第16話 幻のバスケ部!?①

 荒井先生が監督就任して初日の土曜日、部活にやってきた先生はまるで別人に変わっていた。ボサボサに伸ばした髪は短く切られ、ツンツンに立っている。無精ひげもキレイに剃ってサッパリしていた。こうして見るとジャージ姿の荒井先生は、7年前に観戦したインターカレッジ決勝戦のときとあまり変わっていない。

 先生が体育館に入ってきたときは一瞬誰なのか分からなくて、荒井先生だと気づいてからみんなで笑ってしまった。渡辺先生までクスクス笑うものだから、「笑うな! 見んじゃねーよ。見物料払え」なんて荒井先生は憎まれ口を叩いていた。荒井先生を見て笑う渡辺先生は、その変わりようを面白がっているというよりも、なんだか安心したような、喜んでいるような表情に見えた。

 午前9時、練習開始に先立ち、荒井先生があいさつする。

「本日から監督をやらせてもらう、荒井心だ。今年のウィンターカップ出場狙っていくから、そのつもりで練習してくれ。じゃあ、アップ始めてくれ」

「はいっ」

 意外にもさっぱりしたあいさつだった。

 亡くなった親友、井川君から引き継いだ思いとか、バスケ哲学みたいなのを熱く語るかと思ったのだけど……。

 みんなも少し拍子抜けしたような感じになったけれど、そんな空気はランニングがスタートしてから一変した。

「遅いぞ! もっとペース上げろっ」

「はいっ」

 荒井先生の指示を受け、普段よりもペースアップして走る。

「OK。そのペースを維持しろ。オレの合図があるまで走り続けろ」

 ランニングを開始してすでに5分が経過している。いつもなら終わっているころあいだ。

 かなり速いペースでランニングを続ける。後ろをチラリと確認すると、マユちゃんが徐々に離れつつあった。

 10分が過ぎても荒井先生は、ただ黙って私たちの走る様子を眺めている。

 いつ終わるのか分からないというだけで、精神的にも肉体的にもかなりのストレスだ。

「よーし」

 荒井先生がやっと口を開いた。

 ふー、良かった。救われた。

「そっから1人ずつダッシュ! 1周して列の後ろにつけ。ハイッ!」

 えええっー!? まだ走るのー。

 荒井先生の合図で、先頭の私からダッシュ1周して最後尾につく。

 そして、ハルちゃん、持田さん、ウメちゃんと順番がまわり、最後にマユちゃんが走って元の並びに戻った。

 アップからすでにキツイ……。

 後ろから聞こえてくるみんなの息遣いもかなり荒い。

 その後ランニングは20分間続き、ダッシュも合計5本行った。

「ランニング終了! 次フットワークいくぞっ」

 荒井先生の合図と共に、みんなその場に倒れこんだ。

「ハア、ハア、ハア……み、みんな、生きてる?」

「ハア、ハア……ウメ吉が、短い一生を遂げたわ」

「と、遂げてねーし……ハア、ハア」

 私が声をかけると、持田さんとウメちゃんは顔を歪ませながら、苦しそうな声で答えた。

「ウッ……」

「ハア、ハア……マユちゃん、大丈夫?」

 ハルちゃんが心配そうに、マユちゃんの背中をさする。

 口元を手で覆い、立ち上がったマユちゃんが出口に向かって急ぎ足で歩き始める。

「私が行きます」

 立ち上がったハルちゃんを制止して、米山先輩がマユちゃんに付き添う。

「おーい、休憩じゃないぞ。座るな。さっさとフットワーク――」

「荒井先輩! 待ってくださいっ」

 渡辺先生が厳しい声で話を遮る。

「どうかしたか?」

「どかしたかじゃないですよ! いきなりこんな走りこみ、無茶苦茶過ぎます。順序や段階ってものがあるんですよ。それを――」

「渡辺は愛知の星海学園出身だったよな?」

「そ、そうですけど。何ですか、いきなり」

 突然に話を摩り替えられた渡辺先生が怪訝そうな顔で尋ねる。

「練習きつかったか?」

「それは、もちろん。強豪でしたから……」

「吐いたことは?」

「なっ! ええ、高校1年生の合宿のときに……」

 渡辺先生が視線をそらしながら小さな声で答える。

「コイツらがこれから戦うチームは、勝たなきゃならない相手は、毎日死に物狂いで血のにじむような練習をしてきた奴らだ。しかも体格や運動能力、センスに恵まれた人間も多い。そんな奴らを前に、コイツらがボロ負けする様子をお前は思い浮かべたことはあるか?」

「……」

 渡辺先生が口を閉ざしたまま荒井先生をジッと見つめる。

「コイツらには戦う覚悟がある。お前には、それがあるか? 一時的な感情や教師としての教育論は、バスケには必要ない」

「クッ……でも、この練習はあまりにもっ――」

「レイちゃん、大丈夫だよ」

「飯田さん……」

 声を荒げた渡辺先生は、私の言葉に振り向いた。

「全然心配いらねーし。はっきし言って拍子抜けしたくらいだし」

「いつものランニングでは物足りないと感じていたくらいですから。バスケ部の練習らしくなってきたのではありません?」

「はい、私もまだまだ余裕ですよ、渡辺先生。ホントですよー」

 体を引きずるように立ち上がった3人が笑顔を見せた。

 米山先輩に付き添われて、マユちゃんが戻ってきた。

「みんな、心配かけてごめんねー。いやー、吐いたらスッキリしたよー。アイル・ビー・リバース」

「真由子さん、それだとこれから嘔吐すると言っていることになるわよ。ちなみに、リバースに嘔吐という意味合いは皆無よ」

「ハハハ。ツッコミどころ満載だなマユ。陽子といい勝負じゃね?」

「大丈夫だよマユちゃん。陽子ちゃんより発音うまかったよ!」

 ハルちゃん、そのフォローは微妙……。

 マユちゃんはペロリと舌を出して微笑んだ。

 みんな、今のランニングだけで限界なのに、ものすごくキツイのに笑っている。今までずっと私たちを見ていてくれた渡辺先生のために。先生を安心させたくて。みんなの声や表情からそれが強く伝わってきた。

「練習がどんなにきつくなっても、私たちは変わらないよ。みんな一緒に汗を流して、声を出して、帰りにはコンビニ寄って。コウジョバスケ部は私たちプレイヤーと、マネージャーと監督と、そしてコーチのレイちゃんが揃って1つなんだ。だからレイちゃん、今の私たちを見ていてよ」

「飯田さん……分かったわ。あなた達の気持ちは理解しました。私はコーチとして、自分の役割を果たします」

 静かな声で語りながら、渡辺先生は潤んだ瞳を私たちに向けた。

「これからも3ポイントシュート、みっちり教えてください!」

「私、スクリーンアウトとかリバウンドとかもっと強くなりたいです!」

 マユちゃんとハルちゃんが手を上げながら言う。

「じゃ、私は合コン必勝法お願いします。将来のために」

「そもそも渡辺先生は、合コンで必勝しているのかしら? それって先生の自己申告でしょ。信憑性に欠ける気がするのだけれど……」

「プッ、フハハハ! うけるんですけどー。アタシは、レイちゃんの教頭室呼び出し記録更新に期待してっからさ。ハハハ」

「あ、あんた達はー! ほら、さっさとフットワークはじめっ!」

 般若の形相と化した渡辺先生が、ビシッと指差しながら怒鳴り声を上げた。

 すっかりいつもの先生に戻っていた。

 そんな様子を苦笑いしながら見つめる荒井先生は、私と目が合うと優しい表情で小さく頷いた。


 体が石のように重たい。頭がボーっとしてたびたび意識が薄れそうになる。こんな言い方すると大げさに聞こえるかも知れないけれど、生きているのが不思議なくらいだ。それくらい今日の練習はハードだった。

 練習開始直後のハイペースなランニングとダッシュは、地獄の門をほんの少し開いただけに過ぎなかった。

 フットワークメニューはいつもの3倍の量をこなした。その後はパス&ラン、2メン、3メンといった走りっぱなしの練習メニューをこなして部活終了時間のお昼を迎えた。

 体力に自信のあるハルちゃんと私がへばってしまったわけで、持田さんとウメちゃんにおいては練習中に何回か立ち止まる場面が見られた。一番頑張ったのはマユちゃん。体力の無い彼女が、泣きながらもリタイアせずに最後までやり遂げたことは本当にすごい。

 今はストレッチの最中なのだけど、みんなぐったりしてほとんど動いていない。

 ああ、このまま眠ってしまいたい……。

「飯田さん、ストレッチしながら寝ない。ほら、みんなも。体冷えちゃうわよ」

 渡辺先生に体を揺すられ、ハッと目が覚めた。

 みんなも魂の抜けたような状態で、ダラダラとストレッチを続ける。

 マユちゃんだけがピクリとも動かない。

 大丈夫かな? 死んでないよね……。

「よし、ストレッチ終わったら集まれ。ミーティング始めるぞ」

 荒井先生が倉庫から引っ張り出してきたホワイトボードの前に立つ。

 私とハルちゃんは、動かなくなったマユちゃんを両脇から支えて、ホワイトボードの前へ引きずっていく。

「陽子ちゃん、ハルカちゃん、ごめん……」

「気にするな、マユちゃん。今日はホントよく頑張ったよー」

「私でもかなりきつかったのに、マユちゃんすごいよ」

 私たちに引きずられながら、マユちゃんは嬉しそうに「へへへ」と笑った。

「ブン吉、行くぞー。ほら、掴まれ」

「け、結構よ。わ、私の方がウメ吉よりも体力があるのだから、あなたが捕まりなさい」

「フラフラしながら言っても、全然説得力ねーから。ほら、行くぞ」

 ウメちゃんが持田さんの手を握って立たせて歩き出す。

 私たちが荒井先生の前に集合して腰を下ろすと、先生はホワイトボードに何やら書き始めた。

 『光城学園籠球部の目標』と達筆に記したホワイトボードを指差しながら、荒井先生は私たちに尋ねる。

「もちろん全国大会出場して3年生までバスケをすること! そして全国制覇だよ!」

 私の意見にみんなも同意を示すように頷いた。

「ってかさー、なんで漢字なわけ? なんか古臭くね?」

「あれは『ろうきゅうぶ』と読むのよ、ウメ吉。バスケットボール部という意味よ」

「知っとるわっ。ドヤ顔やめろ。うざい」

「荒井先生は国語教師だから、漢字なんじゃない?」

「シン兄ちゃん、漢字マニアだから……」

 思いつきで発言したハルちゃんに、マユちゃんがため息交じりに答えた。

「コホンッ。目標はまず全国大会出場、そして全国制覇と……では次、これを見てくれ」

 わざとらしく咳払いしながら、荒井先生がホワイトボードに書き足す。

 そして米山先輩から渡されたノートパソコンを開いて下に置き、先生もその場に座り込んだ。

 ノートパソコンの画面に、三島南高校1年生との練習試合の様子が映し出される。試合開始から5分くらい経過したところで、先生が一時停止して私たちに問いかける。

「サンナン1年との試合だが、何か気づいた点は?」

「はいっ。私だけビデオ映りが悪いと思う。実物はもっとプリチーだよ」

「飯田さん、発音がおかしいわ。それに、映りと実物に大差は無いわよ。そうね、あえて言うなら、パスを受けるウメ吉の顔が面白いことかしら」

「飯田と持田はもう黙れ。他は無いか? お前らの良いところだ。気づかないか?」

 ため息をついた荒井先生が再び尋ねる。

「アタシらのいいとこっつったら、やっぱカワイイとこじゃね?」

「だよねー。あとはー、みんな頑張りやさんなところとか?」

「梅沢と飛鳥も黙れっ。そーいうんじゃねーよ。お前らがどうやって得点したかってことだよ!」

 先生は大きな声を出しながらビシッとパソコン画面を指差した。

 マユちゃんがハッと気づいたように、両手をパンと合わせて口を開く。

「速攻だ。この試合、速攻で得点するシーンが多いです」

「ああ、その通りだ。サンナン1年生との試合では、相手ディフェンスの陣形が整う前に攻め込んで点を決めている場面が多い。つまり、お前らには機動力、スピードがある。じゃあ、次にこれを見てくれ」

 荒井先生がノートパソコンを操作すると、今度はサンナン2年生との試合が映し出された。

 何度もチャンスがあったのに、決定力不足で得点できないシーンが続き、なんとも歯がゆい気持ちにさせられる。

 ウメちゃんが1対1を挑むシーン、思わず「ウメちゃん、行けー!」と叫んでしまい、みんなから笑われてしまった。

 しかし、それくらい気の抜けない緊張に満ちたシーンであり、夢中にさせられる試合であった。

 動画を止めた荒井先生がみんなを見渡す。

「この試合、なぜ負けたか分かるか?」

「……」

 みんな口を閉ざして下を向く。

 DVDを見たことで数日前のショックがリアルに甦ってきた。

 サンナン2年生との力の差がこんなにもあると思わなかった。同学年に勝てたのだから、きっといい試合ができる。あわよくば勝つことができるのではと、甘い夢を描いていたのだ。

 現実は甘くなかった。パワー、スピード、高さ、テクニックの全てにおいて私たちは及ばず、いつものプレイをさせてもらえなかった。

 学年1つ違うだけでこんなにも差があるのかと、心が打ちのめされたのだ。

 あの日の、あの瞬間の絶望がまた私たちの心にまとわりつく。

「……相手2年だったし、経験とか練習量とか?」

 ウメちゃんが重たい口をやっと開くようにして答える。

 荒井先生が首を横に振る。

「……高さかなあ? 私、インサイドで全然攻められなかったし。ディフェンスの時もグイグイ中に入り込まれちゃったし」

 ハルちゃんの答えに対しても、先生は黙って首を横に振った。

「俺は、相手の優れたところを聞いてるんじゃない。1年生の試合で決まった速攻が、なんで2年生に通用しなかったか分かるか?」

「スピード……遅くなっている気がする」

 ポツリと持田さんが呟いた。

「ああ、そうだ。確実にスピードが落ちている。明らかにスタミナ不足だ。速攻意外の場面はどうだ? たとえば梅沢の1対1。なんで決められなかった?」

「それは……」

 悔しそうな表情でウメちゃんが言葉を詰まらせる。

「自分のマッチアップの相手は抜くことができている。そのあとが問題だ。センターの泉田にゴール下で毎回ブロックされてるだろ。梅沢、お前は選択肢が少なすぎる」

「選択肢?」

「ああ。1on1の大会なら、お前に勝てる奴はそう多くはないだろうよ。でも試合は別だ。ほぼ確実にドライブがくることを分かっていれば、止められない相手じゃない。ましてやミドルシュートや中距離シュートの確率の悪さから言えば、ゴール下さえ守っていれば怖くはないってことだ」

「クッ……」

 ウメちゃんがキュッと唇を噛み締める。

「梅沢のことを例えに出したが、全員に同じことが言える。お前らの得意から苦手のプレイまで見透かされてたってことだ。さて、反省会はここまでとして……」

 話し終えた荒井先生がホワイトボードにマーカーを走らせる。

 『5・6月の練習目的』の下に、1、体力強化(スタミナ、体幹トレーニング、足腰強化)2、基礎技術習得(ドリブル、パス、カットイン、スクリーンアウト)と記した。

「見て分かるとおり、今月と来月はこの2つを徹底的に練習する。まあ、要するにたくさん走るってこった」

 先生がニヤッと不適な笑みを浮かべる。

 こ、怖っ。めちゃくちゃ嫌な予感しかしないよ。

「体力強化に並行して、基礎テクニックをしっかり身に付けてくれ」

「あ、あのお。シュート練習は?」

 マユちゃんが遠慮がちに尋ねる。

 そういえば、2番の基礎技術習得にシュートが入ってないよね。

「シュート練はやらん」

「えええっーーー!」

 荒井先生の意外すぎる発言に、一同驚愕の声を上げた。

「3メンや2メンでの速攻練習でレイアップはやるがな。シュート練がやりたきゃ、練習後に自主練でやってくれ」

「……分かりました」

 真由ちゃんが肩の力を落として返事した。

「じゃ、今日はこれで解散だ。明日はゆっくり体を休めて、月曜からの練習に備えるように」

「はいっ。ありがとうございましたっ」

 かくして、新生コウジョバスケ部の練習が始まったわけである。


 週明けの部活は荒井先生の死の宣告とおり、まさに走りっぱなしの練習となった。

 部活時間の半分はボールに触れることの無い練習メニューで、フットワークメニューは土曜日以上に厳しい内容とボリュームだった。ボールを使った練習も、パス&ランや2メン、3メンといった速攻練習が主体で、休まる暇は一時も無かった。

 こんなに走ったのは、人生で初めてだ。大げさに聞こえるけれど、私がそう呟くとみんなも苦笑いしながら、首を縦にふっていた。

 翌日も、その翌日もひたすら走りっぱなしの部活が続いた。

 私とハルちゃんは、モウロウとしながらも何とかギリギリのところで踏ん張っている。一瞬気を失いかけるときもあるけれど、今のところはリタイアしていない。

 持田さんとウメちゃんは、動けなくなって練習を何回か中断した。それでも休憩してから練習に戻ってくるのだから、2人ともすごい根性である。

 マユちゃんは度々気を失って保健室へ運ばれた。すごく心配したけれど、必ず戻ってきて元気な顔を見せてくれるマユちゃんにほっとさせられた。

 荒井先生の練習メニューは本当に苦しくて、厳しいものだった。

 みんな口には出さないけれど、決して楽しいと思える内容ではなく、いつも逃げ出したくなる衝動にかられるほど、ハードな練習が続いた。

 それでも、私たちが部活を辞めようと考えなかったのは、みんながいたからだと思う。苦しいときには、みんなで声を掛け合い励ましあって乗り越えた。つらい時こそ、頑張って笑顔を見せて明るい声を出した。そんな風にみんなで支えあっていたからだと思う。

 練習は苦しかったけれど、嬉しいこともいくつかあった。

 1つは、バスケ部が正式な運動部として認可されたことである。このお陰で、火曜日から毎日放課後の練習は体育館を使用できるようになった。さらに、昼練習も毎日ハーフコートを使用できるようになり、練習環境がグンと向上したのである。

 2つ目は、部室の使用許可がおりたこと。念願の部室獲得に、塩屋先生から朗報をもらった私たちは飛び上がって喜んだ。「まだまだ元気じゃねーか。明日からもっと走ってもらうとするか」なんて荒井先生に脅されてゾッとしたけれど、部室をもらえたことが本当に嬉しくて、疲れが一気に吹き飛んでしまったような気がした。

 私たちバスケ部に与えられた部室は、体育館横にあるプレハブ作りの現在は倉庫として使われている建物だった。

 土曜日、午前の練習を終えた私たちは昼食のあと、これから部室となる倉庫の片付けを行った。

「あー、練習のあとに掃除とか、マジだるいわー」

「来週はテスト週間で、放課後残れないから仕方ないよ」

「真由子さんの言う通りよ。口を動かす余裕があるなら手を動かしなさい、ウメ吉」

 まるでお姑さんのような口ぶりの持田さんに対して、ウメちゃんがベーと舌を出す。

 その様子を見て笑いながらハルちゃんは、せっせと荷物を外へ運び出す。

 倉庫の中は、昔職員室で使用していたらしいパソコンや書類、プリント類が山積みにされており、数センチも埃が積もっていた。

「燃えるゴミは赤い袋、燃えないゴミは透明の袋に入れてくれる。パソコンや机とかは外に運び出してちょうだい」

 スーツ姿の渡辺先生が指示を出す。

「なんでレイちゃん、ちゃっかり一人だけ着替えてるわけー? ずるくない?」

「そうだよ。レイちゃんも手伝ってよ」

「嫌よ。そもそも部室使うのはあなた達でしょ。自分達のことは自分でやる。私、このあと予定あるんだから、迅速に頼むわね」

 先生は腕時計に目をやってから、装飾のほどこされた自分の指先を満足げに眺めた。

「わあ、キレイですね。ネイルいいなー」

「いいでしょー。昨日ネイルサロン寄って帰ったの」

 目をキラキラさせるハルちゃんに、先生が楽しそうに話す。

 渡辺先生の爪には鮮やかなピンク色の桜の花が描かれていた。

「か、カワイイ……」

 持田さんまで先生の手を取ってウットリした表情を浮かべている。

 持田さんは、ほんとピンク好きだよね。

「そんなに目立つネイルだと、また教頭先生に叱られちゃいませんか?」

 ゴミ袋の口を縛りながら、マユちゃんが心配そうに尋ねる。

「平気よ。今日は教頭、来客があって忙しいもん。ずっと教頭室に引きこもっているわ」

 悪ガキのように笑う先生は、けっこう子供っぽい。

 油断していると、また教頭室に呼び出し食らっちゃうよ。

「なあ陽子。この棚、ウチらで使わない? このロッカーも掃除すれば使えるっしょ」

「そうだね。部室で使えそうなものはキレイにしてとっておこう」

 倉庫の中には使えるものもたくさん残っていた。

 椅子や長机、棚やロッカーなど、ずいぶん年季が入っているけれど壊れてはいない。掃除すればちゃんと使えそうだ。

 部室に残して使用するのものは、みんなで丁寧に掃除した。

 片付けが終わると、倉庫の中がすごく広くなったように感じた。

「私のロッカー、ここにするー」

「あ、ズリいぞ陽子。アタシもそこがいいし」

「まるで小学生ね。ロッカーなんてどれでも――」

 持田さんの開いたロッカーの扉から、1冊の雑誌が床に落ちた。

「あ、『月間バスケ』だって。かなり古いねえ」

 雑誌を拾い上げたハルちゃんがペラペラとページをめくった。

「あれ? このページだけ破られてるよ。ほら」

 マユちゃんが『月間バスケ』を覗き込んで指を差す。

「お気に入りの選手の記事を誰かが切り取ったとかじゃない?」

「おー。陽子ちゃん名探偵。すごーい」

「陽子の場合、迷うって字のほうの迷探偵じゃね?」

 せっかくハルちゃんが褒めてくれたのに、ウメちゃん一言多い。

「このロッカー、苗木久子というネームプレートが入っているわ」

「つまりっ、『月間バスケ』のページを切り取った犯人は、苗木久子だー!」

「陽子うるさい。って言うか、久子って誰よ」

「……あのさ、この倉庫って、もともと部室だったんじゃないかなあ?」

 ボロボロに風化した『月間バスケ』の表紙を見つめながら、マユちゃんが呟いた。

「そういえば、テーピングとかコールドスプレーの空き缶なんかも転がってたよね。きっとここは部室で、久子ちゃんはバスケ部だったんだよ!」

「はいはい。久子ちゃんがバスケ部でもそうじゃなくても、私たちには関係ないでしょ。片付け終わったらサッサと解散するわよ。ここのカギ、職員室に返却しないといけないんだから。早くしてちょうだい」

 重大な事実に気がついた様子のハルちゃんを先生が軽くあしらう。

「だからー、久子ってどこの誰よ? ここの卒業生には間違いないよな。しかも幻のバスケ部OGかもだし。こういうの、超気になるし」

 幻のバスケ部……。

 ウメちゃんが言うように、コウジョには20年以上昔、バスケ部が存在したという噂がある。学園理事長の娘が両膝を損傷して歩けなくなり、バスケ部が廃部にされたという噂。以前、米山先輩から聞いた話を思い出した。

「久子……。渡辺先生はこの名前に聞き覚えがありませんか?」

「ちょっとー、持田さんまで探偵ごっこ? そんな人、知らないわよ。仮に幻のバスケ部員だったとして、20年以上前のことなんか分かるはずないじゃない」

 全く関心の無いそぶりでブンブン手を横に振りながら、渡辺先生は面倒臭そうに答えた。

「では、竹下久子という名前ならどうですか?」

「もったいぶるなよー。ブン吉はなんか知ってんのか?」

 ウメちゃんが話の先を急かす。

「きょっ、教頭!? そんな、たまたま名前がかぶっただけよ。きっと」

「渡辺先生は、教頭先生の旧姓をご存知ですか?」

「えっ? 教頭先生って独身じゃないの?」

 先生に逆に質問された持田さんが、やれやれといった表情でため息をつく。

「そーだっ! 荒井先生に聞いてみよう。レイちゃん、電話して。ほら、早く」

「もう、何で私が。はいはい、分かったわよ」

 私が催促すると、先生は渋々スマホを取り出して電話をかけた。

「もしもし、渡辺ですけど。荒井先輩は教頭先生の旧姓って知ってます?」

「くだらねーことで電話すんじゃねーよ。俺は、テスト問題考えんので忙しいんだよっ」

 電話ごしに怒鳴られた渡辺先生が顔をしかめる。

 みんなに期待のこもった視線を送られ、先生は仕方のない様子で再び質問する。

「ちょっと、昔のバスケ部のことで調べたいことがあるんです。重要なことなので」

「昔のバスケ部? あー、幻とか言われてるやつな。じーさんからも、そんな話聞いたことねーぞ。って言うか、教頭って独身じゃねーの?」

「うわっ、超使えねー」

「荒井先生に期待したのが間違いだったね」

「おい今、梅沢と飛鳥の声が聞こえたぞ。使えねーって言いやがったな!」

 電話の向こうで、荒井先生がまくし立てる。

「じゃ、そういうことでー。先輩、お疲れさまでーす」

「どーいうことだよ! まだ疲れちゃいねーよ。俺ほど人に期待されて――」

 プつりと電話を切られて、荒井先生の話は空しく途切れた。

「……だそうよ。もう、いいでしょ。早く帰るわよ。待ち合わせに遅れちゃうじゃない」

「レイちゃん、さりげなくデートっぽい雰囲気かもし出してるけど、どうせ友達でしょ?」

「彼氏だなんて一言も言ってないじゃないっ! ええ、そうよ。大学時代の友達ですけど、それが何かあ? 友情大事にしちゃいけませんかあ? 私が彼氏できないことで、飯田さんに迷惑かけましたかあ?」

「せ、先生、落ち着いてください。先生は悪くありません。悪いのは、きっと社会なんです」

 マユちゃん、それはきっと違います。

「んじゃ、教頭に直接聞けばよくね?」

「ウメ吉の言うとおり、現状とれる手段はそれくらいしか無さそうね」

 持田さんがウメちゃんの提案に頷いた。

「渡辺先生は、私の憧れの女性です! キレイで賢くてスタイルも良くて、デキル教師の一面もあれば生徒に親しみやすい一面もある。高嶺の花という理由でお付き合いする男性に恵まれないのは、美しく生まれてしまった先生の因果だと思います。いずれ必ず、先生にふさわしい方が現れることは運命によって定められているはずです。だから私に、先生の雄姿を見せてください。非力な私たちに美の化身、美の代名詞である先生の力を貸してください。どうか一緒に、教頭室へ」

「あ、飛鳥さん……分かったわ。先生に任せなさい。さあみんな、ミス・コウジョのレイ・渡辺についてらっしゃい」

 渡辺先生が姿勢よく、モデルウォークで風を切って歩き始めた。

 ハルちゃん、小悪魔。むしろ悪魔。

 レイちゃん、単純。いずれ悪い男に騙される運命が定まっている気がして心配です。

「レイ・渡辺って誰だよ。外人か?」

「ミス・コウジョが教員の中から選ばれた設定の段階で、ツッコミどころ満載ね。任せられる要素が皆無だわ」

 2人が小声でつっこむのを聞きながら、マユちゃんが苦笑いする。

「でも、渡辺先生が一緒に来てくれて助かるね。私たちだけじゃ、教頭先生と絶対話せないもん」

「まあ、荒井先生よりは役に立ったということで、信頼度1ポイントアップにしといてあげよう」

 私の話を聞いて、みんなが悪戯っぽく微笑んだ。

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