第43話 争い

 乱戦に持ち込むための代償は大きかった。


 それしか選択肢がなかったとしても、やはり厳しい囲碁になったと夏実は思う。


 相手が確実な手堅い陣地を確保していくのに対し、こちらの陣地は未だに大きく確定しておらず、ぎりぎりの所までどうなるのか分からない。


 おまけに相手の攻めは厳しく、陣地を確保するどころか自分の石が生き残るだけでも精一杯だと思わせる。


 一歩でも足を踏み間違えれば奈落に真っ逆様に落ちていく、綱渡りをしているようなものだ。時間をかけて慎重に、一手一手を進めていく。


 それでも今度は戦えている、と夏実は実感する。相手にぶつかり合えていると、肌で感じられる。


 あたしの声は届いているだろうか? 先輩のことを見ている、共に対局がしたかったと、石が主張する。


 先輩との囲碁を楽しんでいると、今なら心から主張できる。


 先輩の石からも、この囲碁に真剣になっていることが伝わってくる。


 盤上で行われる相互理解のためのコミュニケーション。


 どうして先輩を選んだのか、それは自分にも明確に説明できない、衝動のようなものだ。一目ぼれしたことを説明なんかできるだろうか?


 言葉ではうまく説明できなかったが、置かれる石の軌跡が全てを語らってくれる。互いの石が混ざり合う模様が、それぞれの色を混ぜていく。


 確かに距離も、実力差もあるかもしれない。けれども手を伸ばして精一杯近づく。先輩が全力で攻めてくれるのが、喜びに変わる。


 愛情の反対は憎しみではなく、無関心だと言われている。お互いに碁盤を挟んで向き合っている限り、相手に対して無関心ではいられない。


 詩人が囁く愛の言葉よりも激しく、戦場で敵に向ける憎悪よりも激しく、お互いの存在がそこにあることを確かめるための行為。


 汗が流れる。碁盤を睨みつけ、勝つためのか細い道を必死に探す。ただ逃げているだけでは手に入らない。無理矢理突っ込んでいるだけでも手に入らない。


 盤面が一手ごとに表情を変え、深い迷路の奥へと入り込んでいるような気分にさせる。何処へ向かっているかは、もう分からなかった。


 行きつく先が深い穴の中にならないように、慎重に歩みを進める。


 細いロープの上から落ちないように、バランスをとって打ち続ける。





 どれだけ先が見えないように感じられても、時間が立てばゲームの終わりは見えてくる。局面は沙也加の方に有利になっていた。


 優勢になったことに、沙也加は安堵する。まだ勝負が決まったわけではないが、どうなっていくか、なかなか先が読めない展開だっただけに、確かな物が見えてきたのはありがたいと思う。


 そしてそんな感情を覚えたことに、驚く。対局する前から結果は分かっていたようなものだと思っていた。


 けれども、想像を超えて手ごわく、相手と向き合わざるを得なくなった。


 見せつけられるのは苦しかった。


 騒ぎながら囲碁を楽しそうに打ち、自分にはないものを持っているように見えた相手。だからこそ並び合いたくはなかった。


 自分と相手は、違ってなければいけない。分かり合うなんてことを言われると、鳥肌が立つ。分かってほしくはないのだ。


 碁盤に置かれる相手の手からは焦りが、苦しみが伝わってくる。


 ああ、そうだ。こんなにも辛くて苦しくて逃げ出したいだろう? 自分がずっと抱えていた感情が共有されることに、静かな喜びが湧く。


 夏実の表情を見て、痛みの中にも笑みが浮かんでいることに困惑する。


 何でこんな時に笑っていられるのか、勝負を諦めたりしないのか。


 楽しそうに囲碁を打つ姿に嫉妬する。





 戦いは混沌とし、勝敗の行方はコウ争いをどちらが制するかにかかった。


 コウというのは、片方が相手の石を取るために石を置き、取られた相手がその直前に置かれた石をすぐに取り返せる形のことである。


 お互いに相手が置いた石をすぐに取り返せるため、同じ場所に置き合うのが延々と続き、対局が前に進まなくなってしまう。


 そのため、同型反復禁止というルールが囲碁には存在する。


 盤面の形が変わらないような手を打ち続けてはいけない、というルールだ。


 よって、コウの位置に石を置かれた側は、コウとは別の場所に一回打たなければ、置き返すことができない。


 コウとは別の場所に打たれた側が、自分のコウを守るために石を繋げば、それでコウ争いは終わる。


 けれども、コウを繋いで獲得できる陣地よりも、打たれた場所を守らなければより多くの陣地が失われるなら、コウを繋ぐよりも対応を優先させなくてはいけない。


 相手がコウ以外の場所に打ってくれたのなら、同型反復禁止のルールは解除され、コウに石を置くことが出来るようになる。


 そうして今度は逆に、コウに打たれた側が同型反復禁止のルールのため、コウ以外の場所に打たなければいけない。


 この一連の流れがコウ争いと呼ばれ、コウを制するよりも価値の高い場所、コウ材がいくつあるかが争いに勝つためのポイントになる。


 互いにコウを取ったり、取り返されたり。譲れない意地の張り合いになる。


 価値観が異なる両者だった。片方は囲碁を楽しんでやるべきだと言い、もう片方は囲碁を生きていくための手段だと言う。


 夏実がコウに手を入れれば、沙也加も負けじと切り返す。それまでに積み重ねてきた物がどれだけあるかが、勝敗を決める。





 沙也加が一手を打つ。


 楽しむための余裕なんてなかった、環境に恵まれた人だけの論理を受け入れられるわけがない。


 自分の苦しみが、痛みが他人と分かち合えるだなんて、とても信じられない。


 囲碁だけがこの苦しみから自分を生かしてくれる。けれども、囲碁は競い合いの世界だ。





 夏実が一手を打つ。


 囲碁が自分を生かしてくれたのは同じだと、夏実は思う。そのための手段であることを否定はしない。けれども、囲碁を、人生を楽しむことはこれから先いくらだってできる。


 人は変われるのだと、楽しむことと精進することの二つは、決して相反するものではない。





 沙也加が一手を打つ。


 今更、そんなことができるはずがない。他人から傷つけられて、傷つけて。新しく一歩を踏み出すのが怖い。


 こんな自分がやり直せるはずがない、もう一度失敗してしまうだろうと思う。





 夏実が一手を打つ。


 何度だってこの盤の上でやり直すことができる。これはゲームだから。たとえ失敗してどんなに酷いことになったとしても、仕切り直してまた一から始められる。


 たぶん人生もそんなものなのだろう。自分がどんなに取り返しがつかないと思っていても、盤の前に座って対話を続けている限り、機会は巡ってくる。


 だから、語りましょう。あたしたちの物語を。





 沙也加が一手を打つ。


 ずっと、普通というものに憧れていた。どうして自分は周りと違うのだろうと、苦しかった。


 たとえうまく出来なかったとしても、一歩を踏み出したい。徐々にでもいいから変わっていきたかった。





 夏実が一手を打つ。


 語るべき言葉はいくらでもあった。


 伝えたい思いはこの胸から溢れてくる。


 ただ、今伝えたいのはこの対局が楽しいと。


 先輩と巡りあえて良かった。純粋な告白。





 沙也加の手が詰まる。コウ材がなくなったのだ。沙也加の一手に対して、夏実はコウを繋ぎ、争いを制する。


 沙也加の優勢は消え、勝負は最後の最後まで分からなくなる。


 それでも差はわずか、どちらかのほんのわずかのミスでひっくり返るような状態。沙也加はじっくりと考えながら打ち進める。


 沙也加が一手を打ち、対局時計のボタンを押す。気が付くと、夏実側の持ち時間がほとんどなくなっていた。


 最初の一手に時間をかけ過ぎた上、見たこともないような展開でミスが許されないため、ギリギリまで時間を使って考えなければいけなかった。


 沙也加の方もわずかだけしか持ち時間は残っていなかった。


 対局時計が夏実の持ち時間がなくなったことを知らせる。秒読みに入る。


 こんな複雑な盤面を、持ち時間なしで乗り切れるはずがない。この対局の勝負は決したと、沙也加は確信する。


 けれども、夏実の顔をみると笑顔を浮かべている。この局面を心底楽しんでいるように。





 秒読みに入るところまで一緒だ。あの時の一局を、おじいちゃんと一緒に打ち直しているような、そんな感覚にとらわれる。


 これもまたやり直しの一種、辛かったはずの記憶が最上のものへと書き換えられていく、記憶の変質が起きる。


 自分のこれまでの人生にも、おじいちゃんとの思い出にも新たな意味が生じる。


 秒読みに追われて、考える時間は全然なかった。けれども、自然と手が動く。その石の軌跡は、おじいちゃんの囲碁そのものだった。


 ずっと傍にいる、その意味を理解する。


 記憶に導かれるようにして手が動く。その手筋が間違っているとはみじんも思わない。周囲が呆れるほどに一緒に囲碁を打ち続けた。頭でなく身体が覚えている。


 迷わずに終局までたどり着く。


「終わりですね」夏実が告げる。

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