【Episode:Last】もう悲しみの音は聞こえない

アダージェット

 長かった夏休みが終わって、二学期が始まった。


 これまで、長期休暇が終わって、新学期が始まってすぐの内は、どこか憂鬱な気分でいた私だけれど、今回は違った。


 私の気分は、明るく澄み切っていた。


 これから、貴弘との新しい学校生活が始まる。


 それは、前みたいに、その存在を避け合ってじゃない。


 一緒に楽しく会話しながら登校したり、教室でも、麻衣や正樹と一緒になってふざけ合ったりできるし、昼休みには、一緒にお昼ご飯を食べることもできる。


 夏休みの初めに、貴弘とは、仲の良い幼馴染の関係に戻れていたわけだけれど、一緒に楽しい高校生活を送るのは、これから。


 

 その新しい高校生活が始まる、二学期の始業式の日の朝。


 私は、貴弘の家の前で、貴弘が準備を終えて出てくるのを待っていた。




 しばらくしてから、貴弘が、玄関のドアを開けて外に出て来た。


「悪い。少し寝坊しちまったよ。待ったか?」


「ううん。私も今来たところ」


「そうか。それじゃ、行くか」


「うん」



 私と貴弘は、小学生の頃のように、仲良く肩を並べて、楽しく会話しながら、学校に登校した。


          *


 教室に私達が着くと、先に来ていた正樹と麻衣が、他のクラスメイト達に囲まれていた。


 あの夏休み中にあった事件は、テレビや新聞で報道されたりしていて、皆その事件について、詳しく聞きたがっているみたいだ。


 私達も、教室に入るなり、その輪の中に連れて行かれて、あれこれと聞かれることになった。


 麻衣は、得意げに自分の活躍ぶりを話していたけれど、正樹は、同じことを何度も聞かれて面倒臭そうにしていた。


 貴弘は、何を聞かれても、「別に」とか、「ああ」とか、クールに短く返すだけだった。


 私はというと、あまりそれまで話したことがないクラスメイト達からも色々と話しかけられて、上手く受け答えできずに、頷きを返したり、首を振ったりするばかりだった。


 

 先生が教室に入って来たところで、ホームルームが始まって、私達は、やっと質問責めから解放された。


 その後、体育館に移動して、始業式が始まった。


 どの学校でもお決まりの、校長先生による、長々としたありがたい訓示がやっとのことで終わって、教室に戻ってから、先生の話しが少しあった後、下校時間になった。


 校長先生の長いお話しの間に、その熱が冷めたのか、ほとんどのクラスメイトは、もう一度私達に、あの事件の話を聞こうとはせずに、すぐに教室を出て行ったけれど、数人のおしゃべり好き達は、また私達の傍に集まって来た。



「麻衣、正樹、お前達が相手してやれよ。俺、瑞貴とちょっと用があるからさ」


 貴弘はそう二人に頼むと、


「行こうぜ」


 と私の手を握った。


「え……? ちょっと貴弘……」


 他のクラスメイト達がいる中で、手を握るなんて……貴弘の行動とは思えない……



 でも、前に――あの、貴弘の弟の貴俊に騙されていた時と違って、私は、その手を振り解こうとはしなかった。



 貴弘に手を引かれながら教室を出る時、後ろから、


「やるじゃん、貴弘」


「お前らいつのまにそんな関係に……」


「夏休み中に何があったの?」


「お二人さん、お熱いね~」


「貴弘……お前だけは信じていたのに……この裏切り者め! リア充爆発しろー!」


「私も早く彼氏が欲しい~」


「恋をするやつらなんて……全て呪われるがいい……」


 なんて風に、クラスメイト達から色々な声を向けられて、私は、恥ずかしくてしょうがなかったけれど、嬉しくもあった。



 貴弘の手の温もりを感じたのは、あの事故があって以来だ。


 ちょっと前までは、もうその手に触れることさえ無理なんだって、諦めてた。


 でも、色んなことがあって、こうして私と貴弘は、以前と同じ仲の良い幼馴染の関係に戻れた。


 あの命の危険にまで迫られた事件で、互いに助け合おうとしたことで、もっと絆が深まったような気もする。


 色んな不幸があったけれど、そのせいもあってか、今、最高に幸せだと感じることができる。


 いつまでもこの幸せが続くとは限らない。


 でも、私はこの先、どんな不幸に見舞われても、もう逃げない。


 そう考えられるってことは、私も少し成長したのかな……?


          *


 貴弘が私を連れて行ったのは、音楽室だった。


 私達の高校の音楽室は、常時開放されている。


 放課後には、そこを部室として使っている軽音部が、演奏の練習をしていたりする時もあるけれど、始業式の今日は、クラブ活動が休みなのか、中には誰もいなかった。



「貴弘、ここで何をするつもりなの?」


 私はそう尋ねたけれど、貴弘は何も答えずに、奥に置かれたグランドピアノのところに行って、その前に置かれている椅子に座って、その蓋を開けた。



「俺が今から弾く曲を、聴いてくれないか?」


 貴弘に真摯な眼差しを向けられながら言われて、


「え……? うん」


 私が頷くと、貴弘は、右手にいつも嵌めている、白い毛糸の手袋を外した。



 右手の甲には、痛々しい傷跡が残っている。


 

 私のせいで、その自由を奪われた右手――



 貴弘は、その右手と左手の両方を鍵盤の上に置いて、ピアノの演奏を始めた。



 軽やかに奏でられるメロディが、私の鼓膜を、心地よく揺さぶる。


 以前ここで私が聴いた貴弘の演奏は、左手だけを使って、ポロン、ポロン、と、単音で紡がれるだけのものだった。


 儚くて、今にも消え入りそうな、深い悲しみがこもったような旋律――



 でも、今日の演奏は、その時とはまるで違う。


 流れるように紡がれるメロディ。


 音と音が織り重なって生み出される、心地よい調和。



 私は、瞼を閉じて、心を空っぽにして、その中に身を委ねていた。



 悲しみを感じることはなかった。


 心を温かさで包み込んで、穏やかにしてくれるような、優しげなメロディ。


 ゆったりとしたテンポの曲調もそうだけれど、多分それを弾いている貴弘の――その心の中から、悲しみが消えたから、そう感じれるんだと思う。


 それに、どこか懐かしさを感じさせるメロディだった。


 その中に身を委ねていると、自然と、小学生の頃の、貴弘との想い出が、胸の奥から浮かんできた。



 ブランコに乗って、貴弘に押してもらった時と同じ――



 まだ無邪気な子供だった頃に、時間を戻してくれるような――




 私は、過去に想いを馳せながら、その演奏に、うっとりとして聴き入っていた。


          *


 演奏が、次第にテンポを緩めていき、その最後の一音を鳴らして、終わりを告げた。



 私は、瞼を開けて、演奏を終えて立ち上がった貴弘に、盛大に拍手を送った。


 貴弘は、右手を胸に当てて、恭しくおじぎをして、それに答えた。




「とっても上手だったよ。もしかして、もう右手の後遺症、克服できたの?」


 拍手を送りながら、尋ねてみた。


「ほとんどな。でも、まだ完全ってわけじゃないから、もっと早いテンポの曲はちょっと無理だけどな。それより瑞貴、今俺が弾いた曲、なんて曲なのか分かるか?」


「え……?」


 急にそう聞かれて、私は戸惑った。


「……多分、クラシックだとは思うんだけど……」


「しょうがないなぁ。俺は五年前のコンクールに出場した時にも、同じ曲弾いたんだぜ?」


 呆れたように言われて、


「そうだったの? えっと……なんて曲だったかな……」


 私は、必死にその記憶を手繰り寄せようとしたけど、なかなか思い出せなかった。


「マーラーの、交響曲第五番第四楽章、『アダージェット』」


「そ……そうそう、それ。あだー……じぇっと……」


 貴弘に合わせてそう言ったけれど、ほんとはその曲名を思い出せてはいなかった。



 貴弘は、それを見透かしたのか、ふぅ、とため息を一つ吐いてから、


「この『アダージェット』って曲は、作曲家マーラーが、最愛の妻エルマに贈った、愛の告白の曲、って言われてるんだ。俺は、五年前にも、マーラーと同じ想いを込めて、お前だけに聴かせるつもりで、この曲を演奏したんだぜ? もうあれから五年が経つってのに……いいかげん、気づけよな」


「え……? えっと、マーラーの妻がエルマで……アダージェットが告白の曲で……貴弘は……ええっ!?」



 そんなこと、貴弘から言われるまで気づかなかった。


 気づくわけがない。


 私、あの頃まだ小学五年生で、音楽の知識なんて全然なくて……それは今でもだけど、そんなこと、音楽に詳しくないと、気づくわけがない。



「それってもしかして、あの頃から、貴弘は私に……」


 貴弘が伝えたかったことって……


「鈍感なお前が悪いんだからな。それに、俺の口からはもう何も伝えないぞ。ピアニストは、ピアノの演奏に、その想いを託すものなんだ」


 貴弘が、ちょっと怒ったようにしながら言った。



 貴弘は、五年前に、私に愛の告白をしてくれていた。



 私の過ちで、あの不幸な事故が起こって、一度右手の自由を失ってからも、その気持ちを変えないでいてくれた。



 今、私はやっと気づいた。



 私は、ずっと貴弘に愛されていたんだって。



 いつのまにか、涙が頬を伝っていた。



 これ以上ないくらいの嬉しさで、胸が一杯になっていた。



 貴弘は、涙を流す私の傍にきて、その右手で――私を何度も救ってくれた、そして、とても綺麗な音色を紡ぎ出す右手で、そっと頬を伝っていた涙を拭ってくれた。


「お前、昔っから泣き虫だよな」


「だって……だって……」


 涙を堪えようとするけど、次々と溢れ出て来る涙は、なかなか止まってくれなかった。



 貴弘は、そんな私の肩を優しく掴んで、グランドピアノの前に置かれた椅子に、ゆっくりと座らせてくれた。


「――落ち着いたか?」


 やっとのことで涙を止めた私に、貴弘が優しく声をかけた。


「……うん……」


 ハンカチを目に当てながら、小さく頷いた。


「そうか、良かった。お前が泣きじゃくってる間に、誰かここに来たら、俺がお前を泣かしたみたいに思われるからな」



 実際、私を泣かしたのは貴弘なんですけど……



 そう思ったけれど、それを口にはしなかった。



「それにしても、瑞貴。お前がピアノ弾けないのは、昔っから知ってる。でもな、演奏ができなくても、俺がコンクールで弾いたのがなんていう曲かくらい、覚えてろよな」


「物覚えが悪くて、悪かったですね。でも、私だって、ピアノぐらい弾けるもん」


 なんか貴弘だけがかっこよすぎて、少し悔しかったから、ちょっと抵抗してみた。


「私も弾けるって……お前確か、『猫踏んじゃった』しかレパートリーなかったはずだよな。それも、へったくそな」


「へったくそ、って……」


「そう言えば、昔二人で一緒に、『猫踏んじゃった』を弾いてた頃があったよな。試しにやってみるか? 俺がお前のへったくそな演奏に合わせてやるから」


「え……? そんな急に言われても、私最近ピアノなんて――」


 

 貴弘は、そんな私の言葉を無視して、壁に立て掛けて置かれていたパイプ椅子を持って来て、私の隣に座った。


「それじゃあ、いくぞ。ミス一回につき、ジュース一本奢りな」


「なにそれ……そんなの私にはなんの得も――」


「あれ? ピアノぐらい弾けるんじゃなかったのか?」


 あおるように言われて、


「……弾けるよ、ピアノぐらい、私にだって」


 引くに引けなくなってしまった私は、そう答えてから、頬をパンパンと両手で叩き、気合いを入れた。


「そう言えばお前、俺となにかで勝負する時は、決まってそうするくせがあったよな」



 貴弘は、そんな私の仕草を見て、クスクスと笑っている。



 私は、それを無視して、『猫踏んじゃった』の演奏を始めた。



 ミス一回につき、ジュース一本奢り。


 夏休みに苦労して稼いだバイト代が、再び消し飛んでしまうピンチが訪れた私は、必死になって演奏した。


 だけど、私はミスしてばかりで、そのたびに、隣から貴弘の笑い声が聞こえてきた。


 この分だと、バイト代はぜんぶ消えてなくなりそうだ。


 でも、それでも良かった。


 貴弘からは、お金では買えないものを、一杯もらったから。


 これからも、もっとたくさんの思い出をもらえるだろうから。


 私の演奏する『猫踏んじゃった』は、テンポもばらばらで、間違った音を出してばかりだったけれど、それに合わせて、即興でメロディを紡ぐ貴弘は、笑顔を浮かべながら、なんだか楽しげだった。


 いつのまにか、つられて私も笑顔になっていた。



 貴弘の奏でる旋律――



 

 その旋律からはもう、悲しみの音色は聞こえない。



    ~Fin~


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Plaintive Melody ー悲しい旋律ー 雨想 奏 @usoukanade

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