第17話

 青ざめた闇の中に、波のような光が押し寄せてきた。足を取られそうな確かな力で、その光は次第に自分を包み込んでいく。微かな温かさに包まれながら、不安は感じなかったけれど、自分の意志が追いつけない力に覚えたのは無力感だった。光が、不意に自分を抱きしめた。

 「目が覚めたのか?」

 「ハル?」

 ああ、と聞きなれた声がすぐ傍でする。何度か瞬きを繰り返すと、辺りは光に溢れているようだった。

 「おはよう」

 からかうようにハルが笑った。

 「ハル……」

 胸を引き裂くような慟哭が押し寄せる。嬉しくて、怖くて、とても悲しかった。ハルは不思議そうに自分を見つめ、どうしたと囁くように問いかけた。

 「怖い夢でも見たのか?ガキみたいだな……」

 ハルの腕に抱き寄せられながら、史瀬はようやく深い息をついた。ハルがいる。ハルは、ここにいる。

 「あんたは、ずっと起きてたのか?」

 史瀬が問うと、ハルはいやと首を横に振る。

 「俺も寝たよ。いつ以来だろうな。こんなによく眠ったの」

 その声は柔らかく、優しく。初めて聞くほど穏やかで、史瀬の胸を締め付けた。

 ハル、と史瀬が呼ぶ。聞きたいことが、伝えたいことが、たくさんあったはずだった。

 「どうした?」

 ハルは少しだけ笑って史瀬の顔を覗き込んだ。何を聞いても、何を告げても、ハルはきっとすべてを許すだろう。史瀬にはそんな気がした。しかし、溢れ出しそうな感情に反して言葉は尻込みした。数えきれないほどの問いが、抱えきれないほどの思いが、どれ一つ言葉にならない。

 長い間、我慢強く史瀬を待ったハルがやがて、史瀬の両肩に手をかけた。ゆっくりと体を離し、真っ直ぐに史瀬の目を見る。ハルの瞳は、何にも似ていなかった。この世に例えるもののないほど、美しく澄んで、痛々しく力強かった。

 「もう、全部終わったんだ。夜が、やっと明けた」

 史瀬の目が静かに見開かれる。ハルは微かに笑った。

 「空が、綺麗なんだ」

 不意にハルが告げた。史瀬はハルの肩越しに窓辺に目をやる。ここはどこで、今は何時なのか。狭い、白い部屋。窓から差し込む光は、鮮やかなオレンジ色をしている。

 「ここは?」

 「俺の部屋だ」

 慰めるようにハルの手が史瀬の肩を撫でる。

 「今、何時?」

 その問いにハルは一瞬だけ沈黙し、朝だとかすれた声で答えた。ハルに手を引かれながら、史瀬はベッドを下り窓辺に立つ。

 「綺麗だろ?」

 ハルが開け放った窓の向こう。オレンジ色に焼けた空には白い雲が溶け、消え入りそうなピンクや紫が一層鮮やかに空を染め上げていた。この世界のものとは思えないほど美しい色彩に、史瀬は震えた。

 「ハル……これ」

 史瀬と傍らのハルが呼ぶ。戒めるようなその声音。しかし史瀬は滲む太陽の光に甘く絡みつく雲が、空を一面覆うその光景に目を奪われる。史瀬の頬を涙が伝う。怖くて、怖くて、史瀬は首を横に振った。

 「ハル」

 縋るように傍らを見る。ハルは悲しげな微笑みで史瀬と同じ仕草を返した。

 言ってはいけない。その言葉を口にしてはいけない。そうわかっているのに、史瀬は自分を止められない。

 「これ……夕焼けだ……」

 ハルと出会った日、二人で見た、あの日の景色が窓の向こうに広がっていた。

 「ハル!」

 史瀬がそう叫ぶと、窓から一陣の風が吹き込んだ。咄嗟に顔を覆った史瀬が目を開けた時、そこにハルはいなかった。



 ゆっくりと引き上げられて、突き落とされるように唐突に、目覚めはそうして訪れた。

 「史瀬!?」

 聞きなれた声。けれどそれは、夢の中で待ちわびていた声ではなかった。

 朝なのか、昼下がりなのか、柔らかくて清らかな光に室内は満たされ、どこからか風が吹き込んでくる。

 「史瀬、目が覚めたのか?」

 窓辺から近づいてきた黒い影が、やがて鮮明に人の姿をとっていく。それはまるで、夢の終わりのような不思議な光景だった。

 「史瀬、わかるか?」

 労しげに自分を見つめる眼差し。よく知っている顔だった。安堵と、失望。目覚めきれない意識のように重いこの心は、眠りの中で訪れた楽園にまだ惹かされているのか。

 「……る」

 「どうした?」

 「……るは」

 水を求める魚のように、乾いた唇がひとりでに震える。仁は、史瀬が探すものを悟って、表情を強張らせた。

 「……る、ハル、は?」

 史瀬……呻くような低い声で、仁は悲しげに息子の名を呼んだ。シーツの上に投げ出されたままだった手を両手で包み込むと自分の方へそっと引き寄せた。

 「彼は、もういない」

 見開かれた史瀬の瞳に悲しみと衝撃が同じ速さで広がる。

 いないんだ、繰り返し、握った手に力を込める。

 何故とは問わない聡明な少年の、全てを悟る日はそう遠くはないだろう。史瀬が胸に受けた銃弾は、僅かに心臓をそれていた。胸のポケットには二枚の特殊合金が入った封筒があった。撃たれた距離とその金属のおかげで、史瀬は一命を取り留めた。奇跡だと治療にあたった医師は驚いていた。

 「封筒は?」

 史瀬は不意に何かを探すように辺りを見回した。

 「ハルが、俺に。シャツのポケットに入ってた、白い封筒が……」

 仁は、わかったというように頷くと立ち上がり、サイドワゴンの引き出しを開けた。

 「中に、特殊な金属が入っていた。この重さで、信じられないくらいの硬度がある、特殊合金だ。これのおかげでお前は助かったんだ」

 「金属?」

 封筒の中に答えがあると、あの時ハルはそう言った。これが俺の愛だ、そう言って引き金を引いた時のハルの声。

 史瀬は目を閉じた。頭が混乱し過ぎていた。何も整理できない。何も、考えられない。

 それから、と躊躇いがちに仁が史瀬の傍らに立った。

 「カードが……穴は空いてしまったが、お前には何だかわかるか?」

 仁に手渡されたのは、いつかハルの部屋で見たのと同じタロットカードだった。真中に銃弾が貫通したことを示す穴が開いていて、少しだけ焦げている。

 ゆっくりとカードを表に向ける。

 世界のカードだった。それは完成をあらわす、最後のカード。

 「これが」

 これが、ハルの言った答えだったのか。

 「ハル……どうして……」

 何が完成なのか。ハルも素良もいなくなった世界に、自分一人だけが取り残された。この世界の中で、何が成就されたと言うのか。これが約束された世界だと言うのなら、そんなもの欲しくはなかった。ハルが言った、地獄という言葉の意味を、史瀬はその時初めて理解した気がした。



 ピアノの置かれたホールに史瀬は一人佇んでいた。いつか、ハルがそうしていたようにピアノの前に立ち、同じ鍵盤を指先で叩く。ハルが触れたものがそこにあるという事実。喉の奥がつかえるような感覚に息苦しさを覚える。微かに顎を突き上げて、感情を飲み下そうとしたその時、ホールのドアが不意に開いた。

 「ここにいたのか」

 現れたのは、小田島だった。どうして、問いかけようとした瞬間、史瀬の頬を一筋涙が滑り落ちた。自身が一番驚いていた。反射的に片手で顔を覆った史瀬に、小田島は少しだけ目を細めた。

 「碓氷の話を、しにきたんだ」

 その声に史瀬が顔を上げる。小田島はいつになく穏やかな表情をしていた。

 「俺が知っていることを、君に話そうと思う」

 いいか、そう問うような強い眼差しに、史瀬はゆっくりと頷いた。小田島は微かに笑った。

 「碓氷は、ここに来るまでの間、野々宮に育てられていたそうだ」

 「そんな」

 あまりに衝撃的な事実に史瀬は言葉を失った。小田島は驚くのも無理はないと何度か小さく頷いた。ゆっくりとジャケットのポケットに手を入れ、1枚の写真を史瀬に差し出す。

 「これ」

 髪の長い、美しい少女の写真を史瀬は食い入るように見つめた。飴色の艶やかな髪、ほっそりとしたしなやかな体つき、性別を判じがたいほどに整った神秘的な美貌。その人を見間違うわけがない。それは、子どもの頃のハルだった。

 「ドールの正体は、碓氷だったんだ。性別を変えるだけで、同じ街に居ても行方不明になってる大病院の息子とは、誰も気づかない。野々宮は人間の思い込みを利用した」

 野々宮に対する尊敬なのか、畏怖なのか、自分でも理解できない感情が史瀬を包み込んだ。ハルは驚くほど何でも知っていた。あの知識は全て野々宮に与えられたものだったのだろう。野々宮とは何者だったのか。史瀬のそんな問いに答えるように、小田島は顔を上げた。

 「野々宮は、昔、学界でも有名な心理学者だった。でも、火事で亡くなったんだ。いや、亡くなったと信じられてきた」

 史瀬の顔が青ざめる。小田島は何を言わんとしているのか。

 「本当の名前は、皆川みながわ……皆川史彦みながわふみひこだ」

 「え……?」

 「君の、実の父親だろ?君のことは、野々宮からよく聞かされたと碓氷は言ってた。あいつなりに、君を救いたい気持ちは、ずっとあったんだと思うよ。けど、その時にはもう、野々宮が動けばたくさんの金が動くようになってた。金が動くところにはたくさんの人間も寄ってくる。だから簡単に殺すこともできなかったんだろう。それに、碓氷の存在を快く思ってない取り巻きも多かったらしい」

 そんな……、ひとりでに口をついた言葉。小田島は小さく頷いた。

 「君のお父さんは生きてたんだ。最後に君が姿を見た時は、大やけどを負って、全身包帯で巻かれてたんだろ?碓氷は、ミイラ男に攫われたと言ってた。病院で亡くなったのは君のお父さんの、恐らく、身代わりの誰かだったんだろう」

 「どうしてそんなことまで知ってるんですか?」

 「あの日、君が撃たれた前の晩、碓氷から聞かされた」

 驚いたように小田島を見つめていた史瀬はゆっくりと俯いた。あの朝、アトリエを訪れたハルは、既に覚悟を決めていたのだろう。一緒に行かないか、そうきいた声が蘇る。あの言葉を、ハルはどんな思いで口にしたのか。いつもと変わらない表情と声で、たった一度の選択をハルは自分に委ねた。

 「あいつが死ぬ気なのはわかってた。俺はただ、天才の死にざまを見たかっただけで……碓氷を止める気にはならなかった。あいつもそれを望んでると思ってた。明日が終わっても史瀬が生きていれば話してくれ、そう言われた。話せばそれ以上、あいつは深入りしないから、そう言って笑ってた。初めて見るような顔で」

 「ハルが……」

 「だから、これ以上何も知ろうとしなくていい。野々宮の遺体は、あいつの取り巻き連中が持ち去ったに決まってる。元々面が割れてない男だ。生きてるってことにしておけばそれだけで金が金を生む」

 「ハルは?ハルは、どうなったんですか?」

 初めて感情をあらわにした史瀬に、小田島は沈黙した。

 「ハルは、まだどこかで生きてるんですか?あいつの、野々宮の遺体を持ち去ることに意味はあっても、ハルを連れてくことに意味はないでしょ?まだ、生きてるんですか?」

 それは、と重たげな声で小田島は視線を下げた。

 「それは、俺にもわからないよ。あいつは、死ぬだろうと思った。現場には、君と野々宮、それに、碓氷の血痕が残されてた。でも、君も知ってる通り、あいつの死体は見つからなかった。持ち去られたのか、自力で逃げたのか、俺にも、わからない」

 そんなと呟いて史瀬は言葉を失った。

 小田島は静かに窓の方へ歩いて行った。これほど落ち着いて、ハルのことを語る小田島は、ハルを本当に愛していたのだろうか。

 窓辺に立った静かな背をただ見つめることしか史瀬にはできない。どうして、何故と、もっと知りたいことはたくさんあった。ハルに関することなら何でも知りたい。それなのに、どうしてと何度も胸の内では繰り返しても、言葉は尻込みして声を失くしていた。

 「これは俺の憶測だ」

 逆光の中で振り向いた小田島。その唇から漏れるどんな言葉の一つも聞き逃さないよう、史瀬はじっと男の唇を見つめる。

 「できれば、あいつも、君と、君の妹を、助けたかったんだと思う」

 「ハルが?」

 「君の妹さんのこと、俺も心から残念に思ってる。あいつが引き金を引いたのか、別の人間がそうしたのかは、俺にもわからない。ただ、碓氷も、君たち二人を助ける方法をぎりぎりまで考えてはいたんだと思う。けど、野々宮に、敵わなかったんだ」

 「どういうことですか?どうして、そんなこと」

 史瀬をなだめるようにゆっくりと頷いて、小田島は史瀬の視線を真っ直ぐに受け止める。

 「野々宮は、碓氷を使って君を取り戻そうとしてた。それに、君を服従させることができなければ、君と妹、それに碓氷自身も殺すと脅してた。君の妹が野々宮に会ったことだって、勿論偶然なんかじゃない。全ては仕組まれてたんだ。歪な愛情だと思ったよ。いや、むしろ狂気だ。自分の父親と、野々宮を碓氷は重ねてたんだろう。それに、自分と君自身のことも」

 息を飲んだ史瀬は何かを言いかけたように唇を震わせた。

 「君の妹には、特殊な能力があっただろ?色聴もそうだが……彼女は一度聞いた音や声を聞き分けることができた」

 小田島は何を言おうとしているのだろう。史瀬は耐えるように唇を引き結んだ。

 「彼女は、野々宮が自分たちの実の父親じゃないかと疑ってた。WAに来たのも、野々宮について調べる為だったんだ。俺も碓氷も一度は彼女を止めた。けど、彼女は日本を離れる前に自分で確かめようとした。恐らく、君を守る為に」

 「素良が……」

 「彼女を助ければ、野々宮は自分を疑うだろうとあいつは言った。どちらかしか助けられないなら、俺は迷わないとも。碓氷はきっと、君を助ける方を選ぶだろうと、俺は思ってた」

 そうして、一人生き残って、自分はどうすればいいのか。素良を守ることも、ハルを救うこともできなかった。二人が抱えているものに何も気付かず、一人生き延びた。そんな自分に生きる価値があるのか。

 「君が悪いわけじゃない。君のせいじゃない」

 泣き出しそうな史瀬の表情。しかしそれは微かな笑みのように歪んでいく。小田島は史瀬に歩み寄りその腕を掴んだ。

 「自分にしか野々宮は殺せない。碓氷は知ってたんだ。野々宮にコントロールされない人間なんていない。碓氷だから、あいつだったから、やっと君一人を助けられたんだ。碓氷にとっても、最初で最後のチャンスだったんだ。野々宮は、人間の心を知り尽くしてた。そんな人間を騙すのがどれだけ大変なことか、君にも、わかるだろ?」

 俯いた史瀬。どんな言葉もきっと、今の彼には届かない。小田島はそう悟って、無言で部屋を出ていく史瀬の背中を見送った。

 「これで、本当に良かったのか?」

 一人残されたホールで、誰にともなく問いかけ、目を閉じる。自分にはハルを変えるような、運命を変えられるような力はない。ずっと昔にそう気付いてから、どこかで全てを諦めてしまった。そして、今、自分を魅了し、苦しめ続けてきた、美しく残酷な運命とも決別した。軽くなったわけではなかった。ただ、自分の中が空になったことだけはわかる。あるいは、こんな空虚さの中で、ハルは史瀬に出会ったのだろうか。

 あの夜、ハルを押し留めることができたら、押し留めようとできていたら、今は違ったのか。全て、あの夜の中で溶けていった。跡形もなく、現実は夜半の霧のように儚かった。

 


 「俺が好きですか?」

 ああ、と応じた低い声に、ハルは満足げに微笑む。

 「俺の為なら」

 「何でもするさ」

 拳銃を握ったハルの手を両手で包み込んだ小田島は、そのまま銃口に額を押し当てた。

 ひとつだけ、とハルは甘く囁くように声をひそめた。

 「貴方は俺を勘違いしてた」

 「勘違い?するわけない。そう言いたいが、お前が言うなら、それが正しいんだろう……言ってくれ。最期に、聞かせてくれよ。俺が、お前の何を勘違いしてたのか」

 縋りつくわけでもない。何を押し隠すでもない。小田島の瞳はまっすぐにハルを見つめていた。自分の命がかかった瞬間にさえ、この男はこんなにも穏やかな表情をしている、ハルはうっすらと微笑んだ。

 「俺が、貴方を、全く信頼してないと、貴方はそう思ってた」

 見開かれる男の目に、自分はどれほど大きく映っているのか。ハルは微笑みながら、拳銃を握っていた手を静かに下ろした。

 「碓氷?」

 「一度しか言わない。だから、よく聞いてください」

 囁くようにそっとハルは告げる。その瞳の、妖しいまでの美しさに小田島は黙って頷くことしかできなかった。

 「俺は、貴方を信じてる。貴方は、絶対に俺を裏切らない」

 暗示をかけるかのように、ハルは小田島にそう言い聞かせた。

 そこで語られたのは、小田島の想像をはるかに超えたハルの秘密だった。

 「貴方は俺を愛してる。それに、同じくらい強く憎んでもいる」

 ハルは穏やかな笑みでそう断言した。

 「憎んでなんていない。けど、お前がそう言うなら、それが正しいんだろ?」

 「貴方は俺を死なせてくれる。それは、愛してるから?それとも憎んでるからですか?」

 「どう、かな。お前の死を、願ってるわけじゃない。ただ……永遠に手に入らないものが消えていく様を、見届けたいとは思ってるよ」

 碓氷、そう呼びながら小田島がハルを抱き寄せる。

 「お前が望むなら、止めはしない。でも、死に急ぐことに意味はあるのか?」

 「死に急ぐ……そんな風に見えますか?」

 そうだなと呟いた小田島の肩に額を押し当てながら、ハルは微かに笑ったようだった。

 「死は、一生に一度しか訪れない。その瞬間を選択するのは、この世に生まれ落ちた人間が、唯一許された自由だと俺は思ってますよ」

 小田島の手がゆっくりとハルの背を撫でる。ハルの額に、瞼に、頬にキスをして小田島は碓氷と呼んだ。

 「お前がいなくなると、寂しくなる。お前がいなくなると、俺の世界はきっと変わる」

 「そうですか?世界なんて、本人の認識一つでどんな風にでも変わりますよ」

 お前は、言いながら小田島はハルの頬を手のひらで包み込む。

 「どっかで生きてるって……俺は思うだろうな。お前は、永遠だ」

 「俺の死にざまをみたかったんでしょ?俺の限界を」

 ハルの言葉に小田島は動きを止めた。そして諦めたようにゆっくり息を吐く。

 「何でも知ってるんだな。お前は本当に」

 「ええ。何でも知ってますよ」

 傲慢にも聞こえるハルの声。計算しつくされたかのように何の欠点も見つからないハルの身体を小田島は強く抱きしめた。この腕では、この男は死なないし、この手では、殺すこともできない。今この瞬間、ようやくハルの全てを知り尽くしたように思えるのに、それでもまだわからないことばかりなのは、彼が自分を遠く超越した存在だからなのだろう。この腕に抱いている時でさえ、ハルを支配している気は一度もしなかった。

 不意に笑い出したハルに、小田島はどうしたと問いかける。

 「いえ……俺も一度だけ、賭けてみようかと思って」

 「賭ける?」

 「ええ。あいつが望むなら、この世にはないかも知れない楽園を探して、一生一緒にさ迷うのもいいと思って。理性的でも合理的でもない判断だって自分でもわかってる。けどそんな賭けをしたくなるなんて、俺もやっぱり人間なんだと思いました」

 初めて見るようなハルの笑み。計算も気負いもない。心からの笑い。ハルは変わった。そしてこれからも変わっていくのだろう。自分には触れることのできない世界の中で、ハルは永遠の謎のまま、それでも姿を変えていく。ハルと自分は永遠に隔てられ、永遠に交わることもない。ハルが史瀬に惹かれたように、それが運命というものなのだろう。

 「それじゃあ」

 ハルはそう言い残して自分の元を去って行った。風のように消えた、全ては一瞬の出来事のようだった。もう二度と会うことはない。そんな確信めいた思いが小田島の胸に浮かぶ。引きとめることさえできない自分の無力さを小田島は一人笑う。ハルは行ってしまった。



 雨が全てを消し去るなら。

 ハルと自分を結んだ絵を、椅子にかけた史瀬はぼんやりと眺めていた。自分にとっても、ハルにとっても、二人にとっても、それは始まりの絵だった。

 傍らには、今朝方描き上げたもう一枚の絵が、イーゼルにのったままになっている。青と黄以外の色を使ったのは、いつ以来だったか。

 オレンジに、どこまでも柔らかく、甘く溶けていく白。微かなピンクや紫の光が、温かなオレンジを幻想的に、切ないほど鮮やかに見せる。

 昼頃アトリエを訪れた染谷は、その色使いに驚いたようだった。そして、タイトルはないのかと尋ねた。

 「楽園を探しに」

 唐突に浮かんだタイトルを告げると、染谷は、そうかと静かに頷いた。

 二枚の絵を、並べて初めて気が付いた。新しい絵は、かつて描いた絵の続きなのだと。あるいは、ハルの問いに対する答えなのだと。

 風のように消えてしまった面影を探すように、史瀬は温かな色彩に溢れた絵に目を細めた。

 雨は、本当に全てを消し去った。この手の中に、永遠に溶けることのない氷のような、冷たく澄んだ謎を残して。

 「……」

 誰かがドアをノックした。史瀬が振り向きながら立ち上がると、椅子が大きな音を立てて倒れた。

 「ハル?」

 ただ一つの願いを口にするように、史瀬はその名を呼んだ。


〈完〉

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Heavenly Colors 西條寺 サイ @SaibySai

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