4 白黒になった色ガラス


 うっすらとした朝方の光が、窓の色ガラスを見事に煌めかせていた。風が、生温かい空気をつれて、渡の服をはためかせた。

 朝市の支度を始めている商人たちは、どこか気楽でゆっくりとしていた。酒瓶を抱えたまま転がっている者もいるし、装飾品を身につけたままへたり込んでいる者もいるしで、昨日の祭りの名残が感じられた。

 けれどもう少ししたら、ここの人通りも多くなることだろう。本格的な賑わいを見せる前に、適当に帰ろうかと思いつつも、渡はまだ踵を返すことはしなかった。

 今朝、早くに目覚めてしまったのは、昨夜のことが関係しているとわかっていたからだ。寝つくのも大分遅い時間になってしまったことだって、原因は明らかだった。

 師匠の絵のことだ。

 昨夜、朝顔と別れた後、思い出の品を燃やす時間まで待って、渡は本当に絵を燃やしたのだった。

 渡の他にも、思い出を燃やす人は大勢いた。

 縫いぐるみ、ガラスコップ、水槽、花、帽子、水、紐、どれも渡にとっては意味不明で、本人にとってはおそらく尊い物だった。

 その中に埋もれて燃えて、吐き出された黒煙が、空高く登っていくのを、じっと見つめた。

 魂が白煙へと変わるように、昔時は黒煙へと変わっていった。それは亡くなった人への弔いではなく、残った人の安らぎを象徴しているようだった。

 けれど渡にとって、パチパチと音を立てて燃えていく数多の思い出は纏わりついてくる熱気のように重苦しかった。

 夜空へと混ざり合って見えなくなっても、胸のつかえは存在したままだった。鬱屈した気持ちで、宿へと帰り、寝具にくるまった途端、白群色の絵が何とも鮮やかに思い浮かんで、涙が溢れた。

 未練を断ち切ることなど、そう簡単にはできないのだということを思い知らされた気がした。

 泣きながら渡は眠りについたのだけれど、案の定早朝に目が覚めてしまったという次第である。

 だから渡の足は、自然と篝火の元へ向かっていた。

 運良く、燃えかすが欠片くらいは残っていないかと考えたのである。ただそれは、あまりにも都合のいい考えだった。

 辿り着いたそこでは篝火はいまだ煌々と燃えさかっていたのである。

 どうやら川祭りの四日間は、ずっと焚き続けるらしい。一縷の望みが絶たれたことを知って、渡は唇を引き結んだ。この状態では塵一つ残ってなどいないだろう。

 虚しく思いながらも、これでよかったという諦めの思いも沸き上がっていた。

 亡き人との縁というのは、断ち切らざるを得ない。

 そんな気持ちにさせられた。

 多分、それがこの儀式の目的なのだろう。

 思い出を燃やして、天に返してしまえば、品は消え去ってくれる。寂しくはあれど、後追いしないためにはこういう非情さだって必要だということなのだ、きっと。

 渡はしばらく篝火を見つめていたが、やがて緩慢な足取りで宿へと帰っていった。

 女将さんから今日も食事を受け取って、二階へ上がると、指物屋はいつの間にか起き出して、作業を続けている。

 先日同様、先に祈りを終えて食べ始めると、指物屋も作業を止めてやってきた。

 朝食の献立は、渡には冷や汁、指物屋にはロティである。

「絵の進み具合はどうだ?」

 マグカップの乳を煽りながら、指物屋が話し掛けてきた。渡は少々戸惑いつつも答える。

「ええと、それなり、ですかね」

「気に入らないのか?」

 誤魔化そうとしたけれど、指物屋は案外目敏かった。

「……ちょっと、集中できていなくて」

 苦し紛れに零して、胡瓜を口に含む。冷たくて喉を通ると心地がよかった。

 こちらを無言で伺う指物屋に、美味しいですねと声を掛けると、淡々と頷かれた。間違えた。そもそも食べている料理が違った。気まずい。

 指物屋は、ロティを頬張りながらも視線を外さない。どうやら渡が語るのを待っているようだった。仕方なく口を開く。

「うまくいっていないっていう、それだけですよ」

 描けば描く程、眼前の風景とは異なっていくような気がしてならなかった。本当に描きたかったものってなんだったのだろう。全てが曖昧に溶けゆくようだ。

「芸術性とか、そういうものが求められるものについては、よく知らないが……」

 指物屋は、卓を指先で叩いた。

「指物を作る術なら知っている。ただ作り続けるということだ。ノミを動かして、丹念に彫り上げていく。それ以外に上達の道はない」

 それは確かに、一つの真実なのだろうと思った。

 けれど、それは生半可な覚悟では通れない道だ。渡にそれだけのものがあるのだろうか。

「今作ってるあれらは全て、明日川に流すもんだ。精霊と祖霊を乗せて、川から海、海から天へ帰っていくための器だ。あれ自体に、特別はいらない。いっそ簡素であるほうが安らかに亡き人々を運べるとさえ言われる。……そういうものを、お前は作りたいのか?」

「どういう、ことですか?」

 瞳の鋭さに呑まれぬように、必死で言葉を返した。

「依り代に必要なのは個性じゃなくて、普遍だ。でもお前は、そういうものを目指して描いていないだろう。……それくらい、わかる」

 重要な話をしているはずなのに、指物屋は食べる手を止めなかった。きっと指物屋にとっては当然の話なのかもしれない。もう半世紀以上生きている人だ。渡には見えないものがたくさん見えるのだろう。

「そもそも、この依り代だって、本当は普遍でもなんでもない。ぱっと見たところ、そう見られがちってだけだ。俺にとってやっぱりきっと、……特別なんだろうよ。意味はなくとも。

 なあ、お前は悩んでるみたいだが、それは無理に何かにしがみついているせいじゃないのか。お前の絵は一枚たりとも見ちゃいないが、そこにある画材はどれも使い古されてる。愛着が感じられる。同じく道具を使う仕事をしてる身としては、その大事さっていうのがな、いっとうわかるもんなのさ。

 自分を抑圧して描いたものなんて、どんなに時間と金を掛けても駄作にしかならねぇように俺は思う。俺自身、まだまだわからないことだらけだ。でも、ずっと指物を作ってきたからには、ここからは逃れられない。なんだかんだ思っても、ここが自分の居場所だ。

 人にはただの木でも、俺にとっては宝の山さ。

 だからな、お前は、その宝を思い出せ。

 まだまだ若いんだ。自分を押し殺して何になる。達人にでもなったつもりか? それとも狂人か? なあ、最初のきっかけは何だか、思い出してみろよ。純粋な願いや思いを忘れちゃいけねぇよ」

「そう、ですね」

 そんな相づちしか、打つことができなかった。

 食事を終えた指物屋は渡を一瞥だけして、そのまま指物と向き合うのを再開してしまった。

 もらった助言は、宙に浮いていた。ありがたくはあったし、理解することもできたけれど、行動に結びつけることはできなかった。

 だからと言って、口に出して反論することができるわけでもない。集中してしまった指物屋を呼び戻せるほどの力もない。

 ただ無力だ。

 自暴自棄になって煽った冷や汁の、味はしなかった。

 渡は画材一式を抱えて、足取り重く、宿を後にした。

 朝市の往来の中を何とか進んで崖の上まで辿り着いたとき、昼食を買ってないことに気づいて、冷笑した。

 情けなさに、泣けてきそうだ。

 崖から見る明るく賑やかな景色が、胸に突き刺さる。

 知らない鳥の鳴き声が、軽やかに響いた。

 どうしてか、故郷に帰りたいと強く思った。

 そんなことをしてしまえば、師匠に会わなければならなくなるとわかってはいたけれど、何でもない日常が酷く恋しかった。

 やっぱり、渡はそういうどうしようもないものをどうしようもなく描いているのがお似合いなのかもしれなかった。

「師匠、僕は何を描けばいいんでしょうかね」

 呟いた渡の声は、あっけなく空気に溶けていった。

 もやもやした気持ちを抱えながらの丹青は、集中が途切れ途切れになってしまって、続かなかった。

 昼日中と呼べるようになった頃合いに、渡はもう坂道を下り始めていた。またムスビちゃんに会って、気まずくなるのも避けたかった。

 赤々と燃える篝火の傍を通り過ぎて、渡は一番始めに目についた定食屋へ足を踏み入れた。

 店内の装飾は、祭りで華やかになっている。それに窓の色ガラスが床を淡く鮮やかに彩っているのが美しかった。

 客も多く、賑やかだ。なかなか繁盛しているらしい。

 渡はなんだか、ほっと息を吐いた。

 実家もこんなふうな田舎の店だった。人が入り乱れていて、でも大抵は知り合いという雰囲気は懐かしい。

 ちょうど空いていたカウンター席に腰を下ろして、陽気な気分でメニューを確認した。当然、品揃えは異国らしかったが、一品だけ懐かしい料理があった。

「すみません、蕎麦ください」

 カウンター内の店員に呼びかけると、元気のいい返答が返ってきた。そんなところも、親しみが沸いてくる。

 つい、鉛筆と紙を取り出してしまった。

 衝動をどうしてもおさえることができなくて、渡は写生を始めてしまった。

 酒を呑んで豪快に笑う中年たち、異様に緊張し合っている男女の二人組、のんびりとお喋りを楽しむ家族連れ。

 料理を運ぶ店員に、厨房から響く声、小銭が手渡される音。

 梁天井に飾られた提灯、吊り下げられた織物、傾きかかっているダーツの的。

 それら全てに、色ガラスが複数の色彩を与えている。

 白と黒で一通り表現し終えると、渡は瞼を下ろした。

 音だけの世界は、騒がしくて、落ち着く。

 階下から届く喋り声に耳を澄ませていた幼少期を思い出す。屋根裏でごろりと横になって、注文を読み上げる母の声を拾い上げていた。音だけで、父の包丁遣いを想像するのもとても楽しかった。

 何気ない日常だ。大好きな、日常だ。

「へー、少年。上手いね」

 声を掛けてきたのは、齢から察するに店主の奥さんだろう。頬にえくぼが現れて、人のよさそうな感じがした。

「そう、ですか?」

「ああ。上手いよ。その絵、よかったら、店の壁にでも貼らしておくれよ」

 半分社交辞令かと思って聞き流していた渡だったが、予想外の提案に目を剥いた。

「え、この絵をですか?」

 白黒で大雑把な陰影をつけただけの、何気ない日常の一場面だ。絵の具だって使っていない。

「だって、キラキラしてるよ。うちの店、気に入ってくれたみたいで嬉しいね」

「あ、いや……単に僕の実家に似ていて……」

 そこまで言って、本音を漏らしてしまったことを後悔した。気に入ったことを否定する必要はなかったのに。

「そーかい!」

 失礼な物言いだったにも関わらず、奥さんはむしろ嬉しそうに大きく頷いた。

「だったらゆっくりしていきなっ!」

 そう告げて、酒瓶まで置いていった。

「た、頼んでいませんよ?」

 せっかくだ。一杯やんな。と、押しつけてきたマグカップに、どくどくと勢いよく酒を注いでいってしまう。受け取らないわけにもいかなくなって、渡は目をぎゅっと瞑って一息に煽った。

 喉が焼けるような感覚が、駆け抜ける。

「ぷっはー!」

 久しぶりの酒の味に、胃がひっくり返りそうな心地がした。

「いい飲みっぷりだね。ほら」

 空になったばかりだというのに、奥さんは更に酒をなみなみと注いだ。渡は空笑いしながら、そっとマグカップを置く。

 体がもう傾いできていた。既に酔いが回ってきている。これ以上、飲み続けるのは遠慮したい。

「で? その絵はくれんのかい?」

「こんなものでいいのなら……」

 サインを入れてからおずおずと差し出すと、素早く引ったくられてじろじろと眺められる。

「お足はいくらだい?」

「くれるんですか」

「勿論。画家からただで絵を貰うわけにはいかないだろう?」

「……ありがとうございます。では、ここの食事代とトントンで」

「はいよー。お安いこって」

「暇つぶしの絵ですから」

 ここで金を巻き上げても詮ないことだ。金に困っているのは事実だけれど、注文して描いた絵でもないのだから、食事代が浮けばそれで十分だった。

「蕎麦お待ちのお客様〜」

 手を挙げると、奥さんが店員から受け取って渡の前へ置いてくれた。陶器の器ではなく、色ガラスの器に盛られているという違いはあれど、その灰の色合いや形は故郷のそっくりであった。

「リキータ様の名のもと、この豊穣を得られる幸福に感謝します」

 頭を垂れて食べ始めようとした時、「それ、私にも」という澄んだ声に手を止めた。

「あら、来てくれたの。いらっしゃい」

 振り返るよりも早く、その人は渡の左隣に腰掛けた。

 酒を呑んだせいで幻聴が聞こえているのだと思おうとしたけれど、視界の隅に否応なく入る白縹色に逃れられなくなる。

 それとも、幻聴だけでなく幻視もしてしまっているのだろうか。渡は頭を振った。

「私にも一杯くれない?」

 白い指先が、こちらへ盃を傾けていた。

 酒瓶を手にとって軽く注ぐと、その人が微笑したような気配があった。

「どうして、顔を合わせないわけ?」

 からかわれていることはわかっていたけれど、渡は何も言えなかった。自身も酒を煽って、動揺をごまかそうとする。

 喉の奥で酒が弾けて落ちていく。

「早く食べたら?」

 いまだ笑いを含んだ声に身を縮めつつ、渡は蕎麦を啜りだした。普段、使われないのだろう。添えられた箸の歪さを残念に思ったが、味はなかなかのものだった。

「なんだい。知り合いなのか、知り合いじゃないのか。どっちなのさ」

「顔見知りってところ。あの石のところでね、ここずっと絵を描いてるのよ」

 彼女からの自分への認識を聞くのは初めてで、渡はつい黙り込んで聞き耳を立ててしまった。

「飽きもせず、黙りを決め込んでやってる。あそこからの景色なんて、絶景でも何でもないのにね。……なんでそんなに、一本気に描いてたわけ?」

 今度こそまっすぐに向けられた言葉で、渡は耐えきれず顔を上げた。

 朝顔は黒髪を背に垂らし、赤い紅の口元を噛み締めて、眉を寄せていた。瞳は、切々と渡を見ている。

 目を合わせていられなくて、すぐに逸らした。

「思い入れがあるわけでは……ないんです。注文を受けたので、描いていたんですよ。祭りの間の、あの石から見える宵の口の風景を描いてほしいと頼まれていて」

「それって、まさか、飴屋の婆さんのことかい? この間三和坂国に引っ越した」

 奥さんが驚いたように、身を乗り出した。

「え、ええ……。カルイさんという方です」

「なんてこった。じゃああんたが、噂の画家見習いってわけ。道理で上手いもんだ」

 見習い、という単語をつけられてしまったことに渡は苦笑いを浮かべる。やはりそんなに幼く見えるのだろうか? それとも、腕のことを言われているのだろうか? そちらは反論のしようがないけれど。

「噂って?」

 渡の代わりに、朝顔が問うた。

「いやね、飴屋の婆さん、好きだったじゃないか。孫と一緒にあそこへ行くのが。……で、今回の祭りはその孫の新だろ? その時見える風景を残しておきたいって葬式帰りに言ってたんだよ。いい見習いの画家がいるからその子に頼もうかってね」

「考えることは、誰もが同じなのかもね」

 自嘲気味に呟いた朝顔は、渡と奥さんからの視線にふっと頬を緩めた。

「私も、あの石の景色を見に行ったの。あいつの霊を迎えにいくついでに。……あそこにいそうだったから」

「ははっ。あの孫なら、いそうだね。ちゃんと連れ帰ってやったかい?」

「しっかりと好きな赤色で」

「大したもんだ」

 頷き合っている二人へ、遠慮がちに渡は口を挟んだ。

「その、彼って……」

「もう、死んでるよ。ついこの間四十九日が過ぎたくらいじゃないかね? 蛍が大好きな子だったから、せめて夏のもとで死なせてやりたかったよ」

 嘆息しながら、奥さんは亡きその人に思いを馳せているようだった。俯いている朝顔は、目を伏せて髪の毛を弄んでいた。

 いつの間にか運ばれてきた蕎麦にも口をつけず、酒を舐めるように呑んでいる。

 渡は、声を掛けることができなかった。

 黙って自分の蕎麦を啜り、注がれてあった酒を呑んだ。

 胸中を渦巻く形容しがたい思いが、酒のせいでごちゃ混ぜになってくれるように願いながら。

 おかげで、気づけば全身に酔いが回っていた。

 ふと隣を伺うと、空席だった。急いで入り口のほうを見遣ると、朝顔が店を出ようとしているところだった。お代の置かれたカウンターには、半分も口がつけられていない蕎麦と、それに絡みついたフォークが置き去りにされている。

 渡は慌てて、自分の残っていた蕎麦を喉に詰め込んで飛び出した。当然、画材を抱えてだ。

 土埃の舞う道に出て、背伸びして視線を走らせると白縹色はすぐ目についた。渡は人並みを掻き分けて走り寄る。

「ついてくるの?」

 隣に並ぶと、少し意外そうな声で朝顔が言った。

「だめ、ですかね?」

 咄嗟の行動だった。深い意味などないが、朝顔と離れたくないと思っているのも事実だった。

「少し吃驚して。酔うと積極的になるの?」

「……どうでしょう?」

 足元が多少頼りないのは事実だが、錯乱しているわけではない。

 ただ、口が軽くなってはいた。

「簪を送ってくれた方が、先程のお孫さんですか」

 普段ならそんなことを軽々しく尋ねはしなかった。

「……気づいていたんじゃない」

 朝顔は腕を思いっきり伸ばした。

「あいつは……、馬鹿みたいに真っ直ぐなやつだった。蛍が舞う季節になると、毎日のように川に行くんだ。一人のんびり景色を眺めて帰ってくる。満面の笑みで」

 珍しく、朝顔は微笑を浮かべていた。本物の太陽へ手越しに目を向けて眇める仕草からは、年相応の感情が感じられた。

「ほんと、そのまま蛍みたいなやつだった。輝いていて、儚くて──すぐ死んでしまう。……そんな奴だったよ」

 風になびく黒髪が、艶やかで軽やかだった。渡は、いつの間にか立ち止まっていた。

「魔除けにって赤い物をいくつも家族に持たせてた。そんなことしすぎるから、自分に魔が迫ってきてもわからないんだ。あんな呑気に、へらへら笑ってさ。なんの心配事もないって顔して。裕福でもなんでもないくせに、見栄ばっかり張って、高価な簪なんて買って……。ほんと、馬鹿」

 呆れたように罵り捨てる朝顔の背が、小刻みに揺れていた。それは怒りでも悲しみでもなく、苦しみから来ているようだった。

「ガキみたいだった。太陽みたいにね、ぽかんとしてるんだ。のろまで、ドジで、すぐ財布なんか盗まれて。そうして私に泣きついてくるんだ。だらしがない。つまりは馬鹿だ」

 堰を切ってしまって、言葉が止まらないみたいだった。朝顔は、くどいくらい馬鹿だと繰り返す。

「赤らしい赤が大好きで、どの衣も赤ばっかりだった。……そんなんだから、死んだって血の色がわからなくなっちまうんだ」

 歩みを止めて振り返った朝顔の顔からは、血の気が抜けていた。

「なんだって、あんなところから足を踏み外す? あんな……あんなにいつもお祖母さんが好きだって言ってた光景の中に落ちていくんだ? 身を投げるはめになるんだ。……大好きな蛍だって、いなかったのに」

 渡には、なんとなく察しがついていた。

 おそらく朝顔は、その死を間近で見てしまったのだろう。

 そしてその場所は、あの石の傍にある崖なのだ。

「町の人はね、あいつがいれば笑顔になった。太陽みたい明るいって、温かいってみんな言ってたんだ……」

 途端、不格好に歪んだ顔を見て、渡は朝顔が泣いてしまうんじゃないかと危惧したけれど、結局は顔を歪めただけだった。

 朝顔は歪んだ顔のまま、苦しげに言い募った。

「あんた、あいつの見てた景色を描いてるんでしょう? ……あいつを知らないあんたには、どう見えるの? 美しい? 醜い? ……あいつのお祖母さんに、あんたはどんな絵を届けるの?」

 勇んで口を開けようとしたところで、朝顔は首を振った。

「大丈夫。答えなくていい。期待してないから」

 そうしてまた、歩き出す。

 どこを目的地と定めているかは、渡にはわからなかった。朝顔は会話が途切れて以降、渡を半分空気のように扱っていたから、どこかへ導こうとしているわけではないように思う。

 しかし、出店で賑わう表通りからは外れていっていたから、宛がないわけではないだろう。

 渡はそれをむしろ興味深げに見つめていた。自分一人では、あえて裏道を通ろうなどと思わなかったからだ。逸れた先には、鍛冶場が多くあった。ガラス工業を中心として栄えるようになっただけあって、昼時でも甲高い音は響き渡っている。竈で燃えさかる炎の熱気が、開け放たれた戸口からもむっと渡たちに襲いかかってきていた。朝顔は慣れた風だったが、渡は顔をしかめて汗を拭った。真夏でもよく働くなと感心してしまう。

 鍛冶場の立ち並ぶ通りでは、火の精霊を祀る印が、必ず戸口の傍の壁に描かれている。信仰の厚さを感じて、渡は何だか親しみを覚えた。

 唯一神ではなく精霊を祀るというあり方は、三位一体説を信じる身としては幾分受け入れやすかったのもある。

 この地域は、川に関する信仰と火に対する信仰が混ざり合って現在の祭りが発生していると聞いたことがある。片方は精霊流しのことで、片方は昨夜の篝火でのことだろう。うまい具合に共存しているというのは、なかなかに面白い状況だった。文化というものは案外、そういうものなのかもしれない。

 そうやって感心しているうちに、あたりは住宅街へと装いを変えていた。屋根の辺りを見上げると、いつだか影を落としていた白い棘のような塔の先端を近くにみとめることができていた。

 いったい何を目的とした建物なのだろう。

 朝顔の足取りから察するに行く方向はその建物一直線だった。期待を込めて、渡は歩を進めていた。

 そうして住宅街の狭い路地を抜けると、塔の白が目に飛び込んできた。アーチ状の開け放たれた入り口から奧にある巨大な時計が日の光を浴びているのが見える。

 建国記念に建てられたものだという定礎が白一色の壁に刻まれていた。遠い国の遠い過去というのが確かにあったことを、その文字の古び具合が伝えてる気がした。

 ここに入るのかと、渡が朝顔に顔を向けた時、当の本人はその隣の民家へ、何の躊躇いもなく足を踏み入れた。

 渡は驚いて、立ち止まる。

 民家はなんの変哲もない普通の家だった。木造建築のこぢんまりとした家は、がたついた戸が開け放たれていて、土間の薄暗さがよく見える。軒下から垂れ下がった白い無地の提灯が、川祭りに参加していることをささやかに告げているだけだ。

「せっかくここまで来たんだ。入りなよ」

 中から朝顔が手招きをしていた。落ち着きなく辺りを見回した渡だったが、今更引き返すわけにもいかず、意を決して敷居を跨いだ。

 三和土に立った朝顔は、板の間から駆け寄ってくる小さな子を抱きとめているところだった。朝顔を見上げる小さな子は、にっこりと笑顔を浮かべていた。

「おかえりなさーい!」

 元気のいいその声は、まぎれもなくムスビちゃんのものであった。渡は目を白黒とさせた。

 そんな渡に気づいたムスビちゃんは、遠慮なく指差して叫んだ。

「あー! 百緑色の!」

「百緑色?」

 朝顔が訝しげに首を傾げた。

「そう! 薄い緑が好きなんだって!」

「薄い青じゃなくて?」

 要領を掴めないという様子で、朝顔は眉間を寄せている。

「えっと……、白に近い薄い色が好きなんですよ」

「ふーん」

 赤が好きだという朝顔は、納得しかねるという風情で首を傾けた。

 その間に、ムスビちゃんは渡へと跳びかかってきた。膝をがっちりと捕まえて抱きかかえられてしまう。

「ねー、名前! なんて言うの? 知りたかったの」

「そういえば私も知らない」

 上目遣いと流し目が戸惑う渡に向けられた。

「星合渡と言います。

 ……始まりし日 星巡る

 二人の子ら 天祈る

 三和坂にて 風祝う

 深き遠き 川渡る子」

 謡い終えると、二人ともきょとんとした顔をしていた。

 薄々わかってきていたが、この地域では馴染みのない調べらしい。

「言祝ぎだよ。それは」

 奥から、呟きが聞こえた。格子窓からの光が降り注ぐ板の間の陰で、針仕事をしている姿が見えた。

「三和坂国の出身とは珍しいね。『深き遠き川渡る子』らしい」

 渡は苦笑した。名は体を表すとはよく言ったものだけれど、この言祝ぎでは抽象的な川を指しているのだろう。まさか、渡が越えてきた海を示すわけではあるまい。

「川を渡る子よ。今日はここで休んでいくといい。精霊のご加護があらんことを」

 それきり、その人は口を噤んでしまった。

「ありがとう、おばさん。……さっさと上がって」

 おばさんに向かって柔らかい声をかけた朝顔だったが、渡に向かっては冷たく顎をしゃくった。空笑いをしながら、渡は靴を脱いで板の間へと上がらせてもらった。

「せっかくだから、簡単な夕飯くらいおごってあげる」

 土間の竈に火掻きを突っ込んでいる朝顔に、お礼を告げようとした途端、酔いのせいで上がり框に足が突っかかって、そのまま勢い良く頭を打ちつけ、そのまま意識が遠くなった。

 ぷっつりと糸が途切れる寸前、爆笑する声が聞こえた気がした。

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