第7話

 洞窟の入口は、猿男の家(と呼ぶにはあまりにもお粗末な建築物)からそれほど遠くない場所にあった。一行は荷物をまとめ、道路沿いの錆びたガードレールを跨いで岸壁を下った。そこは海に続く高さ十メートル程の切り立った崖ではあるものの、所々に突き出た大きな岩が程よい足場になっており、桃太郎は犬を、猿男は矢キジを抱えて両手が塞がっていても、それほど苦もなく降りることが出来た。

「ここいらは滑りやすいから、気をつけて歩いてくれよ」岩壁を一番下まで降りたあたりで、猿男は後ろを振り向きもせずに言った。桃太郎は前を進む猿男の足元を確認したが、確かにここから先は、これまでとは少し様子が違っているようだった。桃太郎が歩いている足場は歩きやすい乾いた岩場だが、猿男の立つ場所は岩が海面から顔を出しているような状態で、表面にヌメヌメとした海藻が貼り付き、その側面には刺々しい形をした貝がびっしりとこびり付いている。岩の隙間を覗き込んでみると、底の方に水面があり、小さな魚の群れが機敏に方向転換して逃げていった。おそらく、満潮時にはこの辺りはすっぽりと海に浸かってしまうのだろう。海は相変わらず静かだった。小さな波が岩に当たって、僅かに水しぶきを上げた。

 犬は桃太郎の腕の中で、不安そうに周囲を見渡していた。猿男の話では、洞窟にはひどく幅が狭い部分があり、ダンボールは邪魔になるということだったので、桃太郎は犬を毛布で包み、肩に頭を乗せるような形で抱えていた。犬が首を動かす度に硬い毛が桃太郎の耳を撫でるので、その度に体がビクリと動き、背筋が小さく震えた。

「地下道の入口は、まだ遠いの?」

「すぐそこだよ。あと三分」

「あと三分だって。犬さん、寒くない?」桃太郎は小さな声で尋ねた。<あたたかい>と犬は言った。

 猿男の言うとおり、彼らはまもなく入口に到着した。猿男は入口の脇にある比較的綺麗な岩の上に矢キジと荷物を置き、両足の靴を脱いでゴム底の溝に詰まった海藻を叩き落とした。桃太郎は改めてその入口を眺めてみた。それは一見、巨大な鏡餅の表面に出来た割れ目みたいに見えた。岩壁を形成している巨大な岩の隙間に、縦に二メートル、横幅は五十センチメートルほどの隙間が形成されている。太陽の光は入口から先の数メートルほどしか届かないようで、その先がどうなっているのか、外から確認することはできなかった。

「ここが本当に、鬼ヶ島に繋がっているんだね?」桃太郎は尋ねた。

「そうだよ」猿男がブーツの紐を結びながら言った。

「でも不思議だね、鬼ヶ島は海の向こう側にあるんだろう?この入口は鬼ヶ島の対岸に位置しているわけだから、ここから地下道がぐるりと旋回して地平線の向こうの島まで歩いて行けるなんて、なんだか想像が付かない。もし奇跡的に空間が通じていたとしても、海の底なんだから海水が満ちているはずだ。普通に考えればね」

「そんなこと、おいらにだって分かっているよ」猿男は少しイライラしたような口調で言った。「明らかに人工的なものだよ、これは。それが人間の仕事なのか、あるいは鬼の仕事なのかは分からないし、いつ頃に作られたのかも分からない。でも、手作業でこんな通路を作るなんて、尋常じゃない手間がかかったはずだよ。海底の岩を削って高速道路のジャンクションを作るようなものだからね。海水の件も、おそらく毎日干潮の間だけ、ポンプか何かで水を抜いているんだ。鬼ヶ島にそういう施設があるんだろうね」

「今は使われていないはずなのに、どうしてそんなことをするんだろう?」

「わからない」猿男は言った。「向こうに着いたら、鬼さんに訊いてみるんだね」


 足を一歩踏み出す度に、靴の底で海藻が潰れて、グチャリという音が洞窟の中に響いた。猿男は右手に懐中電灯を持ち、左手で矢キジを器用に抱えて、真っ暗な地下道をためらうこと無く進んだ。桃太郎は犬を抱え、猿男の背中を目印に黙って後に続いた。何度も一人で来ているというだけあって、猿男は迷うこともなく的確に安定した足場を探しながら進むので、桃太郎は置いていかれないように付いて行くので精一杯だった。洞窟の中は、猿男の持つ懐中電灯の明かりが彼の動きに連動して規則的に上下に動き、その光の届く範囲の外は、まるで空間が存在しないみたいに真っ暗だった。時々、暗闇の中でバサバサと何かが羽ばたく音が聞こえる。

「この洞窟にもなにか生き物がいるのかな?」桃太郎が尋ねた。

「たぶん、コウモリだよ」猿男は答えた。

「コウモリは、満潮の間はどうしているんだろう?」

「たぶん、満潮時に海水が入ってきても、洞窟の上部には少しだけ空気が残るんだと思うよ。コウモリはその僅かな空間で、次の干潮をじっと丸まって待つんだ」

「沈没船に取り残されたみたいに?」

「そう」

 先に進むにつれて地下道の天井は低く、幅は狭くなっていった。桃太郎は1度尖った岩場に頭をぶつけ、2度ほど肘を岩にぶつけて擦りむいた。通路がこんなに狭いと最初から分かっているなら、ヘルメットを持ってくるべきだったのではないか、と猿男に抗議しようかと思ったが、そういえば彼の家には鍋とヤカン、それに僅かな着替えしか置いていないのだ。コーヒーメーカーもステレオも無い家にヘルメットがあるとは到底思えなかったので、結局、桃太郎は黙って進むことにした。

 規則的な明かりの揺らぎと海藻を踏み潰す音を聞きながら、桃太郎は昔何かの映画で見た、沈没船の客室に取り残される話を思い出していた。とある客船が夜中に挫傷してしまい、脱出に失敗した男女が客室に閉じ込められたまま船が海底に沈む。部屋は横転し、客室には冷たい海水が入ってくるが、幸い、部屋の隅に空気が残り、二人は海水に肩まで浸かりながら、抱き合って助けを待つ。ドアは水圧でビクともしないし、動けば動くほど残された酸素を消費してしまう。暗闇の中で体温は激しく奪われ、徐々に酸素が薄くなり息苦しくなっていく中で、確実に歩み寄る死の恐怖と闘いながら二人は何時間もじっと助けを待つ。いよいよもうダメかと思われた時に海上保安庁の潜水士が現れ、二人は九死に一生を得る、というストーリーだった。

「猿男くんは童貞?」桃太郎は尋ねた。

「どうしてそんなことを聞くんだい?」猿男はしばらく黙っていたが、平静を装って答えた。しかし、その声からは隠しきれない動揺が感じられた。

「さっき、君はこの街でいちばん友達が少ない、って言っていたからさ」

「君は友達の数と関係を持った女の数の因果関係について調査しているのかい?」

「そういうことになるね」

 猿男は再び黙って歩き続けた。桃太郎も何も言わず、ただ猿男が次に発する言葉を待った。やがて猿男は、諦めたようにため息をつき、静かに口を開いた。

「おいらは女の子が好きだよ」猿男は言った。「特に若い女の子が好きだ。女性の肌はまるで上質な絹が生きて動いているみたいに白くて柔らかいし、一緒に街で手を繋いで歩いてみたいとも思う。でも、おいらは鼻つまみ者だろう?おいらと一緒に歩いているのを誰かに見られたら、きっと彼女はいろんな人に馬鹿にされるよ。おいらはそれが辛いんだ。だからずっと一人でいる」

「本人同士が愛し合っているなら、周りは関係なんじゃないの?」

「結婚式ってあるだろう」猿男は桃太郎の発言を無視して言った。「まぁ結婚式に限らずだけど、夫婦になりましたとか、いま付き合っていますとか、そういうことを周りに報告したとする。それはつまり、『私はこの人とセックスをしていますよ』ということを公表しているのと同じだと思うんだ。だから美人の奥さんや顔がいい彼氏がいると、友達に紹介したくなるんだよ。『俺はこんな美人とセックスしているんだぜ、うらやましいだろう』ってさ。逆に言うと、ブサイクな男と結婚した女の子は、周りから『あの人、あんな汚い男とセックスするんだな』って陰口を叩かれるはずなんだよ。おいらは、好きな人が出来たとしても、彼女がそうやって笑いものになるのが耐えられないんだ。例え、本人が気にしないと言ってくれたとしても。だから、やっぱりおいらには恋人なんて作れないよ。女の子が大好きだからこそ、女の子に辛い思いはさせたくない」

 何匹かのコウモリがバサバサと羽音を立てて二人の前方を横切るように飛んだ。桃太郎は少しずつ、しかし確実に、自分の中で猿男に対する好意が大きくなっていくのを感じていた。もし自分が女の子であったなら、猿男と手を繋いで街を歩きたい。そして一緒に美容院へ言って髪を切り、洋服屋へ行って新しい服を買う。シンプルだけど清潔感のある服装だ。買ったばかりの真新しい服に着替え、街のショーウィンドウのガラスに映った自分達を眺めながら、『猿男君、君はとても魅力的だよ。君は私の自慢の彼氏だよ。だから自信を持って』と言ってあげたいと思った。桃太郎は懐中電灯の明かりにぼんやりと照らされた猿男の背中に抱きつきたいと思ったが、犬を抱えていたのでやめた。犬は桃太郎の腕の中で、いつのまにかすやすやと寝息を立てていた。


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