第16話

 何もかもがくすんで見えるその光景に史瀬は一人立ち尽くした。廃園から何年も経っているのではないかと思わせるほど、ファンタジーランドは静まり返り荒涼として見えた。中世の城壁を模した壁には以前ハルと訪れた時にはなかった落書きがところどころになされている。立ち入り禁止と書かれたプラスティックの大きな看板。板が打ちつけられた入場門の一部は、既に何者かによって破壊されていた。こんな場所だったのだろうか。ここを訪れたのはほんの一週間前なのに。時の流れ方が違うのではないかとさえ思えた。逢魔が時に聞いたオルガンの音色も、園内に点っていた柔らかなオレンジの光も、全ては夢か幻だったのか。壊された鉄の門扉をくぐって、史瀬は園内に足を踏み入れた。人の気配はおろか、生き物の気配さえ感じさせない、そこはまるでゴーストタウンのようだった。かつては繁栄を極めた街が、疫病によって死に絶えでもしたかのような不吉な静けさが漂う。ハルは本当に、ここにいるのだろうか。小田島の話を聞いて、すぐにこの場所が浮かんだ。しかしハルには他にも心当たりのある場所があったのかも知れない。ハルは知っていて、自分が知らないことはいつもたくさんあった。

 周囲の様子に気を配りながら、史瀬は園内を早足で進んだ。ハルとともに訪れた時、野々宮に関係する情報が残されていたのは、隠者の館という占いコーナーと、ミステリータワーというアトラクションの二か所だった。ハルが調べているとすれば、恐らくどちらかだろう。見覚えのある道をしばらく進むと、隠者の館が見えてきた。一見して何のアトラクションかわからない、小さなテントのような建物。史瀬は建物を一周してから中に入った。

 「ハル?いるのか?」

 声をかけたが返事はない。高い位置にある窓から差し込む光は弱々しく、狭い室内をうす暗く浮かび上げる。そこにはいつか見た大きなテーブル以外何もなかった。他に隠れるようなスペースもない。室内を注意深く見回し、史瀬は外へ出た。曇り始めた空からは、雨が降り出しそうだった。肌寒い風が吹き抜ける。人気のない園内の温度がさらに下がったように史瀬には感じられた。

 ここにハルはいない。そう確信して、史瀬は次のアトラクションを目指した。テーマパークの奥まった場所にあった、背の高い建物。そう言えばあそこにはパソコンがあったと思い出す。

 改修工事中だったタワーの周りにあった覆いは全て取り払われていた。たった一人、自分の為だけに整えられたかのような美しいその外観に史瀬は確信した。ハルはきっとここにいる。重い木戸を両手で押し開け中に入ると、パイプオルガンのような楽器が奏でる、重く悲しげな曲が流れた。何もないその部屋を進むと、背後でドアが突然閉まる。駆け寄ってドアを押したがやはり開く気配はなかった。きっとこうなるだろうとどこかで覚悟はしていた。

 音楽が止むと今度はノイズの酷い音声が流れ始めた。

 「ようこそ。この建物の中に一枚だけ、君が描いた絵がある。それ以外は全て似せて描かれた贋作だ。本物の絵の裏には、最後のドアを開けるのに必要な鍵が貼り付けられているから、まずはそれを見つけて欲しい。それから、誤って贋作に触れると建物に仕掛けられた装置から発火するので十分気をつけること。最後に、一度上の階に行ったら、ゲームをクリアするまで下の階には戻れないのでそのつもりで。それでは健闘を祈る」

 こちら側からの問いかけには何も答えるつもりはないのだろう。音声は唐突に途絶え、ノイズさえ聞こえなくなった。史瀬が室内を見回すと、入り口とは反対側の壁が軋んだ音を立て左右に開いた。進むしかないのだろう。史瀬はゆっくりとその扉をくぐった。

 部屋中に鏡が張られているのかと、一瞬史瀬は錯覚した。しかし、自分の姿はどこにも映らない。壁には同じような絵が部屋を取り囲むように飾られている。サイズや色合いが微妙に異なるもの、遠目には全く同じように見えるもの、タッチは似ているが自分が描いたものではないもの、数十枚の絵が自分を見つめるように一列に並んでいる。その光景は異様で、自分が生み出したもののコピーでありながら、僅かな恐怖さえ史瀬に与えた。

 昔描いた絵に似ているものもある。しかし全て、青と黄の抽象画だった。描き始めたのはいつ頃だったか。史瀬は一枚一枚絵と向き合いながら部屋を回る。

 原画が手元にあればレプリカを作成することはそう難しくない。しかしほとんどの絵はWAに保管されているはずだった。関係者であれば絵を見ることはできる。ただ、自分の描いた作品のコピーに交じって、似せて描かれた贋作もある。色使いやタッチを真似て描いてあるということは、それだけ自分の絵を研究したということだろう。そこまでする意味が一体どこにあるのか。まといつく執念のような湿度の高い不快感を史瀬は覚えた。

 この部屋に本物はない。

 一周した後、史瀬は確信を持ってその部屋を抜けた。螺旋階段を上り、次の部屋のドアを開ける。そこもまた、先程と同じ光景が史瀬を待ちかまえていた。

 ここにもない。そうしていくつの部屋を通り抜け、何階まで上がったのか。眩暈を覚えながらも史瀬はただ先を急いだ。ここにハルがいるなら。野々宮の目的が何であれ、ハルの元に急がなければならない。 

 途中、あることに気が付いた。数多い絵の中でも、元になったと思われるのが突出して多い一枚がある。それはWAにも保管されていない、古い絵だった。初めて描いた抽象画だったので、タイトルも覚えている。

 雨が全て消し去るなら。

 いつかハルが言った。最初に見た自分の絵がそれだったと。ハルは、その絵を一体どこで見たのだろう。仁に引き取られるまでに描いた絵の一部は素良とともに育った施設にあるかも知れなかったが、それ以外はほとんど仁かWAに保管されているはずだった。あの絵は、どこに行ったのか……。言いようのない恐怖が史瀬を包む。どこかに消えた絵。それを所有しているのは、悪意を持った誰かだ。何故という問いが虚しく感じられるほど、自分は何も知らない。史瀬はそう気付いて唇を噛んだ。



 見て見ぬふりを続けた兄の絵の前に素良は俯いたまま立った。史瀬の描く絵を見てはいけない。その絵が奏でる悲しく激しい旋律を聞いてはいけない。それはきっと、兄の秘密に触れることだから。そう気付いてからずっと、史瀬の絵と正面から向き合うことから逃げてきた。けれど、これが最後になるのかも知れない。そう思うと、恐怖より懐かしさが勝った。

 ゆっくりと顔を上げた時、青と黄で描かれたその世界に飛び込んだ時、素良には確かに聞こえた。それは、史瀬の悲鳴だった。一度も聞いたことのないはずの泣き声だった。

 無意識に片手で口元を覆った素良の頬に一筋涙が流れる。

 悲しみ、痛み、苦しみ、絶望。深く暗い音を、時折強く硬い高音が遮る。そして、いつかのように完璧な静寂が訪れる。嵐のように叫び乱れる音を、史瀬は強靭な精神力で抑え込む。それが不自然なまでの静けさとなって素良を包み込んでいた。

 いつか、父は言った。

 「お兄ちゃんは絶対、素良を裏切らないよ」

 自分の頭を撫でながら、史瀬に微笑んだ父。あの時は、言葉の意味さえ理解できなかったけれど、今なら、わかる。史瀬が悲鳴をキャンバスに閉じ込めたのは、きっと自分の為でもあったのだろう。兄はずっと自分の知らないところで、自分を守ろうとしてくれていた。

 堅い沈黙の意味。自分ひとりで抱え込んだ秘密と、決意。もっと早く史瀬の絵と向き合っていれば、兄は今より自由になれていたのだろうか。自分の甘えが、弱さが、卑怯さが、今日まで史瀬ひとりに全てを背負わせていたのかも知れない。

 抑え込まれた無意識が発する悲鳴を、史瀬は絵の中に閉じ込めた。彼の描く多くの絵の中に。抱えきれない痛みと絶望が、激しいほど鮮やかな青い絵の具の下に閉じこめられている。誰にも、誰にも知られないように。

 「最愛の兄の、秘密を知った気分はどうだ?」

 「っ!」

 背後から響いた声に素良は驚いて振り向いた。

 「世の中には知らない方がいいこともある。地獄の存在なんて、知る必要はなかったのに。輝かしい未来を、お前は自分の手で捨てた」

 「どうして……」

 素良は目を見張り、目前の人物を凝視した。

 「忠告したはずだ。もう手を引けと」

 どうしてと声にならない声で素良は繰り返した。

 「野々宮の正体を、調べてたんだろ?」

 壁にもたれ腕を組んだまま、男は、いやと呟いた。

 「調べてたんじゃない。確かめたかった、そうだろ?」

 「……いつから、知ってたの?」

 男は素良の問いには答えず、口元だけを歪めるようにして笑った。

 「健気だな。渡航日を家族に誤魔化して伝えたのか?そうまでして、兄貴を守りたかったか?けど、お前に何ができる?」

 「野々宮に、会わせて」

 「会ってどうする?」

 男が一歩前に出ると、素良は持っていたバッグを胸に抱いた。

 「バッグの中身は小さなナイフか?そんなもので野々宮を殺せるとでも?」

 そんなもんじゃ、男は素良を憐れむように呟いて微かに笑った。

 「自分の身一つ、守れないぞ」

 「こないで」

 少しずつ、自分との間合いを詰める男に素良は短く叫んだ。

 「最愛の娘さんが、貴方に会いたがってますよ」

 男の視線の先を素良は驚いて振り向いた。



 もうずいぶん上の階まで着たはずだと、息を切らしながら史瀬は目前のドアを開けた。塔は上に行くほど尖っており、一つのフロアにある部屋も次第に減ってきた。ここは既に最上階近くなのだろう。

 真っ直ぐに視界に飛び込んできたのは一枚の絵だった。遠目にも、それが自分の作であることが史瀬にはすぐわかった。安堵と、しかしそれ以上の違和感。この部屋は何かがおかしい。史瀬の足は凍りついたようにその場から動かなかった。

 違和感の正体は、嗅ぎ慣れない不穏な臭いと、水が滴るような微かな音だった。火薬のような臭いと、生々しい鉄のような臭い。規則的に聞こえる水滴の音は、部屋の中心から聞こえてくるようだった。そこには絵を眺める為に置かれたような猫足の豪奢なソファがある。

 「ハル?」

 かすれた声を絞り出し、史瀬はゆっくりとソファに向って足を進めた。高い背もたれを背後から覗き、史瀬は呼吸を止めた。

 「素良!」

 ソファに横たわっていたのは、ハルではなかった。数日前にイギリスへ旅立ったはずの妹。ソファの前に回り込んだ史瀬は、水音の正体が投げ出された妹の指先から滴る血液であることに愕然とした。

 「素良?素良、どうした?大丈夫か?何で……」

 触れた瞬間のひんやりとした温度。抱き起こした身体は人形のようにぐったりとしていた。

 素良と呟いて、史瀬はじっと妹の身体を抱きしめた。何が起こったのかわからない。しかしワンピースの胸から流れ出る血の量が決して少なくないことは、床の血だまりからも明らかだった。

 「おめでとう、真崎史瀬くん」

 突然室内に流れた放送に史瀬は顔を上げた。どこから聞こえるのか、スピーカーを通した不鮮明な声は、このアトラクションに入った時に聞いたのと同じ人物のもののようだった。

 「全ての答えはすぐそこだ。鍵を取って先に進むといい。尊い犠牲を無駄にしてはいけない」

 犠牲、とかすれた声が史瀬の唇から漏れる。腕の中の冷たい重み。こんなことが現実だと信じられるわけがない。

 「素良、起きろ……起きてくれ……何で……!」

 茫然と素良の身体を抱きしめていた史瀬の耳が銃声を捉えた。音は建物の外、恐らく屋上だろう。まだハルは無事かも知れない。引き裂かれるような思いで素良の身体をソファに横たえ、史瀬は立ちあがった。乱れた長い髪を指先でそっと整え、すぐ戻ると告げる。

 その部屋に飾られていた最後の一枚は、やはりあの絵だった。

 雨が全てを消し去るなら。

 絵の裏に貼り付けられていた鍵を外し、史瀬が屋上への扉を開くと、外は雨だった。煙るような霧雨の向こう、手すりも柵もないその場所にハルは佇んでいた。いつか見たのと同じ、体温を感じさせない静かな後ろ姿だった。

 「ハル!」

 何も考えられず、史瀬は叫びながらハルの元へ走った。

 「……」

 無言で振り向いたハル。怪我をしている様子はない。そして驚いてもいない。しかし初めて見るような悲しげな笑みを浮かべていた。

 「ハル?どうして?何があった?」

 矢継ぎ早な史瀬の問いにも、ハルは表情を変えなかった。

 雨が全てを消し去るなら、ハルは静かに史瀬を見つめた。

 「お前は、何を望む?」

 「ハル?」

 史瀬の濡れた頬に、ハルはいつかと同じようにそっと手のひらで触れた。

 「俺なら、今……お前の悲しみと痛みが、永遠に消えればいいと思うよ」

 「何言って」

 お前はと史瀬の言葉を遮って、ハルはその手をゆっくりと引いた。打たれでもしたかのように、史瀬の頬は熱を持つ。

 「選ばなかった」

 「選ぶ?俺が何を」

 言いかけ、史瀬ははっとした。答えは、どこか悲しげにも見えるハルの微笑み。しかし、あの瞬間、ハルの誘いを受け入れなかったからといって、何が変わったのか。それとも、あの瞬間から見た、変わり果てた未来が今なのか。

 いつからそこにいたのか。その異形の姿を認めた瞬間、史瀬は動きを止めた。仮面の皇帝と呼ばれる男が、そこに確かに立っていた。仮面越しにくぐもった声が史瀬にも聞こえた。

 「史瀬、お前を迎えに来た」

 「どうして……」

 立ち尽くす史瀬の横を通り過ぎ、ハルは野々宮の傍らに立った。

 「この人と、賭けをしてたんだ」

 「賭け?」

 「ああ。お前の心を俺のものにする。それができなければ、俺は殺される。そういう条件だった」

 「何、言ってるんだ……?どうして、野々宮といる?素良は?素良に、何があった?」

 「史瀬」

 取り乱す史瀬をハルは短く制した。

 「もう、戻る道なんてない。それに、慣れれば地獄ここも悪くない」

 どうして?何が?いつから?誰が?様々な問いが史瀬の中で激しく渦を巻く。しかし何一つ言葉にはできない。

 「僕が勝ったって、これで認めて下さいますか?」

 ハルは野々宮を見つめ、誰もが見とれる甘い笑みを浮かべた。初めて目にするハルの表情に、史瀬はひどく裏切られたような気分になった。そして、実際にハルは自分を裏切った。何を信じていたわけでもない。しかし、ハルは、少なくとも自分の知っていたハルは、こんな人間ではなかったはずだった。

 「ああ。お前は人間を超えた完璧なドールだよ」

 不鮮明な野々宮の声。重く低く響くその声に史瀬は言い知れない恐怖を感じた。身体が冷たくなっていくようなその感覚。しかし縋るような思いでハルを見つめた瞬間、史瀬は動くこともできなかった。

 「ようやく見つけたと思ったんです」

 ハルはゆっくりと腕を伸ばしながら、野々宮に首を傾げるようにして微笑んだ。

 「貴方に、史瀬を好きなようにはさせない」

 「ハル?」

 自分に向けられた銃口。史瀬は目を見開いてハルの手元を凝視した。

 「楽しかったよ」

 友人との別れ際のように、軽やかな声でハルは告げた。

 「お前と出会えてよかった。呪わしい生まれも育ちも、お前に出会えたから、少しだけ許せるような気がしてた」

 「ハル?」

 「何故守ってくれないのか、お前はそう言うかも知れない。人間の心は不思議だ。それに、愛情の形は無限だ。俺は、お前を殺す。それが、俺のお前に対する愛だよ」

 無意識に後へさがろうとする史瀬に、ハルは慈愛に満ちた微笑みを向けた。

 「貴方には渡しませんよ。史瀬は俺のものだ」

 背後の野々宮にハルが声高に宣言し終わらない内に、銃声が響き、史瀬は胸を押さえて倒れた。

 「貴方が俺を攫って、俺を育てたんだ。これが報いです」

 「面白い!面白いな、ドール!私が見込んだだけのことはあった。人形のお前が、私の想定を超えるなんて……面白い!あはははは!面白いよ!」

 腕を広げて野々宮は笑った。しかし止まない笑い声は、ハルが振り向くと同時に途切れた。胸に手を当てた皇帝は、よろめいて後退する。手袋には銃創からあふれ出た鮮血が滲んでいた。

 「貴方も、所詮人の子だ」

 「おまえ……ただの人形が、よくも」

 「全てを奪って、全てを与えてくれたこと、俺なりに感謝してますよ」

 三度目の銃声に仮面越しの鈍い悲鳴が響く。腕を広げた異形の男。風を受けたマントが広がり、その姿はまるで舞踏のようだった。鋭い悲鳴。遮るもののない塔の頂上から、支配者は足を滑らせた。堕ちていく先は奈落の底かこの世の果てか。

 ハルは天を仰ぎ、唇を震わせる。硝煙の上る銃口が再び微かな炎を放ち、支配者を追放した魔術師もまた大地に倒れ込んだ。

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