第3話 カムイと私



 雨の中、イドは逆立ちをして、両腕だけを使って、民宿の庭を端から端までいったりきたりしていた。

 タフなやつだ。私は真打しんうちを一発打っただけで、もう、ふらふら。外氣力がいきりょくと、内氣力ないきりょくの両方をつかう技だもん。外氣力は足の治療に使っている。だから不足分を内氣力で補う――私の苦手とする分野だ。

「拾ってきたのか?」

 ずぶ濡れの私と咲ちゃんを見たイドの第一声に、ぎくりとした。私はイドに了承を得て連れてきたんじゃないし――何よりイドの内氣ないきに驚いた。

 イドは逆立ちしたまま、腕の筋力だけで、ぴょんと飛び上がる。空中でバランスをとり、もとの二足歩行にもどる。

「捨ててこい」

「はぁ? なん、こいつ、人を犬みたぁ言うえ!」

 激昂する咲ちゃんを見て、はんっ、とイドが鼻で笑う。

「犬だろうが。てめぇは、自分の意識がない、ただの犬だ」

「んやと? やくぞ、ハゲ!」

 容赦なく雨粒が落ちてくる。このまま喧嘩がつづくと、みんなそろって西条の世話になる。

「やってみろよ、犬っころ」

「ええ度胸やの!」

 勢いづく二人の口喧嘩。イドは九零より感情が豊かな分、粗暴なやつらしい。

 よーくわかった。

「とりあえず、部屋に入ろう。咲ちゃん、筋トレ馬鹿の言うことなんて無視、無視」

「……しょう悪いやつ。姉ちゃんは、ようがまんできるわ」

「あははは……はぁ……」

 私は力なく笑った。私もイドとは、今日会ったばかりだ。自分自身、よくがまんできるものだ、と感心する。

「イド、あんたも汗拭いてきなさい。咲ちゃんから話を聞こう」

「お嬢様にまかせる。身体が、そうとう鈍ってやがるんでな……走ってくる」

 まだやるの? 呆れながら私は言った。

「じゃあ、せめて着替えてよ。今、あんたの着ている服、私の服なんだ」

「なるほど。どおりで腰周りが大きいわけだ」

 ぶち。

 私のこめかみが音を立てる。

「どれが九零の荷物か分からなかったから、適当に見繕ったんだが……お嬢様の服だったとは。シャツは小さいが」

「私は、きみの足が、いつもより短いから、すぐ気づいていたけどねぇ。あれ? イドくんは、そんなに自分の体に興味がないの?」

「何を言っている。内氣が腐りに腐って、言葉選びもできんのか」

 ぶち、ぶち。

 雨音に混じって、私の堪忍袋が弾ける音。

「ま、雨の中で鍛錬して風邪をひく、という馬鹿話もある。風呂にするか」

 汗と雨でぐしょぐしょになったシャツとカーゴパンツを脱ぎ捨て、イドは民宿に入っていった。

 雨が降りすさむ庭に六万円した海外ブランドのカーゴパンツ、六千円のTシャツが捨ててある――その主は私だ。その私は今、沸々と湧き上がる怒りと戦っている。

「姉ちゃん……ほん、ようアレと一緒におれるえ……大人やわ」

 咲ちゃんの顔はひきつっている。咲ちゃんがいてくれてよかった。周りに誰もいなかったら、イドと、どつきあいの喧嘩になっているだろう。


 女将さんからタオルを借りた。ふかふかしている。咲ちゃんと部屋で髪を乾かせていると、イドが風呂から上がってきた。

 腰にタオルを巻いただけの――。

「馬鹿野郎! 女の子の前で!」

 私がタオルで咲ちゃんの目を隠すと、例によってイドは、はんっ、と鼻で笑う。

「いまさら隠すこともないだろう。九零の服はどこだ?」

「あれ! あのリュックの中!」

 指差すと、イドは湯気の昇る体を見せびらかすように、堂々と歩いていく。私も目をそらした。九零と『アイヌ』の姿でそんなことを、してほしくない。もっと上品に振舞ってもらいたい。

「……やる気があるのか無いのか……ちゃんと、いいのがあるじゃないか……」ぶつぶつと独り言を言って、イドは着替える。

「……姉ちゃん、九零って、昨日の兄ぃや? なん、つらはアレとにとうが、しょうがえろう違っとやん?」

「えっと、ごめん。もうちょっと、分かりやすく喋ってくれないかな」

 咲ちゃんは、うん、と呟いて、麻隅訛りをできるだけ標準語にかえて言った。

「九零って人と、イドって人、凄く似ているけれど……性格は全然違う。別人みたい……」

「うん。別人だもん」

「双子? 二重人格? 虚言癖?」

 小学生なのに難しい言葉を知ってるな。あ、『ヒーコー』は天才っていう意味もあるのか。

 何て説明しよう。でも、なんと言えばいいのか……。

「多重人格に近いが、俺や九零は『人格』じゃない」着替えながらイドが答える。

 もちろん私と咲ちゃんはイドを見ていない。ごそごそ着替えるイドの衣擦れと、声だけ聞いている。

「俺は『アイヌのイド』だ。追求すると『人格』じゃない」

「『アイヌ』って、北海道の民族のこと?」咲ちゃんがイドに聞き返す。

「この体の名前だ。ルーツは知らん。ただ『アイヌ』は俺たちの基本だ。『俺たちはアイヌの一部』……それは、お嬢様の知るカムイの伝承と通じる……おい、もういいぞ」

 着替え終えたイドをみて、私は言葉を失った。

 黒衣闘着こくいとうぎ――黒い半そでのボロ着に、黒帯、黒い長ズボン。それは上位有段者のみが着ることを許された戦闘服。まだ、九零は持っていたんだ……懐かしさと、苛立ちが交差して、私の心をかき乱す。

「そんな顔するな。これは『アイヌ』の私物だからな。九零の律儀さを褒めてやれよ、お嬢様」

 イドは嬉しそうだった。

 私はチッ、と舌打ちを一つ。その後にイドに尋ねる。

「九零はどうしている? 消えちゃったの?」

「寝ている。夢をみようと必死にな」

「夢、ねぇ……」

「疑うのか? 『サキヨミ』はカムイの中でも上物だぞ」

「一度、痛い目みたから。信じられない」

 くくっ、と笑い声を上げるイド。何が可笑しい? 

 二年前、私は九零のカムイを信用して、あえてあの会社に持てる財産を全て投資した。そして起こった世界恐慌で、会社は潰れ、私はオケラになった。それが可笑しいの?

「どうやら九零のやつ、さきよみと夢の区別が出来んらしい。大目に見てやれよ、お嬢様」

 そう言ってイドは、窓の内枠にぶら下がり、懸垂を始めた。ここまでくると、筋トレ馬鹿も本物だな。

「やっぱりカムイ使いえ……姉ちゃんも、イドも?」

 そうだった。咲ちゃんの話を聞かないと。

「どうして咲ちゃんはカムイを知ってるの?」

「私もカムイを持ってるから……でも、あんまり、上手に使えなくって……」

「暴走するのね」

 こくん、と咲ちゃんは頷いた。

「私の感覚じゃ、咲ちゃんには『シンタ』――カムイをつかえる才能みたいなものが、感じられないけれど、それは何故?」

「三年前から、家に住み込んでいる人たちに『他人にばれると、面倒だから』って……これ」

 咲ちゃんは、右腕のリストバンドをみせた。黒いシャチが刺繍されたリストバンド。

 背筋が震えた。私は咲ちゃんのリストバンドを、よく見て触って、調べた。

「これつけてからは、カムイも大分、私の言うこと聞いてくれて……ずっとつけてる」

「これは『封氣呪ふうきじゅ』ね。じゃあ、咲ちゃんの家にいるのって」

 嫌な感じ。身体の中を、どす黒いムカデが這いずり回る感覚。イドを見ると、別段変わりがなかった。息をきらして懸垂を続けている。

「イド、いつから知っていた?」

「村を走っているとき、突然、ぶっ倒れてな。九零が出てきた。さきよみが見えたといって場所を指定したから、目が覚めて、そこに行ってみると、犬っころの家だった」

 イドは懸垂を終えて、次は腹筋を鍛え始める。

「そこで……いるいる……俺が鍛えなおす理由……わかるだろ? お嬢様」

「咲ちゃん、そいつら何か言ってなかった? たとえば、拳法の流派とか」

 咲ちゃんはすこし宙を見てから、ぼそりと言った。

 本当は聞きたくなかった。

無刀むとう大里流おおざとりゅう操氣術そうきじゅつ……だったかな。イドと同じような服を着てた」

 忌々しい名前。そんな流派、一つしか記憶にない。

「父さんが家庭教師にって連れてきたん――ね、姉ちゃん、顔色が悪いよ。大丈夫?」

 笑顔を作ってみる。うまくいかない。酒を飲みたい。

「気にしないで……それで、咲ちゃんがカムイを手に入れたのは、何処?」

「家の地下に、小さいやしろがあって――なぁ、姉ちゃん、ほんとに大丈夫?」

「いいから説明しな!」

 そう言って、自分でも驚いた。ここまで大人気ない自分に、腹が立った。

 咲ちゃんは、びっくりして、私から距離をとる。

「あ、うんと、ね」

 咲ちゃんに対して私は取り繕う言葉も出ない。もう、謝っても、だめろうな。私は畳を見て、暫く黙っていた。


 イドは私と咲ちゃんの間にやってきて、腕立て伏せをはじめた。

「何? わざわざ、こんな所で」

「カムイっていうのは、最初、世界の全てだった」

 私の言葉を遮って、イドはカムイについて説明をする。腕立て伏せをしながら、息をきらしながら。

「カムイは、万能で完全だった。大きな光の塊で、辺りはずっと、昼間のように、明るい。でも、カムイの中身には、大きな、暗い闇があった」

 私と咲ちゃんは黙って、イドの言葉を聞いていた。

「自分の中身に、闇があるのを嫌ったカムイは、消してしまおうと思った。でも、方法がない。それは、カムイが完全で、一つしかなかったからだ。悩んだ結果、カムイは無数の小さな光に飛び散って、自分の闇を、外から照らそうとした。でも、無数に飛び散ったカムイたちは完全ではなくなっていた……そりゃそうだ。光があれば闇ができる」

 イドは、左手を背にやって、右腕だけで腕立てをする。

「小さくなったカムイは個々に考える。どうやって闇を照らそうか。そこで歪みができた。違う考え、違う行為、違う能力――やがて本来の、闇を消そうという考えが消えていく。カムイの、光の大きさにも、違いがあって、小さなカムイがすねだした。そして考えた。自分が大きな光ではなかったのは何故か……結論はでない。いつしかそのカムイは、消えた。他のカムイに消された。邪魔だから。

 一つのカムイはどんどん消していった。すると。別のカムイがさらに小さくなって、飛び散り、そいつを照らした。おまえの中にある闇を消してやるってな。そのカムイも負けじと小さくなる。そうやってどんどんカムイは小さくなって、世界は一面、光の草原になった――」

 イドは、腕を変え、左腕だけで腕立てをはじめる。

「その光の草原で生まれたのが、最初の人間――光ることもない、出来損ないのカムイだった。そいつは何も知らなかった。能力もなく、ずっと他のカムイに頼ってばかり。ただ考えたことを、教えることは出来た。やがてカムイから人間へ伝わった知識を、人間は、発展させた……カムイが、人間は成長する能力をもっていることに気づいた頃、人間はカムイより賢くなっていた。そこでカムイは人間に憑りつき、人間を知ろうと思った。そして、もう一つの出来損ないが現れる。それがイドとよばれる人間だった……そいつの目的はただ一つ、カムイから自立すること」

 腕立てを終えて、イドは咲ちゃんを見る。

「こんな長話が好きなお前らに九零の考えを教えてやる。カムイとイドは似て似つかないもの。人間に溶け込もうとするカムイも、人間として自立したいイドも、その実、共通する部分がある。それを考え、知ることの出来るのは人間だけではないのか――だとよ」

 次に私を見て、イドは言ってくれた。

「お前らは、そろってカムイに憑りつかれている。そして『実家』にもな。似たもの同士だ。心の痛みを分かち合うのに、うってつけだろ? 俺はともかく、お前ら、一人で生きていけるほど強いのか?」

 私は何も言えない。イドの言葉が胸に突き刺さった。

 一人で生きる――嫌な言葉だ。


 私はカムイを持っているが、それは『実家』の力で得たもの。私の実力ではない。カムイ使いになるため、努力したけれど『血統によって何とかなった』と言われた。今もそうだと思っている。精進して立派な跡取りになれ、と言われても私はやる気がなかった。

 カムイを呼び出すこともしなかった。だって血統で手に入れた力のもとに人は集まらない。汗を流して鍛錬し続ける姉のほうにみんな、ついていく。

 大里家に私の居場所はなくなった。

 両親にもシカトされた。私は一人ぼっちだった。学校でも大里家でも、ずっと一人。努力しても、誰も気づかない、気づいてくれない――『九零』が出て来るまでは。


 『アイヌ』は、私に大里流の指導していた。

 カムイ使いになっても、私を『アイヌ』は容赦なく叩きのめして、こう言った。

「才能はある。ただし才能だけだ」

 私は泣いた。つっかえ棒が無くなったように、押し殺していた感情が涙と一緒にでた。

 泣いて、修行を止めた。カムイを使うのも嫌になった。

 その後、『アイヌ』のかわりに出てきた『九零』と家出して、東京で新しい暮らしを始めた。


 私には『九零』がいる。それだけでも、世の中で生きていくには十分だと、信じていた。


 カムイと『実家』に挟まれた私の孤独――それは誰にもわからないと思った。今まで数多くのカムイ使いと出会ったが、誰一人として、後ろめたい気持ちで生活していなかった。

 むしろ毎日を楽しんでいた。カムイは便利だから、使いようによっては、巨万の富をもたらしてくれる。カムイ使いに貧乏人はいなかった。


 私のカムイは人を傷つけるだけ。でも『九零』はちがう。


『九零』のカムイを使って、お金儲けをした。そのときは爽快だった。『サキヨミ』のカムイで、これから業績の伸びそうな会社に先行投資して、利益を頂く仕事をした。

 次から次へとお金が増えた。学生実業家などともてはやされ、時たま雑誌で取材を受けたりして、調子に乗って、ろくに学校に通わず豪遊した。パソコンを操作するだけで、毎日、何百万と私の口座に振り込まれる。そのお金につられて、大勢の人間が私の周りに集まった。

 みんなが、私を信頼している――などと、とてつもない勘違いをしていた。

 没落してわかった。みんなが信頼していたのは、お金だ。九零のカムイでもたらされた、お金だった。没落したその日から、手のひらを返すように私を見限って、誰にも連絡がとれなくなった。携帯電話もいたずら電話ばかりかかってくる。街で知り合いに声をかけても無視される。ヤクザまがいの借金取りに誘拐されそうになって、習った大里流でぶちのめして――面倒くさいことばかり。何もかもが面倒になった。相談できる人なんていない。気を遣ってくれる人もいない。

 私はまた、一人ぼっちになった。


「しけたツラぁ、しとんなぁ」

 関西弁のオッサンが私に話しかけたのは、没落した翌月。家賃三十万のアパートを追い出されて、家財を差し押さえられ、最低限の荷物を持って野宿をしようと、公園のベンチで横になっていたとき。

「私は全てを悟りました、人間なんてくだらんモンです――なんて考えてんちゃうか?」

 オッサンは日焼けした腕で、私の頭を軽く叩いた。

「甘ったれんな。みんな、自分のことで精一杯なんやで? 世の中の、みんながみんな、あんたに構っていれる余裕なんかあらへん。そやから、あんたの傍におってくれる人間は、すげー大切なんちゃうか?」

 そう言ってオッサンは、私の体を起こして、指を指した。

「忘れたらあかん。あんたの傍には、まだ、人間がおるっちゅうこと」

 オッサンは、薄暗い電灯の下――九零を指差していた。

「お金につられて集まったんは人間や。せやけど、それが全部なわけやない。今、あんたの傍におるあの子は、ほんまに、お金目当てに見えるか?」

 私は首を振った。何度も何度も九零が、お金目当ての人間ではないと否定した。

 そして思い出した。

 九零はお金目当てで、家出をしたんじゃない。私を、お金目当てで暗い山道をおんぶしてくれたんじゃない。傷の手当もそうだ。アパートの手続きだって、私が面倒くさいといってほうりだすと九零が一緒に考えようって。料理は何のために作ってくれた? あの美味しいご飯は、何でいつも暖かく美味しった? お風呂は? 掃除は? お金のためなんかじゃないって、分かってたくせに何で、何で――涙が流れた。

 何で、忘れてたんだろう――九零は、いつも、私の傍にいて味方になってくれていたのに。ずっと、ずっと、ずっと味方だった。九零が助けてくれた。いつも、いつも。

「あんたは住む所が無くなった。お金が無くなった。それがなんやちゅうねん。そんなもん、全然へーきやろ? 九零くんがおるんやから、へーき、へーきやって」

 へーき。人間が、九零がいるから。へーき。


 ◇

「ごめんね。咲ちゃん、私が悪かった」

 咲ちゃんは、ううん、と小さく返事してくれた。よかった。まだ、返事してくれる。

「イド、ありがと。あんた結構、良いこと言うじゃん」

 はんっ、とイドは鼻で笑うと、壁に背を当てて、空気椅子を始めた。

「解釈は勝手にしろ。それより聞くことがあるだろう」

 そうだ。まずは情報を集めなければ。

「咲ちゃんのカムイは、どういう名前なの?」

「『エンジャ』のカムイ……物を焼くんよ。制御できるようになったら、何でも焼けるって言われた」

「家の地下にあったの?」

「昔、かくれんぼしてて、隠れる場所を探していたら、偶然見つけた」

 地下に社がある家――たぶん咲ちゃんのいう社は|チセコロカムイを祭るための社か。

 

 『家神』と書くカムイはその字の通り、家を守護、繁栄させるために祭られている……はず。

 

 家神チセコロカムイが人間を攻撃することはない。時々、夢に現れて予言をするとか、家中を童の姿で走りまわって警戒を促す程度の可愛いやつだ。

 

 その家神チセコロカムイが、エンジャ? 


 私の記憶が正しいなら、エンジャはアフンルパルコロカムイのひとつ。人間を黄泉へ突き落とす、攻撃意識の塊のはず。

 

 『冥界神』と書くカムイ。そんなの祭る家なんて滅多にない。さっさとシンタをもつ人間に憑依させて、その人間を中心にグループや、国をつくるのが通例。野放しにすると冥界神アフンルパルコロカムイは、事あるごとに人間を襲うから。

 カムイからしてみれば、じゃれる程度の感覚。でも人間にとっては災害。だから憑依させて制御し封印する。もしくはカムイの力で統治する。


「そこで出てくるのが『ヒーコー』か……」


  私は状況を整理した。


 まず『火子』は麻隅の天才児のことと、神通力をもつ子供のこと。それは間違いない。

 


 今朝、神社の神主から聞いた昔話――火の神が麻隅に来て、高天に住み着いた。三ヶ月間、炎は焚けて、火の粉を飛ばした。火の粉が形を成し、人間の形になると、火の神は静かに消えた――この麻隅の昔話について神主の解釈は、火の神は都から来た人間の男だという。

 その男は強くて頭がよくて、女にモテモテだった。だから方々に女ができて……まぁ、あれだ。三ヶ月間、とっかえひっかえに女と交わりまわって、精を出し尽くして死んだ。昔話だから、お子様うけを狙って言葉を選んだ結果、すごく神秘的なお話になったが、実際は男性の粗暴さを教えるもの。

 


 ここに、私の私見を入れてみよう。


 その男がカムイ使いだったなら? その男がモテる理由が、カムイによるものなら?


 エンジャにはそういう能力もある。火を使った催眠術――よく、自称催眠術師がライターを使っている。暗い部屋で、ライターの火や、ロウソクの火を見つめていると変な気分になる。私も経験したことがあるけど長時間、暗い密室空間にいて、局所的な明かりを見つめていると、人間は酒に酔ったような、陶酔感に似たものを憶える――それをカムイの力でやったなら? 田舎娘の純情を弄んだ、鬼畜野郎がその男の正体だったなら? 神通力を受け継ぐ、というのがカムイ使いになるという意味なら? そうすれば『ヒーコー』の二つの意味を、まとめてふくんだお話になる。



「――どう? 私の考え、破綻してない?」

 私は自分の考えを全て口に出して、意見を求めた。もちろん咲ちゃんにも聞こえたはず。

 話を理解して、矛盾を感じたなら反対意見もでる。そうしてでる結論は、何よりも強固だ。

「大筋はいいんじゃないか。だが、犬っころの家で、何故、冥界神アフンルパルコロカムイを祭っていたのかがわからん」イドは右足先にリュックサックをくくりつけ、蹴りの鍛錬をして言った。

「それは簡単。咲ちゃんの実家がエンジャを信仰している密教徒だから」

「だから、何故、そんな馬鹿をする?」

「子宝に恵まれるじゃん。絶倫の神様だもん」

 はんっ、とイドは鼻で笑う。でも、こういう限界集落では、少子化は正に死活問題。

 

 今日、私が見た子供は十人以下。そのうち彼らは外に出て行く。憧れももちろん、仕事の面でも田舎より都会のほうがいい。そうなれば、村には年寄りだらけで、子供がいなくなる。村に残っている年寄りも、残りの人生はそう長いものじゃないから、人口が減っていくばかりで、増えない。やがて村は消滅する。大問題だ。神に頼りたくもなる。

 

 咲ちゃんの家は冥界神アフンルパルコロカムイを祭っていたから、村人から畏怖と尊敬、権力を得られた。


「そこの犬っころにシンタが、偶然にも、あった。それはいい。なら、他の『ヒーコー』はどうなる?」

「シンタは持っているだけじゃ、ただの『ゆりかご』よ。カムイとセットじゃなきゃ意味がない。変な言い方だけど、他の『ヒーコー』は普通の天才だった。他の村人の中にもシンタをもっていた人間もいたかもしれないけれど、カムイ使いじゃない。だって社を独占しているんだから。今の麻隅では咲ちゃんだけがカムイ使いの『ヒーコー』」


 私は少し、記憶をさかのぼってみた。ここに来た原因、九零の夢について思い出してみる。


 湖、上と下にある月。

 これらの意味が分からない。


「咲ちゃん、その社があるのは地下だから、当然、お月様なんて見えないよね」

「うん……」

「地底湖なんて、ないよね」

「ないよ……あ、そこには池があったん。臭くて深い池……突然『落ちろ』って声がして、びっくりして……でも、足が勝手に池に向かうんよ。で、落ちたん」

 

 池か。それはトノトを貯めた池かもしれない。レタウカムイノミに使われる特別な濁酒。

 なら、ワッカカムイノミ――たとえ炎だろうと全てのカムイは水に住む、という信仰――にみられるカムイの憑依の儀式かな。でもそっちは人間の勝手な解釈だしあまり関係ないか。

 

 カムイはシンタがある人間すべてに憑依する。濁酒はカムイの好物で、服用することでカムイとシンクロしやすくなる。

 カムイの命令にさからえないのがシンタを持つ人間であることの、何よりの証明。だから子供のカムイ使いはウェンペ――悪童になりやすい。カムイを制御できず、他人を傷つけてしまう。そして罪悪感から、心の中で助けを求める。口で言えばいいのに……でも、言っても信じてもらえない子供は、ただ、ひたすら念じるしかない。

 

 助けてくれ、助けてくれ……と


「だいぶ繋がってきたね。でも、咲ちゃんの家に何故、大里流がいるの?」

 私の最も気になること……咲ちゃんの家に、私の『実家』が絡むこと。おおよその見当はつく。でも、こればかりは予想ですませられない。

「それは言えなん」

「どうして?」

「……私が……私が……捕まるんよぅ」

 顔を両手で隠し、咲ちゃんは泣き出した。

「え、何、私いやなこと聞いた? ごめんね、泣かないで」

 肩を震わせている咲ちゃんは、小さな手で隠した顔から泣き声を漏らす。暖めるように私は咲ちゃんを抱きしめると、小さな体から、こんな声が出るのか、という勢いで泣いた。

「ちょっと咲ちゃん……どうしたの?」 

 イドが、ふう、と息をつく。足からリュックを外して、柔軟体操を始めた。ようやく一日の鍛錬が終わったようだけど、それより――咲ちゃんをなだめる私を見て、イドは言った。

「お嬢様、『ふかせたばかぁやいたんよ』ってことだ。察してやれ」

 それって、昨日のバスの運転手が言ったことか?

 あ、ああ……イドの一言で、解けた。

「贖罪のための大里流か……ったく」

 そう私は呟いた。泣き叫ぶ咲ちゃんに気づかれないように。

 

 術をもって悪童ウエンぺの性根を叩きなおす――悪い子には礼儀作法を体で覚えさせよう――そんな古臭い教育指導をまだ続けていたのか。私の実家ながら、ほとほと呆れる。

 無刀大里流操氣術――内氣は心の持ちようを教えて、外氣は健康な肉体を作る。そしてそれらを操り生きるすべを学ぶ――ファンタジックな魔法の真似技もあるが、本来の目的はカムイに負けない丈夫な精神と身体をつくること。だから、昔、大里流の知識は重宝されたらしい。


 でも、時代とともに大里流は必要なくなった。日本だけでもカムイ使い全てを見つけ出すのは不可能だし、育てることもできない。シンタはあくまで才能。もって生まれた六つ目の感覚だから、それは人員をさいて方々に連絡を取らないと発掘できない。さらにいうと厳しい大里流の鍛錬に耐え切れず門下生が激減したのもある。

 大里流は変革を余儀なくされ、拳法道場になった。流行らなかったが、細々と現在まで続いている。裏で、カムイ使い養成所などと噂されながら。

 咲ちゃんも、あの修行をさせられそうだったのか。それもこれも、偶然、人を『焼いた』から。

 つまりエンジャが暴走して殺してしまったから。


「咲ちゃん……辛いよね、泣きたいよね……」

 私の腕の中で、咲ちゃんはずっと、泣き続けている。こんな悩み、誰にも相談なんてできない。うっかり話してしまえば、犯罪者、異常者などと騒がれ、隔離されてしまう。だから黙っているしかない。

 でも、それは苦しい。人を傷つけ、殺害してしまったのだから。

「私……警察でも、おかぁにも、ずっと私、嘘ついた……そぅえ……私、嘘つきえ……嘘つきの、人殺しえ……生きていいはずなん……でも、捕まるのは、いやぁえ……」

 彼女は『ヒーコー』だから。二つの意味で、神童と呼ばれているから、村人は見てみぬ振りをする。『特別な子だから、そういうこともある』と。そして贖罪もできず、ただ、時間だけが過ぎる。他の子が明るく楽しむ青春時代を、彼女は暗く重い、罪悪感を抱いて。

 よくわかる。

 痛いほどわかる。

 あなたの苦しみは、私に届いた。

「思う存分、泣いていいよ。私が慰めてあげる」

 でもね、咲ちゃん。わかっているよね。

 泣き終わったら、現実が待っている。

 泣いても、終わらない現実。

 いつまで続くのか分からない世界が、確かに待っている。

 いつか雨は止むけれど、いくら泣いても罪は償えない。

 そんな、厳しい世界が、あなたを待っている。

「私も、慰めることしかできなくて、ごめんね」

 私と咲ちゃんを見かねてか、イドは無言で、部屋を出て行った。


 ◇

「止む気配、ないね」

 私が呟くと、女将さんから頂いた麦茶を無言で飲んでいたイドが、窓を見る。

 遠くで雷鳴が聞こえる。空が唸って、泣いている。咲ちゃんはもう、塞ぎこんでしまった。泣き止んでから今まで、一言も喋っていない。壁にかけられたハト時計が、五回鳴る。

 午後五時か。

「もう、行ってくる」

 イドがそう言って立ち上がる。その表情は喧嘩をする悪ガキのように、にやけている。

「お嬢様はどうする? 見学か? 子守か?」

 私は顔をしかめる。もう、『実家』と係わるのは、御免こうむりたかった。

「帰ろう。東京に……もう、面倒くさいよ」

 本心だった。でもイドは、はんっ、と鼻で笑う。

「その犬っころはどうする」

「咲ちゃんって言いなさい。そうだな。警察かな」

 私の言った警察という言葉に、びくん、と咲ちゃんの体が反応した。

 でも私には、これしか思いつかない。咲ちゃん自身も法で裁かれなければ、贖罪できないと悟っているだろう。理由はどうあれ、殺人は殺人だから。

「だからさ、イド、もう着替えな。荷物をまとめてちょうだい」

「命令か?」

「うん」

 もう、いいよ。面倒だもん。意味ないもん。私は確かに『彼』にむかって、闘え、なんて言ったけどさ、よくよく考えてみると、それまでの道のりやリスクが大きすぎる。そんなことより、一日でも多く、楽しく生きようよ――そんな意味を込めて私は『うん』と言ったつもりだった。

「断る。じゃ、行ってくる」

 イドの返事に、自分の耳を疑った。私は命令したはずだ。『着替えろ』と。

「ちょっと、行くなって! 命令! 行くな!」

 部屋を出て行こうとするイドを、行くなと『命令』する。でも、聞こえていないのか、私は玄関までずっと、行くな、と言いながらイドを追いかけた。

「聞こえてないの? 意味ないから、そんなことしたってさ!」

「意味?」

 靴を履く手を止めてイドは、ようやく返事した。

「そう。意味ないよ」

「なら、お嬢様。お金は何だ?」

 はぁ? 何を言ってるんだ、イドは?

「お金は沢山あったほうが便利だよな。飯も食える。住処も確保できる、移動も情報も……でも、自分がくたばる要素は消えない」

「そりゃ、そうだけど」

「だからって、お金を稼がないと、くたばる要素はぐっとふえる」

 イドは憎たらしい、子鬼のような笑みを浮かべる。

「指をくわえて耐えるのは疲れるだけだ。ごちゃごちゃ考えて人生を送るより、欲望でも何でも叶えるため生きて、自分を貫き通す努力をしていくほうが、よっぽど楽だ。俺は進む。いつでも前進あるのみ。退いてたまるか。俺は『アイヌ』の命令も受けてる――カムイを見つけて取り込めと。真意はしらん。でも強くなるのは良いことだ。くたばるのを待つより、はるかにな。そうだろ?」

 私は目を背けた。イドの目を直視できなかった。真っ直ぐすぎて、綺麗すぎて、私には不釣合いに思った。

「お嬢様、あんたはどこまでも、逃げ続ければいい。そうすれば大往生だ。『アイヌ』はお嬢様を殺さない。逃げる女を追いかけるようなヤツじゃない」

 くくくと笑い声をかみ殺すような声を出して、イドは夕立の中、雨の中へ、自らの意思で宿を出て行った。


 部屋に戻って、私は荷物をまとめた。咲ちゃんは私を避けるように部屋の隅で、足を抱え込んで押し黙っている。

「警察、行く? 私と一緒にさ」

 返事がない。体を動かすとか、揺らすという反応もない。彼女は、もう、駄目かもしれない。私には頼れる人間がいる。仕事場の仲間に九零――特別、頭が良いという人たちではない。でも私には、仲間がいる。悩みを相談して解決してくれる人たちがいる。だから、へーき。

 咲ちゃんには、そんな仲間がいない。

 咲ちゃんは、一人ぼっち。

「咲―っ! どこえー?」

 子供の声だった。声変わりまえの甲高い少年の声が、雨音に混じって聞こえる。

「友達じゃないの?」

 私の問いに咲ちゃんは答えない。でも、顔を上げて、窓の外を見た。

よう……」

 咲ちゃんが呟いた。私も咲ちゃんの後ろから、外を覗いた。

 雨の中を一人の少年が、傘を差して歩いている。黄色い傘だった。長靴を履いていた。私はその子を知っている。廃校のような校舎で、私に文句を言った男の子だ。

「咲―っ? おったら返事せー! いんかったら、いんてぇいー!」

 探しているのだろう。あの男の子、咲ちゃんを雨の中、探している。私は咲ちゃんに聞いてみる。ここだって、私はここにいるって、答えたらどうか。

「……ええなん。もう、ええ」

 咲ちゃんはそう言って、また、部屋の隅で、足をかかえて黙ってしまった。

「咲―咲―?」

 男の子の声が遠くなっていく。だんだん距離が離れていく。

 警察に電話するか。私は携帯電話を取り出した。こんなぜいたく品をこんなことに使うとは思いもしなかった。

「咲―っ? しょうしとかー? だいしとかー? あれか? 大人のあれかー?」

 その声に咲ちゃんは、過剰に反応する。顔を真っ赤にして、さっと窓から身を出して、男の子に向かって叫んだ。

「オラぁ! 陽、コラぁ! いうにことかいて、なんいいふりまわっとえ! この変態ハゲチビ!」

「あーっ? 咲、そなんとこで、なんしとうーえ?」

「さっきの言葉ぁ撤回せえいうとえ! 私がそなんことするかボケぇ! 焼くぞ! アホンダラ!」

「なん? ほなぁ、なんガッコえこなんだよー? みんな、まっとったえー?」

「それは別え! さっさと帰れ! で、謝らんかえクソガキ!」

「おまぁ、それが人にいうことかー? どなん歩いたか、しなんくせにー」

「ああっ、話にならん! ちょっとまとぉ! そこから動くな! 一発こづいたら!」

 別人のようだった。咲ちゃんは、ぐるぐると腕を振り回し、どしどしと足音を立てて、部屋を出て行く。

 その前に一言、咲ちゃんは去り際に呟いた。可愛い声で。

「ほん、しゃぁなんえ。だから、捕まりたぁなん」

 私は麻隅訛りをはっきりとは理解できない。でも、たぶん、あの男の子が、咲ちゃんにとっての九零なのだろう。私は携帯電話の電源を切ってポケットにいれた。


 雨はどんどん強くなっていく。雨粒が屋根を叩いている。先ほどまで聞こえていた、咲ちゃんたちの喧嘩声も、もう聞こえない。

 イドも帰ってこない。私は一人で、荷物をまとめ終え、一人で部屋にいた。

 

 あんた、ちっちゃいんだな――馬鹿姉の言葉を思い出す。私はいやになって、頭を抱えた。こんなときに、どうして、どうして?


 ◇

「そんなに鍛えて、どうするの?」

 そう、あれは中学生のとき。家出するちょっと前。

 私は姉に尋ねた。三つ年上の姉は、高校に進学せず、ただ毎日、ひたすら大里流の鍛錬をしていて、それがあまりにも世間一般から離れたものだったから尋ねた。


 私はもう、そんなことが馬鹿らしくなって、普通の中学生として生きていた。中学二年生の夏休みだった。東京の高校受験を控えていた私は、毎日汗を流す姉を横目で見ながら、大嫌いな社会の参考書と向き合っていた。

「ああん? 何か言った?」

 私は居間で参考書をぱらぱらめくっていた。庭で姉は息をきらしている。

 聞こえていたくせに、白々しい。そう言いたいのを我慢して私は、なんでもない、と言った。

 すぐ、ぜぇぜぇと息を切らせる姉の、地獄の鍛錬なんて、うっとうしいだけだし、質問には特別な理由はなかった。ただなんとなく、だ。

「イナミ、また勉強やってんの? 楽しい?」

「別に」

 そう、と言って姉は、縁側に座り、煙草を吸った。マルボロのメンソール――私には、ただ臭いだけのもの。

 この未成年の姉は煙草がないと体調と精神を整えられない弱者に見えた。

 とことん相性の悪い姉妹だと思っていた。

「中井がさ、強いんだよ」

 煙草をふかして姉は、思い出すように呟いた。中井さんは、大里流の有段者だ。姉と同じ歳で、体格も頭もルックスも、完璧に近い男だった。

「初めて会ったときから十年か……久しぶりに手合わせして、強さが分かった」

 そんなこと言う姉は初めてだった。まじまじと観察したわけではないが、背中がどこか、あきらめたような暗い雰囲気をかもし出していた。

「体格も才能も、中井さんに勝てるのは親父ぐらいじゃない?」

 私は姉の背中を見て言った。小さい背中。姉の身長なんて百六十センチぐらいの可愛いものだ。なのに、大里流の鍛錬についていけるのだから、不思議だった。

「その中井が、負けやがった」

「マジ?」

 私は耳を疑った。怪訝な表情で私が見ていると姉の背中が、なんとなく、思い出したように、震えだした。どんどん暗さが消えていく。

「相手は初心者で、しかも女。あたしより小柄なんじゃないかな」

 ふ、と姉は気味よく煙を吹き出した。私には想像できなかった。姉より強い中井さんが、姉より小さな女に負けたなんて、嘘だ、デタラメだ。

 振り向いて私を見る姉は顔こそあどけない童顔でも、大里流最強の遺伝子を持ち、技を極めんと努力している。

 全ての女性の先頭を走り続けているはずだ。どこの女か知らないが、姉より強いもんか。

「天才っていう言葉は嫌いだけど、そうとしか言えないよ、玉緒たまおアキラっていう女は」

 でも、と姉は付け加える。その先を私は直感のまま言葉にした。

「いつか倒すって? 何か、どっかの少年マンガじゃん」

 私の勘が当たったようで、姉が睨むようにこっちを見た。微笑んで返してやった。ほんとうに姉を馬鹿だと思った。

「悪いか?」

「いえいえ。がんばってくださいな。応援はしないけど」

 感情はこめなかった。私は、大里流と真剣に向き合う姉を、馬鹿だと思った。

「イナミ、あんた、自分の大きさって知ってる?」

「身長百七十一センチ」

「ふーん。あんた、ちっちゃいんだな。もっとデカイ人間だとおもってた」

 悪意のある喋り方だったら、姉と喧嘩になっていた。でも、姉は教えるように、弟子に指導するように、日差しの強い、でも、もっともっと暑くなりそうな夏空を見上げて言った。

「身長なんて知ってるから、あたしたちは惨めさを感じるんだ。もっと自由になって、大きく、強く――そうだな。カムイとか、親父とかにも素手で立ち向かえる人間になりたいね。それが鍛える理由」

 文句あるか――最後に強く付け加えてから、姉は再び鍛錬に戻った。


 ◇

 

 ビシッ。

 

 細い電流。脳内をはしる一瞬の電流。

 咲ちゃん?

 まさか、カムイが暴走した? 男の子と喧嘩して、頭にきて、制御できなくなった?

 

 ビシシッ。

 

 いや……ちがう。

 感覚が違う。普段の咲ちゃんのシンタは、もっと同情をさそう、か細い電流のはず。でも今回の電流は、はっきりとした攻撃意識だ。制御できないというより、本気の敵意。男の子を殺す気なの? それは駄目だ!

 

 私が窓から顔をだすと、咲ちゃんと男の子――そして、黒い道着を着た、大人が一人。

 大里流……ちっ! あいつに向けての殺意か!

 何かを話している。でも、雨音で聞こえない。

 咲ちゃんが何か叫ぶ。

「ぃゃゃ」

 いや? 何が? 私は耳を澄ました。全ての雨音を聞き分けるほどに。

 あ・の・ち・か・ら・わ・つ・か・わ・ん。

 だ・れ・も。

 こ・ろ・し・と・お・な・ん。

 で・も・よ・う・に・て・を・あ・げ・た・ら・や・く。

 

 🔶

「もうええ! 離せ! アホには言ってなん! 陽、離せ!」

 穂名田ほなだ咲はもがく。犬のように、黒い道着の男に後ろ首をつかまれ、連れて行かれる。

 それを陽という男の子が、必死で止める。

「咲がいやがってんえ! 離せって!」そう言って懸命に黒道着の男の足に、しがみつくが、男にとってはただの五月蝿い虫。

「教育がなってない!」

 男は足についた虫を払うため、しなやかに身体を動かせる。

 陽の体がふわっと、浮く。

「あ」陽は何が起こったのか、理解できない表情。咲は、目を逸らす。黒道着の男は、にやけて得意げ。

 豪雨の中、一陣の風が吹く。

 風とともに民宿の二階から飛び降り、陽を受け止めた女。浮いた陽の体が、地面に激突する前に、自分の体をクッション代わりにする。

「姉ちゃん!」

 咲の声。でも、イナミに返事無し。眼中には黒道着の男のみ。

「何だ、お前は」

 黒道着の男はイナミを知らない。

 イナミもこの男を知らない。そこで生まれたイナミの感情は、安堵。

 彼女は『実家』の将来有望な面子をオボロゲながらも憶えているから――格下だと見極める。

「長袖組風情が、私にタメグチかよ。教育がなっていないのは、どっちなんだか」

「ほおぅ」

 イナミの安い挑発。男はのってくる。

 すでにイナミの神経は臨戦状態。男の外氣は平静なものの、内氣はぐちゃぐちゃ。内氣鍛錬の未熟さが伺える。この男は虚勢を張っている。

「道着の袖で見分けるとは、『身内』か? しかし、邪魔をするなら、女だろうと容赦はせんぞ」

 とんだ馬鹿。落とし穴を自分で広げるような言葉。

「うわっ、安~いセリフ……えっと、陽くんだったっけ? 私と、あのダッサいオッサンと、どっちが田舎ものに見える?」

 陽は、おどおどゆっくり、指を指す。当然、男を。小さな指で指す。

「だよね。陽くん、きみ、カッコいいよ」

 イナミは陽を遠ざけ、男に近寄る。

 男はイナミより頭一つ分、身長が高い。

「さっさと子供を離しなよ。そして、この子たちに謝りな」

「…………馬鹿が!」

 男が高く飛んだ。咲を抱えたまま、二人は雨空に消えていく――いや、フェイント。

 イナミは左側に身体を向ける。何故か、男はそこにいる。そして、男が上段蹴りを放つ。

「甘い!」言いながらイナミ、蹴りを回避。上体を後ろに逸らして。

 男は驚く。表情にもはっきりと表れている。

魅入みいれを避けた……有段者か」そう呟いて男は、やっと咲を解放。

 咲はイナミの後方――陽のもとへ避難。

「ならば、礼をせねばならん。我こそは」

 儀礼的。こんなときにいちいち、挨拶なんて、本物の馬鹿がすること。

 イナミは何も言わず、左拳を男の顔に――

十文字じゅうもんじミノル、初段。中部地方、屈指の魅入みいれ使いと自負している」

 イナミの拳は、十文字の顔面を貫通する。異様で不可思議。

 そして十文字の顔、体は陽炎のように揺らいで消える。

 イナミの拳に物体が当たる感覚は無い。幻。氣が作り出した、十文字と同じ等身大の幻。

「ちっ、面倒くさい……」

 拳を引っ込めて悪態つくイナミ。

 あざ笑うように十文字の姿が右、左、上の三つ同時に現れる。そして、どれもが同時に声をだす。あははははと、豪雨の中に響く。

 無刀大里流外氣操術の初歩、魅入みいれ。気持ちの悪い技。外氣を放出し、大氣たいきと混ぜて幻影を作り出す。かけられた相手は、まるで術者の幻影を魅入みいられたかのように追うから、魅入――発想も、効果も、ネーミングセンスも最悪とイナミ、憤慨す。

「破れるかな? 『身内』ならわかるだろう?」

 分かっている。魅入の恐ろしさぐらい――イナミ、心で悪態をつく。

「ほら!」

 十文字の発声とともに、三体のうちの一体、『右側にいる十文字』が飛び掛る。

 右拳上段突き、狙いはイナミの顔面。それを難なく受け流す――が、姿が消えて、イナミのわき腹に痛みが走る。

 『左側にいる十文字』からの足先そくせん蹴り、直撃。

 左が本体? イナミすぐ『左にいる十文字』へ足蹴り。またも物体に触れる感触がなく『左にいる十文字』の姿は揺らいで消える。ならば、上か。見上げるとイナミの脳天を狙って、踵落とし。

 『上の十文字』の攻撃をイナミは回避出来ず、両手を交差して防御。衝撃とともに落雷のような音が体内に響き渡る。足元の雨水が、弾けるように舞う。

 落下速度と体重を含めた一撃――イナミの骨が、きしむ。

いたぁっ……このっ!」まけじと『上の十文字』に、上段蹴りを仕掛けるが、またしても幻影。感触がなく、フゥッと十文字の姿が、揺らいで消える。

「何をやっている? さっきの威勢はどうした?」

 『本体』は、イナミの右側に――最初にイナミを攻撃したのは幻影。本体は、左から仕掛け、即座に幻影に変わり、上へ。そして今、右に――本体と幻影が一瞬で交代して捉えきれない。

魅入みいったな」

 十文字の幻影がまた現れる。右、左、正面に加えて今度はイナミの背後にも。全部で四体。これが、魅入の恐ろしさ。幻影による視覚のかく乱と、本体による素早く確実な攻撃。

 そして何より、思考の混乱を誘う。


 耐えろ私、耐えろ。

 でも、これぐらいのかく乱術で何故、頭が痒いの……。


「この、素人が!」

 響く十文字の声。

 イナミは頭を掻く。彼女のクセ。ややこしい考え事をすると頭を掻きたくなる……ぼりぼりと……。


 この延々と続く幻影の波!

 攻撃の嵐!

 まったく、誰よ! こんな術作ったのは? 面倒くさい!

 ああっ! 足が痛い! 腕も痛い! 内氣が足りない! 外氣も!

 ああっ、何よこの雨! ふざけんな! つーか、何なのこの男は!

 今どき道着で外を出歩くなっつーの! ああもう、内氣がぐちゃぐちゃ! 正しい思考もできないぃぃ!

「くくく……『身内』だというのに、情けない姿だな」

 笑った? 笑ったな?

 この野郎! もういい!

 つきあっていられない! こうなったら一か八かヤマはって、右! 殴って、蹴飛ばして、投げてやるぅうぅ!

 ああ、でも外れたら? カウンターが来るから、それにカウンターを合わせる? 出来るのか? 私、出来るのか? 

 そんな器用な人間だったっけ? なら左だ、いや、上? ああ、せめて現在位置さえわかったなら! ああ、くそ、ああああああ!!! 


「なぁんてことを期待した?」

 イナミは頭を抱え込むフリを中止。体をくねらせ、頭をぼりぼりと掻くことも。

 そう、ほんとうのところは余裕。

 彼女ほどになると魅入ごとき初歩術で頭を痛めない。こんなもの、子供だまし。

 ただし、それでもイナミは劣勢。鍛錬不足と勘の鈍り。それを悟られれば先ほどのように連続攻撃を仕掛けられ敗北する。

「何だと?」

 十文字は幻影を含め、四体が同じ顔。ハトが豆鉄砲食らった顔、というのは、こういう表情か。はじめてみた。感情に素直なやつ、あのまま押し切れば良いのにとイナミ、呆れる。

「ええっと、ジュウモンジさん? 魅入のプロなら、当然知ってるよね?」

 雨が降りすさぶ中イナミは、気取ったように額に手をやり、十文字に一つ、カマをかける。

 ここからは心理戦。肉弾戦では体術では勝てないと悟ったイナミの博打。

「……ああ。そんなことぐらい、知っている」

 十文字、大きく頷く。

 イナミの心は――うそつけ。

 そして浮かんだ一つのアイディア。質問攻めの刑。イナミは十文字の精神を断ち切ることに移行する。

 これも立派な戦い。何故ならイナミにとって十文字を倒すには時間が必要不可欠だから。氣を練り、イズナのカムイを憑依させる時間が――。

「何故、雨の日に戦うの?」

「それは、偶然だ」

「あら、十文字さん、闘い始めて何分たったかしら?」

「そんなことは、知らん」

「ああっ! 何だか足の筋肉がほぐれたわ! 十文字さん、外氣がみなぎってくるわ!」

「よし! ならば本気で――」

「おやおや、十文字さん、その道着は、脱いだほうがよくありませんかぁ?」

「……いいだろう、別に」

「よし! いくぞ、十文字『シンタ』っ!」

「俺の、俺の名前は、十文字ミノルだっ! 何なんだ貴様! やる気があるのか! ないなら失せろっ!」

 世界を包む大氣が震えるような声。怒りが頂点に達した十文字は顔が真っ赤。

 

 イナミの心中――やれやれ、ほんとうに教育がなっていない。この程度の口問答で熱くなるなんて。これだから大里流には変な噂が尽きないのよ。インチキ、マジック、曲芸――底辺がこれだから、天辺もこうだろうと決めつけられると諦観。

「よく気づかないね。魅入の弱点にさ。さっきの質問は全部、あんたの大好きな技の弱点を指摘したものだけど?」

「…………何?」

「本っ当に、まだ気づかないの?」

 もしここに『アイヌ』がいたら十文字なんて即刻破門――処刑されている。イナミとしては門下生が減るのは構わない。だが十文字の命のためだ。仕方がないと指導開始。


 氣を練り上げ、イズナのカムイは雷雲へ飛んで行った。将棋ならもう王手。それを十文字は知らず――。


「まず一つ! 本体と幻影の判別がつくと駄目! 今日みたく、雨とか降っていると、濡れているやつが本体だとすぐに悟られる! よって本体は『右の十文字』だっ!」

 イナミ、右手の人差し指を立てて、分かりやすい指摘。

 十文字の顔色が変わる。ケアレスミスを見つけたような反応。

 これは序の口。

「二つ! 魅入は不意打ちに留めること! 大里流同士の戦い、『身内』との戦いの場合、自分も面倒になるから! 相手も外氣操術が得意で、魅入を使えるとしたら、幻影だらけの大乱戦――これじゃ助太刀ができない! 『相手を惑わし虚を突く』ことと『無勢に多勢』は、勝利するための基本中の基本! 味方が惑わされたら本末転倒、元の木阿弥! よってこの場にあんたの味方がいないのは明白! ちなみに私は、魅入を使える!」

 中指も立てる。十文字は、ますます顔色が悪くなっていく。

 まだまだ続くイナミの指摘。

「三つ! 自分の外氣の残量が悟られるから、連発しないこと! 外氣は肉体の燃料! いつか尽きるから、自分にはどれぐらいあるのか、相手はこのぐらいかと考慮して、計画的に使いなさい! あんたの場合は一回につき二体が理想! あんた、はっきり言って私よりも外氣が減っている! ぽんぽん使いすぎ!」

 薬指も立てると、十文字はげっそり。

 いい気味だとイナミさらに続ける。

「四つ! 幻影を出そうが攻撃するのは本体! そのさい長袖道着だと捕まりやすいから、せめて半袖にしなさい! 『長袖組』っていうのは、そういう鍛錬が必要な未熟者だってこと! ちなみに私は『半袖組』! 儀礼も礼儀も様式もほどほどにしなさい!」

 小指も立てる。勘弁してくれと言いたげな、十文字の表情――指導はここまで。


 すなわち、イズナのカムイ出現す――。


 イナミはパチンと指を鳴らす。

 ビシシッと右手に電流が流れる。咲、陽、十文字、全員が視認。

「最後はこれ。もしかすると十文字さんには、シンタがあるかもしれない。でも、カムイ使いではない。私に何故、それが分かるのか?」

 イナミは雨を降らせる天に向かって、右手を上げ、呼び出す。

「イズナ!」


ドドドン! 


 雷が落ちたあとに爆音が鳴る。電気がイナミの体をまとう――光る衣のように。

 術者であるイナミは無傷。カムイ使いはカムイの能力に耐える資質を持つ。シンタが正にそれ――反応と拒絶は紙一重で対極、対にして同じ――この『アイヌ』の教えをイナミは理解していない。分かるから耐えられるということだろうと割り切る。

「な、な、カ、カカ、カムイぃ?」

 十文字は絶叫して間合いを取る。幻影も含めた四体すべてが、三メートル以上、離れる。


 バヂヂヂヂヂッ! 


 イナミの外氣と一体になった電流の音。子供たちに被害がないよう、氣力を調節し、十文字だけを狙うよう念じる。

「わかるよね。十文字さんがカムイ使いなら、シンタが反応するはず。お互いカムイ使いなら、出し惜しみしない。カムイの光でないとカムイは消せない……つまり、カムイを相手に幻影なんて無意味」

 イナミが抱いていた懸念材料。博打だとふんだ理由。

 十文字がカムイ使いなら、戦いは長期戦となり鍛錬不足のイナミに勝機は薄い。


 バヂヂヂッ! バヂッ! バヂヂヂッ!!


 イズナ、興奮。十文字に興味をもち、彼の氣を餌として認識する。十文字の幻影を含めた周囲にイナミの放つ氣がまとわり着くように流れる。

 

「まだよ。我慢しな。イズナ」

 

  降参するなら、今のうち――もう、言葉にしなくても、十文字、理解する。


  私は、あんたに謝って欲しいだけ。子供に暴力を振るったことを謝罪しろ、と。


「ぬぬ……」十文字の表情、激情に歪み、怒りの顔に。

「カムイなど、女子供の遊びにすぎん!! いざ!」

 十文字は叫び、構える。

 それはまるで獅子を前にした兎。決して謝る姿勢ではなく、隙あらば噛り付こうとするだけの見栄。

 

 それが大人の態度かよ? あんたさぁ、もうちょっと、道徳について考えなさい――イナミ、怒りの念とともに命令す――。


十文字を幻ごとかき消せ! イズナ!」

 

 雨空の中、イナミの周囲から走る雷。十文字の姿をかき消していく四つの閃光。

 肉眼では追跡できない速さの攻撃。

 光速の鉄槌。

 空間を揺るがす爆音が電光の後からやってくる。

 そのころには幻影は全て消え、残った本体は全身火傷。しかし痛みを感じる前に高圧の負荷がかかった肉体は意識を遮断する。

 痛みを感じるのは意識が戻ったときから、苦痛と敗北感となってやってくる。

「思いっきり手加減したから、へーきだよ。ま、聞こえてないか――」

 

 勝者、イナミ。ほぼ無傷の勝利。

 しかし完勝とは呼べない、紙一重の勝利。

 彼女は大きなハンデを背負うことになったのだから。


 ◇

 あ――あれ?

 地面が、めくれて迫ってくる?

 違う。私、倒れた。


「姉ちゃん!」

 咲ちゃん? 

 あ、声が出ない。

「大丈夫え? 姉ちゃん!」

 うん。ああ、頷くことはできる。

 氣を使いすぎたんだ。調子に乗りすぎた。

「コラァ、陽! お前、ケータイ持ってえ? 西条センセに――」

 いやいや。『氣の使いすぎ』なんて治せないよ。時間がたてばへーきだから。

 へーき、だから。


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