2.夕暮逃避行

長身の女性は気配もなく音もなく現れた。

黒いコートに長い金髪。日本の人ではないのだろうが、随分と日本語が達者だ。顔立ちは整っているが、疲労している顔がもったいない。

一目でこの人は危険だと感じた。危機察知能力が欠けている僕であるのだが、本能なのだろうか、おぞましいものに見えた。

素直にいえばこの女が怖いと思った。

死ぬことが怖くないくせに、人を見てこんなにも怖いと感じることがあるのだろうか。

「自由時間はおしまいだよ。とはいえ茜には、自由時間なんてまだまだ早いんだ。戻るよ。」

「なに言っているの?私はいつだって自由よ。自由でなかったことなんて人生で一度もないわ。」

「そうだな。確かにそうだ。茜の自由を縛ろうなんて一度もできたことなかったな。けど、

無暗に人に会ってしまった。そこが問題なんだよ。」

そういって僕の方に目を向けた。

「君、今すぐその子から離れろ。」

鋭い目つきで睨み、僕は思わず怯んでしまった。恐れてしまった。

瞬間。

赤神茜は僕の腕をつかみ走り出した。

「待て!茜!」

長身の女性が追いかけてくる。

「残念だけど今日はあなたに構っている気分じゃないの。私、夕暮弥彦君のことが気に入っちゃったの。じゃあね」

この廃ビルは十階建てのビルで建物がとても長い。ビルと言っても学校の校舎のような形をしている。ビルには正確な高さの定義が決められておらず、二階建てでもビルと呼んでも問題ないらしい。

屋上に出る搭屋は2つ。

一つは僕が入ってきた所であり、長身の女性の入ってきたところである。

もう一つは廃ビルの反対側にあり距離がある。そこにはかつて使われていたであろう空調機器がおかれている。もちろんそこにも一階に続く階段が存在する。

赤神茜は僕の腕をつかみ、もう一つの搭屋に走り出した。長身の女性から逃走を図るが、僕たちと女性の距離はそんなに離れていない。すぐ追いつくことができるだろう。

僕だけかもしれないが長身の女性は足が速いイメージがある。母がその例だったのでそんなイメージがあるのだろう。

そう思ったのも束の間、女性はすぐに息を切らせて膝に手をかけた。

「・・・ぜえ・・・ぜえ」

おいおい、ほんの少し、距離で言えば三十メートルくらいだろうか。それでギブアップは体力なさすぎるだろ。とわいえ、薬漬けの体の僕もそう長くは走れない。まあ、女性があの調子なら追い付かれることはない。

反対側の搭屋に入り、階段を駆け下りた。

「おい、茜。何で逃げるんだ。説明してくれ」

あ、思わず茜と呼んでしまった。

「それはあと。ふふ・・・こうやって敵から逃げるのも楽しいわね。」

敵。

敵と言った。

彼女にとって、あの女性は敵と呼ぶべき存在なのか。

敵から逃げる。

いつも逃げてばかりの僕は楽しいとは思わない。というより逃げることしかできないのだから。なんだかわからないが、空気を読んで赤神茜についていくとしよう。やはり、あの女性は恐ろしいと感じる。

「今茜って呼んだ」

女性が茜と呼んでいたのでついついその名で呼んでしまった。

見ず知らずの赤の他人に名前を呼ばれるのは警戒に値する。警戒されてもいいんだけど。

フレンドリーに対応して仲良くなるなんて僕にはできない。フレンドリーな人間はどうして仲良くなんてできるのだろう。

廃ビルのエントランスを抜け、荒廃した駐車場へと出る。整備されていない駐車場はゴミ捨て場と化してる。そんな中、一台ぽつんと白い車があった。僕が来た時は無かったはずなので、あの女性のものだろうか。

赤神茜は真っ先に車に近づき車の中を覗く。

「ラッキー」にやりと笑いとそのまま乗り込んだ。明らかにこいつの車ではないのは明瞭だ。

「鍵も刺さっているし不用心なことね。弥彦乗って」

こいつも名前で呼びやがった。さっきの仕返しのつもりか、と今更この女に警戒する。もう流れ流されている状態で警戒心を持つのは我ながら鈍すぎる。

他人の車を奪おうとするのは、どう見ても犯罪なのだが、こいつに犯罪どうこうのいうのは野暮なことだし、言ったところでどうにもならない確信がある。

「早く乗りなさい」

「運転できるのか?」

「私にできないことはないわ」

なんて心配なんだ。まさか初めてじゃないだろうな。しかも人の車で。もう何年も乗っていないが、一応僕も運転免許くらいは持っているし、いざとなれば代わりに運転するのもいい。それに交通事故で死亡もいいだろう。自殺ではなく事故として扱われるがどっちでも構わない。

僕は車の助手席に乗り込んだ。反抗なんて許されず、するつもりもないし、流れ流される。

これで僕も盗みの犯行を起こした一員だ。

そんなわけで車は出発した。安全運転とは言い難いが赤神茜は運転ができるようだ。

これで飛び降り自殺も失敗に終わり、せっかくこの廃ビルに来たのに僕はまたもや死ぬことを許されないらしい。

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