第4話 私と『家』

 目が覚めると湖の上だった。夢だろうか。

 音もなく湖面が波うつ。私は湖面にほっぺたをつけて寝そべっていた。

 湖の水は真っ黒。

 その湖底に小さな月があった。目を閉じて耳を澄ましてみる。

 何も聞こえない。波音すらも。

 寝返りをうつように、仰向けになり、目を開ける。

 空? 上? よくわからないが、そこにも月があった。満月だ。

 そういえば……九零の夢も『月』と『湖』が出てきたっけ。

 もしかすると。

「お久しぶりでございます、お嬢様」

 淡々とした、嫌味ともとれる敬語。

「九零! どこ、どこ!」私は起き上がって、辺りを見回した。

「お嬢様。ここに」

 私の左に九零はいた。しかしダークスーツ姿だった。イドは黒衣闘着をきていたはずだ。やっぱり夢なのだろうか。九零の表情は暗い。まるで、別れ話を切り出そうとする男のように。

「今回は、不躾ながら、お嬢様にお別れの挨拶をしたく、このような場所で――」

「ちょっとまって! 別れって……どこか行くの? その前に、これは夢?」

「ここは『アイヌのうつわ』でございます、お嬢様」

 アイヌの器?

 九零は私たちの頭上に浮かぶ、お月さまを見上げた。

「あの月はカムイの故郷……そして湖底の月がイドの故郷なのです」

「ここは『神居カムイ異土イド』の間ってこと?」

 私の表現が悪かったのだろうか。九零は返事をしない。押し黙っている。

「九零、私は馬鹿だけど、九零の故郷については、自力で調べた」

 私は周囲を、ぐるっと見渡した。

 湖と空の境界線がない、静かな暗黒。空と湖底の月だけが唯一の照明。存在する物体は無く

 上の月が『神居カムイ』――カムイの世界。元々一つの塊だった光が、散らばって作った世界。

 下の月が『異土イド』――無意識の世界。カムイから自立したくて、最初の人間が作った世界。

 どちらの世界も、人間には行くことのできない世界。

「神居は、カムイにとっての究極世界。憧れっていうべきかな。私もイズナから教えてもらったよ。あたり一面、黄金の草原なんだって?」

「はい。あそこは、よいところです。全てが繋がった世界でございます。この世の『図書館』と申しましょうか。そのようなものもあります」

「『図書館』?」

「はい。全ての情報……現在から未来までも知りえて、忘れた過去までも調べることの出来る『図書館』でございます」

 私は、そう、と呟いた。九零がそう思うのならいい。

 九零は視線を落とし、湖底の月を見る。

「この湖底にある月が『異土』でございます。僕が足を踏み入れることのできない、人間の心。根源と申しましょうか。人間が作った世界でございます。全てのカムイは『異土』を知るために、人間とじゃれるのです」

「知りたいなら、『図書館』で調べればいいじゃん」

「お嬢様、どうしても知りえないから知りたいのでございましょう。カムイが人間に憑依するのは、そういうことなのです」

 私は、そっか、と感心した。九零がそう思うのなら、それでいい。

「そしてその間――『アイヌの器』に、僕たちは招かれたのです。その理由は『アイヌ』が僕を取り込むため」

「取り込んで、どうするの」

「それは太極者たいきょくしゃになるためでございましょう」

「何、それ?」

「そうですね……神の手違いと申しましょうか。――『アイヌの器』とは、欠陥だらけの『アイヌ』にあった一片の才能でございます。『アイヌ』は太極者になり得る才能を持っていたのです――カムイであり人間であり、イドも知る。それが太極者です」

「なって、どうするの」

「お嬢様を殺害し、頭首様を殺害するのです。ですからお嬢様、お逃げください。そして僕と、『アイヌ』と、イド、この者たちに関すること全てを、お忘れくださいませ」

 私は、そうだね、と言いそうになって頬を叩いた。

 こらえた。

 我慢した。

 歯で唇の端を噛み、血を垂らしながら、忘れてたまるかと、言ってやった。九零は慌てて、私の口を白いハンカチで拭いてくれた。

「あのさ、九零くん。頭領への、一宿一飯の恩返しを忘れてない?」

 九零は目を大きく開けて「あ」と言った。

 忘れるなよぉ。こんな大事なことを。

 没落して文無しの宿無しになった私を、九零が紹介してくれた飯野大工の頭領――あの人には仕事と、住処を与えてもらった恩がある。それは私が仕事で返すと決めた。でも、アパートの入居手続きが完了するまでの寝床と食費の恩は、九零が返すと言い出したのに。

 九零がはじめて、命令されずに自分で決めたことじゃんか。

「『アイヌ』が九零を取り込んで、どうするのかは知らない。でも、九零がいなくなるなら、あのときみたいに自分の意思で、いろんなことにケリをつけてから、相談して欲しいな」

 私は九零の頭を、くしゃくしゃと撫で回した。それを嫌がる素振りを見せず九零は問う。

「しかし『アイヌ』の怒りは、全てお嬢様に向けられるのですよ? お嬢様は『アイヌ』を人間として、お許しくださるのですか?」

 ずきん、と胸を刺されたような痛み。重い鉛をぶら下げたような倦怠感。

 九零は『アイヌ』と話をしたんだ。私は、泣きそうになった。

 知ってほしくなかった。九零にはずっと、殺人行為の罪悪感をもってほしくなかった。

 九零は『アイヌ』と別人でいてほしい、そう願っていたのに。

「僕は『アイヌ』ではありません。ですが、体は『アイヌ』のものです。彼について知ろうと努力したのですが、今日まで『アイヌの器』に侵入できなかったのです……そして知りました。お嬢様を殺害しようとする『アイヌ』を知った」

 両手で顔を覆い、九零は絶叫した。

 『アイヌの器』が少し揺らいだようだった。

「これほどまで! これほどまでお嬢様を憎む『アイヌ』の気持ち! それ知った僕が、どうしてお嬢様のお傍にいられるのでしょう! 僕は無知です! 僕は『アイヌ』がお嬢様を憎むことを否定できない! だって、彼は悪くないから!!」

 九零の声が、こんなにも激しいなんて知らなかった。私は今まで、九零に何をしてやったのか、それらすべてを追想し、そこには私の逃避回路でしかないと悟った。

 九零は悪くない。『アイヌ』も悪くない。

 悪いのは私だ。

 『アイヌ』は悪くない。九零も、イドも、悪くない。

 私は九零を抱きしめた。

 愛おしかった。

 悲しかった。

 許してほしい、嫌いにならないでほしい。その気持ちを伝えたくて、抱きしめた。小さな体。暖かい。髪の毛からすこし、汗のにおいがする。

「……ずっと、こうしていたい」

 甘い吐息のように九零は言った。声が震えている。

「でも……僕は、いかなくてはなりません」

「どうして? 私はこうしていたい」

 九零は私の腕を、ゆっくりと解いた。九零の姿が、黒くなっていく。足から頭までゆっくりと、存在が薄れて『アイヌの器』に広がる闇と同化していく。

 私は、待って、と叫んだ。

 寂しいのは嫌だ。九零がいないと私は一人ぼっちだ。あのボロアパートで、一人暮らしなんて絶対いや!

「僕は、抱きしめられるより、もっと、あなたに許してほしいから」

 九零はいつもの丁寧なお辞儀をする。私は叫んだ。そんなことを私は求めていない、と。

「許してほしいのは、私! 九零! もう、わがままは言わない! だから――」

「申し訳ありません」

 九零はロウソクの火のように、煙を残して消えてしまった。私は涙を流す。

 泣くな! 涙を拭いて、拭いて、拭いても視界がぼやけたままだ。

 泣くなよ、私っ! 九零を探さないと! 

 泣く暇があるなら、九零と話をしたい!

 私の視界が涙で消えていく最中、九零の声が聞こえる。

「もし、わがままを聞いてくださるのなら……助けてください……この出来の悪い、九零を、助けてください」

 何だか、どこかで聞いたことがあるセリフ……私は子供のように叫んだ。

「助けるからっ! 絶対助けるから! 消えるな、消えるなっ!」

 私は涙を流し、九零と約束した。


 ◇

 西条は、こんな夢話を真剣に聞いてくれた。自家製の粗挽きコーヒーはすっかり冷めてしまい、味は劣化してしまっただろう。

「僕は、夢というものを一種の作業だと考えます」

 西条は立ち上がって、窓を開けた。

 湿った空気が流れ込み、部屋に充満したコーヒーの香りを、土の匂いが侵食していく。雨は上がっていた。

 私は夢から覚めると夕焼けの薄暗い部屋で、点滴を打ってくれていた西条にしがみついて、懺悔室の神父に打ち明けるように夢の話を聞いてもらったのだ。

 

 話が終わるころ、私は正気に戻った……はずだ。

 西条の家は、小さな診療所と兼用のログハウスだった。森のなかにある西条医院。看護師は西条の奥さんだけらしい。コーヒーに凝っていて、毎日違う豆をブレンドして、新しい味を模索しているとか。

「夢を見ると、悲しくなったり、楽しくなったり、人を恋しくなります。誰もかれも、同じ夢ばかり見ることはありません。みんなそれぞれ違う夢を見ます。そういう必要があるからです。時として、同じ夢もみるでしょうね。僕も妻と夢を共有することもあります」

 そんな奥さんの最新作に、私と西条は口もつけなかった。

「僕なんてこの前、妻にミキサーにかけられて、粉々になるまでの一部始終の夢を見たんですが、あれは痛かったぁ……僕の夢には痛覚があるんですよ。明け方に痛みで飛び起きて、ああ夢だったのかってなるんです。たぶん、脳が痛みを忘れるなって指令をだしているんでしょう。患者さんの身になって仕事をしろ、とね」

「私の夢は『九零を助けなくちゃ』ってことを忘れるな、そう脳が指令をだしているの?」

「うーん。僕は外科出身なので、そこまで夢を解析することは出来ないです。いや、力及ばず、すみません」

 西条は頭を下げた。いいよ、といって私は猫の絵がプリントされたマグカップに手を伸ばす。そして一口、コーヒーを飲む。苦い。でも、深い苦味が舌を刺激して頭が冴える気がした。喉を過ぎるとコーヒーの残り香だけが、ほんわりと口内に広がり、苦味は消えた。

「美味しいじゃん。いい趣味してる」

「僕は紅茶派なんですが、妻の挽いたコーヒーは好きですよ」

「じゃあ何で飲まないの?」

「昨日から実験台になってましてね。胃が痛くて」

 あはは、と西条は笑う。そして私に近寄って、了承を得てから、太ももを触診した。

「本当に張りがひいている。外氣力による自然治癒能力の活性化ですか。うーん」

「電気治療ともいえるけどね。雷を浴びたから」

「……うう~ん」

 西条は両手を組んで私を見て、質問した。

「一体、カムイとは何です?」

「神秘的な意思のこと。私と咲ちゃんにはそれを受け入れる資質がある。十文字だって、あの後、へーきな顔して帰ったんでしょ? それならあいつにもあるのかもね」

「氣というものは?」

「いろんなものにある力。『外氣は殻。内氣は中身。そしてそれらは大氣の一要素』と考えて修業すれば、先生だって扱えるようになるよ」

「……ううぅ~ん」頭を上げたり下げたりしている。医者の西条には理解しにくいようだ。

「理解できなくて当然だって。私も深く追求してないもん。頭が痒くなる」

 そう言って私はコーヒーを一口。西条は何か閃いたように指を立てる。

「つまり『考えるな、感じろ』ってことですね」

「まぁ、そんなとこ」

 映画のなかで、そのセリフを言った世界的有名俳優は、別の拳法使いだと思うけれど。

「幻影をつくったりするなんて、楽しそうですね」

「私も最初はそう思っていたけど、鍛錬がめちゃくちゃなんだよ。五歳のとき、四日間で日本一周するほどの距離を走ったよ。その間、ほぼ絶食で一日の睡眠時間は三時間」

 思い出すと、よく生きているもんだ。そして、耐えたことが全て血統によるものだと切り捨てられた虚脱感が、すっと心を凍てつかせる。

 血を吐くまで殴られて、脱臼するまで殴って。骨折するほど蹴って、気絶するまでそれの繰り返し。目覚めると激を飛ばされ、また殴られて――そして得た術とカムイは才能の一言で済まされた。もっと、私の努力を褒めてほしかった。

 『アイヌ』は私を後継者に育てるため、多少なりとも愛情をもっていたのだろうか。出来の悪い弟子を、親父から押し付けられて不満ばかりだったのではないか。よく考える。

 でも、考えても結論は決まっている。

 私が『アイヌ』を困らせた。それが最終地点だ。

「九零くんもそんな無茶をしているのですか?」

「やらせてないよ。でもイドはそれしかできないからって、鍛錬に励んでいた」

「ああ、もう一人の九零くんですね」

「うーん……っていうか、『アイヌ』ありきの『九零とイド』なんだよ――いや、『イドありきのアイヌ』?」

 あれれ?

 ああっ、頭が痒い。でも、整理しないといけない。

「本名が『アイヌ』っていう人間なの。親父の一番弟子で私の師匠。彼がカムイ使いになってから九零が出てきた」

 何故、九零くんが出てきたのですかと西条が聞く。

 心が痛い。

 でも、言っておこう。私の心を知ってほしいから。

「九零は『人格』じゃない。『神に近い意識』だったかな。つまり、カムイ使いになった『アイヌの一部』なの……わかる?」

「辛い鍛錬から発症した、解離性同一障害ではないのですか?」

「それなら病院に行くよ。『神格しんかく』っていう、人間から攻撃性を抜いたものって理解して。お願い」

 私が頭を下げると、はあ、としぶしぶ西条は頷いた。

「カムイには大きくわけて『攻撃性』と『探索性』の種類がある。『アイヌ』のカムイは『探索性』だった。戦闘能力のない、いってみれば事務系のカムイ。だから『アイヌ』は嫌になってそのカムイを不要な一部として切り捨てようとした。行き場のないカムイを私は『九零』と呼んだの。それを知った『アイヌ』は、私を憎んだ」

「何故、神宮さんを憎むのです?」

「彼には婚約者がいたの。私の姉。でも、それは親父の勝手で決めた婚約で、母と姉は猛反対した。そのころまだ二人とも小学生だもん。家は殺し合いをしているようだった。大里流最強の中年男が、当時十二歳の姉を気絶してもまだ、殴り続けているんだから」


 ほんとに戦場にいる気分だった。私も『アイヌ』も、親父の手で半殺しにされていく姉を見ているしかできなかった。『アイヌ』は泣いていた。『アイヌ』のカムイは『探索性』だったから、姉を守る力はない。だからって捨てることは出来ない。憑依したカムイは、もう自分の一部だから。だから、黙って見ていることしかできなかった。


「そして『アイヌ』は力のないカムイを無視して、新しい『攻撃性』のカムイを取り込もうとした。でも母が『アイヌ』を地下に監禁してね。彼さえいなくなれば解決するからって……ある日、私の様子を見にいくと彼のカムイが話しかけてきた。私が面白がって相手にしていると、母に見つかって、今度は私が母に殺されかけた。風紀紊乱はなはなだしいって。そのとき九零が助けてくれた。体を縛り付けていた鎖を引きちぎり、鉄格子を破って、私を庇い、母のサンドバックになった。

 母だって大里流の鍛錬をしているから、すごく強い。母の真打を九零は何十発もくらって、一年間も生死の淵を彷徨った。本体の『アイヌ』はその間ずっとうわごとで、自分のカムイと、私の両親と、私の名前を言っていた。こんなに苦しいのはお前らのせいだって」


 『アイヌ』を傷つけた母、婚約者を虐める父、そして病院生活を送るきっかけを作った九零。どんなに恨まれていることか。

 『アイヌ』の声を思い出す。うわごとというより、呪文だった。この世の全ての憎念を詰め込んだ声。

 ゆるさない。ゆるさない。サキヨミ、琴美、イナミ――ゆるさない。がらがらとした声で、怨嗟の声をあげる『アイヌ』を、私はみていた。

 そうだ。私は許されない。そして、退院した彼は記憶を失って『九零』になっていた。

 私は『アイヌ』がもうすこしだけ休んでから、私たちを殺すのだと勝手に考えていた。

 もう私は大里流を継がないと決心した。こんな親の苗字を受け継ぐのはごめんだ。こんなことで傷つくのも傷つけられるのも嫌だった。

 私は待った。殺しにくるなら真っ先に殺してほしかった。

 家で一人、罪悪感を抱え込んでいた。

 親父と姉は鍛錬馬鹿で、世間体など考えていない。母は裏家業であるカムイ使い養成のことで頭が一杯。家事などせず、たまにお茶を自分の飲む分だけつくっていた。

 家族の会話などない。誰が作ったのかわからない夕食を姉と食べる。朝もそうだし昼も。

 姉は私に話しかけるが、それはあっちの気が向いたときだけ。私が姉に話しかけても、姉はへんな言い回しで私を煙に巻く。

 ああ、この家は、私に興味がないんだ。

 そう悟ると同時に、こんなにさびしい家から、消えてしまいたくなった。

 私は、じきに来る『アイヌ』の復讐を待っていた。

 何故、私は生きている? 母も親父も、何故、生きている? そんな疑問がもんもんと浮かんできて、やりきれなくなった。自殺はダメだ。『アイヌ』が復讐できないから。


「私が家出を計画すると九零は手伝ってくれた。彼は積極的に人間を知ろうとしていた。たぶん、カムイとしての本能じゃないかな。私の夢にでてきた『異土』にたどり着くために……でも九零は悪くないよね。知りたいだけだもん」

「人間の根源を知る、ですか。哲学的ですね」

 笑われてもしかたがないと諦観していたが、西条は真剣に私の話を聞いてくれていた。椅子に座って足を組み、私と向かい合っている。

「つまり九零くんは探求者ということですね。でも神宮さんの話の中で、カムイとイド、この二つがとても気になります。詳しく説明できますか?」

 西条の言葉にほっとする自分がいた。

 本名の大里ではなく、偽名の神宮で呼んでくれたからだ。

「そのふたつは力をもった意識。カムイは世界の現象を司り、イドはその世界に生きている人間を司るの。簡単にいうと」

 私は指を鳴らす。落雷の残り、青白い電流が私の右手を走る。

「これがイズナのカムイ。この世の現象を操れて、意識をもって私に憑依した。その意識を表現できるのがカムイ使い。咲ちゃんの場合は『焼く』という現象の意識が強すぎて暴走してしまった」

 私は左手で、コーヒーカップを持った。

「これがイド。喉が渇いたら水分を補給したいよね。その感情を表現するのが生物だけど、カムイにはそれが理解できない。だから、憑依して知ろうとする。知った事柄はすべて『神居』に記録されるけれど、人間は複雑だから、まだまだ知り足りないの」

 コーヒーがおいしいから飲みたい――これは基本的な欲求だから『神居』に記録されているけれど、たぶん愛情とか、人間が他人にむけるそういった深い感情は記録されていないのかもしれない。

「だから九零はとっても無感情に見える。私の命令に、盲目的に従っているようにみえる。でも実際は私のほうが気をつかっているんだ、こう見えてもさ」

 溜め息ついでに西条を見ると、あまり驚いた姿勢ではなかった。カムイを見ると子供のように大はしゃぎするか、質問攻めされると踏んでいたけれど、顎に手をやって私を観察するようにみている。

 しばらくの沈黙。

 苦しかった。


「正直に言うと、僕は神宮さんを疑っていました」

 娘さんの写真や、麻隅村の風景を撮った写真が飾ってある壁に目を泳がせていると西条が話をきりだした。

「世間一般でいう異常者ではないかとね。氣やカムイのことなんか聞いているとき、どこのクリニックを紹介しようか本気で考えていましたから」

 でも、と西条は付け加える。

「人間の考えることや、することには必ず理由があります。それによってもたらされるものが大きいか小さいか、それだけです。それが異常か正常か、本人が分からない場合のための相談所が、いわゆる精神科です。まぁ、あなたには必要ないですね」

「何でわかるの?」

「そりゃあ、医者であるまえに人間ですからね。ホラ話と恋話コイバナは沢山聞いて、沢山つきましたから、なんとなく区別できるんです」

 恋話コイバナ――。

 私の顔から火が出るかというほど体温が上がった。

 ほらごらんなさい、と西条が笑って言う。

「色々と難しい事や、壮絶な過去を教えてもらってなんですが、ようするに神宮さんは、駆け落ちしちゃいたいんでしょ? 愛する人と一緒に、誰も知らない遠いところへ」

 ずばり、と胸を突き刺された感覚だった。鼓動が早くなって返事が出来ない。

 息継ぎのように、言葉を探して口をぱくぱくさせていると、西条は自分のコーヒーを勧めてくれた。

 一気にそれを飲み干し、私は意見する。

「そうじゃなくって! ただ、私は誰かに聞いてほしかっただけ! それで客観的に――」

「そう、それ!」西条は鬼の首を取ったかのように言う。「女性からよく聞くセリフですよ! いやぁ、僕もそんなに恋愛経験ないんで、偉そうに言えないんですがね」

 聞いちゃいない。話す相手を間違えたか?

「大好きな九零くんにはいろんな面があって、その一部分がとても怖い。一緒になりたくてもその一部が邪魔をする――なら簡単ですよ。それを含めて愛しちゃいましょう。全部、神宮さんが受け止めてあげるんです! 人間の愛を、身をもって教えてあげるのです!」

 後ろに花が咲いていそうな勢いとセリフ。平和ボケもいいところだ。

 巷に溢れる散々な恋愛論はもういい。私の気持ちなんてそこで語れるものじゃないから。

「……惚れた相手に殺されかけた経験がないヤツは、単純でいいや」

 もういい、ご馳走様。私は平和な西条医院から出ていこうと立ち上がった。ここは私の心を受け入れてくれるけれど、体裁を考えてはくれない。つまり、理解してくれない。

 イドを探そうか、東京に帰ろうか。とにかくどっちか選んでさっさと行動しないと頭が空っぽになってしまう。この西条のように。

「でもね神宮さん、知っていますか? 許すというのは感情です。そしてそれを誘発するのが行為。どうすれば神宮さんを彼が許すか、それが問題です……昨日出会ったばかりの僕の意見ですけど、神宮さん自身、きっともう、わかってるはず」

 西条は言った。私は西条に背中を向けていた。

「もしそのための行為が分からない、また異常だと感じたら、気の知れた人に相談してください。これでも僕は医者であり人間であり、あなたの友達なんですから」

 友達。そうだ。

 私は九零ともそんな風に付き合って、それからこんな感情に発展したんだ。

「……うん。色々、ありがと」

 そっか。本当だ。西条は笑ってばかりでろくに話を聞かないし、診察料は取らないし、そのくせ私の心を知りながら柔らかい言い方でやんわりと弄ぶように、奮い立たせてくれる。友達だったんだ。


 右手を握ってみる。外氣は絶好調とはいかないが、回復している。

 息を吸ってみる。西条医院の匂いがする。内氣が落ち着いているのがわかる。

 財布から五千円札を取り出す。予定外の出費。これは少々痛い。

「いりませんよ。サービスしときます」

 西条の好意はありがたい。西条に手渡すのは止めた。でも私は、お金にルーズな人間が大嫌いなのだ。

 帰り際、玄関の下駄箱にそっと忍ばせておいた。コーヒー代にベッド代、それから交通費。

 九零はどこにいるだろうか。会って話をしたい。

 イドはどうしているだろうか。会って注意したい。

 『アイヌ』は私をどう思っているのだろうか。会って私の気持ちを伝えたい。

 どうやって? 私には言葉が限られている。本も読まない、映画も観ない。土建屋で学んだ言葉では表現できないし、同僚のオッチャン以外には伝わらないだろう。


 外に出ると夕焼け空が見えた。赤い太陽が山に沈んでいく。ヒグラシの鳴き声と蛙の鳴き声がかき混ざって、村中に響く。音だけはにぎやかだ。

 もうすぐ夜になる。そうすれば幾分か生き物の気配が消える。鳥が眠りにつくころに、闇を台頭する獣が動き出す。それは夜襲という形で標的に近づく。

 私ならそれを狙って『コタン』に向かうだろう。

 私に指導してくれた『アイヌ』も同じだろうか。断定はできないけれど、可能性は高い。

 会ってどう伝えようか――。

 それを考えて咲ちゃんの家に向かう。

 

 人も車も通らない道を歩いて、どうすれば私の気持ちが伝わるだろうかとずっと考えた。


 許して欲しいのは私だと――。

 でも殺されるまえに許して欲しいと――。

 行為、許す行為、許されるための行為。

 殺されかけた人間は、相手をどうやって許すのか?

 ああ、わからない。道徳的に正しいのかどうかは分からない。でも、西条が思い出させてくれた。

 足の痛みはひいた。外内氣は良好。あとは私自身の踏ん切りだけ。

  恋人という最大の難敵を相手にする、覚悟だけ――。


 ◇

 ヒグラシが消えて、蛙がひっきりなしに泣き叫ぶころ、人間は野性の本能か、知恵なのか、明かりを灯して集団をつくる。

 私は咲ちゃんの実家の前でたむろする警察を、竹林に隠れて眺めていた。

 耳を澄ませると警察官の話し声が聞こえる。咲ちゃんが行方不明だと。

 今、咲ちゃんは私の傍にいる。陽くんも。


――弱いものほど群れたがる、というのは、ひとつの正解ではあるが、全てに当てはまるわけではない。集団というのはとてつもなく理にかなったものだ。格差を埋めるべく規律を正した集団は、それが真っ当に機能すれば何でもできる――私のセリフじゃない。当時、小学生だった『アイヌ』から教わったこと。

 ようするに、一騎当千なんて馬鹿の所業だから多勢に爆弾を持って突撃するような考えはするな、と言いたいのだろう。

「……小学生の考えることかよ」

 私は独りごちる。『アイヌ』は何を考えているのだろう? こんなこと勉強してどうするつもりだったんだか。

「姉ちゃん、どう?」

 私のズボンを咲ちゃんが引っぱる。私はかがんで、咲ちゃんと目線を合わせた。

 彼女は警察に出頭する決意をした。こんなにも小さな体に、なんて強い意志を秘めているのか不思議だ。陽くんにも全てを打ち明けて、最後にお母さんに会いたい、会って謝りたいと、昨日今日会ったばかりの私に頼み込んできた。

 なら会いにいけばいい、という訳にはいかない。咲ちゃんの家には、私の『実家』が絡んでいるから。きっと補導される前に邪魔されてしまうだろう。連中は、なんだかんだと理屈をつけて咲ちゃんの罪をうやむやにしてしまう。

 こんなにも苦しんでいる咲ちゃんは、自分の意思で罪を償わなければダメになってしまうというのに、なんて、なんて、酷いことを――。

「よし、決めた。咲ちゃんがおまわりさんに近づくと、私が家にいる大里流をやっつける」

 少し虫のいい考えだが、咲ちゃんがパトカーに乗るまで引き付けることぐらいはできるだろう。これでも元跡取り候補だい。殴られても死ないように鍛えられたんだ。

「んな、そなんまえ、警察に捕まーえ?」

 陽くんが私の腕を揺さぶって言う。彼は咲ちゃんの苦しみを理解してくれた。だからここまでついてきた。

「空でも飛ぶんえ? そなん姉ちゃんに出来るえ?」

 咲ちゃんが通訳してくれた。陽くんは私の心配もしてくれているらしい。

 空でも飛べない限り警察に捕まる――念のために確認したが、咲ちゃんの実家、穂名田ほなだ屋敷は広い。この竹林を抜けると屋敷の壁にぶつかる。見張りもいるだろうし、死角はない。

 なるほど、空き巣や暗殺なら空しかないや。

 飛べない咲ちゃんはいつも使用人に見つかっていたんだ、と説明してくれた。

「それよりさ、ちょっと咲ちゃん」

 陽くんにはそのままで、耳塞いでいてとお願いして、少し離れたところで私は咲ちゃんに耳打ちする。

「告白したの?」

 私の率直な言葉に咲ちゃんは体を大きく震わせた。顔がみるみる赤くなっていき、言葉は荒れていた。

「な、何でこんなときに! 何で今、変態ハゲにそんなことを」

 可愛いらしい否定。つっこんでみたくなる。

「あ、やっぱり好きなんだ」

「う」と唸って、小さく頷いた。

「何て言って告白したのさ」

 肘でぐりぐりと咲ちゃんに迫ると、ふつうに言っただけ、と小さく呟いた。

 その普通っていうのが気になる。

「普通は普通え? 思ってることを言葉にするだけ。前からあんたのことが――」

 もじもじと指を遊ばせながら咲ちゃんは答えて、はっとなって私に食って掛かる。

「やっぱ関係無い! 今、そなんことどうでもいい!」

「いや、大有りなんだ。女なら、死ぬ前に恋愛したいでしょ?」

 私は立ち上がって溜め息をついた。林が揺れてくすっぐったい音がする。昼間よりも細い風が吹いて、私の肌を撫でていく。この空間に彼もいるはず。気配を絶って『コタン』を狙っている。

「私も昼間のあいつに――言葉で言って通じる相手じゃないけど。でも伝えたい」

 本気で好きだから。

 それをやっと自覚できたから。

「確かに、あの兄ちゃんは強敵だ」

 腕を組んで咲ちゃんは答えてくれる。

「腕っ節だけでどうこうするタイプは、やっかいだもん。もっと話をするとかあるのに、文句があったらすぐ喧嘩する。殴ったら解決するって言ってきかん。そんなやつは、一発こづいたるんが一番いいと思う」

「何で? 暴力を振るわれたら暴力で返すの?」

 咲ちゃんは太陽みたいに元気がある笑顔を見せてくれた。

「暴力ってやられた方が決めること。愛があったら返事する。泣きも反抗もさせない暴力は、愛があったら絶対にしないし、姉ちゃんも思いつかんえ?」

 脳内に父と母の顔が浮かんだ。

 そうだ。その通りだ。きっと二人には愛がなかった。

 姉や彼に対して、愛がなかった。

 だから姉と彼は半死状態で病院に担ぎ込まれたんだ。

 だから怨まれても、復讐されなかった――復讐されるほど愛されていなかったんだ。

「相手の好意をひく暴力なんて考えもつかないけど、考えてやって、分かってもらえたら、絶対に反応があるんじゃ――」

 私は咲ちゃんを抱きしめた。そうでもしないとどうにかなってしまそうだった。

 私と同じ立場で、同じ気持ちになって考えてくれている。ちょっと年の差が気になるけれど。

 なんて、すごくいい子なんだろう。

「そうだね、そのとおりだ……ちょっと、わかった気がする……ありがとう」

 咲ちゃんは、うん、と言って私の頭を撫でてくれた。


 意気を込めてバンダナを締める。黒シャチの刺繍された、昔使っていた私の『封氣呪ふうきじゅ』。『実家』に係わる品でも、これだけは気に入っている。デザインは別にして、その効力が便利だから。

「咲ちゃんのリストバンドはね、身に着けているだけで氣力を少なくしてくれる物なんだよ」

 私は体をほぐしながら咲ちゃんの問いに答える。

「私が大男を吹っ飛ばしたりしたでしょ? あれは自分の筋力に氣力を上乗せして威力を上げたんだ。その氣力っていうものはカムイの原動力でもある。それを減らすから暴走しないんだよ」

 外内氣には絶対量があり、消費すると大氣から勝手に補充される。呼吸と同じ。

 そこで無刀大里流操氣術はまず大量の大氣を吸収、蓄えられるように訓練する。身体を鍛え外氣の絶対量を増やし、心を穏やかにして内氣の吸収量を増やす。それらが一定値以上になったなら扱う鍛錬に移る。

 

 けれどその鍛錬の前に自然吸収される大氣を、大里流特製お手軽鍛錬用具、『封氣呪』で減らす。封氣呪は氣力のパワーアンクルといったところか。わざと外氣に負荷をかけると根性がつく。

 何よりも外したときに吸収されるはずだった氣が一度に入ってくるというのが狙い。最高速度で走るF1マシンに追い風が来るような即効性のボーナスがある。

大氣たいきっていうのは空気よりも多くこの世に存在しているんだ。で、大氣と外氣の間にはちょっとした隔たりがあって、それを周氣しゅうきっていうの。普通、周氣は大氣が外氣に変わる境目の、ほんの僅かしかないけれど、無限に増やせる。封氣呪によって吸収量を減らし、周氣をわざと増やしてから外すと――ボン!」

 私が咲ちゃんの目の前で手を開かせると、怯えたように体を縮めた。彼女の心配を取り払うように私は続ける。

「周氣の流れは初心者にはコントロールできない。決壊したダムの鉄砲水ように荒れ狂ってしまう。でもね、だからカムイも暴走しないんだよ」

「えっ」

「咲ちゃん、いくら喉が渇いても振ってくる雨水をぜんぶは飲みきれないでしょ? それと一緒で、周氣が多すぎるとカムイは食あたりを起こしちゃうんだ。だから外してからしばらくの間、カムイは大人しくなっちゃう――そうだな、だいたい、着けていた時間の倍ぐらいかな」

 

 勿論、その空白時間はカムイによって異なるし、鍛錬によって限りなく零に近づけることも出来る。空白時間は着けていた時間の倍、というのは平均的な感覚。

 私は才能だけ褒められていた。なら、咲ちゃんが私よりも氣の吸収量が多いことはない。

 今、彼女の周氣はとても小さい。有効活用できないけれど、利子がついて倍々に貯まって、膨大に蓄えがある。咲ちゃんの周氣が一度に放出されれば三週間はカムイも氣を食べることしか考えない。そして満腹になって『異土』を目指す果て無き旅に出る。アフンルパルコロカムイでもカムイに違いはない。だから餌となる氣につられて、他人にちょっかいを出すより咲ちゃんの意識の奥に入り込んでいく。

 咲ちゃんの肉体はその間、成長痛に似た外氣の膨れ上がる痛みに耐えねばならない。でも警察に捕まったなら体調面では安心できる。精神面でもきっとへーきだろう。自首して自ら贖罪するという、強靭な決意があるのだから。

 

 ちょっと羨ましい。咲ちゃんが封氣呪を外すと、とてつもない力を発揮するから。人間一人ぐらい一撃で肉塊にできるほどの力――操氣術の鍛錬をしていれば、だけれど。

 

 あとは大里流に頼めば咲ちゃんのカムイが暴走する危険性はない。

「ほんと? ほんとにカムイは暴走しないの?」

「うん。へーきだよ」

 息を整えて私が微笑むと、咲ちゃんはシコリがとれたように、はあぁと安堵の息をつく。最後の懸念が無くなった彼女は笑いながら瞳をこすった。

 私は陽くんに声をかけ、考えていた作戦を伝える。

「これから咲ちゃんと二人で、おまわりさんに話しかけて。もし、家から大里流の人間が出てきたら咲ちゃんが陽くんにしがみつく。そして私が飛び出て暴れるから『保護して!』ってお願いする」

 陽くんは大きく頷く。

「咲ちゃんは封氣呪を外しておこう。体調が悪くなるけれど、大里流の出現率もパトカーで連れて行かれる可能性も上がるからね。家の中に入る場合、私はこっそり後を追う。大里流を見つけ次第、咲ちゃんが陽くんにしがみつく……わかった?」

「ほん、姉ちゃんは、そなんしょう、捕まーえ?」

「ん……いざとなったらイズナを呼ぶから。へーきだって」

 陽くんに笑いかけた。気づいたのだが、私はいつのまにか麻隅訛りがわかるようになっていたのだ。

「なん、姉ちゃんはオオザトリュウをやっつん? わりぃこんされたんえ?」

 前言撤回。やっぱり、ここの方言はわからん。

「なんで姉ちゃんは大里流をやっつけたいの? 嫌なことされたの?」咲ちゃんが訳してくれた。その返事はややこしくなる。わかりやすく言うなら――。

「大里流が恋人の喧嘩相手だから、戦ってやろうと思ってね。咲ちゃんも楽になるし一石二鳥」

 背景説明を抜きにした私の返事に咲ちゃんはうんうんと頷くが、陽くんは首をかしげている。正直、私にだって理解できない。こんなことで『アイヌ』が私の思いを分かってくれるのか疑問だらけだ。

 分かっているのはイドが近くにいるということと『アイヌ』が強いこと、そして弱い者に興味がないということ。

 だから見せつけてやる。私はここまでやれるぞ、あんたの指導は間違っていないと。

 イドは言っていた。逃げれば大往生だ――それはとても簡単なことだ。相手にそっぽ向いて自分の好きなところにいく。それが逃げるということだから。

 でも九零は願った。助けてください、と。

 私には九零を見捨てることはできない。今まで五体満足に生きてこられたのは九零のおかげなのだ、と豪語できるほどの恩がある。

 衣食住は勿論、精神面でも。九零がいなければきっと壊れていた。あの時、母の真打から守ってくれなければ身体が壊れ、家出の計画を立てるほど嫌悪した『実家』で、話かけてくれなければ心が壊れていた。いや、もしかすると何とかなっていたかもしれない。一人でもへーきだったかもしれない。

 でも、彼のいない世界なんて、考えられない。

 殺される前に伝えておきたいんだ。今まで素直になれなくてごめん。殺してくれてもいい、でも、好きだから。その気持ちに嘘は無い。暴れる理由はそれだけ――そういえば、私は『九零』が好きなのか『アイヌ』に惚れているのか、どっちなのだろう?

「もうええよ、姉ちゃん、わかったから。落ち着いて」

 陽くんの慌てた声に、はっとなった。どうやら頭をかきむしってうんうんと唸り、体をくねらせるクセが出ていたらしい……私は恥ずかしい気持ちを払うように咳払いをした――あれ?

「悩んだ?」

 独り言のような私の問いに、咲ちゃんと陽くんはクエスチョンマークが見えるような表情で、私を見ていた。

「ああっ、ごめん! 気にしないで」表面上、私は笑った。しかし内氣が少し乱れた。悩んだ、ということは懸念材料があるということ。

 何に不安がある?

 思いを伝える方法に?

 それとも、『九零』と『アイヌ』への感情に?

 何か引っかかる。知らないうちに迷路に入れられていて、それに気づく手前の違和感。みょうに背筋が凍えて頭が働きだす予感……恐怖?

「そうだ! 姉ちゃん、このリスバンド、取れないんだった」

「封氣呪はね、外すコツがあるの。外れろって心の中で思いっきり叫んでから外してみて」

「あ、外れた」

「他人が外せないようにちょっとした封印をしておかないと何の拍子に力が出るか――」

 封印……何だかその言葉がしっくりくる。私の中に封印があって、不安感が反応して頭が痒くなったりするのでは?

 ……ないない。そんなわけがない。止めよう。混乱するだけだ。

「体の外と内側から、音がする……だるい」

 周氣が外内氣に変換される予兆だな。どんどん顔色が悪くなる咲ちゃんを、陽くんが手を握って元気付けた。咲ちゃんは照れくさそうに頬をかいて、ありがとう、と、一言。

 私はこの子たちに最後の忠告をする。

「咲ちゃん、陽くん。これからは絶対しちゃいけないことを言うから、心に刻んでね」

「うん……」

「助けて欲しい、または助けたいっていう衝動に嘘をつくと一生後悔するよ。自分の周りにいる人間に興味を失わないで」

 うん! と頷く勢いは十文字の怒声よりも数段、私の心に響いた。

 

 さて、こっちの準備はできた。どこまでやれるものか。

 彼はどこにいるのだろう。私の存在を確認しただろうか。暴れていれば気づいてくれるだろうか。

 きっと届くはず、そう自分に言い聞かせる。

 咲ちゃんの家にいる大里流は餌だ。彼を引き寄せるための撒き餌。

 私は食らいついた彼をしとめる針。そのときに思いを伝える。

 この拳に、ありったけの愛をこめて――。


「お嬢!」

 咲ちゃんと陽くんを出迎えたのは大里流ではなく、昼間に吹っ飛ばした大男だった。大男はたむろする警察官たちに頭を下げて礼を言った。やがて警察官は麻隅訛りではない言葉で、咲ちゃんに説教しはじめる。


 そのきつい説教の間隙をぬって、咲ちゃんが自分の罪を告白しようと、警察官によりかかった――。

「大きな氣だな。まるで何年間も鍛錬を積んできたような」

 門戸から出てきたのは、すらっとした細身の男。熱帯夜にもかかわらず、黒スーツにネクタイまで締めている。年齢は二十代後半ぐらいか。髪は黒く、ストレートパーマをあてて、まっすぐで綺麗に肩まで伸びている。静かな雰囲気。

「大峰入りを終えた修験者のようだ。見違えたよ」

 

 咲ちゃんが、震えながら陽くんの肩にもたれかかった。しっかりと肩を抱いて――決定! ――大里流の人間、一人目!

 私は全力で駆けた。百メートル先にいる標的の黒スーツに向かって、最短距離を走る。

 警察官が気づく間もなく、黒スーツの懐に入る。私は既に真打のモーションに入っている。外内氣はほぼ満タン。相手は構える素振りもない――とった! 

 

 すると、黒スーツの視線が私を捉えた。

 嫌な視線。コマ送りのように時間が遅く感じる。


「ちぇいぃ!」

 奇声? 誰の?

 私の右拳が黒スーツの腹に届くまで、あと一寸。


 突然、自動車に衝突されたように景色が流れる。やっぱり――私は空中でバランスをとる。地面に着地すると次の動作に入った。今、私を蹴った乱入者は絶対に大里流の人間。

 標的変更! 雑魚からやる!

 まずは魅入みいれ――一体の幻影を着地点において、私の本体は、さっき私を蹴飛したヤツの背後に回りこむ。そいつは長袖の黒衣闘着を着ていた。

「あの女、ミノルをやった女じゃね?」

 そう呟く男は小柄で、飛び蹴りをした後の隙がある。自分が術に魅入ったことに気づかず、体勢がゆるんでいる。チョーシくれやがって! 後頭部に真打を叩き込んでやる!

 

 パンッ! 


 右拳が風船をわったような音を鳴らす。悪い手ごたえ。

「おおっと! 魅入かよ!」

 小柄な男は慌てて私から距離をとった。無傷だった。

 私の拳は小柄な男に当たる前、また新たな乱入者に阻まれた。長袖道着で、今度は肉付きのいい、デブ男。その大きな手の平で私の真打を受け止められ、いざ砕かんと握られている。ぎりぎりと私の拳が悲鳴を上げていく。

「助かったぜ! タユラの勘はほんと、頼りになる」

 タユラと呼ばれたデブ男は嬉しかったのか、私の拳を握りながら気色悪い笑みを浮かべた。豚みたいに……くそっ!

「はぁっ!」

 気合を声にして私はタユラの太い腕に左拳を入れる。骨を砕くつもりだったが、ぜい肉がクッションになったようだ。それでもダメージはあった。タユラは手を引っ込めて、私は後ろに跳んで、戦術的退却をした。追撃はない。


 私は竹林道に姿を隠し、息を整え、観察した。

 警察官が騒いで、黒スーツが相手をしている。

「大丈夫です。あれは『身内』ですから。ただの組手です」

 陽くんはパトカーを指差して叫んだ。咲ちゃんはもう、立っていられないのだろう。陽くんにしがみついて苦痛に耐えていた。

「そなんことより、咲がしんどって! 病院いこ!」

「そ、そうだな。病院、病院」

 警察官は子供たちをパトカーに乗せようとするが、黒スーツがそれを阻んだ。

「その娘の管理は我らに任せられている。勝手に連れ出さないでいただきたい」

「いや、こんな顔色が悪いと、何かの病気かも。警察として市民のため――」

「民事不介入がそちらの規律ではないのか」

 黒スーツが一喝する。

 しかし警察官はひるまない。

「日本には、人の健康を守る法律がある! やれ誘拐、失踪と騒がして、もう民事もくそもあるか!! これも公務っ!!!!」

 カッコいいセリフ。

 田舎のおまわりさんも捨てたもんじゃない。

「ならば一時保護していただいて結構。しかし聴取するような真似はしないでいただこう」

「ああ、わかった。後日、改めて聞かせてもらう!」

 吐き捨てるように言って警察官はパトカーに乗り込んでいく。

 黒スーツが小柄な男に顎で合図し、パトカーに同席しようとした。

 が、あっさりと締め出された。

「定員オーバー! どけ!」

「保護者は同伴するものでしょう。何様のつもりだ」

 黒スーツが殴る勢いでくってかかる。しかし、法律に暴力は通用しない。

「おのれら、色々と怪しいからな。ならいいが、からは遠ざける。なんせをしとるから」

 黒スーツの歯軋りが聞こえそう。間抜けなやつ。自分で首を絞めやがった。

 

 パトカーは子供たちを乗せて去っていった。

 ふう。大体、計算どうりの展開になった。

 私を相手にすると警察は大里流に不信感をもつ。それはそうだ。女一人を相手に、問答無用で殴る蹴る――それが集団で行われたところを目前にして、誰が体調の優れない子供を預けるだろう。

「あのオマワリ、やっちまおうぜ?」小柄な男が、パトカーを見送る黒スーツに向かって感情の欠片も無い声で言った。「いっぺん、暗殺ってやつをやりたくてさ」

「そんな簡単にはいかない。操氣術は殺すことにかけては一流だが、死体処理は三流どころか幼稚園児以下だ」

 そう呟いてから黒スーツは溜め息をつく。

 一間おいて、突然、地面を殴った。

 揺れる。

 黒スーツの周囲から五百メートル以上離れた、私を隠してくれている笹まで、ざわっと悲鳴を上げる。しかし打撃の揺れではなく、黒スーツから放たれた怒気に地面まで驚いた。


 ヤバい。あいつ、かなり強い。

 よほど咲ちゃんの件で溜まっていたのだろうけど、半端じゃない。

「あのガキ……何が何でも『身内』に入りたくないのか……」

 それならこっちにも手がある、と黒スーツは二人に向かって言った。

 その間、昼間の大男はおじおじと、仲間に入れてもらえないのが気に食わないようで、家に引き上げていった。

「さっきの女を殺す」

 黒スーツの怒気が殺気に変わった。気温が下がったような……。

「ガキが帰ってくるのと同時の襲撃。ミノルが、命からがら逃げてきた相手と同一人物と考えるべきだ。ガキと親しいのなら、殺すことで威嚇にもなる」


……汗が冷たい。この空気はダメだ。

 しかし、そこまで咲ちゃんを引き入れたい理由は何?

 カムイ使いをすべからく集めたって、得なんて無いはず。

 聞きたいけど、聞いても教えてくれないか……なら、地獄耳を研ぎ澄ませて作戦を聞き取れるだけ盗み聞いてやる。

「相手はカムイ使いだぜ? 勝算はあるのかよ」

 小柄な男がもっともなことを言うと、黒スーツはふふふ、と意味ありげに笑う。

「カムイ使いというが、反対に考えると、それが頂点だ。カムイが使えなければただの人間。実力で勝てる」

 へぇ、言ってくれるじゃん。

 確かにあんたの氣力をまともに受けると、私は苦戦するかもしれない。けれどそのカムイをどうやって使用不能にするのかな?

 それを盗み聞かれてもへーきなのかな?

「どうやってカムイを防ぐか、要はそれだ。幸いにここら一帯には大きな木や竹がある……避雷針にも出来るだろう?」

「ああ、なるほど! 相手のカムイはカミナリだもんな!」

 さすが師匠! と小柄な男がはやし立てる。タユラとかいうデブもぱちぱちと手を叩いている。


 こ、こいつら。

 体は強いのに頭が悪い……私は目を覆ったけど声は耳に届く。


 竹は絶縁体だ。身に着ければ感電しないし、林道に隠れれば落雷も防げる――。

 いざとなったら家に避難する――。

 ゴム底の靴を履いて――。

 静電気が発生しない服装を――。

 などと電流や落雷の対応策を模索している男どもは、自分の持つ情報を疑うことをしないという典型的な、お馬鹿さんのテンポ。

 

 何でこいつらは、私のカムイをカミナリだと断定できるんだろう?

 

 確かに私は十文字を落雷現象を利用してやっつけた。でもそのイコールで電気を自在に操る能力だなんて、見くびりすぎ。

 カムイ使いがそんなガチンコバトル能力ばかりだったら、誰も脅威だとは思わない。咲ちゃんのエンジャばかりの能力なら、とっくの昔に科学のメスで切り開かれ、市民権も獲得できているはず。

 テレビのバラエティ番組で自称超能力者が触れずにスプーンを曲げても、それはカムイ使いならできるじゃん、とゲストオーディエンスからツッコミが入る世界になってる。

 科学で説明が出来ない――つまり、複雑、膨大で時間が掛かりすぎるということ。過去にどれだけの科学者がカムイについて真剣に取り組んだのかは知らないけれど、そんな酔狂な物好きでも嫌になるぐらい難解なクイズ、出口があるのかもわからないラビリンスのようなものなのに、こいつら。

「古臭い民族伝承が現代に通用するものか……人間は進化する生き物なんだ」

 黒スーツのセリフが、カチンと私のシャクに触った。

 だったら今すぐ――いきり立って感情のままに体を動かそうとした、その時。

 強い風が吹いた。

 これは……私への追い風。ついてる。


 

 腹に竹筒を巻いている黒スーツの男――久島ひさしまは無刀大里流操氣術三段。戦闘にも殺人にも慣れている猛者。が、カムイ使いとの戦闘は初。

 その超人との初戦を白星で飾れると思うと、自然と笑みがこぼれる。

「でも師匠、こんなんで大丈夫なのか?」竹筒を腹や腕などにくくりつけ弟子の十文字エイタが訊ねても、余裕をもって返せる。今夜は良い夜だと心の底から感じる。

「電流はそれでいいだろう。問題は落雷の衝撃だ」

 久島は周囲を見渡す。

 竹や針葉樹。使え先の、穂名田ほなだの大屋敷。それらの高さは確実に五メートル以上。雷はそちらに落ちること請け合い。しかし、二つの懸念。

 一つ、落雷の衝撃に人体が耐えられるか。また燃えた木々が倒れてきた場合、久島たちは逃げるしかないという懸念。

 二つ、穂名田の屋敷には避雷針がついているが、被害は最小限に抑えなければならないという懸念。

 その隙を見逃しはしまい。相手は相当な手馴れ。その証拠に大氣の異変がない――通常、久島の索敵範囲は六十メートルほど。視力や聴覚は人並みでも、敵意を感じることにかけて久島は才がある。

「こちらからしかける。エイタは上から追撃。タユラがれ」

 タユラはゆっくりと頷く。エイタは不満そうに口を尖らせている。

「また俺が援護かよ。腕が腐っちまう」

 エイタはタユラの腹を手で掴む。タユラは豚の鳴き声のように鼻を鳴らす。

「贅肉でも外氣を含んだ肉体だもんな。攻撃力があって羨ましいぜ……でも」

 跳躍しエイタは、地面に足をつけないまま弟の腹を掴んでいる――つまり空中に浮いている。

「移動手段が限られるってところがマイナスなんだよなー」

「エイタ、外氣の無駄遣いはやめないか」

「大丈夫っすよ。俺ぐらいになると三時間は空歩くうほしても余裕、余裕」

 そう言ってエイタの体は万物の法則をあっさり無視して空中を歩く。一歩一歩、散歩するようにどんどん空に昇っていき、やがて穂名田屋敷の屋根に達すると気持ち良さそうに背伸び。

「そ・れ・に、空からのほうが見つけやすいっしょ?」

 久島の忠告は無駄。落雷がきたらどうする、そんなことを言いかけて止める。


 タユラは空を歩く兄を羨ましそうに見上げている。


 お調子者と世間知らずと馬鹿――十文字三兄弟をそう蔑む人間は多い。しかし久島は彼ら三兄弟の指導をこなしている。

 理由は――大里流において空歩、魅入、真打は初歩であり出口とされている。それに着目し、三兄弟を使って実験。

 この三兄弟がに達したとき、どのような戦闘をするのか。出口とやらを見出した彼らは、どれほどの強さなのか。

 師事する者にとって弟子の成長ほどうれしいことはない。久島は最強を名乗る三兄弟を毎晩のように夢に見る。そして同時に、それを打ち倒す自分を夢の中で見て、独り悦に入る。

 久島も強さを求める者。自分の強さを感じる瞬間ほど、楽しいものはない。

 三馬鹿兄弟は久島を厳しくも良い師匠と信じきっている。久島はやはり、十文字兄弟を裏で蔑んでいるが、そのことを本人たちは気づいているのか、または妄信しているのか……久島にはどうでもいいこと。結局最後は殺し合い。

 今はせいぜい、言うことを聞いておけ。強くなったら本気で相手してやるから――これが久島の本心、野心、目的。


「今から濃い殺気を撒き散らす。過剰反応した物体に俺が突っ込んでいく」

 久島はクラウチングスタートのように前のめりに。

「援護のエイタは落雷に注意し、目標の退路を塞げ」

 長男、十文字エイタは上空十メートルで体を丸め、瞬発力を物語る体勢。

「タユラ、焦らず俺たちに、追いついて来い」

 末っ子の十文字タユラは笑顔で悠々と、それでも走る構え。

「いくぞ」


 ごぉうぅ――草木が揺れる。夏の夜の強風。 

 横殴りの風に構わず、久島は殺気を放出。久島を中心に見えない円を描き、広がる。この殺気に触れた動物や虫は震える。その震えを久島は区別する。潜水艦のソナーのように。これは震えが素直すぎる、こっちは小さすぎるなど、ほんの些細な違いを久島は感じ取って、脳内で地図をつくり、見つける。

 左前方約五百二十メートル。竹林の影に人の震えを感知する。それ以外に人間の震えは無い。

 奇しくも向かい風。好都合。久島、スタートダッシュ。

 エイタ、その直線上にいるはずの相手を確認するため、先回り。

 タユラはどすどすと鈍足でも、師匠と兄の後を追いかける。

 久島たちには強い風が吹いている。この先にいる超人を守るような向かい風。

 人知の及ばない能力者。しかし、倒せるはずの超人――。


 イナミも感づき、疾走する。先ほど放たれた濃い殺気に驚き、おっかなびっくり、心に一つ、博打を抱えて。


 スタートから七秒後、両者は百メートルを三秒ほどの疾さで凹凸の激しい獣道を駆けて、久島はイナミを、イナミは久島を、互いに肉眼で捕らえる。

 

 両者、声も無く戦闘に突入す。


 イナミは急停止。左足を前に出し体を斜に、やや後ろに重点を置く。しかし急ブレーキを踏んだ車のように地面を滑りいく。この勢いを利用し久島に右手、すれ違いの一撃を狙う。


 逆風が強くなる中、久島は飛び蹴りを繰り出す。


 飛び上がった久島を確認しても、勢いのついたイナミは急停止するまで一秒以上かかる。手を引っ込め、足を踏ん張る。だが地面を滑っていく。


 久島の飛び蹴りはイナミの完全停止地点を計算したもの。イナミの停止とともに直撃する目算。


 イナミの後方にエイタ、躍り出る。いつでもやれる、そんな自信に満ちた表情。

 久島の後ろには鈍足でも確実な攻撃力をもつタユラが――ずいぶん距離はあるけれど――続いている。


 逆風が吹いてさえ勝利の前祝に感じられる。ほんとうに今夜はいい夜だ――さて、飛び蹴りが回避されようが防御しようが、弟子が二重に仕掛けてくるぞ? カミナリも木に落ちるぞ? 電流はゴム底の靴に阻まれるぞ? どうする? どうするのだカムイ使い――もちろん久島は声にしない。しかし、感情をあらわに、すでに勝ったような笑顔。


「イズナッッ!!」

 カムイ出現――同時に久島の足はイナミの乱れた髪に触れるのみ。その飛び蹴りをイナミは加速して掻い潜り、回避。


 不可思議。久島には理解し難い、イナミの急停止からの急加速。


 エイタ、追撃。背後からイナミの首を取る算段――その意志を久島とすれ違い際に目で送る。

 その時、またも強風発生。それは交差する二人を中心に発生し、久島とエイタの体から自由を奪う。意思にも重力にも逆い。二人は宙に浮く。


「な」


 感情を簡潔に一文字で表現した久島とエイタは直後、という世にも珍しい攻撃に合う。


「あんたらさ」

 予想外の攻撃――それは竜巻。

 その奇策を考え、実行したのはイナミ。風を支配し、仁王立ちしたイナミ。

 その彼女は呆れ顔。

「弱い。特に、こ・こ・が」

 人差し指で、イナミが自分の額をとんとんとん、と叩く。

 竜巻が止む。切り屑のようにあしらわれ、久島とエイタは地面に落下。

 辺りには大量の血、血、血。


 だが久島とエイタの体に大した外傷は無い。何故なら竜巻の風は斬った場所からすぐひっつき、ひっついてもすぐ斬られ、またひっつく。

 人間の再生能力に加え、外氣で自然治癒能力を強化した二人にとって、竜巻は攻撃ではなく拷問。二人の脳は痛覚を認識するのを拒み意識をも断ち切る。


 それでもイナミは勝利に酔いしれない。

 まだ一匹、残っているから。

 どすどすと巨漢がやってくる音。隠れて不意打ちをするため、足を動かせる――が、膝から下が、かくん、と力抜けする。

 イナミは一歩も動けず、地面に右膝をつける。

 外氣が大量に消費され、自然吸収をはじめる。外氣も内氣と同様、吸収状態は行動不能。体力限界なら意識は遠のく。しかし外氣力がきれても意識はきれない。

 舌打ちする力も惜しむように、動かせない。麻酔がかかったように感触がない。

 誤算、計算外、予想外、致命的、最悪、万事休す――どれだけの言葉を脳内で連呼しても状況は改善しない。いままで鍛錬を抜いた凡ミス。

 戦う前に、心に秘めた博打――才能で手に入れたカムイの一撃で倒すという博打にイナミは負ける。

 

 イナミのプライドは大里流の面子に敗北。

 虚勢は堂々としなければ通用しない。

 片膝をつける敵に容赦はしない。

 九零、助けて――か細い願いが脳内を巡る。


「久島師匠……エイタ兄ちゃん……」

 先発二人に遅れること一分。ようやく追いついたタユラは呆然。死体のように横たわる二人に、惨劇を思わせる血痕。そして片膝を地面につけ、睨みつけるカムイ使い。


 イナミの鈍った体は、一分の休憩時間で戦えるまでには回復せず、最終手段の封氣呪を解くことさえできない。はったりを言うべき口も動かず、睨むのみ。

「カムイ使い……すごい、強い」

 タユラ、イナミの眼前に立つ。外氣を張り、肉体の強度を上げなければこの巨漢の真打でまちがいなく、死。

 般若を連想するようなタユラの笑み。丸太のように太いタユラの腕がイナミに伸ばされる。

 舌打ちも出来ないイナミの思考は、恋人に対しての贖罪と救難。

「よっ……と」

 イナミの体が持ち上げられ、タユラの右肩に担がれる。

「軽い……こんなに軽いのに、すごい、オンナ。スタイルも、良いし」

 悪寒が走る。最大限までイナミの意識が警戒音を出す。ニゲロ、ニゲロ! このままでは肉体的にも精神的にも、女としても、死ぬ以上の辱めを受けると。

 しかし、抗うことはできない。

「久島師匠、重い……オンナより、弱いのに……エイタ兄ちゃん、軽い……オンナに負けたけど」

 行動不能になった三人を一人で担いだ怪力をもつタユラの、豚の鳴き声のような笑い。それを塞ぐ力すらイナミにはない。

 悔しさ、不甲斐なさ、申し訳なさ――イナミは呼吸を止めて死んでやろうと考えて、でも自殺の不誠実が心をよぎって。ただただ涙を流れることをこらえるだけ。


 敗者は勝者の言いなり。

 古今東西、不変の掟。


 私は泣きたい気持ちを知られたくなかった。そうすれば強者が喜ぶだけだと思ったから。

 出来るだけ感覚を殺す。目を閉じて何も見ない。何が聞こえても聞こえない。どこを触られても感じない。何をされても反応しない。

 耐えて、辛抱しても助けは来ないかもしれない。でも、こいつの喜ぶように反応してやらない。絶対に。何をされても。

「ミノル兄ちゃん……ただいま」

 聞こえない、聞こえない。

「ただいま……イドさん」

 聞こえない、聞こえ――ん?


 このデブ、今、なんっつった?


「言ったとおりだった……イドさんの、言ったとおり、カムイ使い、勝った」

 私は砂利の上に仰向けに下ろされた。視界には満月、デブ男の体、それから――。

「ぶっ!」

 イドの姿が見えた途端、視界が閉ざされた。臭い液体を顔面にぶっかけられた。

頭が白くなるようなツンとした匂い、少しどろっとした――ま、ま、まさかっ!


「ごらぁっ、イドっ! ナニをしてんだ、てめぇっ!」

 私は勢い良く飛び起きて、血眼でイドの胸倉を掴んで問いただす!!

「ナニをかけた? 何でかけた? 趣味か? そういう趣向か? そんな男に育てた憶えは――」

「トノトだ。気付け、氣力回復にこの上なく効果がある。ミノルに汲んでこさせた。地下の社に腐るほどあったらしいんでな」


…………は?


「ミノル、タユラ。そこのやつらにもぶっかけろ」

 素っ気なく二人に指図して私の手を振りほどき、イドは縁側に積んであるタオルを取って、私に投げつける

 顔から腰まで、ずぶ濡れで酒臭い。本当に濁酒だ。

「イド殿、ただの酒に何故、このような効力があるのだ?」

 そう言ったのは、夕立の中でやっつけた十文字ミノル。黒スーツにバケツいっぱいの濁酒をかけている。

「そんじょそこらの酒と違って、レタウカムイノミ用の酒だ。氣力変換しやすく特別精製された酒で、濡神送レタウカムイノミのように飲めば内氣が、ぶっかければ外氣が急速補給される代物だ」

 いってみれば大氣から自分の外内氣に変換しやすくする栄養ドリンクだ、が。

「そんなことより、どういう了見よ、何なの、この状況は?」

 咲ちゃんを虐待したであろう大里流の四人の男が、夜襲をするはずのイドを『さん』付けで呼び、さっきまで殺される気分を存分に味あわせた私を屋敷の庭で介抱している。

 わけが分からない。

 私はタオルを地面にたたきつけた。

「イド! あんた、こいつらをやっつけてカムイを探すんじゃないの?」

 はんっ、とイドは鼻で笑って言う。

「なにずれたことをほざいている。もう、とっくにこいつらは俺に平伏ひれふした」

 ひれふした……つまりは……もう、片がついたってこと?

 じゃあ、何でこいつらは私を殺そうとした?

 イドは何でこいつらの仲間みたいに振舞っている?

 『攻撃性』のカムイを手に入れて、強くなるって目標は?

 ――などと疑問が疑問を呼んで、とってもとっても頭が痒いっっ!!!!

「まぁ、落ち着け。順番に話してやる」

 イドは頭をかきむしっている私を縁側に座るよう、顎で促した。飲み会を開いたように庭中が酒臭い。私は腰を下ろさずに、立ったままイドと向かい合った。


 うれしくない。

 こんな再会、まったくうれしくない。

 ロマンの欠片も無い……。

「夕方の五時半ぐらいだったか。俺がこの屋敷に忍び込むと、大層な出迎えをくらった」

 イドは夏の夜空にうかぶ、丸いお月様を見ながら、やはり素っ気なく、つまらない映画の感想を語るように言う。

「でもこいつら、軽く撫でただけで悶絶しやがる。出てきた師匠の久島に、そこの十文字三兄弟が、あまりに勿体ないから指導方針を問いただすと『一点特化の鍛錬をしているから本領は集団戦』だと言い訳しやがる。なら、試してやろうと思った。咲をさらって、お嬢様を誘い出し、合流してから本番の予定だったんだが」

 イドは冷めた目つきで、十文字ミノルを見る。ミノルは痛いところ突かれたように萎縮して、眼を背けた。

鹿が話を聞かず先走って、お嬢様と一戦やらかして敗北。お得意の集団戦が出来ないとなった。俺はお嬢様に理由を説明しようとしたが、民宿にいなかった。屋敷に戻って、事情を知っていそうな咲も帰ってこない。咲の両親が警察を呼んで対処しているころ、お嬢様が乗り込んできた。少々殺気ごもっていたので久島に言った。お前がミノルの代わりに集団戦の手本を見せてみろ、しかし殺す気でやらないと殺す――偉そうにしているだけあって、まあまあの殺気だったな。結果はこの様だが」

 濁酒の効力で気がついた久島は頭をふって上半身を起こし、冷めた雰囲気をかもし出すイドと、怒りで今にも感情が爆発しそうな私をみて、顔をしかめた。

 

 こいつら……私の身になって考えられないのか? 

 恋人がヤクザの事務所に押しかけるから、心配になって準備を整えていってみると、恋人が組長になっていた、そんな複雑を通り越して感情が逆転し、主旨が変わっているだろうと叫びたい衝動。騙されたという憤慨。

 敵と仲良くなってどうする。

 味方を騙してどうする。

「でも、まぁ、お嬢様の考えは十分にわかった。娘の心を案じての行動に咲の両親も礼を言っていたぞ」

 素っ気無い言葉。腹が立ちすぎて、頭が沸騰するほど熱くなっていく。


 私の体が、わなわなと震え、目頭が熱くなった。

「しかし随所に鍛錬不足が目立つ。俺が――」

 

――パシィィィン。

 

 ビンタをしたのは初めてだ。意外に大きな音がする。

 自分の頬が赤くなっていくことすら他人事のようなイド。

 背を向けて、私はその場に座った。酒臭い庭にいる全てが押し黙った。咳払いする音も風音も聞こえない。

 馬鹿イド。騙しやがって。謝るまで話しかけてやるもんか。

 馬鹿イナミ。騙されやがって。何でこんな男の傍にいたいんだ。

 馬鹿、馬鹿。


「俺がすぐ傍の茂みで待機していたんだ。助けを呼べば、すぐに飛んでいくのに……それぐらい気づけ」

「えっ?」

 振り返ると、イドは視線を斜め下に落とし、赤い手形のついた頬を、指でぽりぽりとかいて言う。

「死ぬ寸前まで追い込まれても助けを求めない……それを意地っ張りという。だがお嬢様の意地は、伝わった」

 イドは地面に落ちたタオルを拾い上げ、私の頭にゆっくり被せた。

「その意地が『アイヌ』にも伝わるといいな」

 合間に見えたイドの表情が、なんだか寂しそうだった。

 まるでもう、最後だと言いたげ。

 私とすれ違う。

 そして久島と十文字三兄弟に歩み寄る。

「さて、お前らの勿体ない才能も存分にわかった上で――」

 私はただ男たちをみていた。

 イドは一体、何を考えているのだろう。

 なぜ敵を、ぐうの音を出させないまで痛めつけないのだろう。『アイヌ』なら、そうしたはずだ。そう私に教えたはずなのに、なぜ……。

「今から、お前らに無刀大里流操氣術を個別指導してやる」

 

 私は後ろ向きにずっこけそうになった。髪の毛が何本かマンガみたいに、ぴょんと出ているかも。


 は、は、はぁ?


「返事はどうした」

 すると、ウス、と小さく、こもった返事がちらほら聞こえてくる。男たちは全く乗り気ではない。そりゃそうだ。


――ゴウッ!!


 返事を気にくわないイドの怒気が辺りにばら撒かれた。一瞬で変化した場の空気に全員が絶句する。

 私も表情が強張った。すぐ傍に隕石が落下して、音速の熱波に当てられたような氣――。

「返事はどうしたっ!!!!」

「オスっっっ!!」

「よし」イドがそう言うと天変地異のような怒気が収まり、静かな夏の夜の空気に戻る。


 私はなんだか、遠くに取り残されたように、男たちをみていた。


「エイタ、お前の特技は何だ」

 熱血武術教師イドはまず、私に蹴りをくれたエイタを名指しする。しっかりと返事が返ってくる。

「空歩っス。結構、自信あります」

「どういうふうに、自信がある?」

「そりゃあ、三時間ぶっ続けで空を歩けるし、富士山ぐらいの高さまでいけるし」

「やってみろ」

 矢継ぎ早に返されたエイタは投げやりに、空を歩く。

 右足が水中に沈む前に、左足をだすと水面を歩ける――そんな迷信を空中でやっていると言い換えても良いかな。空中の大氣を足場に歩行する術、空歩は初歩術とはいえ、外氣操術でも難しい部類。自分の外氣を大氣に反映させ、見えない足場を作り出すのだから、まず初心者の大半はここで挫折する。

「ほら! 結構すごいっしょ?」

とんとん、いい調子で歩いていく。十秒もかからず、ビルの六階分ぐらいの高さまでエイタは昇りつめた。歩数は十一歩か。

 たしかに凄い。外氣が豊富かつ、調節上手の証拠。私もエイタほどの高さには到達できないけど。

 でも、それは少々、間違った使い方。エイタはそれに気づいていないのか。


 無言でエイタを見上げていたイドはしゃがみこんで、足に外氣力を集中させる――そしてビル六階の高さにいるエイタに向かって空歩で近づく。

 

 ドン! イドの一歩目、大地を穿つように蹴り飛ばす爆音。

 ドウッ! 二歩目は空中の大氣を蹴り飛ばす音。


 イドは二歩でエイタと同じ高さに追いついて停止する。その時間は一秒あるかないか。

 あっという間に追いつかれたエイタは、無言で眼前のイドの言葉を待つ。

「違いがわかるか?」

「……えっと」

 エイタは口ごもって、首をかしげた。

 確かにエイタはには一流。しかし、それだけで人間は倒れてくれない。エイタの空歩はとはいえない。

 イドはヒントを教えた。

「空歩の開祖は、空を飛ぶ鳥を空中で捕まえることを志していたという。優しげだが、実際にやってみると難しい。理由は、鳥が速いからだ」

「はあ……」

 空を飛ぶ鳥の時速は、スズメでさえ時速五十六キロもある。それを捕まえるにはエイタのようなお散歩ではだめ。イドのように空中の大氣を蹴り飛ばないと追いつけない。

「大事なのはどれだけ速く相手に近づくか、だ。空をいくら散歩しても、知恵のある敵は近寄ってくれん。いかに距離を詰めるかが空歩の真髄。外氣の瞬発力がものをいう術だ」

「は、はい……」

「お前は外氣に恵まれている。タユラのバカでかい氣とは違う、純度の高いものだ。それを、いかに瞬時に出せるか。お嬢様の後ろをとった勢いを、どこまで引き伸ばせるか考え、鍛えろ……わかったか?」

「お、オス」

「よし」イドはそう言って、エイタに回し蹴りを繰り出した。それが見事にコメカミに入り、エイタは失神して、狙撃された小鳥のように落下していく。

「兄者!」ミノルが叫んでも反応はない。

 タユラのふくよかな腕がエイタを受け止めた。

「む、むちゃくちゃだ」タユラが唖然とする。


 そりゃそうだ。失敗したら一発、成功しても一発、必ず殴られる。彼の指導は、昏倒して目覚めたときに成功できたら合格。殴られなくなるまで続くスパルタ教育。私も才能があるからって――あ、ああ、そういうことか。

 勿体ない鍛え方――つまりイドはこいつらの考えや行為より、埋没した長所が気に入らないんだ。

 

 それだけのものを、この男たちは持っているんだ。


 空から舞い降りてきたイドは、ミノルを指差す。ミノルは待ってましたと言わんばかりに礼をする。もちろんイドは礼なんて無視。すぐ言い放つ。

「ミノルは魅入が得意だというが、魅入の効果的な使い方ができていない」

「オス! イナミ嬢に、指導を受けました!」

「では問う。効果的な魅入の使い方とは何だ?」

 ミノルは私をチラッと見る。素早く私は頷く。

「奇襲です!」

 よしよし。ちゃんと学習している。間違えていたら私のほうにも拳がとんできそうなほど、イドは熱くなっているからね。

「模範的だな」

 イドは腕組みをして、庭を歩く。自分の庭のように、堂々と。

「奇襲は正々堂々の真剣勝負で、よく敗者が言い訳に使う。しかし殺るか殺られるかの場面で勝者は必ず奇襲をする。では、それを含めて最も理想的な魅入とはなんだ?」

「わかりません!」

 淀みの無いミノルの大声に、今度こそ私はずっこけた。

 

 学習はできても応用は出来んのかよ? 

 庭を歩くイドに反応はない――率先躬行。イドはもうを使っているというのに。

 もくもくと歩くイドをずっとミノルは目で追いかけている。

「しったかぶりは身を滅ぼす」

 ドスのきいた声に、ミノルの体は強張る。先ほどの熱く激しい怒気とは違い、冷たく、静かな怒気に当てられ、ミノルは背後にいるイドに振り向くことも出来ないみたい。

 背後からイドは、凍て殺すように冷たく指導する。

は幻影だ。腕組みした瞬間にお前は術に魅入っていた。魅入は放出した外氣を自分そっくりに形作るものと、外氣を目から脳に叩き込んで錯覚させるものがある……今回はあえて全員に後者の術をかけたが、それでもお嬢様と久島は本体を目で追っていたぞ」

 ゴクリ、とミノルは大きな唾を飲み込んだ。そこで幻影は消えた。

「お前の魅入の使い方は外れではない。そこのお嬢様ともなると、俺が使った魅入とお前が使う魅入を、局面に応じて使い分けるのだからな……こっちの魅入も使えるようになれ。やり方は自分で学べ」

 ついでに、とイドはつけくわえた。

「勝者は何でもする。ルールブックは自分自身だが、それは相手も同じと憶えておけ。わかったか?」

「……オス」

「よし」そう言って今度はミノルの延髄に手刀をいれ、気絶させた。前のめりに倒れる次男を、体の大きな末っ子が受け止める。

 ミノルは最後まで技の表面でおぼれていたけど、学習できたのかな? とばっちりがこなけりゃいいけど。

 

 私は横目で久島をみる。まるで少年野球を見物するオッチャンみたいに、弟子が荒く指導されるところを、上体をおこしただけの体勢で眺めている。

 妙な雰囲気。なんだか、弟子が違う人間に指導されているのを面白がっているような。笑顔ではないけれど、内心は笑い転げているような軽い内氣を感じる。

 自分の大里流へのアプローチを他人に侵害されているのが、そんなに興味深い? すこし腹がたった。弟子も弟子だが、悪いのはこの師匠。まるで実験のように弟子に術を教えやがって。

 

 次はタユラの番。タユラは風どおりのいい縁側に兄二人を並べて寝かせていた。

 そういえば、このデブの戦っているところを私は知らないな。

「タユラは自分でわかっているとおり、腕力だけだ」

 自分の名を呼ばれて、やっと自分が指導される番だと気づいたみたい。

 ゆっくりとイドに歩み寄る。

「まずタユラ、お前は本当に大里流を習いたいのか?」

「え、あ……は、はい」

「何故だ」

 すると喋りのおそいタユラの声が完全に途絶える。

 言いたくないのか、黙ってしまった。

「はっ、ははは!」

 笑い声を上げたのは久島だ。イドの睨みが飛んでくると興ざめしたように、久島は言う。

「タユラはお兄ちゃん子でな。真似したいだけだ」

 冷めた、いやな言い方。喋るテンポの遅いタユラを見下して、自分のペースに引きずり込む。詐欺者みたい。

 注意しようと私が口を開ける――。

「立派じゃないか」

 全員がイドに注目した。

のようにを目指すより、よっぽど具体的、現実的な賢い理由だ」

 歯軋りする音が聞こえたようだった。いい気味。

「だが兄を真似するのは体型からして無理だな。まず筋力を落とさず、贅肉を落とせ。それだけだ」

 空歩も魅入も同じ外氣操術でも、その本質はスピード。空歩は勿論、魅入だって幻影と本体の区別が付きにくいよう死角に回る速さを持っていなければ使い物にならない。瞬発力に外氣力、そしてスタミナ。五百メートル走を三分超える鈍足では話にならない。

「とりあえず兄の介護に専念しろ」

 イドがそっぽを向けてタユラの脇を通って行く。

「あ……あの……」

 すれ違いざま、タユラは焦ったようにイドを呼び止めるが、イドは立ち止まるだけで何も言わない。

「お、俺……その」

 イドは返事をしない代わりに、タユラの目を見た。

「あんまり、頭が、よくないけれど……腕力が……そ、その、つ、強すぎて……上手く……使えない、から」

「殴ったら物も人間も、どこかは痛む。傷つかない暴力などない」

 イドの言葉に私の胸が、一度だけ高鳴る。

 傷つかない暴力などない――私の目的を一刀両断された気分。

「しかし、後遺症をなるべく残さないならある」

「ほんと?」

 私とタユラは同時に声を上げた。

 何でお嬢様まで、と言いたげにイドは視線を私に向けるが、すぐタユラに向かった。

「ああ。今まで術の間違った使い方を指摘してきたが、真打の亜流に、そんなものがある」

 そういってタユラに向かって頭から股下まですっと、真っ直ぐ手を下ろした。

「正中線の近くに重心が固まる場所がある」

「……セイチュウセン?」

 そんなことも知らないのに段を持っているの? タユラが凄いやつに思える反面、段を与えたやつの気が知れない。

「人体の急所が並ぶ場所だ。その急所に打ち込むのがセオリーなんだが、お前の真打を素人の急所に打つとまず、死ぬだろうな」

 丸太のように太いタユラの腕は、熊でも殺せそう。一体何をすればここまでなるんだろう。二人の兄は中肉なのに。

「だが圧倒することと、殺すことはちがう」

 イドは右拳をタユラのふくよかな腹に、とん、と当てた。

 たったそれだけでタユラはバランスを崩し、両手をばたばた動かせて溺れたアヒルのようにあがいている。

「わかるか? ここがお前の上半身を保つだ。ここを揺さぶられると上体がよろめく。そして氣をこめた真打だと、内氣まで揺さぶられ行動不能になる」

 私も知らない技……たぶん、途中ですっぽかした打ちこみ角度の技法か?

 でも、すごく高度かつ繊細。人を殴ったことのある人間からすれば、針の穴にまつ毛を通すように神経を尖らせないと無理。よほど場数を踏んでクレバーにならないと実戦じゃ使えない。

「人体の芯は個人によって違う。それについてはもう、相手をよく観察しろとしか言いようがない。しかし、決まれば必ず相手は意識に反して体から力が抜ける……やってみろ」

 拳を離してイドは仁王立ちする。構えもせず、自らサンドバックに志願した。

タユラは右手を引きの構えをとるものの、ためらっていた。さすがに体重百キロを超えるタユラの打撃を、五十キロ程度の華奢なイドが耐えることは不可能に思える。

 でも――それも含めての鍛錬。

「やっちゃいなよ」

 私が声をかけると、タユラはますます困惑した顔つきになっていく。

「自分の力を上手にコントロールしたいんでしょ? だったら最初は失敗するかもしれないし、傷つけちゃうかもしれない。でも、目の前にいるヤツは、そのことを自分で考え、承諾した上で『やってみろ』って言ったんだ。それって、すごくあんたのことをかってくれているってこと」

「うん……」

「へーきだって。死んでも恨まれないし。てか絶対に死なないから」

「……うん」

 タユラはちょっと気が入ったように、いきます、と言った。

 内氣を集中させて外氣まで変化させる――家中の電力を一つの家電製品に集めるように、氣力を攻撃だけに特化させる、内氣操術初歩、合氣ごうきから繰り出される拳、真打。

 タユラの右拳がイドに当たった。

 ドゴン、と爆発が起こったように、大氣を揺るがす。

 見ている私のお腹にも、鉛がぶつかったような重い感じ……うえ、吐きそう。


 イドは歯を食いしばって、それを耐えてる。タユラの大砲が直撃した腹を手で押さえている。

「これは……ただの真打だ。芯を狙っていない……出来るまで続けろ」

 すうっと大きく息を吸って、再びイドはノーガードになった。

 そして再びタユラの合氣が始まる――。


「無駄だというのに」

 打撃音が轟く中、聞こえる大きさで独りごちる久島が、とても嫌みったらしい。

 私は久島に近づいて襟首を掴む。するとそっけなく言う。

「何だ、カムイ使い」

「努力してる弟子を見て、なにも感じないの?」

「ならば、自分の教えを否定される師匠をみて、なにも感じないのか?」

 同情を引くかのような返し文句。でも久島の内氣は踊るかのように軽快に湧き上がっている。こいつは弟子が強くなるのを楽しんでいるのだろうか。でも、それならさっきの言葉はおかしい。

「師匠のあんたは、確かに面白くないでしょうよ……でもってのはあんまりだろ」

「才能のある人間ほど努力する凡人をみて、やれ素晴らしい、もっとがんばれと簡単に言う。それがどれほどの苦痛をともなうかこれっぽっちも考えずにな。あのイドもお前も、常人とかけ離れた天才だ。そんなお前らには三兄弟がどう写っている? 切磋琢磨する努力家に見えると? 俺には、頭の悪い人間の馬鹿っぽい、悪あがきにしか見えん」

 私の腕を振り払って、久島は言い返す。内氣の流れが変化した。

「それが師匠の言うこと――」

 

 その時。爆発音ではなく、戦闘機が風を切る音に似た衝撃が私たちにまで届いた。

 見ると、イドが地面に両膝をついていた。脳震盪を起こしたボクサーのように、虚ろな瞳で、地面を見つめている。そしてうわ言のように、しどろもどろに喋る。

「ど、どんな、感触だった」

「……拳が、イドさんに、入っていくような」

 息を整えイドの瞳が徐々に生気を取り戻していく。タユラは右拳を本当に自分の物なのか、確かめるように擦る。

 のろのろとイドは立ち上がる。大きく息を吸って、吐き出した。死人のようだった顔色が一瞬で元に戻ると、

「よし」と言ってタユラに腹に右拳を繰り出した。

 音は無かった。タユラの身体が震えあがり、力が抜けていく……芯を捉えた真打……簡単にタユラを地面に沈め、意識を奪った。

 ふうっ、と息をついて汗を拭うイドの姿が清々しい。これで終わった――。

「さて、最後だ。聞こえていたぞ。こいつらの鍛錬を馬鹿っぽい悪あがきにしか見えないそうだな」

「いかにも」

 私をよそに、久島は堂々とイドと反対方向へ歩いていく。

「俺もこいつらも凡人だからな」

「努力するのが愚かしいことか?」

「価値観の相違だな」

 満月を後ろに立ち止まった久島は、イドに向き直って言った。

「俺には俺のやり方がある。空歩が散歩で何が悪い。空を歩く人間を見て驚いた人間を、さらに魅入でかく乱させ、止めに殺人級の真打……ではないか」

 両手を広げ、久島は笑った。高圧的な高笑いではなく、自嘲みたいな、含み笑い。

 こいつ、ボスキャラ気取り?

 それにくわえてねぇ……大里流を学ぶだけのことはある。たいしたバカ。

「俺のやり方でそいつらを極みに近づけるはずだった。それを侵害されたなら、嫌味も悪態もつく」

 

 そよ風が吹いて木々がざわめく。

 怪しい雰囲気をさらに引き立たせ、なんだかだんだん私も久島が諸悪の根源に思えてくる。

 

 そもそも、こいつがいなけりゃ咲ちゃんは自首をしていたし、私たちは厄介ごとにつき合わされなかったはず。

 

 全てを否定するように、はんっ、とイドは鼻笑いして、久島を指差す。

「他人を権力で自分好みの色に変える――それはではなくという。お前は自己中心的な誇大妄想者……価値観より品位の問題だな」

「誇大妄想? 品位?」

「ああ。なんていってみれば終着駅だ。侍とは死ぬことなんて言葉もだし、戦わずして勝つことも。限界を知ったとき、同時にわかることだ」

 イドの内氣が静かに揺らぐ。満ち潮を迎えた海辺のように、何度も波が押し寄せてくるように、ゆっくりと確実に絶対量を増やす。

「本を読んでみろ。数々のに満ち溢れていてかつ、を探求している……お前はその悪い見本だ。派手な術でたぶらかし、純粋な人間をそそのかし、己の欲望に利用する典型的悪人。やり直せるだけマシと思え」

 するとタガが外れた人形のように久島は笑い出し、身をよじった。

「こりゃあいい! 俺が悪人か! なら、貴様が正義のヒーローか?」

 くだらん! そう言って久島から放たれた怒気は、地面を殴りつけたときよりも大きく、大氣を震わせる。

 私は風除けのように怒気の震動から腕で顔を守る。幸い、イドに向けられた怒気だったから私が受けたのは恐怖感だけ。

 大氣の震動は久島の外内氣力の貯蓄量を物語る。ぼとぼとと、カブトムシたちが失神して墜落する音がする。

 実力はある。久島は強い。威張っているだけの世間知らずじゃない。威張りたくもなるほどの鍛錬を経て充実した氣力を手に入れた猛者なんだ。

「十文字兄弟は俺の理想的な引き立て役だった。あんな馬鹿どもを最強にできたなら、どんな面白い気分になっていたか……ぶち壊しくれてありがとうよ。お礼に苦しめてから殺してやる」

 でも、こいうところが抜けているというか、ありがちというか……そんな久島に対してもイドは真っ向から久島に指導する。

「久島、お前はその時点で間違っている。なんて教えられるものじゃない。なるものだ。お前は弟子を鍛えていたんじゃない。飼育していたにすぎない。その証拠に、お前は弟子に超えられることを何より嫌っている。それもお前の欠点だ」

 イドはゆっくりと構えをとった――私も参戦しないと。

「ただし。久島、そのについて……俺なりの答えを見せてやる。構えろ」


 空気が変わる。

 イナミはその感覚を嫌になるほど知っている。

 昔『アイヌ』に叩き込まれ、父親らの修羅場を目にして、この感覚は忘れてはならない、忘れたなら殺されると理解している。


 久島を見限った矢先で放たれた怒気。

 それは間違いなく大里流のなかでも上位有段者が持つもの。イナミは確信する。 久島の実力は海のように深い。威張るだけのことはある、そして先ほど勝てたのはカムイのおかげだったと。


 事前にイズナの能力を把握されていたなら、いや、最初の、子供たちがいなければ突進した自分の顔面に、確実にカウンターが入っていたと。

 そう、あの時の眼。あれは余裕から来るもの。強者が弱者を見下す眼――だから嫌な気配がしたのだと確信する。

 隙があれば、イドに加勢しよう。そう頑なに決心した途端、妙な高揚感がイナミに生まれる。何故か恋人の小さい体が、頼もしく思えてくる。こいつといればへーき、何とかなる、二人なら、二人で戦えるなら。たとえ相手が父親であろうと――そんな暖かい安心感。

 そんなイナミを久島が眼で威嚇する。

 途端にイナミは金縛り似た身体の硬直を感じる。


「もう通用せんぞ。管狐くだきつねのカムイ使い」


 その一言でイナミは内氣を乱す。先に切り札を見せたことが裏目にでたから。

 だからといって先ほどの戦闘でイナミがとった行動は間違いではない。むしろ多勢に無勢の劣勢場面では起死回生の好手。

 惜しむべきは己の注意不足。驕りと怠慢。


 空は雲ひとつない夏の夜空。時折流れる風は優しく、草木も揺るがない弱い風。火の気もない屋敷の庭。池は見当たらず、雨による地面の水分はたかが知れている。偶然の地震など期待できない。たとえ都合よく地震が起こったとしても空歩を使われたならその意味は無い。

 は使えない。雷雲が無ければ落雷はできない。風が無ければ竜巻も作れない――ある意味で最も強いイズナの弱点――という致命的な弱点を久島に見抜かれる。

 

 イナミは悟られぬよう、ゆっくりとポケットに手を入れ、携帯電話に触れ電源をいれる。そのかすかな電流でさえイズナは操る。

 スタンガンほどもない、か弱い電流がイナミに流れいく。これは気休め。それこそ悪あがき。だからといって、何もしないではいられない。恋人であり相棒である者を失いたくない一心での行動。

「一つ教えてくれない?」

 イナミの隙を誘った質問。

「あんた、あの兄弟が扱かれるところを、楽しそうに見てたよね?」

 最初、久島を師匠意識がない男だと、腹が立ったイナミ。

 しかし最悪の感想を述べたことである疑惑が生まれる。

 。それは全ての行為を否定する最悪の評価。

 たとえ師でも言ってはならない、最上級の禁句。

「あんた、最強とか目指していたんでしょ? だったら」

「ちがう」

 答えたのはイド。

「それはフリだ。久島は独りよがりな、規模の小さい人間だ」

 その言葉にイナミは直感する。ああ、久島は馬鹿じゃない。武術バカの姉とはちがうと。

 馬鹿は馬鹿でも、久島は救いようのある馬鹿。大里流が無くなると死んでしまう姉とは違う。久島から大里流を奪っても、きっとどこかで生きていける。ただの物好き。没頭してもそれは束の間の余興。長い人生のどこかで、やがて必ずこういう――飽きたと。

 イナミ、拳を握る――勿体ない。なんて勿体ない。これほどの素質があるのに、自分を過小評価している。そしてその小さくなった世界で満足している。カムイ使いの、才能だけは褒められた自分より強く、強さを求めているのに。

 そんなイナミの緊迫した内氣が空気を支配する大氣に伝わり、さらに場を張り詰めていく。


「お嬢様は構えなくていい」

 イドはそう言って、軽やかにステップを踏む。ボクサーのようにその場で何度も跳ぶ。先ほどタユラの指導で受けたダメージを感じさせない軽快な動き。


 対する久島は右手をだらりと下げ、左拳を腰の高さで握り、じりじりと間合いを詰めていく。左拳は様子見の、本命は右拳真打。その二発から連撃へ繋げるかた

「三度」

 タン、タン。イドの跳躍が高くなっていく。明らかに高く、まどわすように。

「三度も見ているんだ。俺の知っているというものは」

 タン。

 そこで地面を踏む音が消え。

 跳躍は空歩の布石。地面から音が消え、代わりに空を蹴る音。

 五メートルの間合いを一秒もかからず詰める、それが空歩の真髄。

「シッ!」

 久島の声。同時に様子見の左拳が放たれる。それには間合いを詰める空歩は直線的な動きしか出来ないという欠点を知った、熟練者の牽制。どんなに速く動こうとも先読みされていては意味が無い。

 放たれた左拳は動きを制するとともに、距離を伝える――が、イドの顔面に当たるとイドは揺らいで消える。

 魅入。久島からすればそれも読んでの牽制。本体の位置は分かっている。上。

 見上げると夜空から華奢な少年が降ってくる。真打をそれに合わせれば終わる。

 しかし、久島は空歩で逃げるだろうと勘ぐり、見る。イドの攻撃を直前で躱すか受けるかして、反撃する魂胆。

 なんだ、この平凡な攻撃はと久島は落胆する。

「こんなものだ」

 不意に、下からの声。

 久島が視線を落とした直後、鉄球を打ち付けられたような、重い衝撃。

 被弾は腹部、鳩尾のやや上。久島の芯にイドの真打が直撃。肉体に外傷を残さず、内部を揺るがす一撃。

「こんなものだ。俺が知っているは、あっけないものなんだ」

 空歩で驚かせ、魅入でかく乱させ油断したところへ芯を狙った真打――そうなのか? 違うのか? 久島は薄れ行く意識の中で反芻する。

 理解できない速さ。対処なんて出来ない術。対応なんて間に合わない力。

それは確かに三度見たイドの攻撃。


 イドはそれ以外の行動一切を封じて久島を昏倒させる。

 勝利。しかし――


 イナミは見て知る。空歩で一瞬にして近づき、その間、二つの魅入を繰り出す。見える魅入を出すと同時に、錯覚させる魅入。そのどちらかに掛かればよし、先読みされ体勢をかえられてもよし。本体は見える魅入と同じ方向から近づいて、虚を衝いて芯を狙った真打で倒す。

 その一連は実に単純なもの。しかしそれが。イドが見せたのは久島のと少し外れたもの。仮に久島が間違っていたとするなら、それは別段、美しいものではないということ。

 一撃必殺。そのための歩行術、かく乱術、打撃術。

 でも、いざ目の当たりにするとそれは、とても空しい。誰もそのことを褒めないし、称えない。そこにあるのは決定的な実力の差があるだけだから。

 そよ風さえ興味が湧かないほど、つまらないように止んでしまう。

 なんてことのない究極。久島はきっと大里流を見限るだろう。ここまで努力した自分を、いともあっさり、馬鹿にされたのだから。その努力を悔しがるほど馬鹿ではないから。


 久島が地面に沈むと、今度こそイドは一息つく。イナミも張り詰めていた気を緩ませる。

 するとイドの右腕から、爆ぜるように血が噴出。

 驚愕の表情をイナミが浮かべる。しかしイドは舌打ちを一つするだけ。

「あんた……まさか、タユラの?」

「ちがう。内氣が外氣の絶対量を超えただけだ。そのうち勝手に治る」

 イナミはおろおろして、バケツに汲まれた濁酒を探し、手ですくって、ところどころ皮膚が破れ筋肉が直視できるイドの右腕に、軟膏のように塗りつける。

 イドは意外そう。大氣を変換して外氣に変わりいく自分の腕ではなく、優しい顔つきのイナミに見とれる。

「ここまでボロボロになっても強がる、それをやせ我慢っていうの」イナミは自分のシャツのすそを破って、イドの腕に巻きつけた。

「ちょっと待て。俺は我慢なんてしていない。訂正し――」

 そう言いかけて、イナミから顔を背ける。

「どうした?」

「……体調を崩すから、は、腹を隠せ……」

 破られたイナミのシャツは、もう胸を隠しているだけの面積しかない。イドは彼女の裸を見たことが無い。

 くすくすとイナミは笑う。あれほど超人的な強さをもつイドの初心な少年らしい部分が可笑しくて。

「こんなお子様にやられるなんてね。久島の歯軋りが聞こえそうだ」

「そうでもない。あいつはそこまで俺を相手にしてないし、自分に自信をもっていない」

 昏倒する久島に一瞥をくれて、イドは静かに風が止んだ庭を後にする。

 満月が雲に隠れていく。程なくして辺りは闇に包まれていく。

「勿体ない。久島ほどの才能があれば、俺だって……」

 後についてくるイナミに悟られぬよう、そっとイドは拳を握る。

 空しい勝利。

 浸ることもできない勝利。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る