かえる (2)

***


「まさか猫が人型になるとは思わなかった」


 のんびりした口調で正宗が言った。その横でむすっとしているのは、頭を濡らしたまま肩にタオルをかけている靜である。


 とりあえず例の猫を裸のまま放置する訳にもいかない――なにせ、見た目が洒落にならなかった――ので、正宗の服を宛がってやった。彼の身体にはほんの少しだけ大きかったが、それでも嬉しそうに彼は白い色のシャツに袖を通してくれた。

 いそいそと着替えている彼を尻目に、靜は大袈裟なまでに溜息をつく。


「ったく、この店は一体なんなんだ。人以外も相手にするなんて、初めて聞いたぞ」

「おれも初めてだよ。しかも、元凶は君自身だってことをお忘れなく」


 ようやくシャツのボタンを全て留め終わった彼に、「こっちはズボン」と正宗が仕事用に使っているスラックスを渡す。


 初め彼はどうやって穿くのか分からず、ぐるぐると布地を回していた。ふぅむ、と呟くも、三か所ある穴――ウエスト部、それから両足部――の意味が理解できなかったらしい。しばらく観察していたが彼はなかなか正しい穿き方に気付かず、結局靜がそれを乱暴に奪い取ることとなった。


「いいか、これはチャックを下げて、足を突っ込む」


 シャツは着られるのにどうしてズボンは穿けないのだ!

 そんな心情が靜の背中からありありと浮かびあがっているので、思わず正宗は噴き出してしまった。あんなに必死な靜も、そうそう見られるものではないのである。


(ああ、しまった。カメラ用意するの忘れた)


 正宗による靜お笑い草計画は、再び頓挫することとなった。


「お? おー」


 ようやく穿き方を理解した彼は、ごそごそと両足を突っ込み、無事チャックを閉めることができた。これで一応、彼は変質者扱いされることを免れたのだった。


 それにしても、彼は一体どうしてこんな姿になってしまったのか。この店にやってきた以上、なにかしらの『願い事』があるのだろうが、あいにく猫の悩み相談は初めてだ。


 どうしよう、おれたちの手に負えるだろうか。


 頭を抱えているふたりをよそに、当の本人はきょろきょろと海色の瞳を店内に巡らせている。そして、彼の双眸は大きな振り子時計を映した。

 この店のシンボルとも言えるアンティークの古時計は、夕方五時を知らせている。


 とけい、と呟いた彼は、そっと立ちあがった。


「……あの。申し訳ありませんが、僕、もう行かないと」


 それに驚いたのは正宗たちの方である。ぎょっと目を剥き振り返ったときには、彼は裸足のまま外に出ようとしていた。さすがにそれはまずかろう、と彼をやんわりと引き止める。

 だが、彼は頑なにそれを否定した。


「僕、人を探しているんです。早く追いかけないと……時間がない」


 ああなるほど、とこのときようやくふたりは理解した。間違いなく、この猫は客なのだ。時間の魔法にかけられる、稀有というべき存在。彼にはその権利がある。

 正宗はそっと微笑んで、彼の両肩に触れた。


「……よければ、それ、おれたちでお手伝いさせてもらえないかな」


 その一言に、彼は大きな目をさらに大きく見開いた。それから必死に首を横に振る。


「そこまでお世話になることはできません! 身体をきれいにしてもらって、服も貸してもらったのに……」


 その時、ぽん、と彼の頭に触れるなにかがあった。靜の右手だ。


「いや、ここはそういう店だから」

 靜が言う。「ひとつだけ、願い事をかなえる店『サンドリヨン』。時間制限はあるけれど」

「さんどりよん……?」


 ぽかんとしたまま二人を交互に見遣り、彼は首を傾げる。その反応はごもっともだ。人間ですら、そんなお伽噺なんか普通信じない。ただの噂話――これが彼らのいる喫茶店の一般的評価だ。


 だが、少なくともこれは現実だ。あり得ないことは『あり得ない』。これが『カフェ・サンドリヨン』の信条。

 正宗はにこりと微笑み、彼をカウンターテーブルまで案内した。そこに座らせると、冷蔵庫からミルクを取り出した。


「ホットミルクはおごりにしましょう。注文は、君のお話を聞いてから」


 ミルクパン片手にウィンクした正宗に、混乱していた彼は徐々に急く心を落ちつけていったようだ。先程のように無暗に慌てたりせず、ちょこんと大人しく椅子に座っている。


「猫さん、お名前は?」


 尋ねると、おずおずとした様子で彼は目線をあげる。本当に、この人を信じてもいいのだろうか、とでも言いたげな眸である。そりゃあ、初対面の人にいきなり「お手伝いさせてくれ」なんて言われたら、人間でも戸惑う。


「カイ……です。とおこさん、あ、僕の探している人がつけてくれた名前なんですけど」


 猫男――カイはゆっくりとそう言った。


「カイ?」

「目の色が、海みたいねって。とおこさんがそう言ってつけてくれた名前なんです。だからかい。とおこさんは、海が好きなんです」


 なるほどねえ、と正宗は頷いた。ミルクパンに牛乳を注ぎ、弱火で温めている。猫がどれくらいの温度で飲めるのかよく分からないので、とりあえず熱すぎなければいいかという結論に達した。早めに火から下ろし、大きめのカップにそれを注ぐ。


 どうぞ、と正宗が声をかけると、海はおずおずとそれに手をかけた。ふわふわの湯気から漂う、甘い匂い。くんくんと匂いを嗅いでいた彼は、カップの縁にそっと口を付けた。……反応からすると、火傷するほど熱くはなかったらしい。


「とおこさんが好きなんだね、海君は」


 こくん、と彼は頷き、深海のような深い青をじっと正宗に向ける。


「僕、小さい頃は捨て猫だったんです。雨の中濡れているところを拾ってくれたのが、とおこさんで……。最初は、飼えないから別のおうちにいくことになっていたんですけど。僕、どうしても、離れたくなくて」


 海はきゅっと膝の上で拳を握りしめ、そのまま俯いてしまった。

 この様子だと、『とおこさん』は海を内緒で飼っていたらしい。海の説明によると、彼女は人が来るときだけは海を外へ出し、気付かれないように細心の注意を払っていたのだとか。海自身も「本来自分はここにいてはいけないのだ」ということを分かっていたようで、『とおこさん』の言うことはしっかりと聞き、誰にも見られないよう細心の注意を払っていたのだと言う。


 しかし、注意をしていても、いつかは「その日」がやってくる。


「見つかってしまったの?」


 こくり、と海は首を縦に振った。


「怖いおじさんでした。とおこさんが泣いていたんです。僕は、とおこさんを泣かせたことがどうしても許せなくて、ついそのおじさんをひっかいちゃったんです」

「そりゃあ、マズイよなあ」


 横から口を挟んだ靜をたしなめるように、正宗が鋭い眼差しを向けた。黙っていろ、とでも言いたげな表情である。だから靜はやれやれと肩を竦め、コップに注いだレモン水と共にカウンターの椅子へと腰かけた。


「その日はそれ以外に何も起こらなくて、僕ととおこさんは一緒に眠りました。ごめんね、って、とおこさんはずっと言っていたんです。僕はただ悲しくって、とおこさんが謝ることなんかないのにって思いながら……」


 しかし、朝になり、目を覚ましたら――『とおこさん』が姿を消していた。

 初めは散歩にでも出かけてしまったのかと思った。しかし、いくら待てども彼女は帰ってこない。日は高く上り、そして沈んでいく。今度は月が昇った。いつ帰ってくるのだろうと、玄関で丸くなりながらずっと待っていた。そうしているうちに朝になった。お腹が空いたので、怒られてしまうだろうと思いつつ机の上に無造作に乗っていたパンを食べた。それ以外は、じっと玄関で待っていた。日は昇り、そして沈む。すぐに空は暗くなってしまった。それでも海はずっと『とおこさん』の帰りを待ち続けた。


 そして、翌朝の出来事だった。


「突然扉が開いたと思ったら、僕はひっかいてしまったおじさんにつまみ出されてしまいました。もう飼ってやれないんだ、って。その時の声は、怒ってはいなかったと思うんです。怖くはなかった、でも、僕はまた……捨てられてしまったんです」


 海はぱっと顔を上げ、縋るような瞳を正宗に向ける。


「お願いです、僕はもう一度、とおこさんに会いたいんです! とおこさんが僕を嫌いになってしまったのなら……それでいい。だけど、最後にもう一度会いたい。だから、もう一度とおこさんに会える『力』が欲しい!」


 はっきりとした物言いに、正宗は真摯な眼差しを向ける。そっと彼に目線を合わせると、囁くような声色で尋ねた。


「とおこさんに会わせて下さい、じゃないんだね?」

「とおこさんを探すのは僕です。僕が見つけなきゃ、意味がないんです……。だって、道端で彷徨っていた僕を見つけてくれたのは、他の誰でもない、とおこさんなんですから。今度は僕が見つける番だ」


 正宗の指が伸びる。その細い指が絡むのは、真鍮のハンド・ベルだ。

 ちりぃん、と軽やかな音色が店中に響き渡る。


「――靜。オーダーだ。彼に一晩限りの魔法をかけてやろう」

「りょー、かい」


 ところで猫は人間の菓子を食べても平気なのだろうか、と素朴な疑問を抱えつつ、靜は厨房へと入って行った。

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