四章② アンナの旦那

 屋敷が揺れた。天井から埃かぱらぱらと落ちて、丸い傘のランプがぐらぐらと揺れる。実際にそうだったかはわからないが、そうであってもおかしくないくらいの爆音、もとい奇声が轟いた。

 そして、残される余韻と訪れる静寂。呆気にとられたアンナが、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。


「……ど、どうしたんだい一体?」

「フロストの……フロストのトンチンカン!! どっちがバカよ!? バカっていう方がもっとバカじゃない!」


 玩具屋の前に居る小さな子供みたいに地団駄を踏み、ミカが喚く。なにこれ、なんて死亡フラグ!? 飴の棒が折れんばかりに握り締めても、ミカのいら立ちは少しも治まらない。むしろどんどん噴き出す。

 あの頃のフロストと同じように、自分もこれを舐めて大人しく待っていろというわけか。ふざけんな、冗談じゃない!


「お、落ち着きなよミカ。急にどうしたんだい?」

「落ち着け? ……これが、落ち着いて」


 いられるか! ベッドの端に手をついて、ミカが低く唸る。餓えた犬のような剣幕に、流石のアンナも口角をひくひくと引きつらせている。


「あー! もう、何なのよぉ!! ヘコんでると思ったから、気を利かせてそっとしておいてあげたのに……またあたしをだましたのねぇえ!」


 爆発した苛立ちを拳に込め、ベッドを殴りつける。あれはどうせ、虚無を退治しに行くと言ったら自分がうるさいから、とかいう理由で打った一芝居打だったのだろう。なんてヤツ! 腹立つ!

 こっちはただ、心配しているだけなのに。いつも怪我してないかとか、ちゃんと帰ってくるかとか、そんなことでハラハラしているのがどれだけツラいことか。


「なんでわからないかなぁ。ヒトのまごころを踏みにじって、そんなに面白いの!? どうなの、アンナさん!」

「いや……あたしに言われても、さ」


 呆れたように笑うアンナの顔を睨み付け、ようやく少しだけ怒りの噴火が収まってきた。

 真っ赤な頬に、鼻息荒く。椅子に浅く腰を掛け、俯いて残りの鬱憤を長く重い溜め息と共に吐き出した。なんか、どっと疲れた。


「……でも、ミカ。あんたって、フロストのことが本当に好きなんだねぇ」


 しばらく何も言えず。のろのろと顔を上げて、嫌ににっこりと笑うアンナと目が合う。

 ……何ですと?


「…………えっ?」

「あんたみたいな可愛い女の子にこんなに愛されてるなんて、フロストも幸せ者だねぇ? あの若白髪には勿体ないよ」

「すっ、すすす好きじゃないよ! そんなんじゃないんだよ!!」


 かああっ、と顔面が火照る。違う違う違う! ただ、あたしは心配してるだけなんだから。

 だって、兄妹みたいにいつも一緒に育った幼なじみだもの。


「あれー? 照れちゃって、可愛いねぇ」

「照れてないもん! そんなんじゃないもん!」

「あらあら。じゃあ、本当に違うんだぁ? なら、フロストは私が貰っちゃおうかねぇ」

「えっ……」


 ほこほこと茹だったように熱を発していた筈の頬が一転、さぁっと氷水を浴びせられたかのように冷める。


「まだまだ甘ったれたガキだけど、あと十年経ったらフェロモン垂れ流しのエロい男になりそうだからねぇ?」

「ふぇ、ふぇろもん……って」

「ま、今でも若いから『あっち』の方は充分なんだけどねぇ。まあ、ミカが要らないって言ったんだからお姉さんが喜んで貰ってあげる――」

「や、やっぱりダメー!!」


 ダメダメ、絶対ダメ! 首がもげるのではないかというくらいぶんぶんと横に振って。

 腹を抱えて、大笑いしながらアンナが目元を指で拭う。


「あっはははは! はー、腹痛い。あ、いてて。傷が開きそうになった」


 毛布の上から脚をさすり。しばらくそうした後、ようやく気が済んだのかアンナがミカの方を向いた。


「ふう、笑った笑った。さて、冗談はここまでにしておこうか」

「冗談、だったんだ……なんだ」


 良かった、と一人胸を撫で下ろす。しかし、それも束の間の安堵であった。

 不意に、赤みの強い茶色の瞳が真っ直ぐとミカを射抜く。


「ミカ、あんたに頼みがある」


 くらくらと眩暈がしそうなアルコールの匂いも、にやけた笑いも無い。いつになく真面目な様子のアンナに、ミカも知らず内に姿勢を正してしまう。

 こんな彼女は、見たことが無い。


「な、なに?」

「情けないが私はこの通り、とてもまともに動ける状態じゃない。フロストだって、ケガしてるんだろ?」

「……うん」

「なら、あんたしか居ない。頼む、フロストを助けに行ってくれないか?」

 それは、全く少しも思っていなかったことで。はて、彼女は何を言っているのか。

「……へ?」

「だから、私は動けないからあんたがフロストを助けに行ってくれって――」

「いや、いやいやいや! ななな、何言っちゃってるのアンナさん!?」


 無理だよぉ! と、ミカが喚く。数日前、自分に銃は持たない方が良いと言っていたじゃないか。それに、キュリは歴戦の戦士二人がかなわなかった相手なのに。


「あたし、銃の使い方とかわかんないし……こわい、し」

「大丈夫。あんた、十六になったんだから車の運転くらい出来るだろ」

「そ、それは一応……トナカイだもん」


 トナカイは十六歳の誕生日を迎えたら、自動車の運転免許証を取得することが出来る。案内人として、必要不可欠のスキルである故にトナカイは出来るだけ早くこれを取るようにしてある。

 ミカも、誕生日の数ヶ月前から頑張って練習して、既に取得済みだ。


「それなら上等さ。あんたは運転だけすればいい」

「ふぇえ? なにそれぇ?」

「ねえ、あの夜に私が着てたジャケットって……もしかして捨てちゃった?」

「ジャケット?」


 そういえば、三日前のあの夜に彼女が着ていたジャケットはどうしたのだっけ。フロストのコートと一緒に、カティが洗濯していた気がする。


「捨ててはないよ、多分」

「良かった。いや、あんなボロい服なんて捨ててくれて良いんだけど……あれの左胸の内ポケットに、鍵が入ってるんだ」

「鍵?」

「私の『ダンナ』の鍵さ」

「だ、だんなさんの鍵?」


 何だか嫌な予感。何故なら、アンナに旦那が居るなんて聞いたことがないからだ。しかも鍵とな。そして、彼女には困った癖がある。

 お気に入りの銃火器を擬人化してしまうという、到底ミカには理解出来ない悪い癖だ。


「とにかく、ミカは運転だけすれば良いの。あんたのことはダンナが護ってくれるし、まず自分から向かってくる命知らずの虚無はまず居ないだろうさ」

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