僕は立ち上がり、置き手紙をズボンの後ろのポケットに詰め込んだ。

 彼女が一歩近づいた分、後ずさりした。足がすくむ。危険を知らせる信号がけたたましく鳴り響いているようだった。

「ばれるとは思わなかった」

 筆跡を照合していたところを見られていたようだ。

 彼女の言葉を察すれば、この置き手紙を書いたのは姉ではなく、この人ということになる。

 僕は彼女の言葉を聞きながら、すぐに凜々子と連絡を取らなかったことを後悔した。凜々子は無事だろうか。こういうときは、警察に電話した方がいいのだろうか。

「そんなに怖い顔をしないでよ」

 僕はもう一歩後ろに下がる。姉が家具屋で一目ぼれしたタンスに背中を預ける格好になる。

「けっして、怪しいものではないよ」

 彼女は眉を下げて、少し力の抜けた声を出した。

「まあでも、ふつうに考えて怪しいか」

 そういうと、彼女はベッドに腰を掛けた。腰を掛けたあと、僕の方を見つめてくる。言葉は発せずに、僕の様子をうかがっているようだった。

「なんで僕が凜々子の部屋にいるってわかったんですか」

「そんなの、わからないよ」

「だって、戻ってくるには早すぎますよ」

「忘れものよ」

 そういうと、彼女はカバンからポーチを取り出した。

「化粧落としを忘れたの」

 僕は彼女の持つポーチの中身が本当に化粧落としなのか、いまいち信じることができずにいた。そんな僕を察してか、彼女は「ほら」と中身を見せてきた。

 それを見せられても、僕にはそれが化粧落としなのか判断がつくはずもない。

 僕は彼女を見下ろす格好となり、タオルに覆われた小さな胸のふくらみに嫌でも目がいった。なめらかな身体のラインが見える。僕は先ほどとは異なる胸の高鳴りをはっきりと感じ取った。

「は、話は、あとにしましょう。先に、化粧を落としてきてください」

 我ながら、動揺していると思った。彼女はくすりと笑ったあと、お風呂場へと戻っていった。

 

 ドライヤーを使用する音が鳴り終わり、彼女がリビングにやってきた。椅子に座っていた僕は思わず姿勢をよくして、それから瞬きをした。彼女のキャミソール姿は、僕にはどうしてもまぶしすぎた。透き通る肌とは、このようなことを言うのだろう。化粧なんてする必要あるのだろうか。彼女は「私にもちょうだい」と僕の前にあるウーロン茶を指さした。

「いったい、あなたは何者なんですか?」

 僕は意を決して質問をした。

 彼女が風呂場に戻ったあと、僕は凜々子に電話をしたのだ。

 凜々子は電話に出なかった。まあ、いつものことだけれど。凜々子の友人なのか、それとも不審者なのか。それをはっきりさせたかった。けれど、警察に電話する勇気はどうしても生まれなかった。そうなればもう、直接本人に聞くしかない。

 こわばった僕の表情を見ながら、彼女は手で口を押えながら笑った。

「まあ、そうだよね。何者って感じよね」

「空き巣、ですか?」

「違うよ。そんなに悪いことしてそうに見える? ちょっと心外なんだけど」

 知らない人が家にいたら、まず最初に思い浮かぶのは空き巣だと思うのだけれど。まして置き手紙の件もある。

「置き手紙を書き換えるだなんて、明らかに怪しい行為じゃないですか。内容だっておかしいし……」

「でも、その『道ばたでかわいい女の子を拾ってきました』って部分は、君のお姉さんの書いた置き手紙のままの表現だよ」

「ほんとうに?」

「自分のことを『かわいい女の子』だなんて書くわけないじゃない」

 そう言われてみると、確かにそうかもしれない。ではなぜ書き直す必要があったのだろう。腑に落ちない顔をする僕に、彼女は観念したように事情を説明し始めた。

「しばらく、家に帰りたくないわけがあってね。そうしたら、凜々子さんが『私の家にいればいい。ピアノもあるし、食事ならうちの弟がなんとかしてくれるはず。私も今日から一週間出かけるからちょうどいいでしょ名案じゃん』、ってね」

 確かに、凜々子が言いそうな言葉だ。

「でも知らない人が家にいたらびっくりしますって」

「……数時間前まで二人で待っていたのよ。でも、なかなか帰ってこないんだもの」

「凜々子はどこに行ったんですか」

「旅行みたいだけどね。行先は言わない主義だって言ったけど、いつもそうなんだよね? 日曜日に帰ってくるって、凜々子さんの書いた置き手紙にはそう書いてあったけど」

「家に帰りたくないのではなくて、帰ることができないとかではないですか」

「そうやって犯罪者扱いしないでってば」

「だっておかしいじゃないですか」

「家出中なのよ」

「家出だって?」

「そう、二十四歳にして初めての家出」

 彼女はそういうと、僕の用意したウーロン茶を手に取った。二十四歳の人が家出? ますますわからなくなってきた。この年齢で仕事はしていないのだろうか。だから凜々子と意気投合したということだろうか。

「ああそういえば」といい、彼女は僕を見つめてきた。

「まだ自己紹介していなかったよね。わたし、七海っていうの。よろしくね。君の名前は?」

 少し間を置いたあとに、「裕也です」と僕は答えた。

 彼女は手を伸ばしてきた。僕はその手を握る。

 華奢な身体からは想像できない大きな手をしていて、しかもその力はとても力強かった。

 僕はこの生活がしばらく続くことを想像する。平穏の日々とは言えないだろう。たとえ凜々子の友人だとしても、知らない女性と一週間もふたりきりで過ごすことに変わりはないのだから。

 僕は彼女とうまく生活することができるのだろうか。そんな新しい不安が浮頭の中を通り過ぎていった。

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