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いったい、どういうことなのだろう。
ドアによって隔てられた先に、知らない女性がいることを意識する。落ち着くわけもない。そういえば、まだ名前すら聞いていなかった。ほんとうに、一週間もここにいるつもりなのだろうか。
僕はポケットから、凜々子の置き手紙を取り出した。
『道ばたでかわいい女の子を拾ってきました。一週間だけめんどうみてね♡ 姉より』
このメモ用紙は間違いなく凜々子のものだし、携帯電話で連絡を取ることを嫌う凜々子は、出かける際は必ずこのように置き手紙を書き残していく。姉弟ふたり暮らしの家に友達を呼び、自分自身は出かけてしまうことも初めてではない。一週間という長い期間が気になるけれど、凜々子の友人をもてなす、という点では、今回の出来事も日常の一つと言えないこともない。
しかし――、一つの約束事が果たされていないのだ。
僕はリビングに戻った。凜々子の部屋の扉も閉じられており、彼女の様子はわからない。僕はキッチンにある冷蔵庫の中を確認した。掃除・洗濯・食事の準備、いわゆる家事は僕の仕事であった。家と大学の往復が日常であり、ときどき日雇いのアルバイトをする程度だから、特に大変だとは感じたことはない。八歳年上の凜々子は定職につくことなく、いつも何をしているのかわからないような人で、実家の両親とも喧嘩ばかりであった。
そんな姉でも、僕にとっては大切な家族だ。新しい料理をつくったときは、「やっぱり裕也の作る食事が世界一おいしいねえ」と言ってくれる。そんな凜々子はしばらく家に戻らないときや外食するとき、食事の有無を書き残していくようになった。正確に言えば、何かと説明不足な凜々子にお願いをしたことがきっかけだったのだけれど。
冷蔵庫に手をかけたまま、再び僕は置き手紙のことを考える。
食事の有無が書かれていない置き手紙は、異例と言えば異例だ。しかも、あの置き手紙ではいつ帰ってくるかすらわからない。ほんとうに凜々子が書いたものなのだろうか。
すると突然扉が開き、彼女が顔を出した。
僕は驚きのあまり声を漏らす。考えていたことをごまかすように、言葉を紡いだ。
「あ、あの、夕飯、食べますか?」
その言葉に、彼女は笑った。
「凜々子さんのいう通り、ほんとうに優しいね」
僕の顔はふたたび赤くなった。
「大丈夫、もう食事は済んでるから」
「じゃあ、スーパー銭湯に行きますか。ほんとうに、出てすぐそこですけど、なんなら案内します」
僕がそう進めても、彼女はうーんと言ったきり、動こうとしない。
「私はシャワーを貸してくれるだけで構わないよ。それとも、使うと何か困ることでもあるの?」
僕はその言葉に、いや、ということしかできなかった。ほんとうは困るのだけれど。一人になりたかったし、なによりも、僕の部屋が風呂場と向かいなのがネックなのだ。
そんな想いが通じるわけもなく、仕方がないので僕は風呂場に向かった。自分の下着が転がっていないかをチェックしたあと、洗面台の上にある棚から凜々子のバスタオルを取り出した。振り向くと彼女は風呂場にやってきていた。
「先に入ってもいいの?」
「ど、どうぞ」
僕はそう言い、自分の部屋に戻った。
風呂場の方から音がする。その方向を眺めた。僕の部屋と風呂場は向かいのため、嫌でもシャワーの音が聞こえるのだ。これがいつも落ち着かなかった。そりゃそうだろう。裸の女性が、僕の約二メートル先に存在しているのだから。
僕はなんだか居たたまれなくなり、リビングに向かい冷蔵庫からウーロン茶を取り出しぐいっと飲みほした。
凜々子の部屋の扉は少し開いていた。見慣れない旅行用のキャリーケースが見える。きっと彼女のものだろう。
そのキャリーケースの先にカレンダーが見える。
そういえば、凜々子はカレンダーに予定を書き込むことにしたと宣言していたな。
風呂場の方に目をやる。まだ、出てこないだろう。僕は凜々子の部屋の電気をつけて、カレンダーに目をやった。
思わずため息がでた。カレンダーは三月のままであった。今はもう八月である。凜々子にしては、三カ月間も続いたことをほめるべきだろうか。
三月のページには、凜々子と二人で出かけた日帰り旅行のことが記入されていた。僕の十代最後の誕生日を祝う旅行だった。凜々子が一人でタイに一週間旅行に出かけていたのも、そういえば三月だったな。
――。
僕の鼓動は加速度的に速くなっていく。
置き手紙に対する違和感。それは、内容だけではないとしたら――。確かめるなら、いまがチャンスなのは間違いない。
ポケットから、僕は置き手紙を取り出した。
『道ばたでかわいい女の子を拾ってきました。一週間だけめんどうみてね♡ 姉より』
僕は大きく息を吐いた。
どうだろうか。交互に見比べてみるが、なかなか確証を得ることはできない。筆跡が同じと言われれば同じにも見えるし、違うと言われれば違うとも思えてくる。
もし、この置き手紙が、凜々子が書いたものではないとしたら。
そう考えると鼓動が高鳴る。
すると扉の開く音がした。
振り向くと、タオルを巻いた彼女が僕を見つめていた。
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