第二章 かえる ――千葉海
かえる (1)
靜は生活用品の買い出しのために
店で使用する食材は黙っても業者が届けてくれるけれど、個人的に使う日常的なものはどうしても直接買いにいかなくてはならない。正宗は店の外に出ることはできないので、必然的に靜が買い出しに出る訳だが――。
「これ、明らかに偏りすぎだろ」
正宗に渡された買い物メモを見つめ、靜は大きくため息をついた。
買い出しに行くたびに思うのだけれど、正宗は今まで一体どういう食生活をしていたのだろうか。長いこと一緒にいるのでもう慣れてしまったが、初めて彼が食事をしている姿を見たとき、食卓に並んでいたものが硬いパンと水だったことは一生忘れまい。
本人は「おれ、燃費がいいんだ」と笑っていたが、そういう問題ではない。それでよくここまで病気もせずに生きていたな、と呆れを通り越して感心してしまうほどだ。
(……だから、食事だけは俺がどうにかしてやってるんだけどさ)
ちなみに本日渡された買い出しメモにも、相変わらずパンと飲料水の二種類のみが書かれている。彼は素パンでも十分に楽しめるらしいが、さすがに現代にそぐわないセンスなので、なにか果物を見繕ってジャムにしてやろうと思う。何種類か食べさせてみたところ、彼は市販品のものより手作りのものの方が好みらしいのだ。
今の時期なら苺が旬だ。……ああでも、ここは敢えてマーマレードにしておくべきか。さて、今日のあいつの気分はどちらだろうか?
そう思いながらてくてく歩いていると、ふと、靜の前を黒い塊がよぎって行った。
「猫?」
随分身体が小さな猫だが、別に仔猫という訳でもなさそうだ。
首輪がないので、野良だろうか。黒い毛並みは本来鴉の濡れ羽のように大層美しいのだろうが、今は泥にまみれボサボサの状態である。ふらつく足取りで、今にも倒れてしまいそうだ。
靜は数秒考えた後、ゆっくりとしゃがみこみ、そっと手を差し伸べた。元々、猫は好きだ。そして幸いにも、彼は猫に好かれやすい性質でもある。
猫が靜の存在に気が付いた。のろのろと目を開け、こちらの様子を窺おうとしている。
「おいで」
靜を見つめ返したのは、海を連想させる真っ青な瞳だった。
***
「おかえり、靜」
いつものようにバー・カウンターでグラスを磨いていた正宗は、ドアに設置された真鍮のベルの音に気がつきおもむろに顔を上げた。いつもならここで大量に袋を抱えた靜が、眉間に皺を寄せながら「ちょっと手伝って」と言い始めるところだが、今日は違った。
帰ってきた自慢のパティシエが、実に予想外の行動を取っているではないか。
あまりの出来事に、正宗は思わず目を剥いたまま、
「……それ、お客さんかい?」
至極真面目な口調で尋ねてしまったほどだ。
買物袋を引っ提げた靜の腕の中には、小さな黒猫が丸くなっていた。今は瞳を閉じ、すやすやと寝入っている。よほど彼の腕が気に入ったのだろう。その寝顔は安心感に満ち溢れている。
靜は、いつもの仏頂面のまま、さっぱりとした口調で返答する。
「拾った」
「見れば分かるよ。……でも、ここに入ることができるってことは、この猫にもその資格があるってことだ」
可愛いね、と正宗が寝入る黒猫を覗き込み、にこりと笑った。「おれ、本物の猫を見るのは初めてなんだ」
その視線に気が付いたのか、もぞりと身じろぎしたのち、黒猫がそっと目を開けた。
青い瞳がじっと、正宗の目を射抜く。本当に綺麗な瞳だ。まるで上質なサファイアがそれぞれ嵌めこまれているかのような、澄んだ色。一目でその魅力的な瞳に吸い込まれてしまいそうだった。
「ところで、猫って何を食べるの? やっぱり魚?」
猫初心者の正宗、実に興味津々である。
「キャットフードなら買ってきたけど」
「ふむ、キャットフードね。世の中そんなものがあるのか」
とりあえず風呂に入れてくるわ、と買物袋をそのまま彼に預け、靜はそのまま店の奥にある風呂場に直行した。どろどろの毛皮では、猫もさぞかし不快だろう。口は閉ざしたままだったが、靜の様子は若干浮足立っている。
珍しくお菓子以外のことで機嫌がいい靜を横目に、正宗はぼそりと一言。
「あいつ、猫が好きなのか……それは知らなかった」
人は見かけによらないとは言ったものだ。まさか、あの万年仏頂面が猫好きだとは誰も思うまい。
その、数分後。
靜の大絶叫が風呂場に響いた。
さすがに驚いた正宗、思わず磨きかけのグラスを取り落としそうになった。慌てて拾い上げると、それを丁寧にバー・カウンターの上に置く。
あの靜の叫び声なんて、初めて聞いた!
しつこいようだが、重要なことなので何度も言う。あの『万年仏頂面』が取り乱す瞬間は相当、否かなり貴重なのだ。無駄に肝が据わっている靜は、一番驚いて欲しかった「例の光景」を目の当たりにしても、叫び声ひとつあげなかった。それを知っている正宗は「いつか彼を本気で驚かせたい」と密かに計画を練っていた。そして、その瞬間をカメラに収めて一生のお笑い草にしてやりたい。
そんな瞬間が、まさかこんなところで訪れるとは!
――つまり、正宗は事件そのものに関しては、全く心配していなかった。
内心その大スクープに心躍らせながら、「どうしたの!」とそれなりに慌てた風に見せかけながら駆けこんでみると、そこには。
靜が尻もちをつき目をひんむいている。流しっぱなしのシャワーにより全身びしょ濡れになっているが、本人はそれどころではないといった様子。口をぱくぱくさせ、声にならない声をあげている。
おお、これは見事な驚きっぷりだ。正宗は密かに感動しつつ、その驚きの原因へと目を向けた。
「……ん?」
靜の目の前には、全裸の男が縮こまっていた。髪は黒く、肌にぺったりとはりついている。顔はよく見えないが、身体は随分と華奢だ。
確か靜は猫を洗ってやると言っていたはずだが、この状況は一体何だ。考えられることはと言えば、泥棒か、変質者か、それとも――。
「靜、そういうことは店の外でやってくれませんか。一応クリーンなお店でありたいので」
「どんな冗談だっつうの! そもそも俺とお前は付き合ってすらいねぇじゃねーか! それに俺は女の方が好きだ!」
「ひどーい、そんな言い草ないじゃん、おれたちパートナー組んで何年経つと思ってるのさ」
「三年だよ! しかも論点はそこじゃない! 猫に、猫にお湯をかけたら!」
こんなに気が動転していても、正宗の茶化しに対し丁寧に対応してくる靜がなんだか哀れに思えてきた。そういうところは大変好ましいと思っているが、
(変なところで器用と言うか――だから前の店を解雇されたんだろ。いい加減直しなよ)
さすがに可哀そうになってきたので、そろそろ靜の言い分も聞いておこう。
「それで? 猫にお湯をかけたら、何?」
尋ねたところで、突然不審者(未だ全裸)がもぞりと動いた。
未だにシャワーから噴き出る湯に当たり続けていたため、やや長めの髪はすでにひたひたになっている。だが、彼はそれを手で払いのけようとはしない。その代わり、まるで動物がそうやるように、ぶるぶると身体を振るい水気を飛ばし始めた。しかし、なかなか水が飛ばないことに疑問を抱いたのか、彼はすぐにその動きを止める。
謎の男は、ゆっくりと目を開ける。その瞳が一旦己の両手、それから身体を見つめ、――よくよく考えてから、今度は度肝を抜かれているふたりに目を向けた。数秒の後、再び自分の身体へと目を落とし、こう言った。
「……あれっ?」
(あれっ? じゃねえよ!)
とは言えず、ふたりしてがっくりと肩を落としたのだった。
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