二 天女、地にあり

でかい満月が、それはそれは勢いよく消えた。


と思うと、刀を抜く暇もなく、何かが紘一郎に降りかかってきた。


突然の重みに耐えきれず何かもろとも崩れ落ちた。

背中に鈍い痛みが広がる。衝撃で目を閉じる。

痛みが麻痺してきた頃にやっと目を開けた。








「天女―」







目を開いた瞬間、飛び込んできた光景に、思わず浮かんだ二文字が口から滑り出た。

奥から怒号が聞こえてきて、紘一郎は覚めた。

「まずい」

天女の口から声が漏れた。そして紘一郎からぱ、と退いて、彼の煤茶けた胸倉を引っ掴んだ。

「何を―」

「いいから」

訳も分からず立ち上がって、すると今度は腕を引っ張ってきたから、その天女に従って走った。



―天女…では、ないな










何か名前も知らない川が流れている。

―江戸にもこんなに粗末な橋があるんだな

橋の陰に隠れながら雑なことを考える。

そばではさっきまで天女だった女が足を伸ばして天を仰いでいる。見えるのは橋の裏側だけである。並んで座って一緒に見てみる。

「橋のケツがそんなに面白いか」

「あたしにそんなご趣味はござんせんよ。息が切れると、こう、上を見ちゃうでしょう?」

「よく分からん」

でしょう、と言われても、そもそも息が上がっていない。

「ああ、すごいなあ、こんなに走ったのに呼吸ひとつ乱れないなんて。随分と汚い恰好ですけど、分かりますよ。旦那、お武家様でござんしょう?」

「如何にもそうだ、と言いたいが、今は故あって浪々の身。武士だったのは5日程前の話だ。」

「まあ、面白そうな話。あたしに聞かせてくださいよ」

「嫌だ。大体見ず知らずの他人を巻き添えに走らせておいて、何の用があるってんだ。まさか俺の身の上を暴くためではあるまい」

「ああ、ああそうだ。そうだそうだ、あたしったらすっかり忘れてた。そうだよ、あたしは旦那に謝んなきゃと思ってたんですよ」

女は紘一郎の方を向いて、にこりと微笑んだ。

「それだけか?」

「それだけですよ」

―それだけのために走らされたのか…

「謝んなきゃって思ったのに、すぐ店のひとに見つかっちゃったから暇がなかったのでね、とっさに一緒に逃げてもらったんですよ」

「追われているのか」

「ええ、今さっきからですけど。旦那とおんなし」

「何故俺が追われていると思うんだ」

「そりゃあ分かりますよ。体中泥だらけで、草履もぼうぼう、足は生傷だらけ。いっくら路銀のない旅人だって、水浴びくらいして来ますよ。余程険しいところを休まず走って来たんでしょう」

「…用は済んだか。じゃあな」

否定はできないが、酷い言われように流石に怒りを感じて紘一郎は立ち上がった。

女は慌てて紘一郎の腕に縋りついた。

「待ってくださいよ。ここからどこか行く当てでもあるんですか」

「…ないが」

「じゃあ、もう少しここにいてくださいよ。あたしが店のひとに追っつかれるまででいいですから。どうせ急ぐ用もないのでしょう?」

「…あんたの言いようは、いちいち癇に障るな」

女は穏やかに微笑んだまま首を傾げる。その動作も癪である。

―何故天女だと思った…

さっき感じた神々しさなどきれいさっぱりどこかへ行ってしまっていた。

天の羽衣はただの着崩れた綿の着物で、纏う輝きは月に照らされたおろし髪だ。

「女郎か?」

「そんな御大層なもんじゃありんせん。ただの飯盛女ですよ」

「生憎俺は田舎者だから違いがよく分からんが、結局やるこた一緒だろう。こんなとこにいちゃまずいんじゃないのか」

「ええ、まずいです。だから逃げてるんでしょう」

「埒が明かない。何故逃げる?」

「さあ。昔っからの癖みたいなもんで。時々こうしてふ、と逃げてみたくなるんです。もちろん、お勤めは果たしてからですよ」

「ああ、」

だからか、と言いかけて抑えた。道理で無闇矢鱈に艶っぽいと、実際思っているのだが、そう思っているように思われるのが嫌だった。そして我知らずお勤め、という言葉に動揺していることを死んでも悟られたくなかった。

「どうしたんです、旦那。顔赤くなすって」

「な、何を言う、赤くなど、」

「おや図星。こんなとこで顔色なんざ見えやしませんよ」

「は、あ、あんた…カマかけやがったな⁈」

「ねえ旦那。旦那はもしかすると、女を抱いたことが一度もないんでしょう」

「…だったらなんだ」

「どうして」

「どうしても何も、剣の道に女など不要だ」

「旦那、旦那は知らないから、そう、お堅く考えるんだろうけれど、むつかしいことじゃあござんせんのよ」

女が紘一郎に近づいて手を伸ばす。雨の筋のような女の指の感触が、紘一郎の頬を伝う。

「勝手に触れるな」

「旦那はあたしのこと、あんたあんたとしか呼ばないけれど、あたしにだってちゃあんと呼び名があるんですよ。でないと旦那方の座敷に呼んでもらえないじゃあないですか」

「…離れろ。叩っ斬るぞ」

「斬ったらいいじゃありんせんか」

右頬から顎に伝う冷やっこい感触が、つ、と止まった。く、と顎を上げられて紘一郎は女と目を合わせた。

「ほうら、よそ見してたら、斬り損ねますよ」

紘一郎は目を合わせたくなくて、女の手の方を見た。

ただそちらに目を向けると、着崩れた着物が目に入って、結局女の顔を見るしかないのである。

目が合う。今度は女の目に、殺気のような威圧のような、まるで試合にでも相対している錯覚に陥る、そんな気迫がこもっている。どうしても、目を背けることができなかった。

「あたしは浜音はまね。店で浜音と呼べば、いつだって旦那の元へ参ります」

浜音は、にっこりと笑った。

「そんくらい、簡単なことですよ、女を抱くっていうのは」

紘一郎は、ただただ呆気にとられていた。


微かに、遠くで人の声がした。




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未だ霞にあり 康平 @katakura

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