Ep.13 アドルフ・ヒトラー

 1944年。自らの所属を明らかにし、『ソビエト赤軍、国際共産主義万歳』の言葉を残し処刑されたリヒャルド・ゾルゲ。彼の境遇とは反対にソ連軍はナチスドイツへの侵攻を優位にすすめる。そして1945年、ついにヒトラーのいるベルリンへ迫り、王手をかける事となる。

 ヴォルフは、戦時下の混乱の中、再びゲーリングと連絡を取り、何度もヒトラーの元へと近づこうと試みていた。しかし、戦時中の厳しい警護の中、近づく事は困難を極めていた。だが、ベルリン市内にもソ連軍の砲撃の音が響き渡る中、チャンスは訪れた。

 もともとヒステリーのきらいがあったゲリが入るヒトラーは、その言動にまでも混乱が見られ、指揮系統は散々たるもの。自身の腹心にまでも疑いの目を向ける始末。あくまでもナチ党の為に尽くしていたゲーリングにもその手は伸び、4月23日、反逆者として親衛隊に身柄を拘束される事となる。

 そして運命の4月29日。親衛隊の最高責任者、ハインリヒ・ヒムラーが独断で英米に対し降伏を申し出ると、その混乱は極まった。


 4月30日、ベルリン、総統地下壕、ヒトラーの自室。部屋にはヒトラーとエヴァ、そして愛犬のブロンディのみである。エヴァが二人を挟むテーブルにグラスを置き、静かにワインを注ぐ。


「アドルフ……もういいじゃない」

「うるさい!吾輩は世界の王、ヒトラーであるぞ。それがこんな所で……」

「もう十分よ。あなたのしたい事は十分したじゃない」

「だまれ!」

「ゲリ!もう終わりにしましょう」

『パシン』


 ヒトラーはエヴァの頬を叩く。エヴァに寄り添うようにブロンディが歩み寄る。


「吾輩は……ヒトラー……世界の王なのだ」

「あなたが何に苦しんでいるのかは十分わかっているわ。アドルフからの異常な愛。それにより生まれたヒトラーの恋人という立場。回りが見ていたのはあなたではなく、あなたの境遇。誰もあなた自身の事を考えてくれる人はいなかった。あなたは、あなたを苦しめる全てのものが許せなかった」

「……」

「そして、ヒトラーになった。でも、そこで待っていたのはあなたを見る目ではなく、ヒトラーという権力に群がる人々。変わらず、あなた自身を見てくれる人はいなかった」

「エヴァ……」

「でもね、私は見ていたわ。あなたはかわいそうな人。ゲリ。あなたにヒトラーという肩書は重すぎたわ。もうその重荷はおろしましょう」

「……うるさい」

「もう、無理はしなくていいのよ」

「うるさい……吾輩は……こんな所で死ぬ為に産まれてきたわけではないのだ」

「ゲリ……」


 沈黙……。その沈黙をやぶるように、ドアが開き、室内に風が流れる。


「ゲリ。久しいな」


 現れたのはヴォルフとビックス。親衛隊の制服を着ている。


「ヴォルフ……」


 キッと睨みつけるゲリ。ヴォルフはゆっくりと距離を詰める。


「何をしに来た」

「終止符を打ちに……」


 ヴォルフが静かにピストルを構える。


「お前の腹心たちはみな、寝返るか捕まったかしたよ」

「うるさい……」


 ゲリは、席を立ち、壁際へとじりじりと後退する。


「もう、どのみち君は助からない。これ以上醜態をさらすべきではない」

「だまれ……」


 ゲリは、壁際の棚へと背中をぶつける。拍子に総統就任の際に撮った、ヒトラーとエヴァの2ショット写真が倒れる。


「潔く、死んでくれないか」

「だまれ、だまれ」

「終わりにしよう、ゲリ」

「死なない……私は死なない! 死ぬものか!!」

「どのみち、ヒトラーは助からない!」

「私は死なない!」


 言うと、ゲリは棚に隠していたピストル(ワルサーPPK)を取り出し、ヴォルフを打ち抜く。弾丸は胸にあたり、崩れ落ちるヴォルフ。


「アドルフ!」

「ヴォルフ様!」


 エヴァが叫び、ビックスが駆け寄る。ヴォルフは、すでに息をしていない。


「はは……死ぬのなら、お前がしねばいい、ヒトラー。私は、私は死なない」


 ゲリは、棚に倒れたエヴァとの2ショット写真を手に取る。荒々しく額縁を外すと、写真を取り出し、4枚に引き裂く。


「私は死なない!死ぬのはヒトラー!お前だ!」


 突如、ヒトラーを光が包む。光は拡散し、部屋の中に充満する。


「こ、これは……」


 ビックスの驚嘆の声だけが響く。そして、光が収束し、消え失せる。


「うっ……」

「ヴォルフ様」


 ビックスの腕の中でヴォルフが息を吹き返す。ヒトラーは床へ倒れこみ、エヴァもまたソファにうなだれている。


「くく……くふふ……」


 エヴァが目を覚まし、声を発する。


「ふふふ……あはははは」

「ぐっ……」


 ヒトラーも目を覚まし、よろよろと立ちあがる。


「うまくいったわ。ねぇ、ヒトラー。いや、エヴァかな?」


 エヴァは目の前のワイングラスを手に取り、一気に飲み干す。


「ああ……おいしい。生きる喜びが身体中に染み渡るわ」


 ヒトラーは立ち上がるも、額に手をやり、頭を振る。


「ゲリ……か」

「ええ。ゲリよ! ふふ……私は生きるのよ」

「エヴァの身体を……返せ」

「あなた、エヴァじゃないの?」

「……ああ。そのようだ」

「アドルフ!……誰でもいいわ。どうせもうすぐあなたは死ぬのだから」


 ヒトラーは、壁に手を付きながらようやく目を見開く。そして、足元に転がるピストルを拾い上げる。


「そうね、そのピストルで自決するといいわ。英雄らしく潔くね。ふふ……私を撃つ事はできないでしょ?だって、この身体はあなたが愛するエヴァのものなのだもの」

「エヴァ……」

「ああ、今ならわかるわ。あなたの目的はエヴァを助け出す事だったのでしょう。ヒトラーが……私がどうなろうと関係ない。そんなものよね。私に関心をもつ人なんてこの世に一人もいないのよ」

「ゲリ……それは違う」

「なにが違うのよ」

「私はもう、誰にも傷ついてほしくなかったのだよ。ゲリ、君にもね」

「なにを。そんな事、言うだけなら誰にでもできるわ。証拠は?」

「……ビックス」


 ヒトラーに声をかけられたビックスは、ヴォルフの左手から4枚に引き裂かれた写真を取り出す。写真には、ヒトラーの肖像。


「君と一夜を共にした画家のオスカル君に会ったよ」

「オスカル……あの男に?」

「儀式の方法を聞いた」

「儀式……」

「できることなら、君と変わってあげたいと思っていた。元々は私が撒いた種だ。終わらせるのも私の仕事であろう」

「アドルフ……おじさま……」

「結果的に、うまくいったようだ。ゲリ、君はヒトラーではなくなった。ビックス、その身体に入っているのはおそらくエヴァだろう。生きているか?」

「はい、ヴォルフ様。息はしております」

「よかった……」

「ふ……ふざけないで」


 ゲリが激高する。


「これもあなたの思い通りだとでも言いたいの?私の意思ではなくて?」

「ゲリ、違う。違うぞ」

「いつもそうよ。あなたは何でも思い通りになると思っているの」

「違う! 私は君に不幸になってほしくないんだ」

「ふざけないで……ぐっ……うぐっ」

「ゲリ?……どうしたゲリ?」


 ゲリが胸を押さえ、倒れこむ。


『カシャン』


 拍子にヒトラーの席に置かれていたワイングラスが倒れ、赤い液体が床に広がる。


「クゥーン…」


 その液体を愛犬のブロンディが舐める。途端にブロンディは呻きだし、泡を吹いて息絶える。


「まさか……毒? ゲリ、大丈夫か」

「う……ぐぅ……ふふふ……」


 ヒトラーがエヴァの身体の中へ入り込んだゲリへ駆け寄る。


「ゲリ……」

「ふふふ……あなたの思い通りにはいかなかったようね……」

「ゲリ、何を言う」

「……いい気味だわ。私は、あなたの思い通りには……なら……ない」

「ゲリ!ゲリ!!」


 ヒトラーの腕の中でゲリの全身から力が抜ける。


「ゲリ……」


『ドゴーン』


 室内に、砲弾の音が響く。どうやら、ソ連軍がベルリン市街への攻撃を再開したようである。


「ビックス。時はあまりないようだ。エヴァ……いや、ヴォルフ君を担いで脱出できるかな?」

「はい。命に代えて」

「はは。君はわかっていない。命に代える意味があるものなど、この世の中には存在しないのだよ。ただひとつ。私の命以外にはね」

「ヴォルフ様……」

「私は、私の目的を達成する。エヴァの救出と、ヒトラーの抹殺」

「は……」


 ヒトラーは、エヴァの身体をソファに整えると、自身も向かいのソファに座り、ピストルの弾丸を確認する。


「ビックス、最後に私の想いを聞いてくれるかな?」

「はっ」

「私の愚かな行為から、後世の人々が何か学び取り、役立ててくれる事を私は祈る」

「……」

「君の回りの人にだけでいい。この事を伝え続けてくれ」

「はっ。確かに」

「ありがとう」


 ヒトラーは、ゆっくりとピストルの安全装置を外し、こめかみに銃口を向ける。


「全ての民族、全ての人々に栄光があらんことを……」


『…………パンッ』

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