かえる (3)

 さて、と正宗は気合いを入れ直したかと思うと、奥からミネラル・ウォーターを取り出し突然鍋に流し込み始めた。そしてそれを、コンロにかける。


「君は猫さんだから、きっと猫舌なんだろう? ぬるくしておいてあげるよ」

 そして、奥の棚から紅茶の茶葉が詰まった缶を取り出した。「それと、せっかくだから人間体験しておこうか」

「いいんですか?」

 海は嬉しそうに、目をきらきらと輝かせた。「嬉しいなぁ。僕、人間の食べ物に興味があったんです」

「そりゃあよかった」


 正宗は沸騰したところで、そのミルクパンに茶葉をティースプーンで山盛り二杯投入、火を止めた。そしてすぐに蓋をする。


「海君はチャイという飲みものを御存じですか?」


 ちゃい? と海が首を傾げたので、優しく微笑みながら続きを語り始めた。


「まぁ、簡単に言えばインド式のミルクティーですね。あ、インドは分かります? ここからはちょっと遠い、海の向こうの国です」

「それくらいは知っています」

 ぷぅ、と頬を膨らませつつ、海が答えた。「とおこさんの家には地図が貼ってあるんです」

「なるほど、賢い猫さんだ」

 それなら話は早い、と頷く。「チャイは元々低品質の茶葉、それも埃のように細かくなっているもので作られるんです。それには歴史的な事情があるんですが、そのおかげでこの飲み物は庶民のお茶として親しまれてきました。とても甘いお茶なので、海君もきっと好きになると思いますよ」


 正宗はミルクパンの蓋を開け、その中に牛乳を流し入れた。スプーンで混ぜながら再び加熱し始めると、独特のいい香りが漂い始めた。ふわふわと蕩けるミルクの香りだ。

 その匂いが心地良く感じられたのか、海は目を細め、無意識にゴロゴロと喉を鳴らしている。……人間の姿になっても、やはり猫だ。微笑ましく思いながら、正宗はスプーンを動かすのだった。


 それにしても、と考える。


 この猫が言うには、「自分はとおこさんなる人物の関係者から捨てられた」そうだが、それは一体どういうことだろう? 『とおこさん』が突然姿を消した、ということも何かひっかかる。彼の言い分から察すると、彼は相当可愛がられていたらしい。あの穏やかな瞳を見れば分かる。これは人間を信じている目だ。


 さて一体どうしたらいいものか、と首を傾げていると、甘ったるい匂いを纏いながら靜が厨房から戻ってきた。厨房服には微かに小麦粉の跡が残っている。


「もういいの?」


 靜は首を動かし肯定する。


「あとは焼くだけだ。八分ほど時間をくれ。……ところで、コイツのことだけど」

「ああ、うん」

 困ったように正宗は肩を竦めた。「どういう魔法がかかるのかが、全く想像できない」

「だろうな」


 カウンター席の一つ、脚が長い椅子に腰かけると、靜は左手で頬杖をついた。そうしていると、黙って正宗がコーヒーを一杯淹れてくれる。苦味のある豊かな香りに、靜はゆっくりと目を細めた。


「もしも最悪の出来事が起こった場合――」


 靜の言葉を、名を呼ぶことで正宗が制した。


「おれは魔法使いだ。だから舞踏会に行く準備ならできるけれど、それ以降はシンデレラ自らが行動を起こすしかない。たとえ最悪の出来事が起こったとしても、それはそういう運命だったとしか言いようがない」

「でも、お前は優しいからそれを潔しとしないだろ」


 尋ねると、正宗は何も言わず、ただゆったりと微笑むだけだった。


 その時だった。

 ちりぃん、と、真鍮のドアベルが店内に鳴り響いた。どきりとして、二人と一匹は顔を上げる。


 そこに立っていたのは、二十代前半くらいの女性だった。肩までの黒髪には柔らかなウェーブがかかっている。そして、若草色のカーディガンに白のフレアスカートというなかなかに品の良い出で立ちをしていた。


「あの……」


 彼女が口を開きかけたとき、正宗は目を見開いたまま固まっている海に気が付いた。声にならない声で、彼は呟く。


 とおこさん、と。


 その唇の動きを、ふたりが見逃すはずがない。


「いらっしゃいませ。カフェ・サンドリヨンにようこそ」


 こんな恰好で失礼、と彼女の応対へは靜が買って出た。

 席を立つ刹那、その黒い双眸が正宗をじっと見つめていたのには彼自身も気が付いていた。おそらく、海に「自分があの猫である」ことを自白させないためだろう。正宗はそっと動揺する海の耳元に近づき、念のため、


「あなたが海であることは、黙っておきましょうね」

 と囁いておいた。


 海は静かに頷き、再びカウンターへ向き直る。動揺を誤魔化そうと、予め出されていたレモン水入りのグラスを握りしめている。かたかた、と水面が細やかに震えていた。


 靜はいつものように何も書かれていないメニュー表を携えながら、彼女を奥の日当たりのいいテラスへと案内しようとした。すると、彼女は靜を引き止める。


「私、カウンターの方が……」


 びくんと身を震わせる海。


(いよいよ困ったことになったぞ)


 正宗は平常心を装いながらも思う。ここでお断りするのは不自然だし、なにしろ海本人がこの調子だ。

 かしこまりました、と靜がカウンター席へ案内する。椅子を引いて彼女が座りやすいようにしてやり、彼女が完全に座るのを確認する。


「こちらが当店のメニューでございます」


 一応確認までに彼女にメニュー表を渡すと、彼女はしばらくじっとそれを見つめる。なにかの間違いでやってきてしまった可能性を考えてのことだ。しかし彼女はえっ、と驚いたまましばらくそれを眺めたのち、


「……白紙なのですが」


 おずおずと申し出てきた。間違いない、彼女はこの店の客なのだ。正宗としては半ば想定内の出来事だったらしく、やや苦笑しつつ、


「でしょうね」

 と告げた。「当店には、決まったメニューがございません。このメニュー表を見て、何も書かれていないと思った方は、この店を利用する資格があるということです」


 やはり、と彼女はぽつりと呟く。


「このお店が……あの『カフェ・サンドリヨン』なのですね……」

「私は店主の長門正宗。彼が当店自慢のパティシエ・新井靜です。よろしければ、あなたの願い事をお聞かせください。微力ながら、お手伝いさせていただきます」


 そうか、本当に辿り着いたんだ、と彼女が呟いたと同時に、彼女の瞳からほろり、と大粒の涙がこぼれ落ちる。その涙は止まることを知らない。よほど彼女は思い詰めていたのだろう、堰を切ったように溢れ出す涙は、彼女の白いフレアスカートをぱたぱたと濡らしてゆく。


 あの、と海が何かを差し出した。


「使いかけで悪いんですが」


 先程靜から貰ったポケットティッシュだった。

 彼女は、ぐす、と一度鼻をすすった後、ふわりと微笑みながらそのティッシュを受け取った。


「ありがとう」


 そこで正宗は、自分が火にかけていたミルクパンの存在をようやく思い出した。不覚にも温めすぎた。仕方がないので、新しく作り直すことにする。また別のミルクパンにミネラル・ウォーターを注ぎ、湯を沸かし始めると、正宗はさりげなく彼女に問う。


「落ち着きましたか?」


 彼女はこくんと首を縦に振った。


「――ごめんなさい。なんか、安心しちゃって……」


 彼女は一度鼻をかむと、改めて正宗と目を合わせた。


「私、千葉ちば透子とうこと申します。このお店に行けば願い事を叶えてくれるとお聞きして……その、ね、猫を……」


 どきりとして海が目を見開いた。勿論それを正宗が見逃すはずがない。


「猫、ですか?」

「はい。猫を探しているんです。黒い色で、目が海のように青い色をしていて。かいという名前なんです」


 ふむ、と正宗が首を傾げる。


「猫探しなら、探偵を雇えばいいのでは?」


 彼女――透子は首を激しく横に振った。


「私が探さないといけないんです。だから、探すための『力』を貸して下さい!」


 その言葉に、正宗も靜もふっと頬を緩ませた。


(なんだ、そういうことか)


 海が先程ああいう言い方をしたのは、間違いなく彼女の影響を受けてのことだったのだ。


「……詳しく、お聞かせ下さい」

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