一章

1.夕暮逃避行

「恒久的な欠落を愛してこその幸福だ」







 赤は様々な慣用句に使われ、多くの意味を持つ。

 赤貧。赤裸々。むきだしの。まったくの。何もない様子。

 穢れの無い色を纏った彼女はそこに佇んでいた。

「私、赤神茜あかがみ あかね。君は?」

夕暮ゆうぐれ弥彦やひこ

「へぇ夕暮弥彦っていうんだ。へーへー、なるほどなるほど。ふむふむ。面白い名前。夕暮に弥っていうのがいいわ。弥っていうのは、いよいよ。とか、ますます。ってことの他に広く行きわたる。長く続く。って意味もあるでしょ?夕暮が長く続くなんて面白いわ。私一日で一番好きな時間帯が夕暮時なの。ほら見てよ、空の向こう側が真っ赤。まるで私を祝福しているみたいじゃない。」

 赤神茜と名乗った女性はやたら元気が良くそんなことを言っていた。

 歳は18歳くらいだろうか。全身赤い衣装を着て街中なら目立つどころか不審者にもみえるだろう。というかこんなド派手な奴、明らかに不審だ。

 なんなんだこいつは。人のパーソナルスペースを越えて話しかけてきやがって、実際そんなに近くは無いのだが、僕のパーソナルスペースは度を越えて広い。久しぶりに他人と話すからつい、流れで名乗ってしまった。まあ先に名乗られたのだからこっちも名乗るのは当然だろう。自分でも驚いたが、まだコミュニケーションとれるのか僕。

 それに赤い目。カラーコンタクトでも入れているのだろうけど。なんだか無性に血が騒ぐ。

 おっと、ただでさえボロボロの恰好なのに顔を強張らせてしまった。まあ関係ないか。

「そうか、それは良かったな」

 屋上に人がいるなんて驚いたが、廃ビルの入り口は鍵なんか掛かっていなかった。たまたま、ここに迷い込んだってこともあるだろう。だけど、困った。人にはなるべく迷惑をかけたくない。自殺を見せられるなんて、普通の人間はたまったものじゃない。普通の人間なら。

「えっと、赤神茜さん?この通り、もう日も暮れる。ここは危ないから家に帰った方がいい。」

「別にいいじゃない。わたしはわたしがここに居たいから、ここに居るの。この景色を魅せられて帰るのはおかしいじゃない。午前中は雨だったからかな。今日は一段と赤い。あなたも、夕暮と名乗るのなら夕焼けは好きでしょう。ならいいじゃない。暮れるまでここに居たっていいじゃない。それとも、帰らせたい理由があるのかな?」

 ニヤリと赤神茜は見透かしたように笑みをこぼす。

 日が暮れる前。廃ビル。死にかけの男。飛び降り自殺の名所。この子がここに居る理由はわからないけど。いや、夕焼けが見たいからなのか?でもまあ、夕焼けを見たいのなら別にここじゃなくたっていい。しかし、体がボロボロの男が廃ビルの屋上に現れたのは、考えるまでもなく、明瞭だ。

「君には関係ない事だよ。それに、夕焼けが好きなんて考えたこともない。そんなことでいちいち感激できるなんて君は相当変わっているな。」

「あなたに言われたくないわ」

 そりゃそうだ。こんな変わってる見た目の人には言われたくない。

「でも、変わっているというのは違う。だって、私は他の人間とは違うのだから。」

「は?」

「私は違うの。あなたとは違うし。あなたという人は一人しかいないけど、あなたみたいな人はたくさんいるし、あなたの代わりはいくらでもいる。もちろんそれは、あなただけに当てはまるわけでは無いわ。人間はみんなそう。似たような人は、誰にでもいて、代わりになる人はいくらでもいる。けれど、私という人は一人しかいないし、私みたいな人はいない。もちろん私の代わりなんていない。私はただ一人で、唯一なの。赤神茜はただ一人の存在なの。『君は相当変わっている。』じゃなくて、赤神茜ちゃんは今まで会ったことない、ただ一人、唯一の存在だね。というのが正しい。他の人間は、ただ一つの存在である私を、崇め奉らなければならないの。」

 そうだな、こいつは変わっている人ではなかった。ただのヤバイ奴だ。

 恐ろしいことに、赤神茜は本気で言っている。なんの曇りもなく、誇らしげに語っている。自分で自分のことをこれだけ特別視できるものなのか。自分のことを神様とでも思っているのだろうか。夕焼けが自分を祝福しているというのも本気だったのだ。自分のことを、ちゃん付けしているのは百歩譲っていいとして、崇め奉られる存在だと思っているのがなんとも滑稽だ。

 僕は僕自身、相当おかしい奴だっていうのは自覚しているけど。僕でも同情するほど、こいつは、かわいそうだ。

「それで?あなたが私の特等席に来た理由をまだ聞いてないわ」

 赤神茜の破綻ぶりに驚いていたら話を戻された。こいつが暴走していただけなのだが。

 あくまで冷静に。

 僕は目的があってここに来たのだ。こいつがヤバイ奴だからってそれは変わることは無い。変わってなんかいない。

「もしかして、飛び降りて自殺でもしようとしてる?」

「分かっているのなら帰ってくれ。見世物じゃない」

「やっぱりそうだったのね。あなたのその恰好じゃそうとしか考えれれないもの。飛び降りの他に何度か自殺をしている様子ね。」

 首には絞めた跡。手首には治りきっていない切り傷。薬漬けで疲弊した顔。それが今の僕だ。

「ああ、そうだ。俺は死にたくてここに来た。今までのは死ぬことが出来なかった。何度も何度も自分を傷つけてきたけど、結局死ぬことは叶わなかった。誰だって死にたいときはあるだろ?僕はそれが少しばかり大きいだけだ。お前は無いのか?死にたい時っていうのは。赤神茜。」

 自殺の名所。そんなところに足を踏み入れたのはこいつだって同じだろう。

「ある。沢山ある。これでも人並みに苦労しているから死にたいと思ったことは数えきれないほどある。けれど、私はまだ死ねない。私はまだ何にも成していないもの。」

「何も成していない?」

「そう、私はまだ何も成していない。唯一である私は唯一であるべきことを何もしていない。皆が憧れる偉大な英雄とか、未来に語り継がれる伝説とか。そういう存在になるはずなのに。私はまだそれだけのことを成してはいない。私は成れるはずなの。英雄や伝説に。英雄や伝説になるまで私は死ぬわけにはいかないの。希望とか夢とか野望とか沢山あるの。それらを叶えるまで私はまだ死ねない。」

 ますます訳のわからないことを言いだした。具体的なことや現実的なことなんて一切無い。その過程をすべてすっ飛ばして夢物語を高らかに語る。赤神茜が言ったことは一蹴して否定して拒絶するのは容易いだろう。だれも信じてくれることは無いだろう。

 ―――だけど

 この夢物語は、自分が無くしていたもののような気がした。

「それ本気で言っているのか」

「本気よ。私は本気で言っているの。私は英雄や伝説になるべくして生をもったと信じているの。私は私を信じている。それは誰にも譲らない。どうせあなたも信じない―――」

「―――すごいな、お前。」

「え?」

 もちろん皮肉を込めて言ったが、素直にすごいと思った。

 英雄や伝説になれる自分を信じて疑わない。

 それが凄いと思った。自信を持つなんてことは僕には到底できっこない。

 あれだけ言っておいて僕の感想に赤神は驚いている

「いや、なんというか。自信満々に言えることが素直にすごいと思ったんだ。英雄とか伝説とかその辺は全然わからなかったけど。やっぱすごいよ。理由は何であれその自信は僕も欲しかったものだ。」

 そんなに自分に自信があったら生きにくくないか。と言おうとしたが赤神茜がすごい勢いで近づいてきた。

「あなたなかなか見る目あるわね!夕暮弥彦。うん、やっぱりいい名前。あなた良い。良いよ。すごく良い。死ぬのは勿体ないわ!」

 なんか凄い気に入られた。

 よほど褒められることが少なかったのだろうか、赤神茜は嬉しそうにしている。

 死ぬのは勿体ない。

 残念ながらそんなことは無い。死ぬことは勿体ない事ではないのだから。

 人に気に入られることが少ない人生だったので、この行為は素直に受け止めることはできない。

「それに、私の目を見ても何もない。」

 赤い瞳が真っすぐと僕の瞳を見据えた。何もないか。この目を見ると無性に苛立ってしまうが。そんなの誰も同じだ。それに、苛立ちは他人にではなく自分自身に感じる事なのだから。

 でも、不思議だこの目。なにか魔法でもかけられているかのようだ。

「こんなところにいたのか赤神茜」

 後から声がした。

 振り返ると開けっ放しの扉に長身の女性が立っていた。

 赤といえば危険を示す色だというのを真っ先に思いついてもいいはずなのに、危険に疎い夕暮弥彦は考えに至らなかった。

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