第14話 結ぶ
「パパ、行ってきま~す」
海人は、大きな声で海(わたる)に向かって叫んだ。
ひまわりと海が結婚してから四年の月日が流れ、息子の海人は、この夏で三歳の誕生日を迎えた。大きな病気をすることもなく、すくすくと育っている息子に、ひまわりと海は、持っている全ての愛情を注ぎ、そして、海人からはそれ以上の幸せをもらっていた。
三歳になった海人は、上手におしゃべりをするようになった。元気がありあまって、ひまわりに叱られることも多かったが、すぐに「ごめんちゃい」という海人の仕草に、ひまわりは笑顔を見せずにはいられなかった。
海人の成長は、私達夫婦の幸せの証しだった。
家族というものを持てた喜び…
幸せに縁遠いと思っていた昔の私には、想像もつかないことだったから…
「ひまわり、ちょっと大切な話があるんだ」
海が、真剣な顔で、ひまわりにそう聞いてきた。
ひまわりは洗い物の手を止めて、食卓に座っている海の前に座った。
「シンガポールの本社への辞令が出た。秋には向こうへ行かなきゃならない。
ひまわりはどうしたい?」
海は、いつも優しかった。今までも、ひまわりに無理強いをすることは一度もなかった。
「ひまわりのお母さんのこととかを考えたら、シンガポールは遠いよな。
僕は、単身でも構わないとも思ってるんだ」
海は、ソファでうたた寝をしている海人を見つめながら、寂しそうにそう言った。
「そんなの答えは決まってるじゃない。家族でシンガポールへ行こう。
向こうには、あなたのお父さんもいるし、海人を連れて行ったら、とても喜んでくれるはず。私も、シンガポール、好きよ。あなたが、育った町だもの…」
海は、ホッとした顔をした。
「ありがとう、ひまわり。凄く、嬉しいよ」
そう言って、海は、大げさにひまわりを抱き寄せた。
私は、海を本当に愛している。海なしでは生きていけないとさえ思うほどに…
「あの、一つだけ、お願いがあるの」
ひまわりは、ずっと考えていたことを、海に話すことにした。
「九月の引っ越しまでに、行きたいところがあって」
ひまわりは、海が反対することはないと分かっていたが、ちゃんと話しておきたかった。
「どこへ?」
「そんなに遠くない。埼玉なの。群馬との県境なんだけど」
「何の用事で?」
海の顔には、不安な表情が表れている。
「実は、お墓参りに行きたいの。
戦争で亡くなった方なんだけど、私にとっては大切な人で…」
「おじいさんの知り合いかなにか?」
心配と不安が入り混じった顔で、海は聞いた。
「あ、うん…そうなの…」
ひまわりは嘘をつくしなかった。
いつの日にか真実を話せる日がくるまでは、まだ、打ち明けるのはやめておこう。
「俺は、ずっと、週末は忙しいかもしれないよ」
海は、携帯でスケジュールを見ながら、そう言った。
「一人で大丈夫だよ。初めて行く場所じゃないし、一日あれば余裕で帰ってこれるから。
あ、でも、海人も連れて行ってもいい?」
ひまわりはそう聞いた後、最近、歩くのが大好きな海人の話をしてみた。
「ひまわりが、大変じゃなければ二人で行っておいで。
その代わり、お金のことを考えないで、不便な場所ではタクシーを使うこと。
分かった?」
海は、優しく微笑んでそう言った。
「うん、分かった。ありがとう」
次は、必ず、海も一緒に行こうね…
私達にとってかけがえのない人が眠っている場所だから…
「パパ、行ってきま~す」
この日は、海より、ひまわり達の方が早く家を出た。
空は快晴だった。お盆が過ぎて、だいぶ涼しくはなってきたが、まだ八月のうだるような暑さは残っていた。
海人は、お気に入りの水筒を首から下げて、おばあちゃんに買ってもらった帽子をかぶり、手を繋いでいる私を引っ張るように、興奮気味に歩いていた。
「ママ、早く、早く」
電車を乗り継ぎバスに揺られ、海人は、その間、ずっと眠っていた。
ひまわりは海人の寝顔を見ながら、過ぎ去った月日を想った。海人のお墓を訪れたあの日を、昨日のように覚えている。あの時は、こんな日がくるなんて、夢にも思わなかった。
海人が70年前に死んでいた真実を知り、これからどうやって生きて行こうか、19歳の私は泣き明かす日々だった。
あれから10年が経ち、やっと胸を張って海人のお墓に今の私を報告できると、今は、そう思っている。そして、この小さな海人も、彼に見せたかった。
町役場でバスを降り、ひまわり達は、そこからタクシーでお墓の近くのお寺へ向かった。そして、ひまわりと海人は、お寺にあるベンチに腰掛け、持ってきたお弁当を広げてお昼ご飯にした。ひまわりは、海人のために、動物の形をしたおにぎりを作ってきた。食べることが大好きな海人は、あっという間にたいらげた。
「海ちゃん、ここからもうちょっと歩くけど、大丈夫?」
「海ちゃん、歩くの大好きだもん」
海人は、飛び跳ねながら、ひまわりに抱きついてくる。
「分かった。じゃ、出発進行~~~」
10年前、無我夢中で走ったこの道を、今は愛する息子と一緒に、笑顔でゆっくりと歩いた。
お盆明けということで、どこのお墓にも、色鮮やかな花たちが飾られていた。
ひまわりは、すぐに、木内家のお墓に辿り着いた。そこは、綺麗に掃除がしてあり、お盆に誰かがお墓参りにきたことが見てとれた。
小さな海人は、最初はたくさん並んでいるお墓にびっくりした様子だったが、ひまわりが海人を膝に乗せ、ここに眠っているもう一人の海人の話を絵本を読むように、優しく話して聞かせていた。
すると、後ろの方で人の声がした。
「すみません、どちら様でしょうか?」
ひまわりが驚いて振り向くと、そこには年老いた、でも凛とした女性が立っていた。
「あ、すみません。私は、佐藤ひまわりと言います。今日は、海人さんに会いにきました」
そう口走ってしまったひまわりは、慌てて言い直した。
「祖父が、海人さんと知り合いだったようで…」
また、嘘をつくしかなかった。
しばらく。不思議な顔でひまわりを見ていたその女性は、笑顔を見せてくれた。
「兄のことを覚えていてくれてありがとう」
そう言うとその女性は、ひまわりに、丁寧にお辞儀をした。
妹…
ひまわりは、涙がこみ上げてきた。
きっと、一番下の妹だ…
海人が目を細めて、いつも私に話をしてくれた…
とても可愛いくて、僕の膝の上にすぐに乗ってくるんだと…
「私の兄に、こんなに若い女性が会いに来てくれるなんて、本当に、ありがとう」
その女性は、もう、80歳位になるのだろうか。それでも、きびきびとお墓の回りに水を撒いたり、忙しそうに働いている。
ひまわりと海人は、後ろの方で、静かに手を合わせた。
「私の兄はね、二十歳という若さであの世へ行ってしまったの。
戦争で、若い命がたくさん犠牲なったけれど、そんな一言では言い表せないくらいに、私達家族にとっては、悲しい出来事だった」
ひまわりは、涙を堪えるのに必死だった。
「私の兄はね、本当に真面目で、いつも私達家族の事ばかり考えてた。召集令状がきた時だって、自分の事より私達のことばかり…
まだ、小さかった私は、そんな時も、兄の事を困らせることばかり言ってたわ。
兄を悲しませてたことにも気づかずにね…」
ひまわりは、もう、こぼれ落ちる涙を止めることはできなかった。
小さな海人の手を握りしめながら、黙って、その女性の話を聞いた。
「兄は戦争に行く前に、私と姉、そして母へ、それぞれに手紙を残してくれた。でも、自分がその戦争で死んでしまうなんて思ってもいなかったと思う。
必ず、帰って来るからって、何度も書いてあったくらいだから」
ひまわりは、無意識の中で、その女性に尋ねていた。
「海人さんは、どういうふうに、亡くなったんでしょうか?」
「兄は、戦地で亡くなったということしか、私達家族には伝わらなかった。でも、かなりの時間が経ってから、遺族会の集まりで、母が、兄の最期を看取った方と偶然知り合えて、そこで初めて真実が聞けたの。
兄は、瀕死の状態だったけれど、一か月ほど、心臓は動いていたらしい。
その方が言うには、ちゃんとした病院で手当てを受けていれば、絶対に死ぬことはなかったって。硫黄島の洞窟にある小さなベッドで亡くなったって…」
ひまわりは、あの一連の出来事は、その一か月の出来事だったのかもしれないと、呆然と思った。
あの時、海人の心臓は動いていたし、肌は温かく、ご飯もたくさん食べていた。私の元へ来た海人は、確実に、生きていた。
死んでなんかいない、よく喋って、よく笑って、私の先を案じて泣いてくれて、そして、全身全霊で、私を愛してくれた。
「あなたのおじい様は?」
急に聞かれて、ひまわりはしどろもどろで答えた。
「祖父も亡くなりました」
それ以上は、言えなかった。
「私は、戦争で散ってしまった兄のことを、今でもよく思い出すの。
兄が生きていれば、どんな人生を送ったのだろうってね…
小さかった私の記憶の中の兄は、いつでも優しくて、笑ってたから…」
そう言うと、その女性は、ひまわりにハンカチを渡してくれた。
海人さんは、あなたたちを本当に愛していましたと、言いたかった。
いつでも、あなた達のことばかり心配していたと…
すると、海人が、急にその女性に近づき「こんにちは」と挨拶をした。
「おりこうさんね~ お名前は、何て言うの?」
「僕の、お名前は、佐藤海人です」
海人は、笑顔でそう答えた。
その女性はハッとした顔で、「海人っていうの?」と、ひまわりに聞いてきた。
ひまわりは頷づくと、海人にこう言った。
「ここにいるおばあちゃんのお兄ちゃんの名前も、海人っていうんだよ」
ひまわりとその女性は、目を丸くして考え込む小さな海人を見て、少し笑った。
海人は、お墓に向かって「一緒?」と言っている。そして、ひまわりは、もう一度、お墓に手を合わせてそろそろ帰ることにした。すると、海人は、いつのまにか、その女性と手を繋いでいた。
「海ちゃん、そろそろ帰ろうか?」
ひまわりが、海人にそう声をかけた。
「さようなら、たみちゃん」
海人はその女性の手を握りながら、もう一度言った。
「たみちゃん、またね」
たみちゃん…
私は、海人から聞いて知っていた。
海人の一番下の妹の名前…
たみちゃんは、いつでも僕の膝の上に乗ってくるんだ…
あの夏に僕がここへ来た理由 便葉 @binha
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