第44話 エピローグ

 学園の敷地に、蝉の声が響きわたる。強い日差しが照りつける中、夏実は大きな荷物を抱えていた。


「会えなくなるかと思うと、寂しいね」優子が夏実に声をかける。


「またすぐに会えるよ」


 二人は次に紡ぐ言葉もないまま、静かにたたずんでいた。


 そこへ、遠くから呼び声が聞こえてくる。部活から抜け出してきたのか、体操着姿の麗奈が慌てて走ってくる。


「出発するんでしたら、声ぐらいかけてくださればいいのに」麗奈が息を弾ませながら抗議する。


「急に学園を出ていくと言ったから、私は驚いたんですよ!」


「そんな大げさなものじゃないよ」夏実が照れながら笑う。


「私は監督生として、最後まで同じ階の皆さんをチェックする義務がありますの」

「麗奈ちゃんは帰らないの?」夏実が尋ねる。


 夏休みに入り、寄宿舎で生活している生徒たちも実家へと帰省する者が増えていた。


 夏実も、荷物をまとめ里帰りをする予定だった。


「夏実さんよりは実家が近いですから、明後日あたりにでも帰ろうかと思っていましたの」麗奈が答える。


「それにしても惜しかったよね、この前のトーナメント」


 優子が先日の、学内囲碁トーナメントの話をする。


 沙也加と夏実の対局は、夏実の半目勝ちという結果に終わった。しかし、続く決勝戦では、夏実は完全に集中力が切れていて、ミスを続けたあげくに、途中で投了を宣言していた。


「あのミスがなかったらなあ……」


「せっかく沙也加先輩に勝ったというのに、どうして決勝戦であんな気の抜けたような負け方しますの?」


 二人から責められて、夏実が気まずそうにする。


「先輩との対局で、全部出し切ったというか……」


「まったく、帰ってきたら鍛え直しですわね」麗奈が笑みを浮かべる。


 夏休みの間は、学園内のランキング戦も休みとなるため、しばらく対局の機会はなくなる。


 優子は携帯電話を取り出して、時間を確認する。


「夏実ちゃん、そろそろバスの時間だけど大丈夫?」


 夏実も時間を確認し、慌てて荷物を背負い直す。


「いけない、そろそろ行かなくちゃ! それじゃあ、またね!」挨拶をして、手を振って別れる。





 新幹線に乗るための駅に向かうのは、バスを乗り継がなければいけない。学園の敷地前にあるバス乗り場には、一人の先客がいた。


「沙也加先輩……」


 夏実は先客の姿を見て、驚く。


 沙也加はいつもと変わらない表情を抑えた様子で、夏実をじっと見つめている。


「今日でるって聞いたから、一声かけたくて」沙也加が口を開く。


 意外な一言に、夏実が驚く。まさか沙也加先輩が見送りに来てくれるとは思ってもいなかった。


「あの、この前は対局ありがとうございました。とても良い対局で……」


 夏実は言葉に詰まる。あの時に感じた気持ちを、うまく言い表せるだけの言葉が思いつかなかった。


「囲碁、楽しいかもしれないって、あの時そう思った」


「先輩、それって……」


 思いは伝わっていたのだと、夏実は分かる。


 よく見ると、沙也加もこうした台詞を言うのが恥ずかしいのか、ほんのわずかに顔が赤くなって、恥じらっているようにも見える。


「繰り返しては言わない。ただ、前の対局の時のことを謝っておきたくて」


「え? 先輩、それって……」夏実が聞き返した時に、バスが到着する。沙也加が伝えるべきことは伝えたという風に、背を向けて素早く離れていく。


 バスのエンジン音で聞き取れなかったが、去り際に「またね」と言っていたような、そんな気がした。


 バスに乗り込み、次第に遠ざかっていく学園を見ながら、次の対局を思う。どんな出会いが待っているだろうか。


 熱されたアスファルトから立ち昇る陽炎を窓から眺める。


 思えば囲碁を始めた日も、こんな暑い夏の日だったかもしれない。


 思い出はすべてこの胸の中にある。喜びも、苦しみも悲しみも。どれも全部大切なもので、全てを他人と分かち合うことはできない。


 けれども人はコミュニケーションをとり続け、対話を重ねる。


 誰とでも、何度も巡り合おう。


 ふと、おじいちゃんが碁盤に石を打つ、静謐な音が聞こえた気がした。


 けれどもそれは賑やかな蝉の鳴き声に取って代わり、夏実はただ心の中の残響をいつまでも聞き続けていた。

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盤上ダイアローグ リェロン @ryeron

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