑みは、なかった。

「セフィロトの樹は魔術の繊細さを生かし、医療の一端でスタンダードに勝る魔術を完成させた」

 唱うように久瀬は言う。アンヘラは一度不思議そうな顔をして、直ぐに表情を引き締めた。

 加世子はただ、成り行きを見守り続ける。

「体内に入れた時に拒絶反応を起こさない。体組織との親和性・融和性が良く、不調が少ない。欠損臓器を補うことが出来るとまで言われたし、事実それは可能だった」

「だから、何?」

「MANA製の臓器はMANAのまま。体組織と馴染むとは、新陳代謝にMANAが関与し、免疫も含め『自分自身』になっていくこと。魔術は融和と恒常性に重きをおく。『見た目』はその結果に過ぎない」

「そんなのはパパから嫌って程聞いたよ。厭きたな」

 それはいったい、どういうこと?

 加世子は、ただ一つ自由で在り続ける思考だけを続ける。

 体に穴が開いてもたちどころに治ってしまう。疲労物質を生成しない。もしかしたら『美味しい』と思わない。

『美味しい』は身体が必要と思っていると言うこと。美味しいと思うから、それを摂取したくなる。砂糖の甘さはエネルギーの高さ。タンパク質も優良なエネルギー源。果物のビタミン、水分、喉が渇くのは体内の水分量が減っているから。

「おまえさんは子供だってことだ」

 久瀬は同じ言葉を繰り返す。加世子は久瀬ではなく、久瀬がどのような人生を歩んできたかなど欠片も知らず、けれど、アンヘラよりは、年齢差の時間分、人生を経験している。

 アンヘラよりは、久瀬の言いたいことは、わかる。

「だから?」

「……子供を説得するのが難しいことも知ってる」

 久瀬は指輪を引き抜いた。テーブルの上に、そっと置いた。

「加世子ちゃんを」

「もちろん」

 アンヘラは立ち上がり指輪を取る。アンヘラには大きすぎる指輪を弄びながら、歩を運ぶ。加世子を見下ろす。ショウの時より少しばかり高い位置から。

「迷惑掛けちゃってゴメンね?」

 タブレットを引き寄せる。ドラッグ、タップ。セフィロトの樹が浮かび上がる。そして。

 小鳥が啄むようなキスを。

 加世子が目を見開くのを楽しそうに目に収め、アンヘラは立ち上がった。

「動けるようになるまで少しかかっちゃうけど、それは勘弁してね。ぼくはもう行くけど、部屋代もルームサービスもぼくにつくようになってるから、好きにしていいよ」

 アンヘラはタブレットをタップする。部屋着が革の上下に変わる。大きすぎる久瀬の指輪は、タップして出した鎖に通した。少し低くざらついた声で、じゃあね、と手を振る。

 久瀬は何をするのもおっくうだとでも言うように振り返ることも手を振ることもしなかった。

 扉が開き、静かに閉まる。

 人を一人欠いて、静寂が戻った。


 *


「あるところに子供がいました。普通の、普通の子供でした。けれど、一つだけ違うことがありました。子供は先天的に心臓に欠陥を持っていました。欠陥は手術で直せるようなものでなく、移植しかないと言われました」

「子供が生まれたのは日本という小さな国でしたが、日本では子供の心臓移植は認められていませんでした。子供の親は色々な所に頭を下げて沢山の人の協力を得て、移植の可能なアメリカへついにやってくることが出来ました」

「けれど、アメリカに来たからと言って新しい心臓がそう簡単に手に入るはずがありません。なんたって心臓です。心臓がなければ死んでしまうのは提供する側も同じです」

「子供とその親はじっとじっと待ちました。待ちましたが、順番は回ってきそうにはありません」

「あるとき、検査待ちの合間に近づいてくる変な男がおりました。『走ったり飛んだりしたくはないかい?』男の頭はぼさぼさでした。男の服は綺麗には見えませんでした。笑った歯は黄色くて、白衣が無ければお医者様にはとても思えやしませんでした」

「けれど子供は頷いたのです。同じ歳の子供のように走り回ってみたかった。階段を登り手すりを滑り、看護士と追いかけっこし、泣き、笑い。そういうことを思い切りやってみたかった」

「そして子供は怪しい医者に着いて病院を移り、魔術で作った心臓に出会ったのです」

「手術はまずまずの成果を上げました。心臓はまるで最初からそこにあったかのように子供の身体に馴染みました。魔術をかけ続ける限り、心臓は鼓動を続けました。子供も親もすっかり治ったと思いました」

「子供はメンテナンスがあるからとアメリカに残り、けれど、普通に成長しました。学校にも通い、就職もしました。残念ながら走ることも飛ぶことも得意ではなかったけれど、手術前には出来るとは思えなかったことを沢山しました」

「やがて普通に恋もしました。結婚もしました。子供も授かりました。子供は健康な女の子でした。夫婦仲も良く、子供は……男は幸せな日々を送っていました」

「男の日々はごくごく普通のものでした。週に二度ほど医者を訪れ、MANAを補給し魔術をかけ直す以外は。子供の頃よりMANAの量が増えていたのは確かですが、医者は何も言いません。男には医学の知識がなく、身体が大きくなったからとしか思いませんでした」

「あるとき、男の妻が事故に遭い、大量の血液が必要になりました。輸血用の血液を調達してくるまでの間に、同じ血液型だからと男も勿論提供しました。そして」

 久瀬は起きあがった加世子へ微笑む。吐息を零し、明るみ始めた窓外へと目を向かわせる。

「妻は命を失いました」

「え……」

 久瀬は淡々と、淡々と続ける。

「医者は心臓の手術をするとき実験と確かに言いました。何の実験かなんて男は理解していませんでした。男が気付き理解した頃、男は周囲とは異なってしまっていたことに気付いたのです」

「男の見た目は変わることを止めていました。中年と言われる歳になっても、不惑と呼ばれる年齢に達しても、男は若い見た目で二十代の体力を持ち続けているようでした。何時か娘と出かけても親子から、兄弟になり、恋人と言われ、弟と呼ばれるようになりました」

「聡い娘はそれを察して医学の道に進みました。電書魔術の知識を増やし、電魔医学のプロフェッショナルになりました。男は賢く聡くちゃっかりしている娘の協力者となり実験台となりました」

「男にかかった電書魔術の危険性を確認すること。危険性の除去が出来ないかを探すこと。一時的なMANA製臓器の可能性、スタンダードで実現すること。そして、セフィロトの樹の本領発揮に欠かせない『樹の欠片』を合成すること」

「研究は行き詰まりました。合成は上手くいかず、永遠の若さを求める声が噂話に食いつき始め。危険性を保持したまま、量産型の精度の良くない『樹の欠片』で魔術を使う者が現れ始め」

「ついに男は、人を喰う危険なフォーマットを葬り去ろうと決めたのです」

「アンテナ、『樹の欠片』のオリジナルは三つあることが男にはわかっていました。男は残りの二つを探して壊してしまおうと思っていました。そうすれば、人を喰う魔術は使えません」

 朝日が差し込む。久瀬はまぶしそうに目を細める。

「壊すどころか手放してしまったけどね」

「久瀬さん、あの」

 加世子は言い出そうとして言葉に詰まった。いったい、何を言えばいいのか。

「巻き込んで悪かったね。さて、帰ろう。ナツミが待ってる」

 久瀬は立ち上がり伸びをする。加世子へと背を向ける。

 その背中は、あらゆる言葉を拒絶していた。

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