第14話

 いつ以来か、二人きりのリビングはいつになく静かで、気まずさの内に仁と史瀬は虚しい会話を時折交わした。

 「素良がいないと、寂しいな」

 仁はそう言いながら不意に笑った。史瀬も相槌をうつように微かに笑った。それまで感じたことのなかった緊張感を、史瀬は家の中に感じ取った。素良がいない。それだけのことで、家族の均衡は崩れてしまうものなのだろうか。別れ際、ハルに告げられた言葉が、ずっと気になっていた。不意に訪れた沈黙。息苦しさから逃れようと、史瀬は言葉を探す。そして、一番口にしたくないはずの問いを、無意識に選んでいた。

 「莉奈さんって、誰?」

 史瀬の問いに仁は目を見開いた。微かに震えた唇に、史瀬はハルの言葉が本当だったということに気付いた。

 「碓氷くんに、何か言われたのか?」

 ソファから立ち上がった仁は、史瀬のすぐ傍らに立ち、押し黙った史瀬を凝視した。

 「史瀬」

 思いつめた仁の声。初めて見る仁の眼差し。それは、追い詰められた人間のものだと史瀬は既に知っていた。

 「史瀬」

 「おとうさん……」

 驚くほどの力で仁は史瀬を抱きしめた。抗えない力の中で史瀬は息を止め身体を固くした。

 「史瀬……頼む。どこにも……どこにも行かないでくれ……私の前から、いなくならないでくれ……」

 頼む、そう繰り返した仁の声は、これまで養父として自分と素良を守り育ててくれたのとは同じ人物と思えないほど、悲しげで苦しげだった。

 「お前しか、私にはもういないんだよ。史瀬……私には、お前しかいない」

 どうして、と史瀬の乾いた唇が空回りする。

 史瀬と、この名前を繰り返し呼ぶのは誰の声だろう。

 「お前はお父さんから離れないね?お前は裏切らないね?史瀬、お前はいい子だから。いい子だから、お父さんの言うことだけ聞いていればいいんだよ。わかるね?お前はいい子だから。お父さんを悲しませるようなことはしないね?どこにも行かないで、ずっとお父さんの傍にいればいいんだよ。史瀬、お前はここにいればいいんだ。瀬奈叔母さんの代わりに」

 史瀬。

 史瀬……?

 「史瀬?」

 大きく息を吸い込んだ史瀬の身体から不意に力が抜ける。

 「史瀬!?」

 驚いた仁が史瀬の身体を抱きとめた。



 ああ、またあの夢を見る。まどろみの中で、心地いい憂鬱の中で、昼と夜が溶け合う時間の中で、史瀬は静かに目を開けた。春の夕暮れの臭いがする。どこからともなく、柔らかく湿った風が吹いてくる。

 突然開けた視界。大きな建物の端から、朧な月が顔を出している。月はぼんやりと、何の興味も感慨もなさそうにじっと桜の下の二つの影を眺めていた。

 「お父さんが死んだんだ」

 見知らぬ少年が史瀬にそう言った。初めて会った史瀬に何の前触れもなく。

 夢の中で、これは子どもの頃の自分の目線だと史瀬は思った。少年は、自分より少しだけ背が高かった。年はそれ程変わらない。けれど、彼の目はその夜の月のように空ろだった。白い肌と色素の薄い茶色の髪。アンティークドールを思わせる大きな瞳と形のいい鼻。赤い唇はあどけないのに、秘密を囁く果実のような淫らさを秘めていた。綺麗な子どもだと、史瀬は少年を見つめた。

 「お父さんが、死んだんだ」

 少年は繰り返して、満開の桜の花を見上げた。その顔には、悲しみよりずっと確かな安堵が広がっていた。

 「僕のお父さんも、もうすぐ死ぬよ」

 自分の口をついた言葉を、史瀬は目を閉じて聞いた。何度繰り返しても心がざわつく。幼い自分は、父の死を願っていた。

 「悲しいの?」

 年長の少年が問う。春の夕闇に染む、柔らかで空ろな声だった。

 「わからない」

 あの時と同じ言葉。否定も肯定もできなくて、やっとの思いで見つけた言葉。その絶対的な響きは幼い自分を安堵させた。わからない、全ての物の意味を価値を無効にできる囁き。善悪さえ曖昧に塗り替えられる、たった一つの答え。

 年長の少年は、そう、とため息のような声で呟いた。美しく、何の温度も感じさせない視線が史瀬の顔を見つめ、ゆっくりと行き過ぎる。その視線の先にある物を、史瀬は知っている。満開の桜と、朧に滲んだ月のその間。無機質な白い建物の、小さな窓のその一つ。彼は、何故知っているのだろう。ゆっくりと伸びるように離れていく視線を、史瀬も無意識に追いかけた。少年の視線の先には、父の病室がある。

 二つの視線は、その部屋の窓の上で、反射する光のように結ばれたのかも知れない。本の一瞬の出来事だった。

 「あ……」

 微かな悲鳴を風がさらう。突風に顔を背けた史瀬が振り向くと、生温かい夜風が桜の花びらを巻き込みながら吹き抜けていった。そこには誰もいなかった。少年は、風のように消えてしまった。

 史瀬はしばらくの間呆然と桜の木の下に立ち尽くした。 空からはうっすらとした月光と、桜の雨が降り続いている。夢でも見たのだろうかと思うほど、それは穏やかで、ぼんやりとした世界だった。けれど、少年の澄んだ声は、美しい瞳は、史瀬の中にはっきりと焼きついている。これが、夢であるはずはない。

 (また、会える……?)

 確信めいた予感は、それでも悲しみを癒すには不十分だった。それは、最後の望みを断ち切られたような絶望感だった。目前の灯火を失ったような孤独感でもあった。

 その当時の自分の感情を、すぐに理解できていたわけではない。それは自身が成長して初めて理解した感情だった。それでも、言い表しようのないほどの悲しみは、幼い胸をいつまでも締め付けた。 

 (また会える……)

 史瀬はふらりと歩を進め、桜の幹にそっと抱きついた。両腕を一杯に広げてもまだ遥かにあまりある大木。ざらついた幹に頬をすり寄せる史瀬の姿は、古木に母の温もりを求めているかのようだった。

 何が悲しいのか、はっきりとはわからない。

 柔らかな胸に顔をうずめるように、史瀬は目を閉じた。



 目覚める直前、史瀬は子どもの泣き声を聞いた気がした。聞き覚えのある声だった。あれは誰だろう。昔の素良か、あるいは自分自身だったのか。声は次第に遠くなって、少しずつ聞こえなくなっていく。あれは、誰なのか……。

 ゆっくりと目を開けると、カーテン越しの微かな光を感じた。そこは朝から逃れようとする夜の終わりだった。

 「気づいたか?気分は?」

 ベッドの足もとの方から仁の声がした。何を言う気も、声を発する力もなくて、史瀬はぼんやりと天井に視線を漂わせた。

 仁はゆっくりと息を吸い込んで、同じくらいゆっくりとため息をついた。何かを思いつめるような無言の時が流れ、それから、史瀬、と息子を呼んだ。

 「さっきは、驚かせて悪かった。今のお前には、言い訳に聞こえるかも知れない。それでも、話したいんだ。いや、聞かなくてもいい。独り言だと思ってくれてかまわない。彼女の、莉奈のことだ」

 史瀬はやはり何も言わなかった。そして沈黙は仁も望んでいたもののようだった。安堵したようにゆっくりと仁は口を開いた。

 「私と莉奈は幼馴染で、私が十八歳、彼女が十五歳まで一緒に育った。家も隣同士で、本当の兄妹のように仲がよかったんだ」

 仁は史瀬に背を向けるように窓の方を見た。少しずつ白んでいく空を、カーテン越しに感じようとしていたのかも知れない。

 「莉奈は、十六歳の誕生日の前に、両親と一緒にアメリカに渡った。生まれつき、心臓が悪くて、その手術の為だった。それからしばらくは連絡を取り合っていたんだ。でもそれも途絶えて、結局十年近い時間が流れた。私はもう、彼女のことを諦めていた。アメリカで亡くなったものだと、そう信じていた」

 仁は大きく息をついた。史瀬の為にではなく、語っているのは自分自身を納得させるためだと、そう思っているように。

 「でも、彼女は生きていた。突然電話があったんだ。日本に帰るから、空港まで迎えに来てくれないかって。驚いたが、嬉しかったよ」

 四年前のことだ、仁は微かに笑ったようだった。

 「莉奈と、結婚するつもりでいた。四人で、暮らしたいと思ってた。莉奈の心臓はアメリカでも結局治らなくて……だから私は、一生、彼女の傍にいようと決めた。けど、そんな時、私は碓氷くんの存在を知った。莉奈を彼に引き合わせたのは、私なんだ」

 「ハルに……?」

 初めて声を発した史瀬を振り向いた仁は、ひどく静かな表情をしていた。

 「あの頃の私は、莉奈のことで頭がいっぱいだった。今思えば、どうかしてたとしか思えない。私の気持ちがじゃなくて、当時の行為が、だ。碓氷くんは、当時からとんでもない天才だと言われてた。だから彼が今から医学を勉強してくれれば、もしかしたら彼女を救う方法を見つけられるんじゃないか、そんな夢みたいなことを本気で考えた」

 微かに目を見開いた史瀬に、仁は悲しげな微笑で何度か頷いて見せた。

 「結果は、勿論、私が望むようなものにはならなかったよ。むしろ、私は莉奈の死期を早めた。莉奈は、碓氷くんに恋をした。十歳以上年の離れた彼に。病気なんか、治らなくていい。死んだように生きていくことなんて、私は望んでない。彼女は、私にそう言ったよ。碓氷くんに会えなくなるなら、入院もしたくないと言って……彼に恋い焦がれながら、死んでいった」

 「そんな……」

 「碓氷くんは医学も学ばなかったし、莉奈を説得もしなかった。だからって、碓氷くんが悪いわけじゃない。勿論、莉奈が悪いわけでも。間違ったのは、私なんだということも、あの頃からわかってた」

 どう声をかければいいのか、史瀬には何も言えなかった。仁が悪いというわけでもない。誰が悪いという話でもない。それでも仁は、誰かを責めずにはいられないのだろう。

 「二年くらい前、出張だと言って一月家を空けただろ?」

 覚えていてもいなくてもかまわない、仁は静かに続けた。

 「莉奈が死んだのはその時だった。失望もしていたし、誰に向ければいいのかわからない怒りでいっぱいだった。お前たちには、まだ話せないと思った。それに」

 仁はそこまで言うと口をつぐんだ。史瀬にゆっくり背を向け、下を向く。

 「確かに、昔のあいつに、お前は似てる。だから顔を見るのが辛かった」

 ハルの言ったことは本当だった。仁は初恋の女性に似ていたから、自分たち兄妹を養子として引き取った。

 史瀬、と夜の向こう側から仁が呼んだ。

 「私にとって、お前たちは大切な息子と娘だ。莉奈には本当に何もしてやれなかったが……その分、お前と素良には誰より幸せになって欲しいと心から思ってる。それ以外の願いは、私にはないんだ」

 仁の真摯な言葉に嘘はない。それは、史瀬にもはっきりと伝わった。

 何を信じて、何を疑えばいいのか。仁に引き取られてからの時間が、スローモーションのように巻き戻されていく。仁はいつでも自分と素良に優しく、慈しみ育ててくれた。何かを押しつけられたことも要求されたこともない。けれど仁自身も幼くして両親を亡くしていたせいか、親子という関係はうまく築けなかったし、親子であるという感情もなかなか湧いてこなかった。三人は互いに不器用で、不自由で、自分の全てを家族にさえ、晒すことができなかった。それでも、ハルが現れるまではずっと、静かに穏やかに家族でいることができた。

 仁は何も悪くない。それなのにどうしてこんな些細なことで傷つくのだろう。他人だからなのか。家族だからなのか。あるいは、自分が生まれ育った環境のせいなのか。

 すみません、ひどくかすれた声で史瀬が告げた。何に対してそう言ったのか、史瀬自身にもわからなかったけれど、それが許しではなく拒絶だということを、史瀬より長く生きている仁は知っていた。

 「すまない」

 仁は立ち上がり、史瀬の肩に触れようとして思いとどまった。静かにドアに向かい、立ち止まって肩越しに振り向いた。

 「お前は、いつでも自由だ。私に義理を感じる必要なんてない。お前は自分自身が望むように、好きに生きていいんだ。それを忘れないでくれ」

 ドアの開閉音を聞きながら、史瀬は目を閉じた。訳もなく涙が出た。何かがまた一つ、壊れてしまった気がした。

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