第10話(完)

 エレベーターは長い間上昇し続け、やがて地上に着いて止まった。入口から強烈な太陽の光が差し込んできた。暗闇から急に白日の下に出たので、桃太郎は思わず目を両手で覆ってしまった。陽の光に少しずつ目を慣らすように、桃太郎は指の隙間を少しずつ空けながら眼前に広がる光景を確認した。そこは自然豊かな高原のようなところだった。辺り一面には芝生が広がり、所々に日除けのパラソルみたいに広葉樹が植えられている。両側は切り立った崖で、広場の向こうには小高い山が地上と空の境界線に複雑な線形を描いており、空はどこまでも青く、遠くから波のさざめきとカモメの鳴き声が聞こえた。桃太郎と犬と猿男と矢キジは、横一列に並んでじっと目の前に広がる光景を眺めた。しばらくして、広場の一番近くにある広葉樹の影から一人の男性が現れ、ゆっくりと歩いてくるのが見えた。

「お待ちしておりました、桃太郎様」

 男はスカイブルーのサマーセーターに白い綿パンツ、そして丁寧に履き古された革靴という格好で、背筋をピンと伸ばして笑顔を見せた。短く刈込まれた髪は丁寧にセットされており、ハンサムで色白な顔と相まって、気持ちのいい清潔感を感じさせた。

「こんにちは」桃太郎は言った。

「長旅で、さぞお疲れでしょう。ゲストハウスがございますので、ご案内いたします。もちろんお連れ様もご一緒に」男はニコリと笑って歩き出した。こちらも釣られて笑みをこぼしそうになるくらい、爽やかで洗練された笑顔だった。桃太郎は犬を、猿男は矢キジを抱え、彼の後に付いて行った。新緑の香りが染みこんだ微風が全身を包んだ。

「ここは、鬼ヶ島ですよね?」桃太郎は尋ねた。

「ええ、もちろん」彼はにこやかに答えた。

「ということは、あなたは鬼なのですか?」

「もちろんです」ゆっくりと振り向いた彼は、そっと自分の頭を指差した。よく見ると、彼の髪の隙間からはコルクのような色をした角が二本、ひょっこりと突き出ている。桃太郎はとても驚いたが、しかしその角は彼によく似合っていた。

「この島には、あなた方以外には人間の方はおりません。私達にとって、桃太郎様、あなたは大変久しぶりのお客様なのです」

「鬼というのは、虎柄のパンツを履いて、金棒を振り回しているものだと思っていました」

「皆さんそうおっしゃいます」そう言って、彼は微笑んだ。「私達もお祭りの時にそういった格好をすることがあります。しかし、普段着に関しては人間の皆様とそれほど変わりはありません。あなた方が花火大会の時にしか和服を着ないのと同じことです」

 しばらく歩くと、目の前に大きな屋敷が現れた。日本家屋風の二階建ての建物で、庭一面に丁寧に砂利が敷かれている。建物の裏手には松の木が植えられ、どこかから水の音が聞こえる。まるで地方の大名屋敷のような、立派な建物だ。分厚い木でできた門は大胆に開放され、これだけの豪邸にも関わらず中には誰も居ないようだった。

「ここは、あなたの家なのですか?」桃太郎は尋ねた。

「いいえ、ここは迎賓館。お客様をご案内するための建物です。私は使用人としてここに勤めているのです」

「では、他にも居るのですか?つまり、あなた以外の鬼さん達も?」

「申し遅れました、私のことは『青鬼』とお呼びください」青鬼は胸に手を当て、丁寧にお辞儀をした。

「この迎賓館には多くの鬼が勤めておりますし、村には住人もおります。しかし、今は私以外の者はあなた方の前に姿を見せることは出来ないのです。大変失礼かとは存じますが、どうかご理解ください。そういう規則なのです」

 桃太郎達は促されるままに大広間に足を踏み入れた。そこは畳張りの大きな部屋で、木製の大きな座卓に沿って、座布団が4枚並べられている。桃太郎と犬、猿男、矢キジは、それぞれ座布団の上に腰を下ろした。真新しいイグサの香りと厚みのある座布団の感触がとても心地よかった。背面には大きな窓があり、ガラスの向こうには広大な日本庭園が広がっている。

「珈琲をお持ちします。それから犬様と雉様にも食べ物を。お猿様も珈琲でよろしいですか?」青鬼は入口の襖の前に膝を付いて尋ねた。

「お、おいらも珈琲で」猿男は落ち着かない様子で、あたりを忙しなく見廻しながら答えた。青鬼は返事の代わりにニコリと笑って一礼し、そのまま外に出て丁寧に襖を閉めた。

 青鬼が出て行った後、言葉を発する者は誰もいなかった。それぞれが頭の中でこの状況に対する考えを巡らせているように見えた。桃太郎は改めて室内を見回してみた。庭は大きな石と松の木が丁寧に組み合わされ、小さな森のようになっている。手前には池があり、色とりどりの鯉がゆっくりと周遊していた。池の奥では滝が流れており、深い緑色の苔が石を美しくコーティングしている。部屋の奥には掛け軸があり、水墨画で険しい山の様子が描かれている。その隣には押し入れがあり、部屋の隅には電気ポッドとゴミ箱が置かれていた。

 しばらくすると、青鬼がお盆を抱えて戻ってきた。彼はまず犬の前にビーフジャーキーを、キジの前に緑黄色野菜を置き、それから桃太郎と猿男の前にソーサーとカップを置いた。

「お砂糖とミルクはどうされます?」彼は言った。

「砂糖だけで結構です。いい珈琲にミルクを入れるのはもったいない」桃太郎はカップとソーサーを引き寄せながら答えた。

「同感です」青鬼は砂糖の入った小瓶を机に置きながら言った。「ミルクは豆本来の味を損なう、というのが私の考えです。珈琲にミルクを入れるということは、ロードバイクに補助輪を付けるようなものです。珈琲にミルクを入れられるという方に対しては、失礼ながらそれ相応の目で見てしまいます。失礼、お猿様はいかがですか?」

「もちろん、おいらも砂糖だけでいいよ」猿男はそう言って珈琲を受け取り、砂糖を入れてマドラーでかき混ぜ、目を瞑ってゆっくりと啜った。珈琲を口に含んだ瞬間、彼の眉間に皺が寄り、顔が引きつったのが分かった。桃太郎と青鬼はそっと目を合わせ、互いに小さく微笑んだ。

「ところで桃太郎様、鬼ヶ島へはどのようなご用件で?」青鬼はまるで天気の話でもするみたいに、確信を突く質問をした。桃太郎は先程から、その質問に対する回答について考えていた。犬と猿男と矢キジが、一斉に桃太郎の方を見た。

「観光です」桃太郎は珈琲を啜りながら言った。「それから、宝探し」

 青鬼は、桃太郎の目を黙って見つめた。桃太郎も彼の目を見た。彼の瞳はよく見るとルビーのように深い青色をしており、桃太郎はまるで金縛りにあったみたいに、彼から目を反らすことが出来なかった。まるで何かを覗き込むように、青鬼はしばらくじっとしていたが、やがてゆっくりと立ち上がった。そして部屋の端にある押入れの前まで行って立ち止まり、勢い良く襖を開けた。

 押し入れの中には、溢れ出んばかりの金銀財宝が山のように詰まっていた。装飾品、小判、食器などありとあらゆるものが光を反射して黄金色に輝いており、その隙間を埋めるように、丸められた古い巻物や木製の箱が積み上げられている。桃太郎は青鬼の方を見た。青鬼の目尻にチャーミングな皺が寄った。

「宝探しがご旅行の目的ということでしたら、歓迎の証にこちらの財宝を全てあなた方に差し上げます。どうぞお持ち帰りください」

「い、いいのかい?」猿男は目を見開いて言った。とても信じられないという様子だった。

「ええ、結構です。どうぞ好きなだけ、持てるだけ持って行って頂いて構いません。お持ち帰り用の手提げ袋もご用意しています」

「では、ありがたく頂いていきます」桃太郎は答えた。

「ところで皆様、ご滞在期間のご予定はお決まりですか?」青鬼は笑顔を崩さずに尋ねた。

「明日の干潮の時に帰ります」桃太郎は即座に答えた。「おじいさんとおばあさんが心配するから」

 一行はそのまま和室に泊まり、翌朝、桃太郎達は鞄と袋に詰め込めるだけ財宝を詰め込んで、迎賓館を後にした。帰りの際も、青鬼が洞窟の入口まで迎えに来てくれた。

「最後に、ひとつだけ聞いてもいいかな」石のエレベーターに乗り込んだ後、桃太郎は青鬼に尋ねた。

「ええ、どうぞ何でも」

「あの時、もし僕が『鬼退治に来た』と言っていたら、どうなっていたんだろう?」

 重苦しい沈黙が二人の間に立ちふさがった。穏やかな晴れの天気なのに、空気が張り詰めてピリピリと肌に刺さった。しばらくの沈黙の後、青鬼は落ち着いた口調で言った。

「あの広間の天井に潜んでいた忍びの鬼達が、一斉にあなた方の首を撥ねていたでしょう。そして皆様の体は綺麗に三枚におろされて肉屋に売られます。頭蓋骨にはドリルで穴を開けてストローを刺し、脳味噌をココナッツミルクみたいに吸わせて頂くこととなっておりました」彼はそこまで言うと、ニコリと笑った。「そういう規則なのです」

「そうですか、どうもありがとう」桃太郎がそう言うと、石のエレベーターがゆっくりと下降を始めた。石が擦れる音と振動が内蔵まで響いた。

「ごきげんよう」青鬼は桃太郎達が見えなくなるまで、まったく付け入る隙のない笑顔で手を振っていた。

 それからどうやって本土まで戻ったのか、桃太郎はよく覚えていない。彼らは黙って洞窟を歩き続け、猿男の自宅の近くの海岸に帰ってきた。桃太郎は洞窟の入口の近くある岩の上に腰を下ろし、鞄を開けて中身を確認した。金色に光る財宝が眩しかった。

「それ、どうするんだい?」猿男が隣に腰掛けて言った。

「僕はいらない。猿男君にあげるよ」

「金なんて持っていても、いまいち使い方が分からねえ。どうせここで釣りをするしか能がないから、おいらもいらないよ」

 桃太郎は鞄に入った小判や装飾品を一つずつ取り出し、海に向かって投げた。カモメが餌と間違えて集まって来たが、食べ物でないと分かるとすぐにどこかへ行ってしまった。途中から猿男も一緒になって小判を投げた。猿男が投げた小判は水面を跳ねるように進み、やがて海底に沈んでいった。装飾品類は重いのであまり遠くには飛ばなかった。二人は黙って宝を海に投げ続けた。最後に袋の底に残った金貨は、じゃんけんで勝った桃太郎が投げた。

「もったいねえなあ」猿男はふてくされたような表情で言った。

「そうだね」と桃太郎は答えた。


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村上春樹風昔話『桃太郎』 村上はがす樹 @murakamihagasuki

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