Ep.6 エヴァ・ブラウン

 1932年10月31日。バイエルン、ヒトラーの別荘、ベルクホーフ。

夜陰に紛れ、ヴォルフの身体は検問所の屋根の上を密かに舞った。ヴォルフの肉体がナチスのスパイのものであった事は間違いないようで、ヴォルフ自身、回復後のその身体能力の高さに驚いている。彼がかつて、アドルフ・ヒトラーであった頃、自身もまたスパイとして活動し、また突撃隊を率いていた事もあったが故に、体の動かし方は知っていた。しかし、それを差し置いてもヴォルフの身体は優秀であった。怪我の後、リハビリを始めて半年でその能力のほぼ全てを回復できるまでの先天的な肉体を有していたのだ。


((エヴァ……無事でいてくれ))


 心の中のつぶやきは、誰に聞こえるでもなく彼の姿と共に闇の中を勝手しったるかつての自身の屋敷の方角へと消えていった。


 一方。屋敷内の一室。


「エヴァ、また食事をとっていないのか」

「アドルフ。お願い、ここから出して!」

「そうはいかない。お前には私の野望と、復讐の行く末を特等席で見てもらわなければならない」

「復讐って……なに?私が一体なにをしたの?」

「私からオジサマを奪った」

「オジサマ?」

「なんでもない」

「アドルフ……あなた、変わってしまったわ」

「変えさせたのはお前だよ、エヴァ・ブラウン」

「私が……?」

「まあいい。お前には、精々着飾って、私……いや、吾輩の隣でこれから起こる光景を全て逃さず目視してもらわねばならん」

「これから起こる光景?」

「これからユダヤ民族に悲劇が起こる。それらは、すべてお前が引き起こす事なのだ」

「なぜ私が?」

「お前にユダヤの血が流れているからだよ」

「それが……どうして?」

「お前が憎いからさ。ユダヤ人にとって最大の災難は、お前にユダヤの血が流れていた事だな」


 ヒトラーは言い捨てるように最後の言葉を残すと、踵を返して部屋を出る。


「守衛、一歩も出すなよ」

「かしこまりました、ヒューラー」

「どうして……」


 閉められるドアを見つめるエヴァの両目からは、ただひたすらに涙だけが流れる。


「エヴァ……」


 部屋の中にかすかに聞こえる彼女を呼ぶ声。


「エヴァ、聞こえるかい?」

「誰?」

「アドルフ。アドルフ・ヒトラーだ」

「アドルフ?何を……」

「すまない、信じてくれとしか言えないのだが」

「どこ?」

「窓を、あけてくれないか?」


 エヴァは恐る恐る窓へ近づくと、思い切って開け放つ。

 すると、するりと一人の影が入り込んできた。


「やあ、エヴァ。無事だったんだね」

「あなた……アドルフ?」

「そうさ。簡単に信じてもらえるとは思っていない。でも僕はアドルフなんだよ」

「僕?」

「いや、吾輩……か。すっかり僕、に馴れてしまってね」

「何を言っているの?私、あなたなんて知らないわよ」


 後退りするエヴァ。詰め寄るヴォルフ。


「聞いてくれ。今はヴォルフという名を名乗っている」

「ヴォルフ、そんな名前も知らないわ」

「違うんだ、そうじゃない……」


 焦り、さらに詰め寄るヴォルフ。


「いや……」


 エヴァがヴォルフを突き放す。


「エヴァ、聞いてくれ!」

「いやよ。もう誰のいう事も聞きたくない」


 エヴァがヴォルフに向け、ピストルを構える。ヴォルフが潜入の為に所持していたものだ。突き放す際に抜き取ったのである。


「エヴァ、やめてくれ。どうしたんだ、いったい。アドルフ・ヒトラーはどうしている?」

「やめて!その名前は聞きたくないわ」

「聞きたくないだって?なぜだ?」

「あの人は変わってしまったわ。ゲリ。そう、ゲリ・ラウバルとかいう女性が亡くなってから。それまではあんなに優しかったのに……」

「ゲリ……」

「知っているの?」

「いや……」

「そう。あれからよ。なぜか急に私を恨むようになり、ユダヤの血を引く忌まわしい女と罵倒するようになったわ」

「まさかとは思っていたが……他にその頃から変わったことは?」

「食事でお肉を食べなくなったわ。あんなに好きだったラム肉さえも」

「やはり……」


 ヴォルフはここで一つの事に確信を持つ。自身がヴォルフの身体へ移ったように、ヒトラーの身体に移ったのはゲリ・ブラウン。


「あなたに話しても仕方のない事ね……」


 言うと、エヴァはヴォルフに向けていた銃口を自身の胸へと向け、引き金に指をかける。


「エヴァ、やめたまへ」

「え?」

『パンッ』


 胸から血をにじませ、膝をつくエヴァ。駆け寄るヴォルフ。

 銃声がこだまする直前、エヴァの胸に響いた声。その言葉は確かにかつてのアドルフ・ヒトラーのそれであった。


「エヴァ……どうして……」

「あなた……アド……ルフ……なの?」

「ああ、そうだ」


「「何事だ??今の音は?銃声のようにも聞えたが?」」


 部屋の外に声が近寄る。


「アド……ルフ……なのね」

「ああ」


 ヴォルフはエヴァの胸に手を当て、心音を確かめる。


「エヴァ。おそらく弾丸は急所を外れている。生きろ。生きてくれ。必ず私が助けに来る」

「アドルフ……」

「今はヴォルフと名乗っている。必ず助けに来る。だから死なないと約束してくれ」

「ヴォルフ……わかったわ……」

「きっと、きっとだぞ、エヴァ」

「ええ……」


「「おい、鍵を開けろ」」


「エヴァ、すまない、今日は退散する。生きてくれよ……」


 ヴォルフは意識を失いかけるエヴァをそっと床に横たわらせると、窓まで駆け寄り、勢いのまま窓の外へと飛び出す。


「「ブラウンさん!大変だ、ブラウンさんがピストルで!!」」


 部屋へ駆け込んだ使用人たちの騒ぎを背に、ヴォルフは両手両足を広げてマントを貼り、風と空気抵抗を巧みに利用しながら、堀の水面へと静かに降り立った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る