Ep.5 エスティー

 1年後、ベルリン郊外――。

 ベッドに半身を起こし、窓の外を眺める青年。

 そこへ、麗しきユダヤ人女性がスープを運ぶ。


「ヴォルフ、大丈夫?」

「ああ、だいぶよくなったよ」


 ヴォルフ。かつてアドルフ・ヒトラーと名乗るその肉体を離れた魂は、この若き肉体へと宿っていた。


「世話になったな、エスティー」

「世話になったて、どこかへ行くつもり?」

「ああ。バイエルンに行ってみようと思う」

「バイエルン? あなたの生まれたところ?」

「そんな所さ」


 今やヴォルフとなったその青年の肉体の元の所持者の情報は一切わからない。その姓名はもとより、生まれ故郷や年齢さえも。わかっている事といえば、ヴォルフとなって目を覚ます直前、ナチスのスパイとして共産党の兵隊、赤色戦線戦士同盟の手により射撃され、命を落としかけていた……いや、手当をしたユダヤ人医師の話によると、確実に一度は命を落としたのだそうである。


「エヴァ……」

「誰か、大切な人がいるのね?」

「エスティー、君には感謝している。だが、私には確かめなければならない事があるのだ」


 ヴォルフは、エスティーが自分に寄せる好意を感じていた。そしてまた、嬉しくも思っていた。しかし、かつて、ヒトラーとしてユダヤを否定した自身が、その好意を受け入れるわけにはいかなかった。さらには、わずかだがユダヤの血を引く女性、エヴァ・ブラウン。彼女が今、どうしているのかが気がかりで仕方がなかった。そして、未だ政治活動を続けているアドルフ・ヒトラーの正体も……。


「ヴォルフ。気を付けてね。貴方はナチスのスパイ。私がいつまでも一緒にいられるとは思っていないわ。そして、貴方の事を知ろうなんて身勝手も決してしない。だけど、貴方の無事だけは祈らせて」

「ありがとう、エスティー」


 エスティー。彼女が祈るのは当然のごとく、ユダヤ教の神。しかし、ヴォルフはそんな事は気にもしなかった。かつて、彼が抱いていた野望、アーリア人主導の元、ドイツを救うというその望み。この為に反ユダヤ主義を利用していた。いや、実際にユダヤ人の賢さしたたかさを妬み、己の劣等感をも恨みへと変換していた。そしてもちろん、利用するからには徹底的に利用する心づもりであった。しかし、この時ばかりは、1年もの間、誠心誠意自身に尽くしてくれた一人の女性に対し、その考えが頭の片隅にさえもよぎる事はなく、心から感謝の意を表していた。

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