二章

1.夕暮山道

「一直線に目標だけをみなさい、障害が目に入らないように」



「あの女性いったい誰なんだ?」

 突然現れ死ぬことに恐怖しない僕が恐怖させられた。赤神茜の知人らしいが、訳も分からず逃げ出してしまった。長身の女性。聞きたいことは山ほどあったがとりあえず女性のことを運転席にいる赤神茜に聞いてみた。

「そういえば、言ってなかったわね。いいわ、教えてあげる。私は人に教えるのが大好きなの」

 その割には何も教えてもらってない。僕は無理矢理巻き込まれただけだ。

「彼女の名前はヘイス・ラム。名前の通り見た目の通り外国人だけど日本育ちよ。私が幼い時からの…んー知り合い?みたいなもの。あんな偉そうな物言いするけど、ただの人間よ。あの体力のなさは人間以下かしら。ふふふ」

「相当彼女のことを嫌っているんだな。」

「当り前よ。そもそも、わたしとヘイス・ラムに接点があること自体がおかしいのよ。あの類の人間は総じて嫌い。嫌い嫌い嫌い嫌い大っ嫌い。だってヘイス・ラムは精神科医なんていう下種な人種なのだから。」

 ―――精神科医

 なるほど、なんとなくわかった。赤神茜がヘイス・ラムのことを嫌っているのも。赤神茜がこんな性格なのも。

「驚かないのね」

「え、いや、驚きはしたよ。けれど、僕が首を突っ込むところでもないだろう?」

「ふふ…賢明なことね。私の恥を晒すのは腹立たしいからうれしいけど、反応がなかったのは、それはそれで悲しいものね。それとも本当に興味が無いのかしら。」

 どっちに転んでも面倒くさいのは変わりないようだ。

「興味がないわけでは無いさ、じゃあ君はなにか精神的な障害でも持っているってこと?」

「最初にそう切り出されたら山道に捨てるところだったわ。」

 それはそれでありがたい。

「あと、私のことはさっきみたいに茜でいいわ。茜ちゃんでも可」

 僕は人の名前を呼ぶことに抵抗がある。親しい間柄というものを知らない僕にとっては名前を呼ぶのも呼ばれるのも等しく警戒に値する。自分の名前に拘りがあるわけでは無いが、結局自分以外の人間は赤の他人だ。親だってそうだ。親だって、自分に近い他人ということだけで他人であることは変わりない。『ねぇ』や『なぁ』など名前を使わずにコミュニケーションは取れる。いつもそうしてきた。そんな他人が自分の固有名詞で呼ばれると、警戒するのが僕の当然だ。当たり前だ。学校の教師やクラスメイトが自分の名前を呼ぶ様は、狂気の沙汰でしかなかった。自分が嫌なことを他人にするのはやはり出来ない。人のことを名前で呼ぶなんておこがましい。それは赤神茜に対してだって例外ではない。だから、廃ビルで茜と呼んだことは、僕の人生で恥じるべき汚点なのだ。

「あの時は、その精神科医が君のことを名前で呼んでいたからつい…すまなかった。」

「謝ることは無いわよ。私のことを茜ちゃんと呼んでくれれば、全部許してあげる。」

「いや、でも」

「私が茜ちゃんと呼ぶことを許しているのだから、あなたは茜ちゃんと呼ぶことしか許されないのよ。あなたが茜ちゃんと呼ばないことは人生で恥じるべき汚点なの。さあ、言いなさい。敬意を込めて、茜ちゃんと呼びなさい。」

「…わかったよ、茜ちゃん…」

 折れてしまった。どうしたって人生に汚点がつくらしい。汚点だらけの人生はまた汚れてしまった。押しに弱い節があるのは自覚しているのだが、赤神茜の押しはいくらなんでも強すぎる。横綱ですら押し負けるであろう。

 満足したのか茜ちゃんは説明を続ける。茜ちゃんの精神的障害を。

「自己愛性パーソナリティ障害、自己愛性人格障害ともいうけどどっちでもいいわね。極度のナルシズム。度が過ぎる自己愛。ありのままの自分を愛すことができず、もっと偉大な存在だと思い込むパーソナリティ障害の一つ。」

「ナルシズム?ナルシストならたくさんいるだろ?それに、自分が大好きなんて山ほどいるし、障害と言われるほどなのか?」

「だから、極度のナルシズム。度が過ぎる自己愛って言ったでしょ。そこらの自分大好きナルシストと一緒にしないで。もっとひどいの。それこそ病的に。限度の無い理想的な愛。過激すぎる賞賛の要求。想像を絶する特権意識。狂気じみた他人への嫉妬。そういうのを持っている人たちが自己愛性パーソナリティ障害。それがヘイス・ラム。そして社会が私に下した診断結果。」

 たいして興味もなさそうに太宰治もその障害者だと言われているのよ。と付け加えた。なるほど、思い起こさずとも赤神茜の言動にはそれらが当てはまっている。数回話しただけだが赤神茜のような人物は見たことも会ったこともない。これほど異常な奴は見たこともない。障害と判断されるのも無理もない。自分の恥を晒すのは嫌だと言っていたが、なんとなく誇らしげに語る赤神茜は自己愛性パーソナリティ障害の一端なのがわかる。人並みに苦労していたと、あの廃ビルで言っていたが精神障害を持っているのだ。その苦労は並々ならぬものなのだろうか。

「それで、あの精神科医は君の担当医ってところか。」

「だから茜ちゃんと呼べと何度言ったらわかるのかしら。」

 突然、怒りに任せただでさえ危なげな運転は勢いよく蛇行した。もはや反復横跳びのようだ。揺れる揺れる。僕が死ぬのは構わないが、これだと赤神茜も巻き込んでしまう。

「悪かった。茜ちゃん」

「わかればいいのよ。あと、ヘイス・ラムが私の担当医というのは表向きでは正解だけど、簡単に正解をあげるのも気に食わないし、面白くない。やっぱり不正解だわ。」

 それは気分の問題ではないのか。もともとコミュニケーションが苦手なのに、茜ちゃんと会話するのは寿命が削られる。あ、削れていいのか。

「裏向きでは違うのか?」

「そうそう、そういう質問が欲しかったの。その方が説明の甲斐があるというものよ。やっぱり弥彦は面白いわね。」

 面白さは関係ないと思う。素直に聞けば素直に教えてくれる。根はいい子だと思うんだけどな。素直になれないのは、やはりこれも僕だ。無知を重ねて嘘で固める。僕の二十数年間はそうやって出来てきた。

「表向きでは私の担当医、けれど、裏向きでは私の監視者。」

「監視者?自己愛性パーソナリティ障害って監視するほどのものなのか?」

「そこは、自己愛性パーソナリティ障害とは全く関係ないわ。別の問題。もともと、自己愛性パーソナリティ障害は特別な障害でもないし、その障害を持っているにも関わらず普通に生活している人たちはたくさんいるの。知らずに生活している人も。ましてや、担当医をつかせるほどの発症者はそんなに多くない。それなのに私には付きっ切りの担当医がいる。これは普通ではないわ。もっと別の理由。障害とは関係なく私を監視する必要があるの。私は特別だから。」

 特別。特権意識。自己愛性パーソナリティ障害の症状である。でも、それとは関係のない別の理由。自己愛性パーソナリティ障害である赤神茜の最も強い気持ちは、自分に対する才能や能力の期待というところか。伝説になるべきだと疑わない彼女は、それを大言壮語できるほどの才能や能力を本当に持っていたのかもしれない。嘘で固められたのは僕であって、赤神茜は素直な人間だ。赤神茜と話すとそれが分かってきた。赤神茜の伝説。伝説だと言い切る理由。

「私の瞳。赤いでしょ?」

そういえば茜ちゃんの瞳は赤い。廃ビルの時から不思議に思っていた。その目を見ると魔法でもかけられているかのような、そんな感覚。

「―――呪われているのよ、この目は。」



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