第14話 逃避行

 シーリスとアラバードとかいう青年のやり取りに気を取られていた。

 行く手に点灯した危険探知マーカを完全に見落としている。

 女館長が猟兵館へ入って行ってから2~3分遅れただろうか。なぜか気になって、アラバードという青年の様子を振り返って眺めながら館の中に入った。

 途端、唸りをあげて何かが迫って来た。咄嗟の動きで、腕をあげて顔を庇いながら後ろへ退こうする。だが、逆側、ほぼ真横から突き出された棒のような物が戸口に差し渡されて背後が行き詰まってしまった。

 自分から背を打ちつける形になり動きを止めてしまったところへ、横殴りに金属の棒が迫った。


(くっ・・)


 顔を庇うように腕をあげた事で、自分の視界を遮ってしまい、棒の後ろから飛来する鉄球に気がつかなかった。

 失態だ。

 凄まじく重い打撃が右腕に炸裂した。

 さらに、金属球が飛来して命中した。一つは、トリアンの右肩へ、もう一つはこめかみの上に命中した。視界に青白い火花が散った気がした。どこをどうやられたのか、視界が途絶えて真っ暗になってしまった。

 硬軟自在は、トリアンが危険を意識しないと発動しない。不意を突かれると、まともにダメージを負う。


「こいつ、加護持ちだぜっ!」


 若い男の声が驚きを含んでいた。

 続けざまに重い打撃で打ち倒され。一瞬で視界が吹き飛び、赤とも白ともつかない光が目の前を覆う。


「もう破断した。しょべぇ加護だぜっ!レベルが低いってのは本当らしいな」


 朦朧と身体を揺らすトリアンめがけて、真下から蹴り上げるように鉄靴が叩き込まれた。


「ぐひゅ・・」


 胸を打たれて呼気を吐き出しながらトリアンが床を転がった。半分は自分から転がっている。

 わずかの間に、不意打ちの混乱から回復していた。

 倒れ伏したトリアンめがけて真上から金属の棒が振り下ろされた。


「ひゅっ!」


 短く息を吐いて、トリアンは身を捻った。

 床石を砕いて金属の棒が叩きつけられる横を、しなやかに身を捻ったトリアンが膝をついて身を起こし、続いて襲った鉄靴を無事な左手で受け流す。頭を狙って振り下ろされた金属棒を左手の甲を削られながらも滑らせて斜めに逸らし、正面へ踏み込みながら左拳を突き出していた。

 ただ真っ直ぐに、肘から前に伸ばしただけの短い突きだが、拳はしっかりと相手を捉えていた。ゴルダーンの片刃刀と打ち合えるほどの拳だ。相手の身体で、内臓のねじ切れた手応えが伝わる。くぐもった苦鳴を上に聞きながら、トリアンは勘だけで床を斜めに滑り、足を旋回させて相手の足首を刈る。耳の後ろを何かが擦過してゆくのを感じながら、転倒を逃れようと後ろへ跳んだ気配めがけて体当たりに突進した。

 このときになって、ようやく左目がぼんやりとした視力を取り戻しつつあった。

 手足の動きも、多少はマシになっている。

 思考も完全に冷静さを取り戻した。

 周囲の危険探知マーカを確認する余裕が出来ている。

 なんとかバランスをとって踏みとどまった人影が、猛追するトリアンめがけて手にした金属棒を突き出してきた。

 トリアンは、するりと蛇が身を捻るように棒と伸ばした腕の下へ滑り込み、握り固めた拳を人影の腹部へと叩きつけた。


(7・・8人か)


 トリアンは部屋にいる危険探知マーカを数えていた。

 呼吸は整った。

 損壊した右腕と肩の痛みは無視することに決めた。

 両足が動く。

 左腕が動く。

 ぼんやりだが左眼は動く影ぐらいは見える。

 十分に戦える。

 だが、全員をやるのは危ない。どんな武器を持っているのか分からない。長く、この場に留まるのは危険だろう。増援もありえる。後、三人か、四人を斃して立ち去るべきだ。

 トリアンは小さく短い呼吸を意図的に繰り返し、身体の熱を高めていった。


「く、薬・・回復を・・」


 男のうめき声がした。先ほど腹部を殴りつけた奴だろう。皮膚の下で臓腑はぐちゃぐちゃに裂けているはずだ。よく声が出せるものだ。


「メイダン!?」


 慌てる声で呼びかけたのは、トリアンの斜め左あたりにいる影だった。


「ま、待てっ!」


 誰が誰に向けて叫んだのか、いきなり部屋中に熱風が吹き荒れて罵声があがった。


「けひゅぅ・・」


 奇妙な呼吸音を鳴らして、目鼻から出血し喉から舌を突き出すようにして女が身を折った。トリアンの拳が鳩尾から突き入れられ背骨まで打ち砕いている。

 斃れる女を楯にして、トリアンが立ち上がって走った。視界も怪しい状態で、手加減などする余裕は無い。


「シェーラっ!・・くそっ」


 若い男の声がして、別の襲撃者が剣らしきもので斬りつけてきている。

 女の死骸を押し出して距離を取ろうとするが、相手の動きが勝っていた。振り下ろした剣の引きつけが速く、すぐさま突きを繰り出してくる。回り込もうとすると、動きを先回りして的確に攻撃してくる。

 視界が今ひとつのトリアンには面倒な相手だった。秒殺という訳にはいかない。

 そう判断すると、


「あっ」


 小さく声をあげて、トリアンは床に尻餅を着くように転んだ。慌てて起き上がって逃れようとするが、鋭い突きが右肩を襲い、さらには脇腹を切り裂いていた。赤い筋が二つ三つと数を増やす。

 トリアンはばたばたと慌てるように手足を動かして後ろへ下がった。


「手間をかけさせたな」


 穏やかにも聞こえる声は、若い少年のものだった。


(どうりで・・)


 霞む視界に見える影が小さいのだ。もしかしたら、トリアンより少し小柄かもしれない。

 勝ちを確信したのか、小柄な影がゆっくりとした足取りで距離を詰めて来る。もはや立ちあがれないといった様子のトリアンめがけて、大上段に剣を振りかぶった。


「スイレン、一体だ」


『はい』


 少年の剣がトリアンの側頭部へ叩き込まれた・・はずだった。

 剣にしっかりとした手応えまで感じ、体の緊張を解いた少年剣士を誰も責められないだろう。

 ほぼ真横から少年の脇腹に、悪夢のような暴力が弾けた。人体が横へ向けてくの字に折れ曲がった。直後に、甲冑の胸ぐらを掴んだトリアンの左腕が少年剣士を頭上へ振りかぶって、真下へ、足下の床へと叩きつけた。


「ヤンフェン!?」


 悲痛な呼び声が交錯した。

 また人の気配が増えた。

 視界だけは回復してきて、はっきりと惨状が見えてきた。


(衛兵・・いや、騎士というやつか?)


 死亡して転がる襲撃者達は、しっかりとした甲冑を着込んでいた。トリアンが斃した女だけは、黒い外套のような裾の長い衣服を着ていた。魔導師だろうか。

 トリアンは、壁際の獣脂皿で揺れる灯りをひっくり返して炎を広げながら、握れる物を手に掴んで投げ打ち、悲鳴のあがる混乱の中を逃げ出した。

 館の奥にある扉を抜けて後ろ手に扉を閉める。大きく息を吸い込みながら、本能的に何か冷たい物を求めて視線を左右させた。


(・・ん?)


 壁際に作り付けの棚が並んだ倉庫のような場所だった。作業台のような机が部屋の中央に置かれているのだが、その陰から黒い革の長靴が見えていた。

 背後の物音に耳を澄ませ、それから慎重な足取りで机を回り込むようにして覗き見る。


(・・こいつ・・館長?)


 女館長が倒れていた。腹部に長剣を突き立てられ、左の上腕部と肩が斬り割られて傷口が開いていた。大量の血が床を染めている。

 屈んで首筋の脈を確かめると、弱々しいがまだ生きている。床に続く擦れた痕を見た感じでは、トリアン同様、館に入ったところを待ち伏せで襲われ、この倉庫へ放り込まれたのだろう。

 女館長が館に入ってから、トリアンが入るまでわずかな時間差しかない。

 ずいぶんと手際の良い襲撃者達だった。


(他人の心配をしている場合じゃ無いんだけどな・・)


 トリアンは部屋の棚を見回した。


(これか?)


 傷薬とラベルの貼られた薬瓶が並んでいた。種類は色々あるようだったが、わずかに考えて、一番数の少ない傷薬を選んだ。どうしたものかと迷いながら、とりあえず中身を女館長の肩にある裂傷へかけてみる。


(・・おぉ)


 みるみる傷口が塞がった。同じように腹部の傷へ薬液をかけながら長剣を引き抜いた。大量の血液が漏れ出たがすぐに塞がっていった。


(このまま置いて行くと、またあいつらにやられる)


 とりあえず、傷口は塞がったようだが、治った訳では無いだろう。襲撃者はまだ残っているはずだ。

 ここで見捨てて行くわけにはいかないだろう。薬瓶をスイレンに収納させて、無事な左肩に女館長を担ぎ上げるとトリアンは周囲の物音に耳を澄ませながら、慎重に気配を殺して部屋の奥にある搬入口から外へ出た。

 そこに、受付にいた壮年の男や少女が死体となって転がっていた。


(これは・・町中はまずいな)


 猟兵館を堂々と襲撃し、殺した職員を隠そうともせずに裏口に転がしている。堂々としたものだ。

 トリアンの中で、町そのものが敵対者になったような感覚がした。

 裏庭には汚れ物など洗い流す流し場があり、離れて便所も設置されていた。


(・・あれか?)


 小さな小屋を見付けて近づくと、朽ちかけた木扉を壊さないように静かに引き開けた。日差しが差し込んだ湿った地面に井戸のような石積みの施設が現れた。重そうな金属の蓋がしてあるが、鍵は掛かっていない。

 トリアンは金属の蓋をゆっくりと持ち上げた。

 強烈な臭気が溢れ出る。


(下水路・・臭いが、上よりましか)


 エフィールは、大きい町だ。下水路も広いだろう。

 トリアンは、熱が出ているらしい女館長を背負いあげると下水路へと降りて行った。一度、女館長を下ろして上に戻ると、小屋の木扉を元通りに閉め、下水路の金属蓋を慎重に閉じた。多少の臭気は外に出たが、すぐに風が吹き流してくれるだろう。

 当然のように真っ暗だが、


(問題無く見える・・な)


 色は今ひとつだが、物の造形などは明瞭に見て取れる。


(おれは、こんなに眼が良かったか?)


 不思議に思いながらも、悪臭の激しい汚水路を歩き、川の流れを引き込んだ水路へと出る。しばらく流れの音に耳を澄ませてから、取水口側を目指して歩いた。

 何度か工事が繰り返されたらしく、使われていない乾いた下水道も残っていた。町のどの辺りになるのか知らないが、上に住人が住んでいないのかもしれない。

 トリアンは、乾いた所を見付けて女館長を下ろすと、崩れるように座り込んだ。熱があるらしく、今にも意識を失いそうである。

 トリアンは、横たえた女を見た。猟兵の館の館長--薄茶髪の女には、アニスと呼ばれていただろうか。


(連れて来ておいて、今更だけど・・どうするか)


 疲れた笑いを浮かべ、トリアンはわずかに上下している女の胸元を眺めてから、ゆっくりと這うようにして離れ、枯れた下水道の壁に背を預けると、自分の身体情報を表示させた。

 階梯が3に上がり、生命量も魔力量も大幅に増えている。


 Level:3


身体情報(非公開)

 HP/MHP:0180/1,520

 MP/MMP:4,785/5,985

 SP/MSP:1,020/1,820

 >extra points +1,000,050


(なるほどな・・)


 身体の苦しさが、納得の数字だった。

 見ている内に、HPとMPの数字が50ポイント増えた。

 受けたダメージの程度は分からないが、増えているのなら死ぬことは無いだろう。

 トリアンは、わずかに安堵しながら、


「スイレン、少し眠る。幻体を一体出しておけ」


 命じながら、重たい泥のような眠りの誘惑に引き込まれて意識を手放してしまった。


(ん・・?)


 暗転した意識が揺り戻される。

 せっかく休めたというのに、わずかな睡眠すら許されないというのか。

 目覚めに近づくトリアンの意識が不機嫌だった。

 なおも身体が揺らされる感じがして、トリアンはゆっくりと眼を見開いた。誰のものともしれない髪が顔に当たっていた。汗ばんだ女の体臭が鼻孔に入ってくる。


(・・誰だ?)


 まだ醒めきらない頭で、トリアンは考えていた。

 誰かに、女の肩に腕を回すようにして背負われて運ばれているらしかった。鼻孔をくすぐるのは、その女の髪であり匂いらしい。足先は地面を引きずられ、腰に回された女の手が服と一緒に肉を挟んでいて痛かった。

 ぼんやりと女に肩を借りるようにして運ばれながら、トリアンは意識を失うまでの経緯を思い出していた。


「・・すまん、起きた」


 女に声をかけて、トリアンは足に力を入れて自分で立ち上がった。

 どこまでも尊大な物言いの少年である。何度か直そうとしたが、このトリアンという少年にとっては、これが一番自然体な言葉遣いらしいと判ってからは諦めた。

 一瞬、身を固くしたが、すぐにこちらを助けるように手を貸しながら振り返ったのは、やはり猟兵館の女館長だった。


「目覚めたか」


「どのくらい経った?」


「わたし自身、意識が無かった。わたしが目覚めてから半日ほどだと思う」


 女館長が、アニサリタ・コープと名乗った。

 トリアンは、自分の体の傷が消えている事に気がついた。


「治療を?」


「治癒魔法は、わたしの専門だ。ただ、君の体質なのかな、ずいぶんと効きが良かったが・・」


「助かった。礼を言う」


 トリアンは恐々と右肩を回し、腕を曲げたり伸ばしたりしてみる。


「感謝は、わたしが言うべき言葉だ。命を落としていたはずのわたしを、君が助けてくれた。ありがとう」


 女館長--アニサリタが礼を言った。


「勝手に、倉庫にあった薬を持ち出したが、後で請求しないでくれ」


 トリアンは冗談めかして言いながら周囲を見回した。意識を失った時の場所では無い。


「君が運んでくれた場所に追手が来た」


「あいつら・・どこの兵だ?」


「一人は見知った猟兵だった。連れていた連中は初めて見る。自分で恥ずかしいくらいの油断だ。ドアを開けるなり、いきなり腹を刺されてから異変に気づいた。何とか2人を斬ったが・・」


「こちらも似たようなものだ。4人は斃したが・・」


「あいつらに待ち伏せられて逃れただけでも見事だ。ここへ追ってきた奴らも手練れだったからな」


「今更だが、あいつらは街の法を破ってるな?」


「無論だ」


「街の法で裁けるのか?」


「出来ないだろう。猟兵館の職員を皆殺しにする奴らだ。後ろに議会の貴族どもが居なければ、これほど大胆にはやれん」


「・・狙いは、オレか?館長か?」


「待ち伏せたやり口からして、おまえが本命らしいな。わたしはついでだろう」


「おれは街には来たばかりだ」


「決闘をしたジェリドの怨恨か、移譲された財貨に由来の何かか・・」


「館長の方に心当たりは?」


「恨みは、たっぷりと買っている。多すぎてどの筋だかわからん」


 館長---アニサリタが苦笑をして見せた。

 ある程度、死を意識しないといけない状況らしい。


「オレの方はどこで死のうと縁者は居ないが・・そちらは誰か伝える相手が居るのか?」


「アニサリタと呼んでくれて良い。わたしには娘が居る。あの子を遺族にするつもりは無いな」


「娘さんか・・それなら確かに、こんな臭い所で死ぬべきでは無いな」


 トリアンは暗闇が淀む下水道に視線を配った。

 トリアンの眼は闇を見透かして奥まで見渡せている。人にしては小さいが、先ほどから何かが近づいて来ていた。


「何か見えるのか?」


 アニサリタが小声で訊ねた。


「腰の高さくらいの・・塊のようなのが這い寄って来ている」


 トリアンは下水路の反対側にも視線を配りながら答えた。危険探知マーカの色は赤だ。今更だが、自分でも驚くくらいに闇が見通せた。光が無い下水路の様子が、はっきりと見て取れる。ただ、色までは見えずに黒と白の世界だ。


「粘体かもしれない。腐肉喰らいだが、生きている者を食べない訳では無いからな」


「スライムか・・水の塊のように見えるが、どうやれば斃せるんだ?」


「小指の先ほどの小さな硬い物が中にある。ほとんど透明で見付けにくいが、あれを斬るか、体内から取り出して外気に晒せば死ぬ」


 要するに、あの液体化け物の中をかき回して、見えない核を取り出せれば良いのだろう。


「火炎系の魔法があれば簡単だが・・溶解液を体内に貯めているやつだと厄介だぞ」


「溶解か?」


「火傷のように皮膚が溶け崩れる」


「それは厳しいな」


 素手は危険らしい。


「動きは遅い。避けて通り抜けられないか?」


 戦う必要が無いのなら、それが一番良い。


「体を変形させて、2メートルほど触手を伸ばすぞ」


「結構、厄介なやつだな」


「わたしが炎系の魔法を使えれば良かったのだが、習得した攻撃向けの魔法が少なくてな。こんな場所ではこちらが危険になりそうな魔法しか使えない」


「あれも魔物なのか?」


 トリアンは50メートルほどに近づいて来たスライムを眺めていた。


「魔瘴窟が生じる前から、町の地下に棲み着いていた奴だ。下水路のゴミを主食にしているのだろう」


「・・・あいつ、向こうへと戻り始めた」


 動きを止めて、トリアンはそっとアニサリタに教えた。

 無言で、アニサリタが頷いた。

 どっちが前で、どっちが後ろか分からないが、ゆっくりと離れて行った。


(まさかな・・?)


 トリアンは背後の闇を振り返った。まだ遠いが、下水路の逆側から小さく危険探知マーカが接近してきていた。まだ300メートル以上の距離がある。

 どうにも重苦しい嫌な感じがする。

 トリアンの視界には入っていないが、何かが迫って来ている気がした。

 館長---アニサリタが斃したという追っ手2名が居た方向である。


(これは・・何だ?)


 初めて感じる気配だ。こちらを見ているような、しかし、意思を感じない虚空のような視線を向けられている。だが、その所在が分からない。


「死人の気配だ」


 アニサリタが呟いた。


「何体だ?」


「2体・・遅れて、もう1体」


「3体か・・他にはいないか?」


 トリアンは闇に眼を凝らした。どうも、危険感知マーカがぶれているようなはっきりしない部分があるのだ。


「わたしには感じられないな・・・聖術に相反する呪われた生き物だから、死人の気配は掴みやすいのだが・・」


 アニサリタが声を潜めたまま小さく首を振って、小さな光を指先から放った。

 指先くらいの白光がふわふわと飛んで、下水路の闇を払いながら奥へと飛んでゆく。


「死人で注意する点は?」


「動きは鈍いが力は強い。病体や遅効性の毒を持った個体が多いな。痛みを感じないから、怯むことも、攻撃を避けようともしない」


「なるほど」


 下水路の角を曲がって姿を現したゾンビ達は、生前は裏家業の者達だったらしく、闇に溶け込むような黒色の衣を纏っていた。顔を覆っていたかもしれない黒布がだらしなく解けて、顔を横切るように落ちて喉元へ垂れ下がっている。


「わたしが斃した奴らだ。死人を生み出す魔導具を持った奴がいるな」


 アニサリタが囁いた。


「どうやる?」


「足止めをしてくれれば、聖術で始末をつける。あれは、触れられる距離に近づかないと効果が出せないのだ。今のわたしでも・・5回、聖術が使えるだろう」


「了解だ」


 トリアンは躊躇わずに前に出ると、ゾンビの目前へ身を晒した。ゾンビが技も何もない腕を伸ばして掴みかかってくる。汚れた爪に空を切らせて身を低く前へ踏み出すと、膝下を蹴り折った。

 ほとんど手応えを感じることなく、腐肉と骨を断ち折っていた。続いて、隣のゾンビを同じように軽快に動いて足を刈って転倒させると、這って噛みついて来ようとするゾンビ達から身軽く跳び離れて、もう一体のゾンビの方へと視線を向けた。

 背後で、青白い光が点った。ちらと振り返ると、アニサリタの手がゾンビの頭上辺りに翳されて光を放っていた。たちまち乾燥した灰のようになって崩れ去って消える。聖術というのは、死人には特効がありそうだ。

 アニサリタがもう一体のゾンビへと向かう間に、トリアンは下水路に視線を巡らせた。

 最後のゾンビが急に駆け足になって迫って来ていた。


(小さい・・?)


 下水路の角を回って見えてきたのは、ずいぶんと小柄な影だった。


「ぁ・・ぐっ!」


 不意の苦鳴が聞こえて、トリアンは背後を振り返った。

 灰になった死人の前で膝を着いたアニサリタに、小さな猿のようなものが組み付いてた。そう見て取った瞬間、トリアンは走った。


「ひぇけぇぇぇ!」


 奇声をあげた怪猿が身軽く跳んで避ける。

 いや、避けようとして間に合わず、トリアンの指を脇腹付近に受けて悲鳴をあげながら落ちていた。


「かっ」


 汚水に塗れながら牙を剥いて威嚇する怪猿を油断無く見ながら、アニサリタへ視線を配ると、首筋から胸元にかけて三筋の赤い線が走り、ねじ曲がった黒い短剣が胸を刺し貫いていた。

 致命の傷だ。

 もう、トリアンが持ち出した薬瓶は残っていない。


「アニサリタ・・治癒魔法は出来ないか?」


 声を掛けるが、返事が返らない。


「アニサリタ!?」


 怪猿の動きを気にしながらも、トリアンはアニサリタに近づいた。


「ロッタ・・そんな・・・そんな」


 幽鬼のように血の気を失った顔で、双眸だけを大きく見開いたアニサリタが、涙を流して唇を震わせていた。


(ロッタ?・・・まさか?)


 トリアンは下水路を小走りに駆けてくる小柄なゾンビを凝視した。

 小さな女の子だった。首を嫌な角度に曲げたまま、指の無い腕を前に伸ばして走ってくる。

 トリアンは、怒りに血走った眼を怪猿に向けた。怪猿は引き攣れたような奇声をあげて嗤っている。

 アニサリタが膝を着いて座り込んでいた。

 もう、聖術を使う力が残されていないのか。ただただ絶望に塗りつぶされた形相で、力なく首を振りながらアニサリタの命が消えようとしている。


「アニサリタっ!」


 怒鳴りつけるように大声で呼びかけた。


「・・?」


 涙に濡れた虚ろな眼がトリアンを見上げた。


「貴女に決闘を申し込む!」


 叩きつけるようなトリアンの声に、わずかだがアニサリタの顔に驚きが拡がり、すぐに泣き笑いに目元を和ませると、


「受けるわ、トリアン」


 掠れた声で呟いた。

 その一言で、トリアンとアニサリタの間に、光る鎖が繋がった。"DUEL"の光文字が点滅する。


 "HP/MP boost +500"


 メッセージが流れて二人の体を回復の光が包んだ。


「聖術を・・」


 トリアンはアニサリタの背後へ回り込んで、後ろから抱くようにして胸元に刺さった黒い短剣に手をかけた。


「ええ・・ありがとう」


 アニサリタが青白い顔のまま微笑した。

 そこへ、変わり果てた姿の女の子が飛びかかってきた。アニサリタが慈愛に満ちた微笑みを浮かべて優しく、しっかりと抱き留めると、


「ジーナス神の聖なる加護の元に、常世へお還りなさい」


 祈りの言葉と共に、アニサリタが最後の命を燃やした。青白い聖光が眩く包み込む。


「・・ロッタ、ごめんね・・すぐにお母さんも行くからね」


 項垂れるように身を折り、膝に散った灰を掻き抱くアニサリタの胸からトリアンは短剣を引き抜いた。

 かろうじてトリアンに向けた女の横顔に微笑が宿る。厳しさを失い慈愛に満ちた穏やかな美貌だった。

 聖光はアニサリタ自身を包んだまま灰に変えていった。何の魔術か、呪いか。アニサリタが死人に変じていたのだ。


 "You WIN!!" extra points +800


(これか・・?)


 トリアンは手に握ったねじくれた黒い短剣を見た。


 カツン・・


 硬い音を立てて転がった白銀色の猟兵の指輪をトリアンは拾い上げた。

 恐らくは刺した者を死人にする呪いの短剣・・・それを手にしたまま、トリアンの危険な色を帯びた双眸が奇声をあげる怪猿に向けられた。

 瞬間、猿のような矮躯の背中が剥がれるように動き、一回り小さな生き物が身軽く走ってトリアンの足下へ迫った。

 毛の無い猿・・そういう表現がぴたりとはまる姿で、鉤爪のついた籠手を右手に、左手には畳針のような長い針を握っていた。アニサリタは、死人の背に張り付いて隠れていたこいつにやられたのだ。聖術で死人を葬送するために近づいたところを狙って潜んでいたのだろう。

 トリアンは、手にした黒い短剣で薙ぎ払った。

 短剣と怪人の鉤爪がまともにぶつかった。


「・・っ!」


 武器を取り落としそうになったのは、トリアンの方だった。

 小さな外見に惑わされてはならない。かなりの怪力だった。青白い煙のようなものが怪人の矮躯を包んでいる。何か筋力を強化する魔法でも使っているのだろうか。


「ひひぇぇ」


 怪人が嘲笑うように奇声を漏らした。


(・・でも、ゴルダーンほどじゃない)


 トリアンは短剣を握り直すと、小刻みにステップを踏み、鋭い刺突を連続して繰り出した。

 だが、そのすべてを鉤爪で受け止められた。

 小さく火花を散らし、金属が擦れる音が密やかに鳴る。

 トリアンは無言で攻撃を続けた。

 脇腹に傷を負っているらしく、怪人の脇腹からは血が流れ続けている。これが人であれば助かることの無い傷だ。


(スイレンを使うまでも無いな)


 幻体は魔力を消費する。MPは回復してきているが、温存したい気持ちがあった。

 出血が続く怪人の動きには限界がある。この怪力以上の隠し球があるとすれば、含み針で眼や喉を狙う程度だろう。

 トリアンはいきなり攻撃の速度を上げた。それまでの倍以上の速さで踏み込み、短剣を突き出し、打ち払う。


「ひょ・・」


 怪人がぎょっと眼を見開いた。

 まるで鉛にでも突き入れたかのような鈍い手応えがあって、短剣の切っ先が突き刺さる。


(本当に化け物だな)


 トリアンは続けて胸、喉元、太股と当てやすい場所めがけて黒い短剣を突き出した、

 最初の一撃を浴びてから、怪人の動きが鈍くなっていた。

 目に見えて動きが鈍くなったところで、


 ゴシュッ!


 湿った音が鳴った。

 背後に回り込んだトリアンが、小さな怪人の背から腹部を黒い短剣で貫いていた。その一瞬、トリアンの体から何かが吸い出されるような喪失感が襲った。

 途端、小さな矮躯からは想像も出来ない、凄まじい痙攣と最期の抵抗で振り回した鉤爪に腕を抉られ、でたらめに投げられた長針を肩に受けてトリアンは床に転がっていた。


(・・毒か)


 鉤爪にも、針にも毒が塗られていた。


(きついが・・)


 トリアンは悪寒に震える手足に力を込めて四つん這いに身を起こした。

 自身のHPを見ると回復ポイントより、2だけ減る量が多い。


(・・まあ、すぐには死なないか)


 荒く息を繰り返しながら、自分の手元へ視線を落とした。右手には黒い短剣が握られている。


(仕留めた・・か?)


 視線の先で、小さな怪人が尻餅をついたように座り込んでいた。腹部から血が止めどなく流れ出ている。

 怪人は、裸も同然の姿だが、


(どっかに、解毒薬を持ってるよな?)


 解毒薬を隠しているとしたら、鉤爪をつけた右手の手甲か、股間の汚れた褌のような布か、すぐ呑めるように歯に仕込んでいる可能性もある。


(どこが隠し場所でも勘弁して欲しいが・・)


 トリアンは座り込んだままの怪人に近寄ると、まずは黒い短剣を使って口中に突き入れてテコのように下げて口を開かせた。


(・・くそっ!)


 奥歯に偽装して詰め物があった。

 涎をひく口の中、悲惨な悪臭がする奥の歯から詰め物を取り出すと、トリアンは手の平に載せたままソレを見つめた。


(・・く、くそっ!)


 灰になったアニサリタとロッタ。

 二人のためにも、ここで朽ちる訳にはいかない。二人の死を語れるのはトリアンしかいないのだ。できるなら、仇を討ってやりたい。

 トリアンはこの世の終わりといった顔で手の平の異臭漂う詰め物を睨み付けると、覚悟を決めて口に入れて噛み砕いた。

 すぐさま飲み下す。

 わずか一瞬の事なのに、とてつもない悪臭が口内に溢れ、鼻孔にねっとりと絡みついて意識が遠のきかけた。


(毒より、きつい・・)


 嘔吐の衝動を懸命に堪えながら、トリアンはゆっくりと手足を動かして下水路の壁へと身を寄せると震える身体を何とか動かし壁に背を預けた。何やら、魔力までが大量に喪失していた。

 荒く息を繰り返すトリアンの視線の先で、小さな怪人が立ち上がっていた。

 だが、危険探知マーカは灯らない。

 トリアンにとっての敵では無いのだ。

 これが、先にアニサリタを刺し、そして怪人を貫いた黒い短剣の呪われた効果らしいと、トリアンは理解した。死人を生み出す呪詛が込められた黒い短剣・・。

 短い時間で事態を把握しながら、


「・・おれに・・何も近づけるな・・」


 トリアンは、死人となって蘇った小さな怪人に命じつつ意識を失った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る