第15話

 ハルは一人、史瀬のアトリエに立った。青い闇は既に消えて、光が世界を覆い始める時間。

 悲鳴を殺して、秘密を隠して、激しさを打ち消して、そうして静かに生きていくことを自分に課した史瀬。史瀬が抱えているものに、自分だけが気付いた。史瀬がキャンバスの中に閉じ込めた、闇。暗い景色。その光景を、自分も確かに知っていた。史瀬にとってそれは秘密。二度と現れることのない青い闇の中に置いてきた秘密だった。しかし記憶の扉は時折軋み、溢れだしそうな闇を永遠に食い止められる保証はない。それなのに怖いとさえ言えない。自らが感じた恐怖は、無意識下に抑圧される。しかし、無意識を創造の根源としている史瀬には意味のないことだった。自らが意識し、口にすることがなくても、絵には全てが語られている。

 史瀬がかつて青い闇の中で祈ったものは、月の光か、星の光か。あるいはその日に生まれいく太陽の光だったか。史瀬が闇の中で描いていた幻。それが今の彼が描く絵の原型だったのだろう。

 母は、雷に打たれて死んだ。

 子どもの頃は、そう信じていた。物心ついた頃から自分を厭い、疎んでいた母を、それでも全ての子がそうであるように、一心に慕っていた頃。幼いながら母親が喜びそうなことは何でもやった。一日中自室に閉じこもり、たまに顔を合わせても笑うことさえなかった彼女に、あの頃は、それでも愛されたかった。

 雷が、母を殺した。

 その言葉の本当の意味を理解したのはいつだったか。深い青の夜。次第に近づいてくる雷鳴が恐ろしくさえあった。自分も母と同じように、雷に打たれて死ぬのかも知れない。子どもながらに感じていた死の恐怖は、次第に形を変えていった。窓を打つ雨の音。嵐が来ると、幼い自分は身体を丸めた。無力であることを悟りながら、それでも必死で自分を守ろうとしていた。

 「ハルカ、どこにいる?ハルカ?」

 聞き慣れた声が自分を探している。

 ハルカという名を持つ誰かを、探し求める声。さ迷い続ける魂が上げる悲鳴にも似ている。ハルカという、自分に託された願い、負わされた呪い。それは地獄の使者が上げる咆哮だった。気が遠くなるほど長い長い時をかけて、体に、魂に刻み込まれた恐ろしい呪縛。 

 忘れていたあの時の感情が、光景が、史瀬の絵の中にはある。この世で自分しか知らないはずの秘密。けれど史瀬は絵の中に全てを告白していた。それを理解できるのは、きっと自分一人。

 史瀬も自分も逃れようとしていることに変わりはない。違うのはその方法だった。史瀬は潔癖なまでに他人を遠ざける。絵の中に悲鳴を閉じ込め、現実の世界では救いの手さえ拒絶する。自らが負った傷を永遠に隠し、自分の視界にさえ入らないようにしたいのだろう。しかし忘れることも、消すこともできないことを既に知っている。

 自分は逆の方法を選んだとハルは思う。男でも女でもいい。見たくない夢をかき乱してくれるなら、相手は誰でもいい。傷跡を隠したくて、その上に傷を重ねるように、それは解決でも救済でもなかった。ただ一時、その刹那でいい。一瞬でも、自分と過去を繋ぐ鎖を断ち切れる刃物があるなら、その刃で身を切ることも厭わない。

 極彩色の悪夢の中で咲く毒々しい花々を恍惚の淵で眺めていた。魂の底にたまったタールのような汚泥に、それでも根付いて咲く花があるのだと知った時の悦び。そして吐き気を催すほどの嫌悪感。何故、何故と叩きつけるような問いに、身体は弛緩していく。受け入れて流されて吐き出して。決して浄化されることのない存在。自分を空だと信じていた頃はもっと楽だった。史瀬に、彼の絵に出会うまでは。

 ブラインドの隙間を忍んで来る、青ざめた光。そろそろ時間だろうかと、ハルは不意に思った。

 ハルにとって仁は善良で、模範的な、大多数の正義だった。しかし人は無意識の中に沈んだ思いを他人に指摘されると、秘密を暴かれたように動揺する。仁には後ろめたいことなどないはずだったのに、傷つけてみたくなったのは、何故だったか。史瀬にとって、血の繋がりはなくとも、家族という特別な存在だったからなのかも知れない。簡単なことだった。仁に過去に負った傷の痛みを思い出させることも、史瀬に仁への不信感を植え付けることも。何の造作もない。そして簡単にひとつの家庭の肖像は崩れていった。何もかも自分の思い通りに。

 背後で扉が静かに開いた。ハルの口元に微かな笑みが上る。待ってたよ、相手を確かめることもなく、ハルはそう声をかけた。ゆっくりと振り向いたハルは、自分に引き寄せられるように歩いてきた史瀬を静かに抱きしめた。

 「一緒に、行かないか?」

 史瀬は前を向いたままいつになく柔らかなハルの声を聞いた。家から逃げるように飛び込んだ明け方のアトリエ。そこには何故かハルがいた。何もかも知り尽くしているかのような優しい静寂を従えて、ハルは一人、描きかけのキャンバスの前に佇んでいた。

 「もう、ここには何もないだろ」

 「……どこに、行くんだ?」

 どこでもいい、ハルは吐息のような声で囁いた。世界中の誰にも聞こえることのないように。

 「名前も、過去もない場所に」

 「そんなところがあるのか?」

 史瀬の口元には微かな笑みが浮かぶ。夢物語を信じるハルへの嘲りか、それを望む自分への呆れか、あるいは失望の底から湧き出た、行き場のない悲しみか。

 俺に、と掠れた声でハルが囁いた。

 「俺に、何もかも委ねろ」

 そうすれば、その後に続くのはどんな言葉だったか。夜明けの街はまだ薄闇の中にまどろんでいる。今なら誰にも気づかれず、見とがめられることもなく、この世界を離れることもあるいは難しくないのかも知れない。残酷な現実と呼ばれるものの実体。全てから目を背ければ、耳を塞げば、人は自由になれるのだろうか。

 「全部捨てればいい。それに……お前はもう、これ以上、何も知らなくていい」

 史瀬が問うような眼差しをハルに向けた。ハルは、自分よりずっと多くを知っている。憐れみにも、切なさにも似た、淡いハルの瞳の輝き。本当は、気づいていた。ハルの目は時折、癒えることのない痛みと悲しみを、囁くように訴えかけていたことを。自分たちはまるで、この世界で最後の二匹だけになった、稀有で孤独な生き物のようだった。共感という言葉では足りない。互いの魂が、自分の延長にあるような、そんな気さえしていた。だから抗えなくなる。ハルの瞳に、現れる淡い光は、ハルの儚さそのものでもあった。それを振り切るように史瀬は目を伏せた。

 「もう二度と聞かない。だから、今、選べ」

 ハルは何でも知っていた。そして、相手に自分が望んでいる通りの言動を取らせることができるとも言われていた。それなのに、どうして、ハルは、自分に尋ねるのだろう。その答えだけは知らないのか。それとも、自分自身の望みがわからないのか。不意に自分の前に姿を現したハル。短い時間だったが、いろいろなことがあったし、いろいろなことを知ってしまった。ハルに出会ったことが自分にとって、幸福だったのか、史瀬にはわからなかった。ハルに惹かれることは、破滅に惹かれることのようにも思えた。惹かれていくことが怖くて、抗おうとしていた。それでも止めようもなく、どこまでもハルに引き寄せられていく自分に気づいてもいた。

 どうして、こんな選択を迫るのだろう。どうして、今でなければいけなかったのだろう。どうしてと何度となく繰り返すうちに、史瀬の心は次第に冷たくなっていった。

 結局、自分は、ハルの何も理解できてはいない、ようやくそう気が付いた。

 俺は、と押し殺した声を史瀬が発したのは、どれくらい経ってからだったか。朝はどんな時間よりも早く走り去っていく。

 「俺には、選べない……俺は、行けない……」

 「……そうか」

 その答えをやはり見透かしていたか。ハルは穏やかな表情で頷き、史瀬から離れた。

 「ハル?」

 どこへ行くのか、問いかけようとして、初めて出会うようなハルの微笑みに史瀬は言葉をなくす。ハルの、その表情を、何と表現すればいいのか。悲しげにも、納得しているようにも、優しげにも見える。

 「生きてさえいれば幸せだなんて、俺は思わない」

 ハルの言葉は深く、史瀬の胸に沈む。多くの言葉を操り、巧みに人の心を操るハルの、それは本音のように史瀬には思えた。

 「けど、安全な地獄で飼われ続けるのも、きっと悪くはないんだろう。探したところで本当に、この世に楽園があるとは限らない」

 史瀬に向けて伸ばしかけた手を、ハルは宙で止めた。躊躇いというよりもっと決定的な何かに遮られたように。それでもハルは優しく囁く。

 「お前はお前の信じた道を行けばいい。その先に待つのが何であれ、俺はお前を祝福するよ」

 「何言って」

 ここに、ハルはジャケットの内ポケットから半分に折られた白い封筒を取り出した。

 「ここに、答えがある」

 「答え?」

 もし、と低く掠れた声でハルは史瀬の目を見つめた。

 「もし、俺に何かがあったら、中を見ろ。何もなければ、見る必要はない。次に会うまでそのまま持ってろ」

 いいか?悲壮感の漂うハルの笑み。史瀬は黙って頷いた。ハルは封筒を史瀬の胸のポケットに押し込んだ。精神的な重圧を感じたのか、左側の胸がひどく重くなったような気が史瀬にはした。ハルはそれ以上何も言わず、史瀬の元を去って行った。また風のように儚く、何の気配も残さずに。

 その日の午前を、史瀬はアトリエに籠ってぼんやりと過ごした。キャンバスを前にしても手が動かない。どんな色も心を震わせない。言いようのない空虚感。左胸に手を当てると、確かな厚みを感じる。ハルの言う答えとは何なのか。

 今朝の出来事は、全て夢のようだった。素良は海外に旅立ち、仁との関係は変わってしまった。ハルはそれを知っていたかのようなタイミングでアトリエに現れた。

 ハルは、どこに行くつもりだったのだろう。過去も名前もない場所なんて、そんな場所なんて、この世界に存在するのだろうか。

 ハルに会いたいと、史瀬は不意に思った。気付いた瞬間、全身に震えが走った。どうして気付かなかったのか。ハルといると、ひどく不安になる。不安で、怖くて、居心地が悪いのに……それなのに、どうしようもなく求めてしまう。恋愛感情なのか、親近感なのか、友情か、同情か、それがどういう種類の感情なのかさえ、史瀬にはわからなかった。

 ただ反発しながら、嫌悪しながら、それでも、ハルに出会えなかったら、二度と会えなくなったらと考えることに、恐怖さえ覚えた。ハルにしか、与えられないものがあると、どこかで気付いていた。ハルに肯定され、許され、認められることでしか、自分は生きられない、何故かそんなことを感じ始めていた。それなのに。もう二度と会えないのかも知れない。ハルの今朝の言葉は、別れを暗示していた。自分に何かあったら、そうまでハルに言わせた物は何だったのか。

 突然のノックに史瀬はパレットナイフを取り落とした。

 「入るよ」

 「染谷先生?」

 姿を見せたのは染谷だった。やぁと史瀬に笑いかけ、アトリエの中を静かに見回す。

 「邪魔してごめんね。碓氷くんが、ここにいるんじゃないかと思ったんだけど。カウンセリングの日なのに、連絡が取れなくて」

 「ハルと?」

 「ああ。あれで意外と約束は守るんだよ。君を出迎えるのに一回だけすっぽかしたことがあったから、ここにいるのかと思ったんだけど、来てないみたいだね」

 言葉にならない不安が史瀬を覆っていく。全て偶然かも知れない。何もかもハルの気まぐれかも知れない。そう考えようとしても、史瀬の不安は募った。

 「史瀬くん?」

 「すみません、ちょっと出かけます」

 染谷にそう告げると史瀬は真っ直ぐにセキュリティセンターに向った。一度だけ、ハルに案内されて行った暗く無機質な部屋。柔らかな早春の日差しは場違いなほど穏やかで、史瀬の焦燥を煽った。早足に目的の部屋を目指していた史瀬は途中で足を止めた。喫煙所になっている廊下のバルコニーに小田島がいた。あごを突き上げるように空を見つめたままゆっくりと口元へタバコを運んでいる。

 「どうした?」

 自分を探していたらしい史瀬に気付くと、小田島はガラス戸を開けて史瀬を迎えた。

 「ハルが、どこにいるか知りませんか?」

 「何故?」

 小田島はタバコを吸うと細く長く息を吐いた。伏し目がちなその顔にはどんな表情も見出せない。小田島は本当のことを教えてはくれないかも知れない。そんな不安が一瞬、史瀬の心を過った。

 「連絡が取れないんです」

 「いつものことだろ」

 小田島は一瞬史瀬に目をやり、バルコニーの手すりにもたれながら空を見上げた。

 「何か知ってるんじゃないですか?」

 「俺が?何を?」

 詰め寄る史瀬に小田島はおどけるように笑って見せる。何も隠してなどいない。そういうように肩をすくめた。

 「今朝、様子がおかしかったんです」

 「碓氷の?」

 そうだと頷く史瀬。小田島はしばらく空を見つめ、タバコを灰皿に押し付けた。ゆっくりと史瀬と視線を重ね、知ってるかと静かな声で聞いた。

 「君の目は、猛獣の目だ」

 小田島の言葉に史瀬は眉根を寄せる。どういう意味かと言いたげな眼差しに小田島は笑った。

 「いつか、碓氷が言ってた」

 「ハルが?」

 「ああ。君は元々獰猛な生き物のはずだ。なのに今は、檻に懐いて人に従順なふりをして、どんな芸でもして見せる賢いサーカスのライオンだ。あれで、猫にでもなったつもりなのか。ライオンはライオンだ。どこで生きようが、どう生きようが。魂までは、変えられない。どれだけ姿を変えようと、環境を変えようと」

 小田島は何を言おうとしているのだろう。知性と理性に溢れた冷たい眼差しを史瀬はじっと受け止めた。先に目を反らしたのは小田島の方だった。

 「俺から言わせれば、あいつもそうだ。君たちはよく似てる」

 どこかに絶望を滲ませた小田島の声。微かに笑った口元に暗い影が差す。小田島さんと呼びかけた史瀬に、小田島は短く息をついた。

 「あいつには、何もないと思ってた。魂も、願いも、望みも、大切なものも……」

 「違ったんですか?」

 史瀬を見て、ああと小田島は掠れた声で呟く。

 「これ以上俺に言わせるのは酷だって、君にもわかるだろ?碓氷は、アツィルトを調べに行った。たぶん君の為だ」

 「何で、そんなこと……」

 「あのテーマパークで何か気付いたんだろ。もう一度調べてみる、そう言ってた」

 「じゃあ、ハルは一人であの遊園地に行ったんですか?」

 恐らく、小田島は目を伏せながら微かに頷く。プロジェクトは中止だと、ハルは告げた。巻き込んで悪かったとも言っていた。しかし自分の身辺に特に変わったことは起きていない。ハルは何に気付き、何を確かめようとしているのか。

 明け方の別れ。史瀬は無意識に左胸に手を当てた。ハルに渡された封筒がそこにはある。ここに答えがあるのだとしたら、今すぐにでも開けてみるべきなのではないか。

 「どうした?」

 史瀬の躊躇いを見透かしたように小田島が目を上げる。何でもないと首を横に振った史瀬は、服の上から封筒を掴み、そっと手を下ろした。

 「ありがとう、ございました」

 「俺は何もしてない」

 会釈して背を向けた史瀬。小田島は新しいタバコを咥えた。手すりにもたれ空に目をやると、遠くから灰色の雲が風に流されてきているようだった。

 「碓氷……雨が降るよ」

 小田島は呟いてタバコに火をつけた。

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