第15話 このチームでバスケができるのは、高校3年間しかないんだよっ!

 県立三島南高校との練習試合を終えた私たちは、フロアのモップがけをして後片付けを行った。サンナン1年生がモップがけを手伝ってくれたおかげで、普段の練習日よりスムーズに片付けが終わった。私たちが皆、初心者であることを話すと、サンナン1年生は大きな口を開けて驚いていた。口々に「すごい」「上手い」と言われると、正直すごく嬉しくて顔がゆるんでしまった。

「いやー、ずいぶん褒められちゃったね。『かわいい』とか『キレイ』とか」

「陽子ちゃん、そこまでは言っていなかった気がするよ……」

 ぐったり疲れきったマユちゃんが、細い声でつっこむ。

「飯田さんの耳は幸せなつくりになっているのよ、真由子さん。悪口も褒め言葉に変換されて脳に届く仕組みになっているの」

「陽子ちゃん、すごーい。えっと、じゃあねえ。陽子ちゃんのチンチクリン!」

「もう照れちゃうよ、ハルちゃん。ナイスバディだなんて……んなわけあるかいっ!」

 私が叫ぶと、みんなは声を上げて笑い出した。

 ただ1人を除いては……。

「ウメちゃん、今日は何食べて帰る?」

「……」

 返事が無い。

 ウメちゃんはモップを握り締めたまま、ジッとバスケットゴールを見つめていた。

「ほら、あなた達。終わったら早くモップ片付けて」

 サンナン監督、大桑先生の隣で渡辺先生が手招きしている。

 モップを倉庫にしまって先生のもとに集まった。

「塩屋先生と渡辺コーチ、そして皆さん、今日は本当にありがとうございました」

「ありがとうございましたーっ」

 皆で声を合わせてお辞儀する。

「たくさんいいプレイを見せてもらいました。皆さん創部間もないというのに、うちの2年生相手に奮闘し、本当に驚かされました。特に後半の追い上げはすごかった。是非またお願いします」

 大桑先生は笑顔で話し終えると、塩屋先生と並んで出口に向かって歩き始めた。

「キャプテンの泉田さんを中心に、いいチームじゃな」

「いえいえ。まだまだ新チームなもので。それより、あの子たちの再来年が楽しみじゃないですか。彼女たちが3年生の夏は、インターハイも夢じゃありませんよ」

 大桑先生はマジメな声で塩谷先生に語りかけた。

「それじゃ遅いんだよっ!」

 ウメちゃんが声を荒げ、驚いた様子の塩屋先生と大桑先生が振り返った。

「ちょ、ちょっと梅沢さん」

「今、勝てなくちゃ意味ねーんだよっ!」

「ご、ごめんなさい。試合のあとで少し気持ちが高ぶっているようで。ど、どうぞ行ってください」

 渡辺先生に促され、大桑先生は少し動揺した様子で会釈すると、塩屋先生と共に体育館をあとにした。

 私達は今日の反省会を行ってから解散した。

「梅沢さん、ちょっと残りなさい」

「……」

 渡辺先生の声が厳しい。

 ウメちゃんが黙ったまま先生を見つめる。

「ウメちゃん、先着替えとくね」

「更衣室で待ってるからね」

 私とハルちゃんの声に、ウメちゃんは黙って頷いた。


 ウメちゃんが更衣室に入ってきたのは、みんなの着替えが終わった後だった。

 ロッカーを乱暴に開けて着替え始める。

 とても話しかけられる雰囲気ではないが、勇気を出して言葉をかける。

「この後さ、塩屋先生に荒井先生のこと聞きに――」

 私の話を遮るかのように、ウメちゃんがローカーを殴りつけた。大きな鈍い音が響き、静まり返った更衣室に緊張感が満ちていく。

「物に当たるのはみっともないわよ、ウメ吉。私たちが負けたのは、ロッカーのせいではないのだから」

「じゃあ、誰のせいだよ!」

 ウメちゃんが、今にも掴みかかりそうな勢いで持田さんに詰め寄る。

「誰のせいとか、そんなのやめようよ。コーチもミーティングで言ってたじゃん。チーム全体の課題を知って、練習に活かすことが大事だって」

 意外にもマユちゃんが毅然とした態度で2人の間に入った。

 ウメちゃんはそれには答えようとせず、マユちゃんから目をそらして持田さんに噛み付いた。

「なんで何も言わねーんだよ! いつものブン吉なら、イヤミの1つや2つ偉そうに口にしてんじゃねーかよ!」

「思い上がりもそこまでいくと、気持ち悪いのを通り越してむしろ滑稽ね。笑えてくるわ。まるで、ウメ吉が得点出来なかったからコウジョが負けたという物言いね。調子に乗るのもほどほどにしたら?」

「ぶっ殺す!」

 ウメちゃんが持田さんのブレザーの襟元を両手で掴んで引き寄せた。

「ウメちゃんっ! 手すぐ離して頭冷やせ。持田さんは言い過ぎ。いつも言い過ぎてるけど、今のは聞いてて全然笑えないよっ。これ以上喧嘩するなら、先生呼ぶから」

 怒鳴った私をジッと見つめ、ウメちゃんは舌打ちをしながら持田さんから手を離した。

「はい、2人とも喧嘩のあとは仲直りだよ。握手、握手」

 ハルちゃんが精一杯明るく振舞う。

「ワリィ、ハル。そういうの、なんか違う気がする。アタシ先帰るわ」

 着替えを済ませたウメちゃんが更衣室から出て行った。

 このままじゃ、ダメだ。

 何を言えばいいのか全然分からないけど、とにかく追いかけなくちゃ!

「ゴメンみんな。私、ウメちゃん追いかける。先に行ってて」

 更衣室の扉を勢い良く開けたところで、米山先輩と鉢合わせした。

「キャッ」

「わっ。先輩ごめん。お願い、先輩も一緒に来て!」

「えっ!? 飯田さん、どこへですか? 私、着替えがまだなのですが――」

 状況を飲み込めずに、アタフタする先輩を拉致してウメちゃんを追いかける。

「陽子ちゃーん、コンビニで待ってるからねー」

 走りながら振り向いて、叫んでいるハルちゃんに手を振った。

 私の前方にウメちゃんの姿は見えない。

 窓から校門をしばしの間、注視する。ウメちゃんが通る気配は全く無い。

 ということは、まだ校舎の中にウメちゃんはいるはずだ。

「梅沢さんに話があるのですか?」

 校舎の中でウメちゃんが行きそうな場所を思案していると、気を使った様子で米山先輩が尋ねた。

「あ、はい。更衣室で少しモメちゃって……」

「そうでしたか。なにやら大きな声が聞こえたので、もしかしたらと思いましたが」

「あーーーっ!」

「キャッ! ど、どうしたんですか?」

 私の声に先輩は驚いて、恐る恐る尋ねた。

 あのときのミーちゃんの言葉を思い出したのだ。

 ――漫画だと不良はだいたい屋上にいるよね。


 階段を駆け上り、屋上の扉をゆっくりと少しだけ開けてみる。

 手すりに寄りかかり、5月の穏やかな風に長い金髪をなびかせ、ボーっとした表情で空を見つめるウメちゃんがいた。

 よし……この後、どうしよう。

 私が迷っていると、米山先輩がスッと前に出て、そのままウメちゃんの方へ歩いて行った。

 わっ、先輩行っちゃった。私は……とりあえず見守ろう。なんせノープランだしね。

「風が気持ちいいですね。景色も美しいですね。富士山もよく見えます」

 優しく語り掛ける先輩をウメちゃんが無言で見つめる。

 米山先輩はそのままウメちゃんの隣に並び、同じように手すりに寄りかかって青空を眺めた。

 2人は言葉を交わすことなく、少しの時間が経過した。

「アタシだけ、何も出来なかった……」

 先に口を開いたのはウメちゃんだった。

「そんなこと、ありませんよ。梅沢さんは十分に頑張りました」

 ウメちゃんが首を激しく横に振る。

「マユは必死で3ポイント決めてくれた。ブン吉は、陽子のサポートしながらボールも運んでパスも捌いて、得点も決めて。ハルはサンナンのキャプテンや、170センチのでかい奴相手にリバウンド取ってくれた。陽子は、最後までアタシにパスくれたのに……」

「梅沢さんは、不器用な人ですね」

「えっ? アタシが?」

 米山先輩がそっとウメちゃんの背中をなでる。

「バスケのプレイの話じゃありませんよ。性格の話です。みんなが責めてくれたら、自分から謝ることができますよね。そちらの方が、梅沢さんにとったら気持ちは楽ですよね」

 ウメちゃんが小さくコクリと頷く。

「マユは体力限界の中で、外にディフェンスの気を引くために頑張ってくれた。アタシ、約束したんだ。ドライブ決めて、マユが楽にシュート打てるようにしてやるって。それなのに、アタシ……」

「みんながなぜ、梅沢さんを責めないか分かりますか? みんな梅沢さんの気持ちを痛いくらい理解しているからです。あなたが決して自己中心的な考えでプレイしていたわけではないと、そしてアウトサイドからのシュートを楽に打たせるために奮闘していたことを十分承知しているからこそ、あえて何も言わないのです」

「うっ……」

 ウメちゃんが言葉を詰まらせる。

 今にも泣き出しそうな表情だ。

「飯田さんが、なぜ最後まで梅沢さんにパスを出したか分かりますか? 『自分の最大の武器であるドライブでみんなを助けたい』という、あなたの気持ちに応えるためです。そして、あなたなら、サンナン2年生の強大な壁であるインサイドをぶち抜けると信じていたからです。そんな皆の希望と信頼をボールに託したのです」

「あ、アタシ。うっ……ううう」

 ウメちゃんは泣きながら先輩に抱きついた。

 震える肩を優しく抱きしめ、米山先輩が静かに語りかける。

「梅沢さんがみんなのことを思うように、みんなも梅沢さんのことを思っています。何の問題もありません。言葉が足らなかったり、少し意地を張ってしまったり、ボタンの掛け違いのようなものです。そして、みんなの気持ちに応えるには、やはりプレイで表すしかありません。私達はバスケ部なのですから」

 米山先輩の声に耳を傾け、ウメちゃんはコクコク頷きながら泣いていた。

 先輩の話とウメちゃんの気持ちに胸が熱くなって、涙が溢れて止まらなかった。

 私も先輩の胸の中に飛び込みたい衝動に駆られたけれど、ここはグッとこらえてその場をあとにした。


 ゴールデンウィーク明けの金曜日、ウメちゃんはいつも通りに朝練にやってきた。私から元気に声をかけると、ちょっぴり引きつった笑顔を見せて、あいさつしてくれた。

 昨日の練習試合のことも、ウメちゃんの件も一切触れずに淡々と朝の練習メニューをこなして時間が過ぎた。

「では皆さん、そろそろ切り上げて教室へ戻りましょう」

 米山先輩に声をかけられ、私達はカゴにボールを片付ける。

「あのさ……昨日はゴメン……なさい」

 私達を呼び止めて、ウメちゃんが深く頭を下げた。

「ウメちゃん……」

「試合終わってみんな色々思うことあったはずだし、それなのにアタシだけ感情的になって雰囲気わるくして。先輩にも迷惑かけて。アタシ……」

 頭を下げたままウメちゃんは涙声で謝った。

 持田さんがウメちゃんの前に歩み寄る。涙を溜めたウメちゃんがゆっくり顔を上げたとたん、持田さんの強烈なデコピンが炸裂した。

「イテッ! な、何すんだよ?」

「デコピンよ。中指で相手の額に打撃を与える方法よ」

「んなこと、聞いてねーし。ドヤ顔すんな」

 ウメちゃんが痛そうに額を押さえながら、得意げに説明する持田さんにつっこむ。

「すっきりしたわ。これで昨日の件は水に流すことにするわ」

「持田さん、優しいねえ。カヤさんが気にしないように、憎い心遣いだね」

「な、何を言っているのかしら飛鳥さん。私はただ、ウメ吉の広大な額に、未知なる可能性を秘めた力を解き放っただけよ」

 持田さんの中指は聖剣か何かですか?

「す、すごい! フミカちゃんのデコピン、技の名前教えて」

 ほら、中2病っぽいワード出すから、マユちゃんが食いついてきちゃった。

 技の名前って、そりゃデコピンでしょ。

「よしっ、じゃあ私も! ファーストフィンガー・アタッーク!」

「痛いっ。何で私にデコピンするのー?」

 額をさすりながらマユちゃんが私を睨む。

「我が最大奥義を心と体に刻み込め」

「うざっ。そのポーズやめろ」

 ウメちゃんが私の指差す腕を掴んで振り下ろす。

「飯田さん、中指はセカンドフィンガーもしくは、ミドルフィンガーなのだけれど」

「そうなんだ。じゃあ、ミドルフィンガー・アタッーク!」

「イタッ! ハルちゃん、何すんの?」

 持田さんの話を聞いたハルちゃんが、叫びながら私に攻撃した。

「デコピンよ。中指で相手の額に打撃を与える方法よ」

「フハハハッ。似てる。ハル、超似てるし」

 持田さんのモノマネをするハルちゃんが、みんなを笑わせた。

「私、そんな顔で言っていないわ。痛いっ!? ちょっと飯田さん」

 不服そうな持田さんにデコピンを1発お見舞いした。

 すぐに持田さんから仕返しされ、いつの間にか私達は全員を巻き込んだ仁義無きデコピンバトルへ身を投じていった。

「……あのう、皆さん。私、先に行きますよ。皆さんも遅刻しないようにしてください」

 米山先輩が体育館をあとにしてからもデコピンの応酬は止むことなく、危うく遅刻しそうになった。

 教室に戻ると目を丸くしたミーちゃんに、おでこの赤い理由を尋ねられた。

 苦笑いしながら「朝練でちょっと過熱しすぎて」と答えると、ミーちゃんはさらに不思議そうな顔をしていた。


 昼休み、私達バスケ部は制服姿で練習する。

 もちろんスカートの下は体育着の短パンをはいているけどね。

 部員が5人揃って、正式な運動部としての届けを提出したのが5月に入ってからだから、まだ認可されていないのだ。

 昼休みも早く練習着とバッシュでバスケがしたい。この格好、動きにくいんだよね。

「私達の練習って、今のままでいいのかなあ?」

 シュート練習を中断してハルちゃんがつぶやいた。

「どういうこと?」

「試合して思ったんだけど、私達が戦わなくちゃいけない相手は、2年生なんだよね?」

「ええ、そうね。今年のウィンターカップと来年のインターハイは1学年上を相手に戦うことになるわね」

 持田さんも手を止めて会話に加わる。

「最後のチャンスは、来年のウィンターカップだよな? それまでに全国行けないと3年までバスケは出来ない。でもさ、来年のウィンターカップは3年が引退してるから、タメが相手じゃね?」

「あのお。ウィンターカップにも3年生の出場権があるみたいです」

「ゲッ!? マジ?」

 マユちゃんの発言にウメちゃんだけではない、みんなが驚いた。

 昨日の練習試合を経験し、1つ学年が違うだけで体力もスピードもテクニックも段違いであることを皆が身に沁みている。

 三島南高校はインターハイ予選を敗退したチームである。その学校に私達は歯が立たなかった。

 正直に言って、皆が底知れない恐怖に似た感情を抱いていたのかもしれない。

「全国大会に出場するような強豪校の3年生は、おそらくウィンターカップに出てくるはずです」

 神妙な口調でマユちゃんが続ける。

「結局、他校の先輩を倒さなければ、私達に未来は無いと言うことね。それで話を戻すけれど、飛鳥さんは何か考えがあるのかしら?」

「考えとういうか、少しだけ思ったの。渡辺先生はいつも一生懸命に教えてくれるし、それで少しずつだけど上達もしてきたし、不満や文句があるわけじゃないんだ。ただ……」

 ハルちゃんの声はだんだん小さくなり、やがて言葉を詰まらせた。

「ただ?」

「私達が今やっていることは、他の学校の先輩たちがとっくの昔に練習したことだよね? それで私達が追いつけるのかなって……」

「ハルカちゃんの言うことも分かるけど、私初心者だし……」

 マユちゃんがすまなそうにうなだれる。

「いや、そういう意味じゃなくてね。私達は初心者だから、絶対的に基礎は必要なんだけどそれだけじゃなくって、何か切り札になるような練習があったらいいのにって思ったの」

「たしかにハルの言う通りかもな。年上の奴らにも勝てる、なんかスペシャルなのが欲しいよなっ」

 ウメちゃんが歯を見せてニカっと笑った。

 特別な何か……。

 皆で輪になって考え込んでいるうちに、予鈴が体育館にこだました。

 ボールを慌てて片付け、みんな難しい顔をしたまま各々の教室へ戻った。


 午後の授業も終わってホームルームのあと、私は第1回進路希望調査表を職員室の国府方先生に提出しに行った。今日のホームルームは忙しい国府方先生に代わって副担任の塩屋先生が務めたのだ。

 1年生の5月に進路希望調査表なんて早い気がするけれど、県内屈指の進学校である光城学園においてはごく当たり前のことである。すでに具体的な志望大学や学部、それに大学卒業後の希望進路までかたまっている子も少なくはないから、驚いてしまう。

 もちろん1年生の今は、大学進学希望という漠然としたものでも構わないし、比較的自由なことを書いても許される。

 ちなみに私は、「でっかいことをやりたい!」と大きな字で書いてみた。

「失礼しまーす」

 職員室の扉を開けると、国府方先生は荒井先生と何か話をしていた。

「――と、まあそういう訳で、やめさせてもらうわ」

「非常に残念ですが、考え直す気は無いんですね」

 軽いノリで話す荒井先生とは対照的に、国府方先生の先生の表情は深刻だった。

「色々世話になったのに、ワリィな」

「いえ、こちらこそ。荒井先生が真剣に取り組んでくださったのはよく理解しておりますので。それに、人には向き不向きがありますしね……」

 えっ!? 何の話してるの? 荒井先生がやめる? 向き不向き?

 耳に飛び込んできた会話を必死に整理しようとすればするほど、パニックに陥った。

「おっ、飯田。進路希望調査表出しに来たのか?」

 私に気がついた荒井先生が、いつものやる気の無い声で話しかける。

「あ、うん。国府方先生、よろしくお願いします」

 進路希望調査表を先生に手渡すと、それを覗き込んだ荒井先生が豪快に笑い出した。

「ハハハッ! おい、飯田。『でっかくなりたい』の間違いじゃないのか? ハハハッ!」

「ちょ、ちょっと荒井先生、ダメですよ。教師とはいえ、こういうのはプライバシーにも関わりますから」

 焦った様子の国府方先生が注意する。

 いつもの私であれば、「荒井先生だって小さいくせに!」なんて憎まれ口の1つも叩いていたのだけれど、今はそれどころではなかった。

 さっき聞いた2人の会話が耳から離れない。おおよその内容は見当がつく。しかし、その内容は私にとって受け入れがたいものであり、あまりにショックが大き過ぎた。

「私、これで失礼します」

「おーい、飯田。良く食べて、良く眠れ。まだ可能性はあるから、あきらめんなよー」

「だから荒井先生、そういう軽はずみな発言は――」

 後ろから、面白そうにからかう荒井先生の声と、それを制止しようとする国府方先生の声が聞こえた。

 ダメだ。荒井先生が学校を辞めちゃうなんて。監督らしいこと、まだ1つもしてくれてないのに。何も教えてくれていないのに……。

 私は無意識のうちに、講師室へ向かって走っていた。

 息を切らしながら、勢い良く講師室の扉を開ける。

「塩屋先生っ」

「おおっ! 飯田さんかいな。元気があって良いが、あまり大きな声を出さんでくれ。心臓に悪いわい」

 塩屋先生は飲みかけのお茶をこぼしそうになり、机に一度湯呑みを置いてから私に視線を向けた。

「先生、どうしよう? 荒井先生が学校辞めちゃう!」

「むむ? ワシはそんな話は聞いておらんよ」

 塩屋先生は眉間に深いシワを寄せながら、口ひげを触った。

「さっき職員室に行ったら、国府方先生と話してるの聞いちゃった! 国府方先生も『残念だ』って言ってたもん! 私、荒井先生を引き止めたい。だから塩屋先生、昔の荒井先生のこと教えて!」

「……ふむ。いい機会かも知れんのお。これは荒井君が大学2年のとき、本人から聞いた話なんじゃが……」

 少し考えた後、塩屋先生は私を優しく見つめ、荒井先生のことを聞かせてくれた。

 荒井先生には、小学生から一緒にミニバスを始めた井川雄介君という親友がいた。小、中、高と同じチームでプレイを続けた2人は本当に仲が良く、またよきライバルでもあった。

 井川君は荒井先生より10センチ以上背が高く、優れた運動能力と猛練習の末に身に付けた高確率な3ポイントシュートを武器に、高校時代シューティングガードとして活躍していた。荒井先生は努力家ではあったものの、彼とは対照的に特別目立つような選手ではなく、いつも控え選手であり滅多に試合に出る機会も無かった。

 2人は高校卒業後、駿河中央大学へ進学する。

 バスケ部入部当初から井川君は才能を存分に発揮し、1年生で唯一背番号を獲得してベンチ入りを果たした。

 将来有望な1年生ルーキーに誰もが期待し、「2、3年後は井川を中心にしたチームでインターカレッジ出場間違いない」と皆が口をそろえて噂していた。

 その年の10月、突然の悲劇が襲った。練習中に倒れた井川君が病院に搬送され、その後の詳しい検査の結果、急性白血病と診断されたのである。

 バスケ部の面々から後援会の保護者やOBにいたるまで、全ての人たちは大きなショックを受けた。その中でも、子供時代から学校生活、バスケを共に歩んできた荒井先生の心痛は計り知れないものだった。

 病に倒れた親友のためにも荒井先生は、なおいっそう練習に打ち込んだ。

 そして大学2年の夏、荒井先生はバスケ人生で初めてスタメンに抜擢されたのである。

「……荒井君が駿河大のシューティングガードとしてスタメンに選ばれた後、井川君の容態が急変してのお。帰らぬ人となってしまった。未来ある若者が亡くなるのは、悲しいことじゃの」

 塩屋先生は話し終えると、目つむってため息をついた。

「荒井先生がバスケを拒絶するようになったのは、親友の死が原因だったんだ……」

「いんや。たしかにそれは理由の一つかも知れんが、荒井君は大学を卒業して大学院生のときにバスケ部のコーチをやっとる。それに、この学園に来る前は、浜松の公立高校で男子バスケ部の監督も務めとるよ」

 驚いた! 荒井先生が別の学校でバスケ部の監督をやっていたなんて!

 それなのに、なぜ私達の監督は引き受けてくれないのだろう?

 こうなったら、本人に直接聞くしかない!

「塩屋先生、ありがとう。あとは、荒井先生に聞いてみる」

「今日、荒井君はもう帰ったと思うぞ。8月6日が井川君の命日なんじゃが、毎月必ず同じ日に墓参りに行っておるんじゃ」

 塩谷先生から霊園の住所を教えてもらった私は、囲碁将棋部が活動している教室に駆け込んだ。半ば強引に国府方先生を説得して車に乗せてもらい、井川君のお墓がある霊園へ向かう。

 霊園は、駿河中央大学のキャンパスが見下ろせる小高い丘に位置していた。

「飯田さん、着きましたよ」

「ありがとう。ほら、先生も早く来て」

「えっ! 僕も行くんですか? 僕は部活に戻らないと――」

「先生にも責任あるんだからね! あのときちゃんと荒井先生を止めてくれていれば、こんなことにならなかったんだからっ」

 腕を引っ張り、語気を強めて言う私に観念した国府方先生は、渋々車から降りて歩き始めた。

 お寺の事務所で井川君のお墓を教えてもらって先を急ぐ。

 平日のこの時間帯は、お参りに来ている人もほとんどいない。

 井川君のお墓の前に座り、熱心に手を合わせている荒井先生の姿があった。

「先生っ」

「飯田!? 何でここに?」

 思ってもみない私の登場に、荒井先生は目を丸くして尋ねた。

 しかし、後ろで気まずそうにしている国府方先生を見て、すぐに状況を理解したようだ。

「先生は別の学校で監督してたのに、何で私達の監督は嫌がるの?」

「……じいさんから聞いたのか?」

「井川君のことも聞いたよ。先生、ちゃんと教えてよ。そうじゃなきゃ納得できないよ!」

 声を荒げる私を見て、荒井先生は手で額を押さえながら深いため息をついた。

「ガキの頃、あいつと……雄介と約束したんだ。バスケで全国制覇しようって。中学は東部大会までいった。高校では県ベスト4。いよいよ大学でって時に、雄介が倒れちまった。オレは高校までほとんど試合に出たことは無い。そんなオレに「頼む!」って言ったんだ。死に物狂いで練習した。大学4年間を全てバスケに費やした。それでも全国優勝は出来なかった……」

「準優勝でもすごいことじゃん! それにバスケは1人でやっているんじゃないんだよ!」

 荒井先生は静かに頷く。

「飯田の言う通りだ。インカレ準優勝という結果に不満があったわけじゃない。あのとき、最高の仲間とプレイできたことは今でも誇りに思ってる」

「じゃ、なんでバスケを拒絶するの?」

 私が尋ねると、先生は悲しい目で見つめた。

 荒井先生のこんな表情、見たこと無い。

「オレは大学院を卒業後、浜松の県立高校で教師を務めた。そこで男子バスケ部の監督に就任した。雄介との約束を果たすために……」

「あっ! バスケで全国制覇。そっか、監督として目指したんだ」

 荒井先生が小さく頷く。

「オレが監督に就任して、1ヶ月で部員の半数が辞めた。ハードな練習についてこられなかったんだ。3ヵ月後に残ってたいのはたった4人だ。言われたよ。『監督として名を上げたいなら強豪私立校に行ってくれ』『僕達は勉強の息抜きに楽しくバスケがしたかっただけなのに』ってな」

 言いながら先生は自らを嘲笑した。

「私はコウジョが強豪になることを目指してる! 全国大会目指してるんだよ!」

「なあ飯田、練習は楽しいか?」

「えっ……そりゃ、楽しいよ。きつい時もあるけど。バスケが好きだもん」

 突拍子の無い質問に戸惑った。

「オレの練習はつまらねーぞ。いつもきつくて、苦しくて、きっとバスケが嫌いになる。楽しい練習しているうちは、絶対に全国へは行けない」

「わ、私は、みんなと3年間一緒にバスケがしたいんだよ! 全国行けないと、廃部になっちゃうんだよ!」

 精一杯の思いを口にする。

「その前にオレが監督になることで、練習に耐えられなくてリタイアする奴が出るとは考えなかったのか?」

「そ、それは……」

 正直、そこまで考えていなかった。

 考えの甘さを突きつけられ、言葉が出てこない。

「オレは、バスケの好きなお前らが、バラバラになるところなんて見たくねーんだよ。オレの自分勝手な理由のために、お前らを巻き込みたくないんだ。なあ、飯田。せっかく良い仲間に出会えたんだ。渡辺が監督の部でもいいし、サークルだって構わない。純粋にバスケを楽しむだけでも、いいんじゃねーかな?」

「よくないよっ! 全然よくないよっ!」

 私の怒鳴り声に、荒井先生は少し後ずさりして驚いた。

「飯田……」

「私は正式なバスケ部として、みんなで3年間プレイしたいんだ! サークルは大学入っても、大人になっても好きな人が集まればいつでも出来るよ。でも、ハルちゃんと持田さんとウメちゃんとマユちゃんと、このチームでバスケができるのは、高校3年間しかないんだよっ! 先生は私達のこと理由にしてるけど、ホントは負けるのが怖いだけじゃん! また負けて、親友との約束を破ることを恐れてるんだよ!」

「お、落ち着け、飯田。お前の意思は分かった。でもな、お前がさっき言ったようにバスケは1人でやるわけじゃない。じゃあ、他の奴らの気持ちはどうなんだ? 飛鳥は? 持田は? 高校生活のすべてを部活に費やしたいと考えてるのか? 梅沢は? やっと出会えた理解者たちと、楽しくバスケがしたいだけじゃないのか? 真由子は? 今でも練習についていくのがやっとなはずだ。本当に耐えられるのか?」

 次々と投げかけられる質問に、私の心は揺れ動いた。

 私の気持は、独りよがりなのでは?

 ただの自己満足では?

 みんなの心は……。

「高校生活、全てをバスケにかけますっ!」

 ハルちゃんの高らかな声!

 振り向くと、そこにはみんなが立っていた。

「ずいぶんと甘く見られたものね。極めて遺憾だわ。中途半端な覚悟でキャプテンの飯田さんについていけるはずが無いじゃない」

 持田さん、それ褒めてるの?

「だな。アタシ、仲良くしたくてバスケやってるわけじゃないし。って言うか、試合で負けるとか超ムカつくし」

 ウメちゃんらしい。

「私は、正直きついのとか苦しいのは嫌だよ。でも、試合で負ける方が嫌だし、バスケ部が廃部になっちゃうことの方がもっと嫌!」

 マユちゃんがキッパリと言い切った。

 マユちゃん、なんだか日に日に頼もしくなっていく気がするよ。

「まあ、そういうわけじゃ。なあ、シン。もう一度、この子らと一緒に戦ってみてはどうかの? この子らも、お前さんを必要としておる。いつまでも、井川君に謝り続けておるわけにもいかんじゃろ?」

 塩谷先生の穏やかな声に耳を傾け、荒井先生は私たち一人ひとりを見つめる。

「バスケ部監督、オレが引き受ける!」

 荒井先生が力強く宣言した。

 私たちは顔を見合わせ、笑って抱き合い喜んだ。

「それじゃあシン、教員を辞めるというのも白紙じゃな?」

 塩屋先生も嬉しそうに尋ねる。

「は? 何言ってんだ。オレがいつ辞めるって?」

「飯田さんが言っておったぞ。職員室で国府方先生と話しているのを聞いたと」

 荒井先生が首をかしげる。

「ああ、そのことなんですが。車の中で飯田さんに説明しようとしたんですが、全然聞いてもらえなくて」

「えっ! 違うの?」

「荒井先生がやめると言っていたのは、囲碁のオンラインゲームのことです。ほら、僕、囲碁将棋部の顧問やってるでしょう。1人でも多くの方に素晴らしさを知ってもらいたくて、荒井先生にも薦めたんですよ」

 えっ、オンラインゲーム!?

「国府方に色々教えてもらって始めたんだけど、見えない相手と対局するってのは味気なくってよ。やっぱ、囲碁や将棋は人間同士向かい合ってやるのが1番だからな」

 荒井先生が力説して、自分で納得するかのように何度も頷く。

「あははは。ですよねー。囲碁でネトゲはありませんよねー。あははは」

 しまった。思いっきり勘違い。

「また、飯田さんの早とちりってことかしら?」

「だな。でも、雨降って地固まるって感じじゃね?」

 おっ、ウメちゃんナイスフォロー。

「えっ! 陽子ちゃん、痔だったの?」

 ハルちゃん何でだよっ! 

「痔って、練習のとき痛そうだよね」

 マユちゃん、拾わなくていいからっ!

「ええいっ! 早とちりでも痔でも何でもいいやい! みんなっ、愛してるぜい!」

 4人を強引に抱きしめた。

 荒井先生の明るい笑い声が聞こえてくる。

 私たちを見て、井川君も笑ってくれているかな?

 あなたの親友、荒井先生と一緒に、コウジョバスケ部は必ず日本一になるからね!

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