5
次の日の朝、僕は今日も日雇いバイトの予定だった。僕はウインナーを焼いて目玉焼きを作った。オーブントースターで食パンを焼きながら、冷蔵庫からヨーグルトとジャムを取り出す。
さっと朝食を済ませると、まだ寝ている七海さん用の朝ごはんにラップをかけてから、置き手紙を書いた。いくら料理が苦手だといっても、オーブントースターでパンを焼くことくらいできるだろう。昼食は、昨日はコンビニで買ってきたようだから準備はいらないはずだ。
今日もどこにも出かけずにピアノを弾いているのだろうか。そういえば、なぜ家出をしているのかまだ聞いていない。
僕は時計を見ると、もう出掛ける時間だった。僕は慌てて各部屋のゴミをまとめ始めた。燃えるゴミの収集日なのだ。生ごみだけは捨てなくてはいけない。僕は生ごみの入った袋をきつくしばり、市から指定されたゴミ袋の中に入れた。
その指定ゴミ袋は半透明であり中身は透けて見える。この袋の側面に張り付くように、凜々子が置き手紙に使うメモ帳が一枚見えた。
僕は思わず、あっと声を上げた。
ためらう気持ちもあったが、それ以上に好奇心が僕の背中を押してくる。指定ゴミ袋をほどいてみてみると、やはりそれは先日、凜々子が書き残していったほんものの置き手紙だった。
僕はそれを読み、おもわず首を傾げた。
――なんだこれ。ほとんど一緒じゃないか。
見比べようと思ったが、もう時間もない。それに、七海さんが書いた手紙をどこに置いたのか、もう捨ててしまったのか思い出すことができなかった。僕はその手紙を冷蔵庫にマグネットで貼った。いくつかの手書きのレシピの隣に並ぶように。
どうして置き手紙をわざわざ書き換えたのかも聞いていなかったのだ。もうふたり暮らしが始まってから三日目だというのに僕は七海さんのことをほとんど知らない。今日こそいろいろと聞いてみよう。そんなことを心に決めて、僕は慌てて家を飛び出した。
アルバイトが終わり夕飯を作っていると、七海さんは一足先にリビングのテーブルに座りテレビをつけた。
僕は完成した料理を順々に運んで、椅子に座りいただきますと両手を合わせた。
七海さんはいただきますと言ったものの、すぐにテレビに視線を移した。今日は「おいしい」とも言わない。テレビの音だけが部屋を満たす。なんだか僕は不安になってきた。
「今日は何をしていたんですか?」
「……、ピアノの練習だよ」
「今日もですか」
「そうよ」
「ずっとですか」
「うん」
「すごいですね」
「……」
会話が続かない。このときになって初めて、七海さんが話しをしてくるから会話が成立していたことを知った。
やはり、トマトピューレを使ったパスタがよくなかったのだろうか。ツナがアクセントとなり、また昨日とは違った味わいになるから大丈夫かと思ったのだけれど。
赤ワインを出したのもよくなかったのだろうか。昨日お酒が好きだと言っていたので、店員さんと三十分もかけて選んだお酒なのに。大学三年生だとウソをついて買ってきたのがよくなかったのか。
それとも、連日外出しているのがよくないのだろうか。考えてみれば、僕は食事を準備することくらいしかできていない。
もう、七海さんは食べ終わってしまう。食べ終わると凜々子の部屋に入り、話すチャンスはなくなる。僕は恐る恐る七海さんに声をかけた。
「ひょっとして、あんまりおいしくないですか?」
僕の質問に七海さんはひと呼吸置いてから、
「そんなことないよ」と言った。
「やっぱり、トマトは飽きちゃいましたかね」
七海さんから返事はない。
「トマトはそんなに飽きのこない食材かなあと思っていたんですが、やっぱり僕の腕が足りてないからですよね。一応理由はあるんですよ。凜々子がトマト嫌いで、見るのも嫌だとかいうから、どうしても使い切ってしまいたくって。あ、そっか、だったらもっと小さいやつ買ってくればよかったのか。でもお買い得商品だったのはこの大きな方だし……」
僕がぶつぶつと言葉を連ねていると、七海さんが僕をまっすぐに見つめてきた。
「裕也くんの作った料理が不満で怒っていると思うの?」
僕は思わず背筋を伸ばした。張りつめた空気とはこういうことを言うのだろう。テレビの音が無機質に響いている。
「違うんですか?」
七海さんは大きく首を二回振った。
「今日は何のアルバイトをしていたの?」
「今日ですか? ピッキング作業って言って、倉庫で商品を仕分けする仕事ですけど」
「それって、楽しいの?」
「まあ、楽しくはないですよ。夏場は疲れますし。でも、時給は悪くないんですよ」
「料理をするアルバイトをすればいいじゃない」
「料理ですか? いやあ。僕にできますかね」
「だから! どうしてそんなに自分を過小評価するのよ。自分はすごいやつだと過大評価することも確かによくないけど、そうやって自分を過小評価するのもダメなのよ」
確かにそうかもしれない。でもさすがにこれは余計なお世話だろう。そもそも、どうして怒られているのかよくわからない。
「こうやってコソコソするのも嫌だわ!」
七海さんはそう言いながら、置き手紙を出してきた。あ、と僕は声を漏らし、冷蔵庫を見る。朝に貼った置き手紙がないので、これは凜々子が書いた方の置き手紙だ。
「いや、内容が一緒なのになんでだろうって思って、その理由を聞こうと思っていたんですよ」
「一緒じゃないわよ」
そういうと、七海さんはごちそうさまと小さく一言いい、部屋に戻ってしまった。
僕は首を傾げたあと、ツナとトマトピューレのパスタを食べ終えて、使用した皿を洗い始めた。ワインはずいぶんと余ってしまった。料理で使い道があるからいいけれど、僕の気持ちは曇り空となった。
機嫌が悪いのは、どうやらあの置き手紙のせいみたいだ。ただ、七海さんの言い分はおかしい。コソコソなんてしていないから、冷蔵庫に貼ったんじゃないか。
僕は反論を頭に浮かべながら、テーブルの上に置き去りにされたほんものの置き手紙を手に取り部屋へ戻った。
ベッドに横たわり、ポケットからもう一つの置き手紙を取り出した。あの日着ていたハーフパンツのポケットに入れっぱなしだったことを思い出したのだ。僕はその置き手紙を見比べてみる。
『道ばたでかわいい女の子を拾ってきました。一週間だけめんどうみてね♡ 姉より。』
『道ばたでかわいい女の子を拾ってきました。一週間だけめんどうみてね♡ 弱ってるからやさしくしてあげてね♡ 私は来週の日曜日に帰宅するよ。夕飯はもちろんいります。いつものやつ! 姉より。』
七海さんが書いた手紙は、書き換えたというよりは後半部分を削ったものだった。帰宅予定日や食事の有無を省略したのは、多くの文章を書くと筆跡がばれてしまうと考えたからだろう。その考えがぱっと浮かんだため、一緒じゃないかと思ったわけだ。
そうなってくると、『弱ってるからやさしくしてあげてね♡』の部分に問題があることになる。
僕はだんだんと、心臓が握られたような、そんな苦しみを感じ始めた。
最初は全然、気にならなかったのだ。
だってそうだろう。拾ってきた動物は、弱っているのが自然だろうし、やさしくしてあげてねとお願いすることだってふつうだ。凜々子もそんな感覚で書いたと思うのだ。深い意味なんて込めていないはずだ。
僕は掲げていた両手を下ろし、天井を見上げた。目をつぶり、この三日間のことを思い浮かべてみる。
――そうか。
僕はなんとなくだけれど、七海さんの気持ちがわかったような気がした。
僕にはどれくらいのレベルの人なのかはわからないけれど、本気でピアノを弾いている人だってことくらいは理解できる。海外住まいが長いのも、おそらくは、音楽が関係していそうだ。何より、家出している間も練習を休みたくないほどなのだ。そうやって、てっぺんを目指して頑張ってきた人なのだろう。そんな彼女だからこそ、『弱っているからやさしくしてあげてね』と言われることに、プライドが許さなかったのかもしれない。
僕は壁の向こうにいるであろう、七海さんを見つめずにはいられなかった。
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