死神の初恋

最終話 死神の初恋㉑

 そして。

 季節は何度もめぐり、暑さ寒さを乗り越え、日蝕から三年という月日が過ぎた。

 幼い日を過ごした墓場にもあたたかな日差しが降り注ぐ。

 土のなかから小さなむしが這い出たところを小鳥がついばむ。また、野兎のうさぎが巣穴から顔を出し、新芽をむ姿を見えた。みんな必死で生きようともがいている。

 だが、芽吹くのは新たな命だけで、過去に生きた者たちが黄泉よみ返ることはない。未来に生きる者たちのかてとなったのだろう。それが本来在るべき姿だ。

 無いものが無くなり、

 在るべきものだけが在る。

 なにひとつ欠けていない。

「だから――去るわけじゃなくて、巡るだけなんだ」

「そんなこと云って、帰ってこないおつもりなのでしょう?」

 隣にいたアンがハクロを睨みつける。

 彼女は眼鏡を取り、髪を払った。呪いが解け、光を取り戻した両目はしっかりと領主の姿を捉えている。おかげで領内からこっそり抜け出したところを見咎みとがめられ、墓場までの道中をともにすることとなった。

「眼はすっかり癒えたようだな」

「ハクロ様のおかげさまです」

「すまない。護ってやると約束したのに……」

「謝らないでください。私はひとりでも平気です。だけど、とつぜん領主様がいなくなっては街の者が驚いてしまうじゃないですか」

「俺はなにもしていない。ぜんぶアンの手柄じゃないか。ほんとうならアンがなるべきだろう」

「そうかもしれませんけど……嘘も方便ほうべんって云うじゃないですか。やっぱりこういうのって見栄えのする人をまつりあげておいたほうがみんな安心するんですよね」

「後ろめたいよ……」

「だからといって逃げる理由にはなりません。こういう時だからこそ、先頭に立つ人が必要なんです」

 オルドロスは、変わり者であっても莫迦ばかではなかったようで、それなりの求心力を持っていたのだ。

 だが、その領主を失い、多くの兵も消えてしまった。

 外壁はあっても不安に怯える者は少なくない。民衆を束ねるには象徴的なカリスマが必要だった。サクヤかサーシャがいれば導いてくれただろうが、領主の代わりを務めるには一介の民間人であるアンには荷が重い。結局、多くの知恵を引き継いだハクロが担うこととなった。

 ハクロはこの三年間、街の復興ふっこうに全力を尽くしてきた。

 家を建て、畑を耕し、知恵と知識を分け与える。ときには外から侵入してくる獣や盗賊とうぞくを追い払いもした。その雄姿は勇ましく、弱き者たちの支えとなった。もしもハクロがいなかったら、いまごろ街は完全な廃墟はいきょと化していただろう。いまでも多くの爪痕つめあとを残してはいるが、しだいに街は以前の活気を取り戻しつつある。

 ハクロを死神と呼ぶ者はもう誰もいない。

 多くの人に支持され、その名は広く領の外でも知られるようになった。

 だが、それはハクロの求めるところではなかった。

 彼は申し訳なさそうに云う。

にぎやかな場所は肌に合わないんだ。けして街が嫌いになったわけじゃないけれど……俺には他人が期待するような主人公にはなれそうもない」

「ええ、ええ。解っていますとも」アンは諦めたように嘆息たんそくした。「ハクロ様は最初から住む世界が違っていたのでしょう。貴方様に人の暮らしは似合いません。物語は、佳境かきょうを越えたら、どこかで終止符ピリオドを打たなくてはいけないのです」

「そう、そのとおり。いつまでもダラダラと続けちゃいけない」

 いつまでも死なない命が無いように、

 いつまでも終わらない物語が存在してはいけないのだ。

 だが、他人はいつだって他人事のように、当事者の苦労や苦悩なんておかまいなしに期待をかける。英雄譚えいゆうたんの主人公は、成長し、宝を携え、街を凱旋がいせんするのがお決まりらしいが……此処は俺の還るべき場所ではないとハクロは感じた。生まれた土地ではあるのかもしれないが、育った場所は違うのだ。

 柔らかい椅子はなんだか尻の座りが悪い。もてはやされるなんて耳障みみざわりなだけだ。ハクロに近づき、担ぎ上げようと擦り寄る者たちはみんなどこか嘘に思えた。

 嫌われ、うとまれ、さげすまれ――

 死神と呼ばれるほうがまだ馴染なじむ。

 の魂百まで忘れずのことわざどおり、ハクロにとって、生者の住む世界こそが非日常であり、死者の棲む墓場こそが日常なのだ。だからこそ、アンの眼が良くなるまでは我慢したのだが……我慢の限界を迎えたハクロはこっそりと街を出た。

 傍で支えてきたアンも彼の困惑する様を近くで見ている。

「だから引き止めるつもりはありません」

「連れていくこともしてやれない」

「解っています」

「では、どうしてついてきたんだ?」

「ひとつだけお願いがあります」

「俺にできることならなんだって聞いてやろう」

「では――」アンは眼を細めて云った。「ハクロ様の半生を記録に残しても良いでしょうか?」

「まだ語り部を続けるつもりか?」

「はい。人間の記憶とはいい加減なもので、ときが経てば痛みを忘れ、同じ過ちを繰り返す愚かな生き物です」

「アンは賢いじゃないか」

「そんなことはありません。きっと私も忙しさにかまけて、いつかハクロ様という存在そのものを過去の亡霊として墓のなかに埋めてしまう日がくるかもしれません。私はそれが恐ろしい。ですから、私の前から去るというのであればせめて、記憶が新しいうちに、できるだけ精確な記録を綴っておきたいのです」

「だが、俺は……」

「忘れられたいと願っているのでしょう? 充分承知しています。ハクロ様は、あの人と同じように――」

 アンはそこで口許を押さえた。

 顔を背け、瞳を閉じる。

 だがそれは一瞬のことで、すぐさま毅然と向き直った。

「ですが、ハクロ様は、本来ならば歴史に名をのこすほどの武人ぶじんです。先の出来事も、後世に伝えるべき大事件でした。貴方様が選択を誤らず、正しい方へ導いてくれなければ、いまごろ街はどうなっていたことか……」

「俺は自分が正しいなんて一度も考えたことがない。ただ、大事な人の教えに従っただけだ」

「その教えを風化させたくないのです。どうか、これから生まれる命のために」

「……分かった。そこまで云うなら好きにしろ」

「ありがとうございます」

「ただし、ひとつだけ条件がある」

「なんでしょうか?」

「ハクロという名前は伏せて、できるだけ恐ろしい存在として書いてくれ。たとえば……そう、悪いことをした子の前に現れる名前の無い死神といった具合にだ」

「それではハクロ様の武功ぶこうを正しく伝えることができません」

「過去になにを成したかなんて重要じゃない。正しいも間違いもないんだ。文字になってしまえばすべては幻――ただの御伽噺フェアリーテイルさ。本物になるかは受け手が信じるかどうかしかない。大事なことは未来になにを伝えるかだろう? だから、物語には教訓を籠めておくべきなんだよ」

「おっしゃるとおりですが……うまく伝わるでしょうか」

「送り手が信じなくてどうする。大丈夫、きっと伝わるさ。子供は大人が思う以上に賢い。ちゃんと聞く耳を持っている」

 そこでハクロはすこし考え、慣れない笑顔をつくりながら、迷える語り部に言葉を贈る。

「アンなら良い語り部になれるよ」

「あら、ハクロ様がお世辞せじを云うなんて……雪が降らなければいいけれど」

「心配ないさ。此処はもうすっかり暖かい」

 正面を向くと一片ひとひらの花弁がひらりとふたりの間を過ぎていく。やわらかな風にそよがれ、流れてきたようだ。この辺りではあまり見かけない、薄紅色の花吹雪が空を舞う。その様子は息をのむほど美しい。ハクロとアンは黙したまま眼で追った。

 一瞬の静寂。

 心地良い沈黙。

 別れの合図にちょうど良い。

「それでは、私はこれにて失礼します」アンは息を吐き出し、一歩後退った。

「せっかくだから墓前までは行かないか?」

「いいえ、止めておきます。だって、あの人のお墓でしょう?」アンは笑顔で云う。「正直に云うと私、今でも憎んでいますから」

「悪く思わないでやってくれ」

「眼のことは恨んでいません」

「では、何故?」

「貴方様にかけられた呪文がいつまで経っても解けないから――憎いんです」

「やっぱり……呪われているのかな?」

「私から見れば、ですが」

「俺にはそう思えない」

「だからこそ厄介なのです」

 祝うも呪うも同じ言葉だ。

 だがそれは相手によって効果が変わる。受け手が呪いではないと信じるのであれば、その者にとっては違うのだろう。

「どちらにしても死人の言霊は強力です。いくらお傍に仕えていても、私には解いてあげられそうにありません。だから諦めました。ふたりきりにして差し上げます」

「そうか……ありがとう」

「こちらこそ」

「何故泣いているんだ?」

「さあ、どうしてでしょう?」

「達者でな」

「ハクロ様も、どうかお元気で」

 鎌を携え、ハクロは墓場へと足を踏み入れる。

 背中で視線を感じつつも、振り返ることはせず、ただ前を見て歩く。

 綺麗に整備された墓からは、えた臭いはもうしない。亡者やあやかしの哭き声も聞こえてこない。

 獣の気配がした。子猫だろう、親を探しているような、甘えた声を発している。昔では考えられなかった光景だ。すこしうらやましく思う。

 なにもかもが移ろいゆく世界のなかで、ハクロは懐かしいにおいを求めて奥へ進んでいく。

 くさむらに分け入り、山際まで近づくと穴倉がみえた。

 なかまではが届いておらず、気温は低い。風も通っているようで肌寒かった。だが別の場所に通じている証拠だ。泥濘ぬかるみを踏みしめつつ、薄暗い洞穴を潜り抜ける。

 やがて正面から光が射した。

 その出口の手前に若い樹がみえる。

 桜だ。

 三年前、山を下りた際にハクロが植えたものである。樹は、肥沃ひよく土壌どじょうにしっかりと根をおろし、順調に育っていた。たくましいみきに耳を寄せてみれば、吸い上げられた水の音が脈々と伝わってくる。そこにたしかな生命力が感じられた。

 ハクロは鎌を手にし、桜の下を掘り進めていく。根を傷つけないよう慎重に振るいながら、土をき分けた。

 しばらくすると異物に当たる。

 サーシャだったものだ。

 もうすっかり白骨化しているが、綺麗に並べておいたので頭から爪先まですべて揃っている。

 ハクロは鎌を置き、サーシャだったものの前で膝を着く。懐からロザリオを取りだすと彼女の首許に戻した。

 咲き誇る桜の下、ハクロは骨とともに寝そべり、髑髏どくろを抱いた。

 瞳を閉じてみればまぶたの裏に懐かしい影が映り込む。

 ハクロは溜息を漏らした。

 嗚呼……やっぱり此処にいたかと安堵した。

 黒く模られた影は美しく、やわらかな曲線を描く。闇のなかで骨は、少しずつ変化を遂げた。きめの細かい肌にウェーブがかった髪が流れる。華奢な首筋には見慣れた入墨もある。あたたかい体温。息づかい。眼を閉じて眠っているように視えた。

 ハクロは、腕のなかで眠る大切な人を呼ぶ。

「サーシャ、起きてくれ」

 長い睫毛まつげが微動した。

 幾度も呼びかけ、その度に頸に彫られた文字が鮮明に浮かび上がる。

 サーシャが眼を開けた。彼女はハクロを認めると静かに微笑む。細い指先が頬を撫でた。彼女は困ったような顔をして、何事かをささやく。叱られているのかもしれないが、声は聞こえない。躰が無いのだから当然である。サーシャは黄泉返ったわけではない。ただ、そこに在るだけだ。

 無いものを在るとしたのは誰だろう? 

 それは視ようとする者にだけ視える世界である。

 それは聞こうとする者にだけ聞こえる物語である。

 それが呪文による効果なのかは判らない。

 だけど、無くなったはずの魂は死神とともに彷徨っている。死神が紡いだ物語のなかに存在している。他の者には触れられなくとも、確かめられなくとも、ふたりは互いの物語を交換し、世界を共有し、記憶のなかで生きているのだ。

 融けて混ざって、ひとつになって。

 すでに充分満たされている。

 躰など必要ない。在るだけ余計だ。

 心さえあれば――魂さえあればそれで十全ではないか。

 ならば俺も土に還ろう。そしてもう、


 二度と人は愛さない。

 死神と畏れられるようになったハクロは心の中でそう誓った――。


                                    了

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