Ep.12 日本

 横浜。幕末のペリー来航より貿易の拠点として栄え、外国人居住区も発展してきた生粋の港町。日独伊の三国同盟が成立し、太平洋戦争に突入しようとう日本において、この港町も異様な熱気を帯びていた。その横浜を拠点にゾルゲとのコンタクトを図っていたヴォルフ。来日から一年を費やした1940年9月。ついにゾルゲとの面会の機会を得る。

 日本人夫婦が営むアイリッシュバー。バーと名乗りながらもアジのタタキをウリにている。その一番奥のテーブルでドイツ語で会話を交わす二人。ヴォルフとゾルゲである。


「まさか、本当に実践していたとはね」

「君が焚き付けたのだろう?」

「はは。正直に言おう。私はソ連の共産党員だ。かつてのあなたは私の敵でしたからね。スパイに入ったゲリのベッドでまさかあなたの陰口を聞くとは。思わずアドバイスをしたまでですよ」


 カウンターではウイスキーグラスを傾けながら、ビックスが周囲に注意を払っている。


「しかし……命を落とすようなアドバイスとは」

「やや、怒らないでください。まさか本気にするとは思わないでしょ?あんなオカルトじみた話」

「だが、おかげ様でこの有様だ」

「本当に……信じられませんな。いや、あなたがおっしゃったかつてのドイツの情報は確かに私が握っていたものと一致する。しかもドイツの権力者しか知りえない情報だ。信じましょう。どうやら原因は私のようだしね。ははは」

「笑えませんな」

「これは失敬。そうですな」


 ゾルゲはウィスキーグラスを手に取り、口をつける素振りをする。が、実際に飲みはしない。


「で、もとに戻る方法は?」

「申し訳ない。私もそれは知らない。言ったでしょ?このようなオカルト、私も信じてなどいなかったのです」

「では、その方法は誰に教わったので?」

「誰にも。日本の書物を読んで得た知識をなんとなく思い出しながら話した、でまかせです」

「……」

「いや、すみません。スパイというものは口からのでまかせが重要な武器でしてな。しかし、あなた……いや、当時のヒトラーに死んでもらいたかったのは本当だが、今のヒトラーはさらにひどいな」

「私が以降もヒトラーであったらこうはなっていなかった」

「でしょうな……と言いたいところだが、どうかな。あなたは追われる身になり、また、市井しせいに身を置くようになって変わられたようだ。今のあなたであれば良かっただろうが、ね」

「ふん……どちらにせよ、このような状況は許さない」

「許さない……か」


 ゾルゲは手にしたウィスキーグラスを眺める。


「ヴォルフさん。経緯いきさつはともあれ、目的は似ているようだ。あなたがヒトラーで無くなってしまった事へのお詫びも兼ねて、また、解決の糸口を授けられない代わりに情報を一つお教えしましょう」


 グラスの中の氷をカランと一つ音を鳴らしてからウィスキーを一気に飲みほし、言葉を続ける。


「日本はソ連への侵攻はしない。つまり、ソ連は対日本の戦力を温存する必要はなくなったわけだ」

「……その情報はすでに?」

「もちろん。私は一流のスパイだ」


 対日本の戦力が浮く。つまり、ソ連はドイツに向けての攻略に力を注ぐ、という事である。


「口の軽さも一流のようだ」

「はは。流石かつて演説の達人・ヒトラーと呼ばれた男。厳しいお言葉ですな」

「ふん……」

「確かに私は軽快なトークとでまかせを武器にここまでやってきた。しかしそれは情報戦そのもの。私は、私にとって有利になる相手にしか情報は流さない」


 ゾルゲはテーブルに置かれたウィスキーボトルを手に取り、ヴォルフのグラスへ注ぐ素振りを見せる。


「……」


 ヴォルフは、グラスに注がれていたシングルモルトを一気に飲み干し、ゾルゲの酌を受ける。


「なるほど、一流のようだ」


 ゾルゲは、注ぎ終えるとボトルをテーブルに置き、ヴォルフに笑みを向けると、一拍おいて席を立つ。


「ここの勘定は私がもつよ。餞別だ」


 言いながら、ポケットから紙幣を数枚とり、カウンターに座っていたビックスの前へと置き、店を去った。

 ゾルゲが、スパイ容疑で特高(警視庁特高一課)の手によって逮捕されるのはこの直後10月18日の事である。


『カランカラン』


 ゾルゲと入れ違いで店内へと入ってくる日本人二人組。すでに酔っているようである。


「お、外人さんかい」


 奥の席に座るヴォルフに向かい声をかける日本人。


「外人さんは、ドイツかい?イタリアかい?それともメリケンさんかな?」


キッと日本人客を睨み、右手を懐に入れるビックス。しかし、ヴォルフが手で制す。


「おい、やめとけよとっつぁん」


 日本人の連れがたしなめる。


「大丈夫デス。ワタシ、ドイツ人」

「お、ドイツの将校さんかい」

「イイエ、兵隊ではアリマセン。友人に会いにキマシタ」


 ほっとする、日本人の連れ。そんな彼の気持ちを知ってかしらずか、とっつぁんと呼ばれた年配は、ヴォルフのテーブルへと腰を下ろす。


「そうかい。お友達はやっぱりドイツかい?」

「イイエ、ロシアの友人です」


 日本人の連れがロシアという単語に頬を強張らせる。


「ロシアか。こりゃいいや」

「おい、とっつぁん。やめようぜ、特高がいたらどうするんだ」

「うるせぇや。友達にドイツもロシアも、メリケンも日本人ねぇやい。友達はともだちだ。なぁ、外人さん」


 ヴォルフは年配の日本人に微笑みを返す。


「外人さんが兵隊じゃないっていうから言うけどな、俺は戦争をする意味がいまいちわからねえんだ」


 年配が、手元にあったゾルゲのグラスにウィスキーを注ぎ、口をつける。


「かぁー、うめぇ。こんなうめぇ酒、日本人にゃつくれねぇ。いいじゃねぇか、今までだってうまくやってきてたんだ。外人さんの酒を飲ませてもらって、外人さんにも日本のうまい飯を食ってもらう。おい、親父! 外人さんに自慢のアジのタタキを馳走してやれや」

「へぇい」


 店主が低い声で返し、店内の装飾かと見えた水槽からアジを一尾捕まえる。


「なぁ、外人さん。俺はこの街で育った。この街にはいろんな国の人がいる。そしてこの店が大好きだ。ここにもいろんな国の人がくる。みんな気のいいやつだ。身体ばかりじゃなく声もでっけぇドイツ人。女を見つけてはひっかけようとばかりするイタリア人。図体はでけぇくせに気持ちのちっちゃいメリケンさん。外人さんは、ぽおかぁってなげぇむを知ってるかい?俺ぁ、このメリケンさんには負けた事がねぇんだぜ」


 年配は、グビグビとグラスを開けると、また注ぐ。連れ合いも諦めた様子で席につき、ビールを注文する。


「でな、俺は外国語なんてまったくできねぇ。外人さんがたが一生懸命話しなさる片言の日本語を聞くのよ。これがまた面白れぇ。みんな目が輝くのは、お国自慢をするときだな。みんないい所ばっか主張するんだよ。景色が綺麗だの、女が美人だのなんだのってな。女といやぁな、外人さん。俺の女房はフィリピン人なんだよ。いいケツしてるんだぜ、これが」

「おい、とっつぁん」

「うるせい。外人さん、聞いてくれよ。そのフィリピンをお上(日本)は今、攻めてやがる。俺の女房がなにかしたってのかよ。国同士の喧嘩に俺達を巻き込むなと言いたいね、俺は」

「とっつぁん、飲みすぎだ。帰るぞ」

「うるせぇやい。俺はまだのみたりねえ」


 騒ぎ立てる年配をなだめながら若いほうが連れ出し、店を出る。残されたヴォルフの元へアジのタタキが箸とともにフォークを添えて提供される。


「……」


 不器用に箸を握り、アジを口に運ぶヴォルフ。


「おい、ビックス。うまいぞ。こっちへこないか。私の友人たちからのおごりだ」


 静かにカウンターを立ち、テーブルへと腰を下ろすビックス。

 かつてアーリア人としてドイツを導こうとしていたヒトラーと呼ばれたその男は、胸中に何を思うのであろうか……。

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