6
僕は部屋を出て、七海さんのいる部屋の前に立った。そして扉をコンコンと叩いた。返事はない。
「聞いてくれればいいので。なんだかすみません。無神経でした」
僕はそれだけ言って、自分の部屋に戻った。
これも無神経なのかなあ。
そんなことを思いながら僕はまたベッドに横になった。寝返りをうって、壁を見つめながらさっき、七海さんに言われたことを思い出してみる。
――確かに、過小評価をしてはいけないと思う。
でもなあ。ただ身内に美味しいって言われているだけだもんなあ。
突然、ドアが開いた。
僕はドアの方へ視線を向け、あわてて身体も向き直した。声をかけようとしたところ、それよりも先にゆっくりと近づいてきて、崩れ落ちるようにしゃがみ両手をベッドにかけた。
七海さんが僕の部屋に入ってきたのはこれが初めてだった。彼女との距離はまさに目と鼻の先であり、甘い香りが身体に染みてくる。心臓が高鳴りはとまらない。
「なんか、ごめんなさい」
七海さんは、顔を伏せてそう言った。
「そういう日も、ありますよね」
僕はベッドから起き上がり、彼女の横に座りなおした。彼女の鼻をすする音が聞こえる。
こういうとき、どうしてあげればいいのだろう。僕にはよくわからなかったけれど、悲しんでいる姿を見ているのは辛かった。力になりたい。その気持ちがまず浮かんだ。
「何か、あったんですか?」
僕がそういうと、彼女は顔をあげた。うっすらと涙の跡が見えた。
「あまりにしつこいから、母親からの電話に出たんだよ」
家出という話はほんとうだったのだ。疑っていた自分を無性に責めたくなった。七海さんは言葉を続ける。
「私にだって、つらいときだってあるんだよ。ばれたくないから気を張って、でもバレバレで、みんなに気を使われて、かっこうわるくて、やんなっちゃうよ」
今の気持ちを吐き出しているようだった。
「もっと気楽に生きてみたらどうですか」
「いやよそんなの」
「即答ですね」
僕は思わず笑ってしまった。その笑い声を聞いて、七海さんの表情が少し柔らかくなる。
「どうして家出しているんですか?」
「それは、あんまり言いたくないな」
「言いたそうですよ」
「そんなことないし」
「どうですかねえ」
「なんだか、突然生意気になってない?」
七海さんはようやく笑みを浮かべた。
「母親とね、音楽性の不一致で喧嘩したのよ」
「なんだか解散するロックバンドみたいですね」
「まあ実際、そんな感じなんだけどね」
「兄弟とか夫婦はありますけど、親子でバンド組んでるなんてとても珍しいから、解散しちゃもったいないですよ」
「ねえ、ちゃんと真剣に聞く気あるのかな」
「ああ、すみません」
僕は狼狽した声を出すと、またくすりと笑った。長くなるんだけどね。そう前置きしたあと、七海さんはピアニストとしての歩みを語ってくれた。
「私、2歳からピアノ弾いてるのよ。すごいでしょう。ピアニストになるためには、手が大きいとそれだけで有利なの。手が大きくなる体操をずっとしていたんだから。グーパーグーパ―ってね。ほら、大きいでしょ」
七海さんは僕の手を取り、そして手のひらを重ねてきた。一度握手をしたときに感じたのは間違いではなかったのだ。
「手が大きいのはその体操の効果なんですか」
「たぶん、関係ないと思う」
はにかんだあと、さらに七海さんは話を続けていく。
「いわゆる英才教育ってやつよね。著名な先生に教えてもらうために、海外住まいも長かったのよ。小学校六年生の時に、ジュニアコンクールで優勝してね。うん。それはオーストリアのピアノコンクールだったんだけどね。そのときは結構日本でも報道されたのよ。天才少女現れるってね。でも、私のピークって、結局そのときだったのよ。それからもずっと必死に練習してきたんだけどね。そこそこ活躍はしているのよ。プロのオーケストラとの競演を果たしたり、ピアノ協奏曲の初演を依頼されたりね。でも、もう限界なんだってことは、自分が一番わかるんだって。だって、これ以上うまくなるためにどうすればいいのか、わからないんだもの。そういうそぶりを一切見せないようにしていた私にも責任があるんだけどね。まだ頑張れる。あなたは天才なんだからってね。母親が言うのよ。もう嫌になっちゃってね。そんなときにさ、天才ピアニストに出会ったのよ。誰だかわかる?」
僕はまさかと思いつつも、その名前を言葉にすることができなかった。
「凜々子さんよ」
「うそだあ」
僕は思わず大きな声をあげた。凜々子にそんな才能があるはずもないと思ったからだ。
「もう衝撃的だったのよ。赤坂にあるジャズバーを私の知り合いが経営していてね。そのお店に行くことになったのよ。赤坂っていうから、しっとりと上品なお店かと思っていたのに、なんだかとても騒がしいお店でね、たばこも分煙じゃないし、もう一刻も早く帰りたいと思っていたんだけどさ。なんか奥にいる騒がしい連中のリーダーみたいな人が、ピアノ弾きまーすって言って、大屋根を全開にしてね。あ、屋根っていうのは、ほらピアノって蓋がしてあるでしょ。あれを全開にするとオーケストラにも匹敵する音量がでるわけ。でね、酔っぱらっているからピアノの扱い方も乱暴でね。ああもうピアノが可哀そうだなって思っていたんだけど。……、すごいのよね。もう、ほんとうにデタラメなのよ。デタラメなんだけど、ああ、これがスウィングしているってことなんだってことだけははっきりと伝わってきたの」
「スウィングってことは、ジャズってことですか。スウィングガールズのスウィング、ですよね」
「そうよ。凜々子さんて、アメリカに住んでたことがあるんでしょう? その時に教えてもらったんだと思うわ」
たぶんそれは、大学を中退して両親との亀裂が決定的になったときのことを言っているのだろうか。
「でも僕なんかが聞くと、圧倒的に七海さんのピアノの方がうまいと思いますけどね。凜々子は、楽譜が読めないって言って、衝動買いしたピアノも結局全然使ってなかったんですから」
「だから言ったじゃない。デタラメはデタラメだったのよ。ほかのお客さんからはブーイング。途中で止めさせられて、お店を追い出されちゃったんだから。でも、その衝動がちゃんと音で表現されていたのよ。とにかくそれがきっかけでね、私はジャズを聴くようになったの。そしたらやりたくなってきちゃってね。私もアメリカに行くんだって母親に言ったら大喧嘩。とりあえず旅支度をして家を飛び出してきたってわけ」
「じゃあ、アメリカに行っちゃうんですか」
僕がそういうと、沈黙が訪れた。
七海さんが手のひらを重ねてきたあと、その手と僕の手はずっとつながっていた。絡み合った指はあたたかくて、そしてどこか切なかった。
「……正直に言うとね、ほんとうはちょっと怖いんだ」
僕は思わずそのつながっている手を自分の方へと引き寄せた。ショートカットの髪が微かにゆれて、甘い香りが僕の鼻をかすめた。僕は彼女と見つめ合った。見つめ合っている時は、ずいぶんと長いような気もするし、短いような気もした。そして彼女の瞳は、ゆっくりと静かに閉じていった。
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