一 只今逃亡中につき

美里紘一郎みさとこういちろうは藩随一の剣の使い手である。

だがもうそれは、5日前までのことだ。いいや、今だって剣を取らせれば藩内には紘一郎に敵うものはいない。

しかし、紘一郎自身が藩にいないのだからしょうもない。

そしてもう、一生帰ることはないのだ。




真剣勝負に勝った。

だから相手は死んだのだ。



それだけのことなのに、何故自分が追われる身になったのか。

正式な試合ではなかったからか?

審判を置かなかったからか?

相手の方が身分が高かったからか?

勝負を挑まれた時点で嵌められていたのか?


いずれにせよ、勝って裁きを受けるなど到底納得がいかなかった。

山間の小藩であるから、流石に江戸までは人相書きが回らないだろうと考え、脱藩してきたのである。



提灯の橙がぽつりぽつりと見えてきた。人通りも多く、威勢のいい客引きの声がする。

―ここが江戸か

藩にいた時にはおおよそ考えられない賑わいに目が眩む。

ただ心なしか自分だけこの華々しい空間から離れている気がする。実際、客引き達は紘一郎を見るなりへらへらとしたお愛想顔を引っ込ませ、頬を引きつってそのまま離れていく。

―まあ、この格好なりじゃあな

紘一郎は苦笑するしかない。小藩の長屋住まいではあったが、身形だけは常にしゃんとしていろとの父の教えがあったから、日常的にこぎれいにはしていて気にしたことはなかったのだが、逃亡中の身であればなかなか難しく、着物はここ5日間ずっと同じものを着たまんまでいるし、山中を駆けていたために顔からつま先まで土で茶色っぽく、もちろん湯浴みなどしていないから想像したくはないが臭いも相当なものだろう。華やかな宿場に相応しくないことこの上ない。

眩しさを避けるように俯いて歩を速めた。

―棒鼻まで行けば木賃宿でもあるだろう

紘一郎の思う通り、段々と人が減っていく。灯りも少なくなっていく。

風が葉を揺らす音が耳に入るようになった頃には、紘一郎もふぅ、と息をいて顔を上げた。

左右には先程までのとは劣る、簡素な造りが並んでいる。

―まずは風呂だ。いや待て、風呂などあるのか…?腹も減った。しかしこの手持ちでは米も買えぬのでは…



上から、がた、と音がした。



反射で柄を手掛け、天を見上げる。


ふと、今宵は満月か、と、紘一郎は思った。




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