翁草は愛を語らない

藤咲 沙久

翁草は愛を語らない

 桜庭さくらば芽衣子めいこは、よく本を読んでいる子だった。柔らかな髪が頬へこぼれても、気づかないのかページをめくる手は止まらない。うっとりした可愛らしい瞳。時折ふわりと緩む唇。横顔でも輝きがわかる、大好きな表情だ。見つめるだけでたまらなくなる。

 でも、もっと愛おしいのは他にあった。これだけ読書に没頭している彼女が、こちらから名前を呼んだ途端に――

「……芽衣子」

 顔をあげ、目を合わせ、ゆっくりと花開くように微笑んでくれる。嬉しそうな声で応えてくれる。それだけで、心臓をぎゅっと掴まれるんだ。

 君が好きだと叫びたくなるんだよ、芽衣子。




雪坂ゆきさかセンパイ、こんにちは」

「また苗字。伊吹いぶきでいいって言ってるのに。いつになったら自分から呼んでくれるの」

 部室棟へ向かう途中に置かれている、少し古びた木製ベンチ。いつも芽衣子が放課後を過ごす場所だ。草花と日光の匂いを感じ、穏やかな風に吹かれ、物語の中に入り込む。図書室よりも居心地が良いと言うが、暑い日や寒い日くらい室内にいればいいのにとよく苦笑したものだった。

 とはいえ、通り道であることを理由に芽衣子と会話が出来るのは嬉しい。それがいつの間にか日課になり、密やかな楽しみへと変わっていった。

 芽衣子は部活に入っていないし、クラスどころか学年が違う。芽衣子が新入生だった頃に世話を焼いたり、花壇を整備していたら彼女の方から話しかけてきたり。そうした積み重ねだけで親しくなった。だからこうして顔を会わせられる時間は、本当に貴重だと感じるんだ。

「っとと、忘れてました。伊吹センパイ、伊吹センパイ。へへ……なかなか慣れなくって」

「そんな調子じゃ慣れる前に卒業しちゃいそうだな」

「もう、いじわる言わないでください!」

 照れくさそうな様子がまたいじらしい。そういえば、初めて「芽衣子」と呼んだときも可憐に頬を染めていた。膨らみ始めた蕾のような初々しさは今でも変わらないようだ。

「伊吹センパイは今日も部活ですよね。お疲れさまです」

「まぁ、なんちゃって園芸部だけど。顔出すついでに芽衣子にも会いに来てみた」

「ふふ、嘘ばっかり。センパイがすごくお花を好きなの知ってるんですよ。それに、ここは部室へ行くために通る場所でしょ?」

「嘘じゃないさ。芽衣子とお喋りするのも目的のひとつだから」

「センパイったらもう。遅刻はしないようにしてくださいね」

 クスクスと笑って、芽衣子が手元の本を閉じた。ハードカバーが重みのある音を立てる。このまま話を続けていいという合図に安心し、そっと近づいて隣に腰を下ろした。女の子らしくきちんと揃えられた彼女の膝から、ちょうど手のひら二つ分の距離を置いて。

 そちらから外した視線を、少し迷いつつ芽衣子へと向ける。目は合わなかった。丸い瞳は他のものを見ていたからだ。

「それ、持ってるちっちゃな袋。もしかして新しく植える種ですか?」

 ついに大事な本を腿からも降ろして、こちらと反対側へ置いてしまう。覗き込んだ拍子に落としてしまわないためか。それだけのことなのに僅かな優越感があった。無機物と張り合う己の小ささは、見て見ぬふりをしておく。

 期待に満ちた芽衣子に応えるため、小袋を目の高さまで上げてあげた。以前もこの巾着に種を入れていたのが記憶に新しいのだろう。

「まぁね、昨日知り合いが譲ってくれたんだ。知ってる? 翁草おきなぐさ。暗い赤色が咲く花だよ」

「おきな、ぐさ。翁……おじいさん?」

 きょとんとしながらの回答に思わず笑みをこぼす。不思議そうな顔して、きっと仙人のようなご老体を思い浮かべているんだろうな。芽衣子のことだから可愛らしいイラストみたいな想像かもしれない。

「そ。白くて長い綿毛が老人の頭に似てるんだ。茎や葉もフワフワした毛に覆われるし、花をつけてる間は背中を曲げた姿になる。ぴったりな名前だろう?」

 袋を少し開いてやれば、種子は貰った時と同じく綿に守られ眠っている。翁と呼ばれる花も、今はまるでおくるみに包まれた赤子のようだった。

「そういえば……前にセンパイから頂いた花で栞を作ったんです。ほら」

 脇に避けていた厚みのある本からそれを抜き取る。後で困るだろうに、うっかりというか天然というか。そういうのもチャームポイントの一つだ。

 芽衣子の指先で咲くのは、押し花にされたオレンジ色のパンジーだ。明るい色味が似合うと贈ったが、喜んでくれたのが伝わってきて、なんだかくすぐったく思った。

「芽衣子らしいね。大事にしてくれて嬉しい」

「ふふ。花言葉を教えてもらって、もっとこの子を好きになったんですよ。“天真爛漫”だなんて可愛いもの。あ、その翁草にはどんな意味があるんですか?」

「それは……」

 胸がヒクリと震え、言葉を続けられなかった。伝えてはいけない。口にしたら最後、秘めるべき心までも音を宿してしまう。

 その心はもがいて、でも押さえつけられて、狭い場所で息苦しそうに歪んでいる。まるで芽吹くこともできない種の中だ。殻はどこまでも硬く、そのくせひどく脆いから、恐い。だから大切に閉じ込める。

 見つめるのは辛いのに見ていたくて、目を細めることで瞳に映る芽衣子を半分にしてみた。きっと、笑ったのだと彼女は思うだろう。

「……いや、忘れちゃったよ。咲く頃には思い出しておくさ」

「じゃあ約束ですよ! どのくらいかかるかなぁ」

「開花には二年くらい必要らしい。発芽自体も来春だね。その代わり多年草だし、長持ちするよ」

「え、それじゃ私も伊吹センパイも卒業してるじゃないですか……!」

 残念そうに眉を下げる芽衣子に、少し申し訳ない気持ちになる。でも、いなくなってからで良いんだ。それでいいんだよ。


 ――これの花言葉? “何も求めない”、“背徳の愛”。それから……“告げられぬ恋”、だったかな。


 思い出すのは昨日のこと、種を譲ってくれた知人の話。相手はこの芽吹けない片恋を知らない。ただの偶然、だけど自分のことだとしか思えなかった。告げられぬ、告げてはならぬ。彼女を困らせるだけだから。

 翁草を植えるのは、芽衣子への想いを、彼女と過ごしたこの場所に置いていくためなんだ。

 それくらいなら許されると信じて。

「もう行かなくちゃ。じゃあね、芽衣子」

「あ……伊吹センパイっ」

 急いで背を向けたのに、追うように呼ばれては振り返ってしまう。芽衣子の声にはそういう力があった。この脚を止める、後ろ髪を引く力。

「……なんだい?」

 微笑めば、いつかのように芽衣子が頬を染めた。ああ、可愛い。愛おしい。抱き締めてしまいたい。

「えっと……えっと、その」

「うん。ゆっくりでいいよ、話して」

「セ、センパイってショートヘアも可愛いけど、ロングも似合うと思うんです。翁草が咲く頃まで伸ばしてみませんか? それで、卒業してもまた会って、私に見せてくれませんか? もう一度ここで――」

「はは、まぁ考えとくさ」

 聞いていたいのをグッと堪えて、何か続けようとした芽衣子の言葉を遮る。そのままそっとを翻し、風になびくのも構わず今度こそ歩き出した。この制服が君と同じじゃなかったら、どれだけ良かっただろうか。巾着を掴む手に力が籠る。

 芽衣子は優しい子だ。その純粋さを守ってくれる男と出会い、導かれ、幸せになってほしい。普通の恋、マジョリティに身を置けばいい。こちらに引き込むなんて出来ない。

 花に想いを背負わせる、こんな女に捕まらないで。どうかどうか、ずっと知らないでいて。

(……好きだよ、芽衣子)

 いつか花をつけるだろう、愛を語れない翁草。お前だけが知るこの気持ち。せめて、いつまでもこの場所で。の代わりに咲きほころんでくれないか。

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翁草は愛を語らない 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

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