第8話

 しばらくの間、二人は黙って歩き続けた。それは二十分程度だったような気もするし、もしかしたら一時間以上だったのかもしれない。変わり映えのしない景色の中を延々と歩いているうちに、桃太郎の時間感覚は、まるで巻き上げの足りないゼンマイ時計みたいに少しずつ狂っていった。とにかく長い間歩いた後、猿男が突然、何の前触れもなく立ち止まった。あまりに唐突だったので、桃太郎は彼の背中にぶつかりそうになり、危うく犬を放り投げてしまうところだった。犬はその衝撃で目を覚まし、不機嫌そうに<ワン>と鳴いた。犬の声が洞窟の中に反射し、大晦日の鐘の音みたいに長く細く響いた。

「着いたよ」猿男は懐中電灯を動かし、前方を隅々まで照らして行先の様子を確認しながら言った。

 通路は、猿男の手前でY字型に分かれていた。どちらの道も、見た目には殆ど同じに見える。これまで歩いてきたのと同じくらいの道幅の通路がただまっすぐに続いており、懐中電灯で照らしてみても先の様子までは確認することが出来ない。猿男の言うように、ここまで見事な左右対称の洞窟が自然にできるとは考えづらい。人工的に作られたのだ。そして、このY字路も何らかの意図によって作られたのだ。おそらく侵入者を防ぐための罠として。

「君は、ここまでは以前来たことがあるんだよね?」

「そうだよ。でもここから先には進んだことがない」

「怖い?」

「怖くないよ」猿男は二股に別れた洞窟の先を見据えながら言った。「今日はひとりじゃないからね」

「僕達がここに入ってから、どのくらいの時間が経ったんだろう?」

「一時間半ってところだね」猿男は腕に着けたG-SHOCKの液晶画面を点灯させながら答えた。あの暮らしぶりでどうやって腕時計を入手できるのか気になったが、彼が怒るといけないので訊かないことにした。

「もし間違った道の方を選んだら、どうなると思う?」桃太郎は尋ねた。

「きっと死ぬだろうね。落とし穴に落ちるとか、毒矢が飛んで来るとか。あるいは、凶暴なドラゴンに食べられるのかもしれない」猿男は淡々と言った。

「引き返すなら今しかないということだね」桃太郎は独り言みたいに呟いた。

「戻るのかい?」猿男は驚いて聞き返した。

「まさか」桃太郎は言った。「進もう。今日はキジさんもいる」

 猿男はニコリと笑って矢キジをY字路の中心に置き、その前に中腰で座り込んだ。桃太郎も犬を抱えたまま猿男の隣に腰を下ろした。矢キジは長時間抱かれていたのが窮屈だったのか、羽を片方ずつ伸ばしたり、足で空中を蹴るような動作をしていた。

「さぁ、キジ。いよいよお前の出番だ。鬼ヶ島の方向を教えておくれ。鬼ヶ島!」猿男が叫んだ。桃太郎は固唾を呑んで矢キジの挙動に注目した。

 矢キジは目を瞑り、肩を上下に動かしたり首を左右に振り回したりした後、頭を地面に付け、足元の岩に頭のてっぺんをグリグリと押し付け始めた。この行動が一体何を意味するのか、桃太郎には理解できなかった。しかし、とにかく矢キジはひどく不機嫌であるように見えた。桃太郎にはそう感じられた。彼はチラリと猿男の方を見た。猿男は、矢キジの行動を見てひどく動揺しているみたいだった。

「おいおい、キジ。そりゃあないぜ。せっかくここまで来たんだぜ。教えてくれよ、鬼ヶ島!さぁ、鬼ヶ島だ!」猿男は両手で矢キジの体を掴み、強く揺すったが、矢キジは猿男の手を嘴で強く突いた。嘴が猿男の手首に突き刺さり、血が吹き出した。彼は慌てて手を引いた。

「大丈夫?」桃太郎は言った。

「教えたくないって言っている」猿男は手首を擦りながら言った。彼の声は上ずり、とてもショックを受けた様子だった。

「そうみたいだね」

「ごめんよ、おいら、こんなつもりじゃなかったんだ。キジを連れてくれば絶対に方向が分かると思ったんだよ。本当だよ。だって、こんな土壇場でキジの機嫌を損なうなんて、予測できるかい?おいらは悪くないよ、そうだろう?悪いのはこのキジだ!こいつが馬鹿だから悪いんだ!なあ、おいら達、友達だよな?だったら、許してくれるよな?」

 猿男はひどく混乱していた。彼は桃太郎の両肩に手を置き、すがるような目で桃太郎を見ていた。彼は、再び一人になることをとても恐れているように見えた。

「いいかい、猿男君」桃太郎は静かに口を開いた。猿男はビクリと体を震わせた。「友達というのは、助け合うためにいるんだよ。何かを貰ったらお礼に何かを差し出す。そこに等価交換が成立しているのが、本当の友達だ。別に、それは物じゃなくてもいいんだよ。一緒にいることによる安心感、あるいは相談相手としての助言。もちろん、お金や物でもいい。とにかく、そこに適切なギブアンドテイクが成立している関係というのが、本来の友達というものだ。僕の言っていることが分かる?」

「分かると思う」猿男は目に涙をためて桃太郎を見ている。桃太郎は続けた。

「つまり、結果的に自分に何も与えてくれないような奴は友達とは言えないんだ。そんな奴はいらないんだよ。自分が与えるばかりじゃ、フェアじゃない。一緒にいても、邪魔なだけだ」

「そんな」猿男は岩に跪き、涙を流しながら言った。「じゃあ、おいらはもう友達じゃないっていうことかい?」

「そっちじゃないよ」桃太郎は猿男の目を見て言った。「キジさんの方だよ。君とキジさんとの関係のことだ。君はキジさんに結果を求めるけど、逆に君はキジさんに何かしてあげたかい?キジさんが喜んでくれるようなことを?キジさんは、きっと君のことを友達だと思っていないよ。だから、こうやって拒絶するんだ」

「そんな、おいらはこいつを助けてあげたよ?矢が刺さって、弱っているところを看病したんだ」

「それは君のためにやったことだろう?君が一人で寂しいからキジを看病したんだよ、自発的に。それに恩を感じろ、なんて言うのは善意の押し付けというものだよ」

「善意の押し付け…」

 桃太郎は猿男と話しながら、おじいさんとおばあさんのことを考えていた。おばあさんは、事あるごとに『お前をここまで育ててやったことに感謝しろ』と言った。桃太郎はそれがたまらなく苦痛だった。感謝というのは、他人から強要されてするものだろうか?自発的でない感謝に、果たして何の意味があるのだろうか?また、おばあさんはよく、『育ててやったわし達を尊敬しろ』とも言った。誰かに尊敬されたいのなら、まず自分が尊敬されるような人間になるべきなのに。

 なんだかひどく喉が渇いたので、桃太郎は鞄から水筒を取り出して一口飲んだ。潮と海藻の匂いが充満した洞窟内では、お茶の味はほとんど感じられなかった。それから、桃太郎は腰に付けた巾着袋にきびだんごがあと1つだけ残っていることに気付いた。猿男が食べた時よりもさらに固くなっているが、まだ食べられそうではあった。

「ねぇ、キジさん。おばあさんが作ってくれたきびだんごがあと一つあるんだけど、良かったら食べない?僕も、犬さんも、猿男君も食べたんだ。形は悪いけど、味は結構評判なんだよ」

 矢キジは片目を開け、じっと桃太郎の方を見た。その目の奥には、まるで相手を値踏みするような懐疑の感情が見て取れた。しばらくの間、矢キジと桃太郎はじっと見つめ合っていたが、やがてキジはゆっくりと頭を上げ、首をブルブルと振って頭についた海藻を払い落とした。そして、一歩一歩慎重に桃太郎に近づいてきた。桃太郎がきびだんごを小さく千切り、手のひらに乗せて差し出すと、キジは嘴で欠片をツンツンと突付いた後、パクリと食べた。桃太郎はニコリと笑って再びきびだんごを千切って手のひらに乗せると、キジはそれを食べた。何度かそのやり取りが続き、キジはきびだんごをひとつ分食べてしまった。猿男と犬は黙ってその光景を見つめていた。

 懐中電灯の仄かな明かりに照らされた矢キジは、とても美しかった。顔の皮膚は見事に真紅に染まり、首から腹にかけてエメラルドグリーンの羽がキラキラと明かりを反射している。尾羽は長く、首を突き抜けている矢との調和が神秘的で、岩壁に照らされたシルエットは中国の王宮の壁画を思わせた。

 猿男と桃太郎と犬がじっと見守る中、矢キジはゆっくりと振り返り、しっかりとした足取りでY字路の中心にまで歩いた。そして首を高く上げ、大きな声でケーンと鳴いた。その高音の咆哮は洞窟の中で激しく反響し、まるで洞窟全体が巨大なトロンボーンになってしまったかのように長い間鳴り響いていた。やがて反響が止むと、矢キジはゆっくりと姿勢を変え、限界まで首を左に捻ったところで静止した。矢キジの嘴は左の通路を、矢は右の通路の方向を指していた。

「ありがとう、キジさん」桃太郎は矢キジの背中を優しく撫でた。キジは気持ちよさそうに目をつぶり、小さくコクリと頷いた。

「行こう」桃太郎は、呆然としている猿男に向かって言った。「鬼ヶ島は、右だ」


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