5 涙は川に落ちていく


 見慣れぬ天井に違和感を覚えながら、唸りながら寝返りを打つと、小さな火が目に映った。竈の粗朶が燃えているのだと理解した瞬間、渡は朝顔の家にいることを思い出して、布団から勢い良く跳ね起きた。

「おはよー!」

「お、おはようございます……」

 元気に手を挙げたムスビちゃんに挨拶をして、部屋を見回した。

 板の間には、誰も人がいなかった。よく見ると、竈の火も既に消えてる。見間違いだったのか、もしくはムスビちゃんが灰を被せたのだろう。ムスビちゃんは土間で水瓶から柄杓で水を掬っているところだった。複数のマグカップに水を入れたムスビちゃんは一つを渡に、もう一つを暖簾を越えて奥の間に運んでいった。

 受け取ったマグカップに口をつけて冷たい水を飲み込む。水は、暑さに喘いでいた喉を潤していった。

 焦る気持ちはあったけれど、布団の傍には画材も置いてあったから、すぐにどうこうしようという気はおきなかった。頭を下げるための相手もいないし、酔いはいい具合に収まっているしで、渡はとりあえず、布団をたたみ始めたのだった。

 布団をたたんで脇に寄せ終わった頃合いに、ムスビちゃんが戻ってきた。飛びついてこようとするムスビちゃんから逃れるように、画材を持って後退すると、ムスビちゃんはむっと頬を膨らませた。

「渡おにーちゃん。朝ご飯食べてって!」

 そろそろと後退っていく渡に向かって、ムスビちゃんは毅然として言い張った。色々と後ろめたい渡は、気持ちだけ受け取っておきますと逃げ腰だった。踵が潰れてしまうのも気にせず、靴を引っかけて戸口から出ようとする。

「何してるの」

 耳元で聞こえた怪訝そうな声に、渡はもんどりをうちそうになるほど驚いた。何とか戸に掴まった渡をしげしげと見つめた朝顔は、軽く肩を竦めた。

 渡の脇を通り抜けて、水瓶から汲んだ水を柄杓から飲んでいる。手の甲で口元を拭い終わっても、渡は立ち尽くしたままだった。

「そんなところで突っ立ってないで、座って。朝飯まだでしょう」

 板の間に上がり、朝顔は左手に持っていた籠から依り代を取り出して、部屋の片隅に置いてあった丹色の風呂敷の上に乗せた。

 その依り代の形から、同室の指物屋の物だとすぐに渡は気がついた。帰ってこない渡を指物屋はどう思っただろう? 仕事に没頭していれば別だが、こうして彼の依り代が出回っているということはもう終わったということだ。顔を上げて自分がいないことに首を傾げる様子を想像すると、少し申し訳ない。

 そういえば、その下に敷かれた丹色の風呂敷は昨日からあったのだろうか? 早くに気を失ってしまった渡はどうも思い出すことができなかった。

「酔いは?」

 買ってきたらしいロティを籠から出してムスビちゃんに与えつつ、朝顔は端的に尋ねてくる。

「大丈夫です。あの……昨晩はお手数お掛けしました」

「……面白かったから、いい」

 いたずらっ子みたいな含み笑いをした朝顔は年相応に無邪気だった。あの簪を捨ててからの朝顔は、どこか吹っ切れた様子がある。やっぱり、あの篝火で燃やしてしまうと悲痛な思いも消え去ってしまうのだろうか。そう思うと、胸の底がちりちりと焼けつくような心地がした。

「おばさーん。朝飯買ってきましたっ」

 そう告げると、暖簾の奧から見たことのない人が顔を出した。多分、昨日針仕事をしていた人だろうと、皺の入った手に目を落としながら渡は見当をつけた。

「友よ数多の精霊と亡き祖霊を思いて」

 腰を下ろした三人ともが手を握り合わせて唱和する。渡は続けて小さくリキータ様に祈ってから、手渡されたロティにかぶりついた。

 宿の女将さんが作っているのよりも、香辛料が利いていて、油断していた舌を刺激したが、これはこれで美味しかった。

 べちゃくちゃと喋り倒しそうだと想定していたムスビちゃんは意外にもロティに夢中で会話どころではなかった。おばさんは口数の多いほうではないらしく、ムスビちゃんに水を飲むようのんびり勧めていた。優しく気遣うような目元はよく見ると、ムスビちゃんとよく似ている。二人とも柔らかい印象を与える目の形をしていた。

 さり気なく、朝顔に視線を移して観察してみたが、切れ長で細い瞳とすっきりとした鼻立ちから、血の繋がりがないことを悟った。

 どうやらここは、朝顔の家ではないのかもしれない。

 ロティを噛み千切った渡は、赤い風呂敷の上にある依り代をぼんやりと眺めていた。

 全員が食べ終わる頃、渡は先手を打った。

「一夜、面倒を見てくれてどうもありがとうございました。仕事もありますので、失礼させてもらいます」

 画材を抱え直しながら言う渡に対し、ムスビちゃんが真っ先に不満を口にしたが、おばさんはただ頷いただけだった。

 朝顔は、感情の読めぬ目で渡を見上げ、呟くくらいのささやかな声量で告げた。

「今日の夕刻、そこの塔に」

 約束を取りつけるにしては、あまりにも曖昧な物言いだった。渡が戸惑って去れずにいると、口の端で微笑した。

「さっさと絵を描きにいけばいい。それがあいつでなく、あんたなんだから」

 瞳の強さに、唾を飲み込んだ。

 それ以上見つめ返していることができなくて、渡は別れの言葉もそこそこに飛び出した。

 走ってその場から去ろうとして、一度だけあの白い棘を──塔を振り返った。

 雲一つない空を突き刺す頂点は、清く鋭く、ゆるぎなかった。

 再び前を向いた渡は、一直線にあの石を目指して駆けていった。


 渡が再び、その塔の傍に戻ってきたのは夕刻と言うには少し遅いくらいの時間だった。朝顔と初めて会ったくらいの時刻まであと少しといったところだろう。それなのに朝顔はまだ姿を現していなかった。

 代わりに、ムスビちゃんが家の前でしゃがみ込んでいた。

「今ね、送り火を焚いてるんだ」

 焙烙の上に乗せられたおがらを小さな火が舐めていた。

「お兄ちゃんに、バイバイって言ってるの」

 おそらくそのお兄ちゃんが、件の蛍が好きな人だろうということは、渡にも薄々わかっていた。

 一体、どういう人だったのだろうか。

 きっとムスビちゃんは、よく知っているのだろう。

 じっと膝を抱え込んで、火の向こう側を覗き込んでいる。何か話し掛けようかと思ってしゃがみ込んだけれど、適切な話題は思い浮かばなかった。それに、ムスビちゃんの背があまりにも小さく、悲しそうでかけるべき言葉を見失ってしまった。

「渡お兄ちゃんは、お兄ちゃんいる?」

 ムスビちゃんは振り返って、静かに尋ねた。

「二人います。料理人と新聞記者をやってます」

「仲良し?」

「はい。遊んだり喧嘩したり、色々しましたが、仲のいい兄弟だと思いますよ」

「ムスビもね、お兄ちゃんと仲良しだったんだ。お兄ちゃん優しくってね。いっつもムスビが手当てすると楽になるーって言ってくれたの。ムスビはすごいって、褒めてくれたの」

 真っ赤な帯が、風で少しはためいていた。

「この帯もね、お兄ちゃんが買ってくれたんだ。これで可愛くして、祭りで踊ろうって、蛍見に行こうって約束してたの。

 ……でもね、お兄ちゃんいなくなっちゃったの。会えなくなっちゃったんだって。

 『死んでしまった』って言うんでしょ? ねぇ、渡お兄ちゃん。渡お兄ちゃんの師匠も『死んでしまった』んだよね。どうするの? ムスビはね、会いたいよ。ムスビ、お兄ちゃんに会いたいよ……」

 ぽろぽろと涙を零すムスビちゃんに、かけてやれる言葉なんて本当に何もなかった。今度はラムネだってありはしない。代わりに中途半端な慰めを口にすることすら、渡にはできなかった。

 だから渡は、紙と鉛筆を取り出した。

 少しだけ迷ったけれど、覚悟を決めて手を動かす。

 鉛筆の音に気がついたムスビちゃんが、泣きながらこちらを見た。

「どうして、絵を描いてるの?」

「……それしか、できないんです」

 もっと他のことができたら、と正直思う。絵にしてもこんなどうしようもないものじゃなくて、もっと特別なものが作れたらいいのにと思う。いや、本当は絵以外だっていいのだ。料理人になって店を継いでみたかった。新聞記者になって記事を書いてみたかった。でも渡にできたのはこれだけだった。絵を描くということだけだった。大好きな師匠が『死んでしまった』って、絵を描くことしかできないのだ。それも、まだまだ未熟なくだらない絵を。

「何、描いてるの……?」

「ムスビちゃんの笑顔です。多分、お兄さんは笑顔が見たいだろうから。……ここの風習はよくわかりませんけれど、このおがらと一緒に燃やせば、届くんじゃないかと思って」

「お兄ちゃんに……?」

「はい」

 鉛筆を持ち替えて、強弱をつけて、ムスビちゃんの笑った顔を描いていく。本人はそれを、困った顔をして覗き込む。

「ムスビ、こんな風に笑ってた?」

「笑ってました。すっごく、元気そうに」

 朝顔は、ムスビちゃんのお兄さんのことを太陽みたいだと言ったけれど、ムスビちゃんも太陽みたいだ。だからきっとお兄さんも本当に太陽みたいなんだろう。温かくて、優しいのだ。

「お兄ちゃん、ムスビの笑顔、好きかなぁ……」

「好きですよ。……会ったことないですけど、多分。そうだと思います」

 そうして描き上げた絵をムスビちゃんに渡すと、ちょっと面映ゆいような顔をしながら、ちろちろと紙を燃やし始めた。火がいい具合に燃え移ると、紙を手放して、両手を組んだ。

「お兄ちゃんが、お父さんとかたくさんの精霊と一緒に、幸せでありますように……」

 渡も、倣って頭を垂れた。

 純粋な祈りは、きっと天まで届くだろう。

「ありがとう。渡お兄ちゃん」

「どういたしまして」

 絵のように笑ってくれたムスビちゃんの頭を、ぎこちなく撫でた。柔らかい髪の感触が、指にとても心地良かった。

 戸口から出てきた朝顔が、その様子を興味深そうに眺めていた。

 おまたせと言いながらも、謝罪の気持ちは露ほども感じられなかった。それ以上、言葉を続けもせず、勝手に歩き出してしまう。渡はちょっとだけ肩を竦めて、後に続いた。

 家から少し離れて、ムスビちゃんが完全に見えなくなった頃に、渡は口を開いた。

「どうして、僕を誘ったんです?」

「どうしてだと思う?」

 朝顔は振り返ることも、足を緩めることもしない。

「さあ。わかりません。精霊流しの日ですから、川に行くんだろうなとしか」

「その通り」

 裏道を躊躇なく進んでいく朝顔は、以前のように丹色の風呂敷を提げている。

「川に行くの。そして、……あんたに絵を描いてほしい」

「絵を?」

 予想外のことに、渡は真意を確かめようと顔を覗き込んだ。

「昨日の店にあげたような白黒でいい。あんたの絵がほしい。あんたに描いてほしいんだ」

「何を、ですか?」

「蛍を。……あいつがよく、蛍を見ていた場所を」

 遠くから、横笛の音が響いてきていた。はしゃいでいるいくつのもの声が表通りの方向から響いてくる。

 空はゆっくりと、山吹色から杜若色に変わり始めている。

「いいですよ。描きます。……そのかわり、僕の師匠の依り代もそこで流させてください」

「師匠?」

「僕の絵の師匠です。つい先日、亡くなりました」

「そう」

 お悔やみの言葉はなかった。気遣うような視線もなかった。

 それがむしろ、心地良かった。

 懐に手を入れて、指物屋から買い取った依り代を握り締める。

 「あんた用だ」と、塔に戻る前に立ち寄った時、投げ渡されて、酷く驚いた。

 端正に作られた指物は、滑らかでしっくりと手に馴染むものだった。

 驚く渡を、寝台に寝転がっていた指物屋はニヤニヤと楽しそうに見上げていた。

 ありがとうございますと、深く頭を下げるのが、渡にできる精一杯だった。

 この手の中にある依り代に魂を託すなんてこと、はっきり言ってしまえばできるはずないと思う。それでも渡は、これを川に流してみたかった。魂は乗せられなくても、思いくらいなら乗せられそうだったから。

 握り締めた手の平に、汗が滲んだ。

 朝顔は、黙々とあの石がある方角に進んでいるようだった。

 渡は無駄口を叩かず、ただついていく。

 祭りの喧噪に耳を澄まして。

 横笛も謡も、喋り声も笑い声も、高く空に舞い上がっていた。祭りも最終日だから騒ぐのも無理はない。浮き足だってしまうのも仕方ない。渡だって、なんだか胸が高鳴っていた。それは前を歩いている彼女のせいなのか。それとも単なる高揚感なのか。あえて判別をつけないまま、渡は夜へと変わっていく町並みを内側からそっと味わっていた。

 石畳の足元が土に変わり、坂道へと変貌を遂げた頃には、祭りの賑やかさははるか後方に去ってしまった。あの石があった方向からも少しずつ逸れていく。

 眼下の町並みは、篝火と屋根たちだけが赤く染まって煌めいていた。白い塔は変わらず鋭く先端を光らせている。向こうのほうから迫ってくる夜の気配が、濃紺色としてありありと存在していて、宵の口が楽しみになった。

「森の中に、入るから」

 朝顔の声掛けに首肯して、ともに森へと足を踏み入れた。

 道なき道を行かねばならないのかと怖々としてしまったが、実際は普段から何度も人が行き交ったかのように木の枝は切り取られ、下草は踏まれていた。

 朝顔も、足取りに迷いがない。淡々と進んでいく。

 辺りが夜に変わっていく様子に、気を取られることもないらしい。渡は落ち着きなく辺りを見回してしまうというのに。

 名の知らぬ木々や花々が青々と茂る様はそれだけで美しいけれど、背後が夜の闇に追いつかれて暗く恐ろしく変わっていくのは幻想的だ。

 異界に迷い込んでしまった心地がする。

 夏の虫の嘲笑うような鳴き声が、鼓膜を撫でていく。

 ちょっぴり冷や汗を垂らしながら、渡は夜の森にのまれてしまいそうになるのを堪えていた。空の群青色だけが、渡を安心させてくれる。

 次第に、川のせせらぎがどこからか聞こえてきた。やっと現実が帰ってきたように思えて、渡は息を吐く。

「あと、少しだから」

 朝顔が、淡々と言った。頷いた渡は歯を食いしばって、また一歩踏み出した。

 着いたよと、朝顔が告げたのは、夕の景色が完全に消え去って、夜の森の気配が更に増した後だった。宵の口とはもう言えないくらい、辺りは暗い。二人とも明かりを用意していなかった。田舎育ちの朝顔はそれでも平気そうだったけれど、都会育ちの渡には少々辛かった。梢の先に何かが隠れていそうな錯覚を抱いてしまう。生温かい風が頬を撫で、葉を揺らして不気味な音を立てる。長い下草は、嘲笑って足を擽る。

 月と星の明かりだけが頼りだった。

 川面に反射する明かりは幻のように、踊っている。黒ずんだ丸い石が小さな波を被っていた。水は澄んでいるようだったが、底は深いのかよく見えなかった。

「ここに、あいつはいた。そして、蛍を見ていた」

 朝顔の表情は、陰になって窺い知ることはできない。

「あんたはここを、どう描く?」

 いつかと違って、朝顔は渡の返答を待っていた。暗闇から痛いほどの視線を感じる。

 渡はなんとか息を吸った。

「僕は……」

「僕は?」

 間髪入れずに問い返されると、萎縮してしまう。けれど、朝顔は気遣って手加減などしてはくれない。ただ、実直に待っている。

 渡は震える唇を、勢い任せに開いた。

「僕が描けるのは、……目の前のものだけです。目の前に確かにあるもの、あったもの、だけです。……だから、その人を、描くことはできません。蛍もいなければ、描けません。僕はここを、思い出の場所としてなんか、描けません。ただ、川の流れる場所としてしか、描けないんです」

「なんで?」

 続けようとした言葉は、怒りによって遮られた。

「なんで、そう言うの。あんな綺麗で、美しい絵が描けるのに、なんでそんなに後ろ向きなわけ。……信じられない。胸を張ればいいじゃない。あんたには、……あんたには亡き人に対してできることがあるんでしょう? 亡き人から絵を習ったんでしょう? それを存分に使えばいいのに、なんでそうも卑屈になれる!」

「だって、僕は……」

「僕は何!」

 今にも髪を振り乱して怒り狂いそうな朝顔に、──師匠のことを引き合いに出してきた朝顔に、渡は思わず叫び返していた。

「だって、僕は、師匠じゃないんですよ! ……あんな、あんな素晴らしい絵は描けないんです! 知らないから言えるんです! そんな、簡単に……習ったことを存分に使うなんて、無理に決まってるじゃないですか……。たった白群一色をあんなにも鮮やかに思いを込めて塗れる人なんて、師匠以外にいるわけがない! あんな、素晴らしい絵……なかったんですよ。燃やしてしまった今だって、僕はありありと思い出せるんです。その美しさを! その尊さを! ……僕は、そんなことはできません。師匠のようにはなれません。あんな美しい絵を、特別な絵を描けるあの人は、白黒になって死んだんです! ……死んでしまったんだです……」

 渡の手には一枚の電報が握られていた。掠れた黒のインクで「シ キミタツヒ シス スクカエレ」と書かれた簡素な紙が一切れ、朝顔に向かって突きつけられていた。

 そしてもう片手で、溢れ出してきて止まらない涙を拭っていた。

 けれど、その下から覗く目は、朝顔をきつく睨みつけていた。

 朝顔はそれに臆することなく、吐き捨てる。

「だから、自信がないって逃げていいと?」

「そんなんじゃない……そんなんじゃないんです」

 首を振る渡の声は、涙に濡れながらも、はっきりとしていた。

「僕はそれでも、ただ、絵を描き続けることしかできないんです。それ以外のことなんて、ないんですから。……だから、逃げたりなんかしません」

「なら、この場所を、描いてみてよ」

 挑むような朝顔の言葉に、渡は深く頷くと、目元を拭った。

 深呼吸をして、紙と鉛筆を取り出し、下草の短い辺りに座り込んで、描き始める。

 穏やかに流れる川と、映る星月と、視界を邪魔する下草と、張り出してくる木の枝と、深い闇を、夜目で観察する。それは恐ろしくも美しい世界だ。

 それを渡は、黙って描き続けた。

 できましたよと、渡が絵を差し出すまで、空気はずっと張りつめていた。重苦しい空気の中、朝顔は、絵を受け取った途端に口を歪めた。

「ただの川ね」

 嘲笑った朝顔に、渡は反論しなかった。むしろ、適切だと思ったくらいだった。必死に描いたからと言って、素晴らしいものになるわけではない。朝顔に受け入れられないことは十分想定済みだった。師匠のように、特別な絵は描けやしない。だから、潔く謝って破り捨てようと思ったのだけれど、朝顔は更に語を継いだ。

「いつもの川。……あいつが蛍を待っていた時と一緒。儚くて繊細で、森は黒く空は清くあっただけの、ただの川。あいつが好きな、この場所」

 震えそうになるのを押し殺した声だった。

 振り仰いで朝顔の顔を見た渡は呆然とした。

 泣いていた。

 声も漏らさず、泣いていた。

 絶句してしまって、渡は身動きがとれなかった。

 朝顔の頬を幾筋も涙が伝っていた。次から次から溢れてくるのに、一向に拭こうとしなかった。ただ、静かに泣き続けていた。

 纏っている白縹のアイータは月明かりのせいか、まるで白群のようで、絹のような帯は風でほのかに揺れている。肩口に広がっているはずの黒髪は、半ば闇に溶けていた。

 目が逸らせなかった。

 ぽたりと、伝っていった落涙が水面で弾けるさまに心が震える。

 二の句が継げられない。

「ありがとう。やっぱりあんたの絵、うまいよ」

 泣きながら言われたら、否定することなんてできなかった。

「さあ、ぼうっとしてないで、依り代を流しなよ。そのために、描いてくれたんでしょう?」

 言われるがままに、懐から依り代を取り出したけれど、渡はあまりにも混乱していて、気づいたときには依り代は彼女のと一緒に二つとも川にのまれていた。思いを込める暇などなく、視界から消えていく。

 そのあっけなさに、渡は目を瞬くことしかできなかった。

 けれど、いつの間にか隣にしゃがみ込んでいる朝顔は満足げな顔をしていた。

 これで、よかったのだろうか。

 空いた手の平には、何もない。

 渡を縛りつけておくものは、何もなかった。

 けれど振り返れば、ぼんやりとした暗がりに画材がある。

 描きたいと思った。

 無性に、描きたくて堪らなくなった。

 渡は、星明かりを浴びて、淡く輝く川を見つめる。

 依り代は、影も形も見えないけれど、祈った。師匠に、ありがとうという思いが、届くように。

 川はかすかなせせらぎの音を、暗闇に響かせるだけである。

「あんたの好きな色をしてる」

 そう呟く声が、隣から聞こえて、渡は静かに頷いた。

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星は川に祈る 雨夜灯火 @amayo_tomoshibi

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