3 爆ぜゆく白群の紙


 日が完全に落ちきり、仄かな明かりさえなくなって、手元が見えなくなった頃、渡は画材を仕舞い始めた。いくら月が丸く明るいとはいえ、明かりになるものを何も持ってきていないのだ。続きをやるにしても、一旦宿に帰らねばならない。

 画架を素早く折り畳んで抱えると、町に向かって斜めに坂道を下り始めた。そうしたら、昨夜とは違って何人もの人が草むらに立ったり腰を下ろしたりで談笑していた。

 目を瞬かせながら、渡は人の合間を縫って進んでいく。

 次第に陽気な横笛の音が風に乗って聞こえてきた。

 篝火の周りを、布で面を隠した老人たちが横笛を吹きながら回っている。その外側では、アイータを来た一般人らしき人がゆっくりとした踊りを踊っていた。


 母よこい 父よこい

 子はここぞ 子はここぞ

 空泣きたもう 空泣きたもう

 兄よこい 姉よこい

 子はどこぞ 子はどこぞ……


 節にのせて歌われる歌詞に大した意味など、ありはしないのだろう。それでもその旋律の物悲しさが渡の心を刺していた。

 故郷の歌を口ずさみたいような懐かしさに駆られる。

「巡り合いて 天恨み

 言い交わして 川恨み

 星翳りて 永遠とわに泣く

 乙女乞うは 星合いの日」

 一人呟いたそれの意味を、きっとこの町の人はわからないのだろう。川辺での祈りの尊さを、水面に映る星々の美しさを知らない。

 異国に来ているという事実が、実感として渡の胸の内に迫ってきていた。

 地面には、篝火のせいで伸びた影が、楽しげに踊っている。子どもの笑い声や細く長く響いていく笛の音が渡の鼓膜を震わせた。橙色と灰色のせめぎ合いだ。

 渡は小さく溜息を吐いて、宿へ向かって歩き出した。長居をしている意味は、ない。けれど、視界の端に白縹色が目に入って、咄嗟に振り向いてしまった。

 朝顔だった。

 昨日と同じ格好で、同じ簪を挿して、舞っていた。

 柔らかく手拍子をしながらも、特に何の表情も浮かべずに踊る朝顔は、浮いて見えた。篝火の不安定な揺らめきが、その異質さを強調しているようだった。

 声を掛けたいと思ったけれど、踊りの最中だ。呼び止めるわけにもいかなかった。渡は結局、画材を地面に置き、塀に背を預けて、見物人の影からそっと朝顔を見守っていた。

 しかし、すぐに自分は何をしているんだろうという気になってきた。別に、朝顔とは一度話しただけなのだ。わざわざ待って声をかけるほどの仲ではない。馬鹿馬鹿しくなって、塀にもたれるのを止めた時、ふいに朝顔と目が合ってしまった。

 渡はすぐさま目を逸らしたが、手の平はじっとりと汗を掻いてる。

 どうしようか。ゆっくり視線を戻すと、朝顔は前を向いて冷静に手拍子を打っていた。気づかれてしまったことは、おそらく間違いない。

 逡巡したのち、渡はそこでしゃがみ込んだ。

 もうしばらくはここにいよう。会えたら会えた。会えなかったら会えなかったでいいのだから。

 渡は落ちている小石で、地面に落書きをしながら、横笛の音に耳を澄ませていた。

 奏でる旋律が三度目に変わった頃、軽い足音が渡のほうへ近づいてきた。

「何を、描いてるの?」

 頭上から降りかかった声に気づきながらも、渡はそのまま手を動かし続けていた。

「……朝顔の花を、描いていました」

「そう」

 興味のないような相づちだったけれど、渡はさして気にしなかった。元々見えているのに尋ねてきているのはわかっていたからだ。

「今日は写生じゃないの」

 けれど、その言葉には顔を上げた。

 腰を折り曲げて覗き込んでいるのは、やはり朝顔で、丸い真っ直ぐな瞳で渡の落書きを見ている。

 少し迷いながらも、渡は言った。

「その朝顔ですよ」

 軽く首を傾げた朝顔だったけれど、簪を指しているとすぐにわかったようで、おかしそうに微笑した。

「偽物の花も描くの」

「偽物の花というか……簪は簪ですから」

 渡は柄の部分をつけ加え始めた。

「小石の筆で?」

「ただの落書きです」

 ほんの暇つぶしの手慰みだ。きちんと描く気がないからこそ、こんな巫山戯た道具が使えているだけである。

「ほんと好きね。絵を描くの」

 思わず、手が止まった。

「そう、見えますかね」

「違ったの?」

「……いえ」

 渡は首を振った。

 うまく、言葉にできなかった。

「もう、いいんですか。踊りは」

「そうね。やるべき分はもう終わったからいいの」

 体をずらして、人々の足の隙間から篝火の周辺を覗くと、今度は小さな子どもらが各々鮮やかな上着をまとって踊っていた。その中に、ムスビちゃんらしき影もある。慣れた様子で身を躍らせているのに、渡は目を細めた。

「あんたは見てるだけ?」

「余所者ですから」

「そう。じゃあこの火の意味もわからないの」

「火の意味?」

 焚かれている篝火に、明かり以外の意味があるのだろうか。

「新の踊り、子どもの踊り、大人の踊りときたら、燃やすのよ。亡き人の思い出を」

 彼女の瞳に、揺れる篝火が映っていた。

「衣服だったり、花だったり、書物だったり……もろもろをね」

「あなたも、何か燃やすんですか?」

「私? 私は……、これ」

 朝顔は、何の躊躇いもなく、簪を抜き取った。黒髪がうなじを覆い隠して、肩に広がる。

「あいつからの贈り物だったからね。今日、燃やしてしまう」

 朝顔の手の上で煌めくガラス細工の花びらに、勿体ないと、思ってしまったが、渡は口を出せる立場ではない。それに、既に決めたことだという調子だった。渡の一声で意志が変わるとは考えられない。

 せめて、あいつというのが誰を指すのか聞いてみたかったけれど、この話の流れでは亡き人に違いない。あえて詮索するのははばかられた。

 だから代わりに、こう告げた。

「僕も、燃やしていいですかね」

 予想外だったらしく、朝顔は目を瞬いたが、やがて頷いた。

「それが、亡き人の思い出ならば」

 だったら、渡の燃やしたいものは当てはまっていた。むしろそのものだと言っていい。

 ──師匠の絵を燃やそうと思ったのだ。

 渡の師匠は、新しく弟子を取る時、必ずその弟子を見ながら絵を描くのだった。弟子たちはそれを誇りと自慢にして肌身離さず持つというのが数少ない習わしだった。

 渡も、弟子にしてくれと願ったその日に、安宿の狭い部屋でたった二人きり向き合った時のことをよく覚えている。

 椅子に座らされ、ただ黙っていろと言われたあの時の緊張感は忘れることができない。そもそも、まだ弟子にしてもらえるかの答えももらっていないのに、いきなり座らされてモデルになっている意味がわからなかった。それでも、自分を注意深く観察しながら絵を描いている師匠の瞳が黒々と輝いているのを見て、何も言えなくなってしまった。

 つい背筋が伸びてしまう瞳だった。渡は、決死の思いでその瞳をきつく見つめ返した。それなのに師匠はあっさりと視線を外して画布に向かってしまうから、がっかりさえしたものだ。

 そうやって長い時間、狭い部屋で二人っきりになって、優に半日ほど経って、喉の渇きに耐えられなくなった頃、師匠は椅子から立ち上がって、画架から画板を取り外した。

 自身へと向けられた絵に、渡は息を呑んだ。

 最初から師匠と仰ぐつもりであったから、絵の巧さはよくよく知っていた。けれど、描かれたものが自身ではなく、とうとうと広がる青だったことに、言葉を失った。それは、ある角度からは海のように見え、ある角度からは空のように見えた。いや、海に映った空なのかもしれない。

「白群だ。お前の色は、白群だ」

 きっぱりとそう告げて、師匠は渡に絵を押しつけた。手が震えて取り落としそうになるのを、必死に堪えながら、渡はその青ではなく、白群と呼ばれた色を見下ろしていた。

 渡の懐に、それは今でもしっかりと仕舞い込まれている。

 命の次に、大事な絵だった。

 しかし、渡はその絵を師匠が死んでから一度も見ていなかった。瞼の裏には、容易に思い出せるけれど実物を取り出すことはしなかった。

 それはもはや、渡を絵に縛りつける鎖であり、狂気へと誘う麻薬だった。

 狂うために絵を描きたかったわけではないはずなのだ。ムスビちゃんに告げたように、今を残しておきたかっただけのはずだ。けれど、本当にそれが渡の道なのだろうか。

 夏のざわめきは渡の首を締めつける。

 大切な絵だからこそ、手放せる時に、手放してしまいたかった。

 こんな思考回路になっている自分が、もう嫌だったのだ。兄たちや師匠には悪いけれど、これからも画家を続けていく自信がどんどん失われていた。

 いっそ割り切って狂気をまとうこともできない自分が、情けなく思えるほどだった。

「あんたも、誰かが死んだの」

 朝顔がまっすぐに渡を見ていた。

 渡は、無言のままに首肯した。

「だったら、依り代を買って、明後日に川から流せばいい。そうすれば、きちんと帰っていけるから」

 渡は再び、小さく首肯した。

 それを見届けると、朝顔はすくりと立ち上がって人混みに紛れていった。

 また、という微かな呟きが、渡の耳に聞こえた気がした。

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