第3話 解答編


 湯上りの肌も薫りたつ夕焼け空。

 窓から5月の焼けたような夕日が差し込む『西の富士銭湯』のロビーには、までこさん、ましろさん、アトソンくんが集合しています。


 それぞれが手に握るのは銭湯必携アイテム牛乳瓶ですが、どうやらまでこさんはコーヒー牛乳派、ましろさんはフルーツ牛乳派、アトソンくんはスタンダードな牛乳派のようです。

 ちなみにアトソンくんはまでこさんたちが身だしなみを整えている間にもう三本目の牛乳を開けていますが、お腹を壊さない超健康優良児です。



「それで、までこ先輩。暗号の謎が解けたんでしょうか?」


「そうだね……、解けたともいえるし、まだ解けていないともいえる」



 真剣な眼差しで見つめてくるましろさんに、までこさんは謎めいた微笑みを返します。



「え? それは、どういう……」


「暗号は解けたけれど、それが指すものが何を意味するのか私には見当もつかないのだよ。この謎は君宛ての手紙だ。であればその答えもまた君にしか解けないものなのかもしれないね」



 その言葉に、ましろさんはハッとしました。


 二日前、恋焦がれた先輩の転校の知らせを聞いて、ましろさんはいてもたってもいられずその姿を探して図書室へと通じる渡り廊下で呼び止めたのです。



『先輩、転校しちゃうって本当ですか!?』


『おや、今朝クラスで発表したばかりなのにもう知っているのか。烏丸君は情報収集能力が優秀だな』



 そう言って眼鏡の奥で先輩は知的な目を細めて笑います。

 校舎を駆け抜けたからだけではない胸のドキドキ。『君はとても判りやすいな』といつも先輩におかしそうに笑われる通り、きっとましろさんの顔は耳まで赤く染まっていたことでしょう。



『あ、あの……先輩……謎をこよなく愛する先輩には、わたしなんかつまらない人間かもしれないですけど……でも……!』


『そうだ烏丸君。ミステリー同好会の先輩として、僕から君に最後の問題を用意した。君にこの謎が解けるかな?』


『え……?』



 先輩の素っ気ない反応に言いかけていた言葉も忘れてポカンと見返してしまうましろさん。そんな彼女に先輩は白い封筒を握らせ、身を翻します。



『健闘を祈るよ』


『あ……』



 勇気を絞り出した告白は最後まで届けることもできず、その時のましろさんは手の中に残された封筒と去り行く先輩の後ろ姿をただ見比べて立ち尽くすことしかできなかったのでした。


 ましろさんは手にしたフルーツ牛乳をぎゅっと握りしめ、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎます。



「一条先輩がどうしてこの手紙をわたしに渡して、そこにどんな意味があるのかは判らないですけど……わたし、少しでも早く謎を解かなきゃいけない気がしたんです。先輩が遠くへいっちゃう前に、どうしても……」


「月曜に謎を残していき今日が水曜……。なに、酔狂にももう3日も待っているのだから、もうしばし待たせたところで罰は当たるまいよ」


「ん? どういう意味っすか?」


「いやなに、この暗号文……“待つ”という字だけが漢字なのはずいぶんと作為的ではないかと勘繰りしたまでさ」



 ふふと笑って、までこさんは仕切り直すように一条くんの暗号へと注目を集めます。



「謎を解く鍵は〈白妙〉にある。この〈白妙〉は恐らく、全部で三つの異なるものを示唆している」


「ええっ!?」



 二人は声を揃えて驚きます。



「シサってなんすか!?」


「ヒントのことです」



 どうやらアトソンくんはノリで声を上げただけでした。

 それはさておき、ましろさんが確認を取ります。



「三つのヒントのうちの一つは、宛名の”白妙様”を”真白様”に、ということでいいんですよね?」


「その通り。〈白妙〉の役割の一つは、『暗号は手紙であり、真白さんに宛てたものだと示す』ためのもの。そして二つ目の役割は、白妙を真白に置き換えたように、『百人一首を万葉集へと置き換えよ』という解き方のヒントを示していたのだよ」



 先に気がついたのは、ミステリー同好会のましろさんでした。



「封筒に入っていたヒントの和歌は百人一首を”かな”で書いたもの……万葉集の和歌も”かな”に直して、暗号文を置き換えればいいんですね!」


「いかにも」


「までこ先輩、もう一度、万葉集の方の歌を教えてもらえますか!」



 ましろさんは鞄から急いでノートを取り出すと、までこさんが唱えるみそひともじを書き起こしていきます。



【百人一首】

〈たごのうらに うちいでてみれば しろたえの ふじのたかねに ゆきはふりつつ〉


【万葉集】

〈たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにそ ふじのたかねに ゆきはふりける〉





「まずは〈にまで待ちつづつつ〉の初めの〈に〉ですね。〈たごのうらに〉が〈たごのうらゆ〉となるので……」



 〈に〉→〈ゆ〉



「あーなるほど、そういう事っすか!」



 遅れてようやく合点がいったアトソンくんでしたが、暗号文と見比べてすぐにまた首を傾げます。



「ん? でも百人一首の方に〈ま〉って字はないみたいすね? それに〈待〉だけ漢字なのはなんでっすかね?」


「〈ま〉は変換できないようなので、ひとまずそのままとしておきましょう。〈待〉はたぶん……わざわざ漢字を使っていることから、“かな”変換の対象外ってことじゃないかと思うんですけど……」



 チラリとまでこさんを窺えばまでこさんも頷きます。



「私もそう考えたよ、真白さん」


「ためしにそれでやってみます!」



 〈ま〉→〈ま〉


 〈待〉→〈待〉



「次は〈で〉と〈ち〉……〈うちいでてみれば〉の中にどっちもあるっすね! でも、ここは百人一首も万葉集もまったく一緒みたいすよ」


「ではここは、同じ文字へ変換しておきます」



 〈で〉→〈で〉


 〈ち〉→〈ち〉



「大変っすよ! 百人一首の〈つ〉にあたる文字が、万葉集だと〈け〉と〈る〉の二文字あります! しかも暗号文この先〈つづつつ〉でつがいっぱいじゃないすか!」


「ふむ。なればふたつ合わせて接続助詞『つつ』として考えてみたらどうかな?」


「せ、雪辱女子っ?」


「……“いかに捉えたるかは判らねど、その顔思ほゆに誤たること火を見るより明らかなりける”……アトソン君、明日の部活は接続助詞の補習だ」


「ええーっ」



 “いとあやしきありさま”なアトソンくんをさておいて、ましろさんもミステリー同好会ならではの視点で補足します。



「暗号には『換字式暗号』という分類があって、一文字を置き換えたものが必ずしも一文字とは限りません。複数の記号の組み合わせで初めて一文字として表せる場合があるんです。この『つつ』も二文字合わせて解ける換字式暗号の一種と考えられそうですね」


「なるほど、謎解きの世界にはそうした法則名もあるのだね」


「二人の言ってることがさっぱりっすけど、とにかく百人一首で〈つつ〉の場所の文字を万葉集から持ってくればいいんすね!? それならこれだ!」



 〈つつ〉→〈ける〉



「そうなると次は〈つ〉〈づ〉だけれど、〈つ〉ひとつでは先の法則に沿わないことから該当なし、と考えるのが妥当だね」


「そうですね……、仮に〈づつ〉と書かれているなら〈ける〉に濁点を付けて〈げる〉の可能性もありましたけど、このままでは変換はできないです」


「じゃこれもそのままっすね!」



 〈つ〉→〈つ〉


 〈づ〉→〈づ〉



「一応、変換できるものはこれで全部ですけど……」


「と、いうことは、これらを暗号に当て嵌めると……できた!」



 変換した文字を暗号へと当て嵌めていき、そうしてましろさんとアトソンくんの声が揃います。





「〈ゆまで待ちつづける〉!!」





「……て、“ゆま”ってなんすか?」


「……うーん……?」



 今しがたの勢いはどこへやら。二人は再び首を傾げてしまいました。”待ちつづける”という意味ある言葉を発見できたものの、肝心の前半部分が読み解けなかったからです。



「“ユマ”……何かの名前でしょうか」


「ふむ、これはだね――…」


「ハッ!? ”湯間”……すなわちお風呂場ってことすか!!」


「大間違いだ」


「ハッ!? ”湯まで待つ”……つまりお風呂の時間まで待つってことっすか!!」


「お風呂から離れなさい」



 アトソンくんは残念賞です。

 そしてこんな時に頼りになるのも、やっぱりまでこさんなのです。



「”~で待ちつづける”と書かれし物だ。人の名前では意味が通じまいよ。念のため聞いておこうが真白さんも”ゆま”について心当たりはないのだね?」


「は、はい、ありません」


「それもそうだろうね。この解読にはまだ続きがあるのだから」


「ええっまだあるんすか!?」



 百人一首を、万葉集へ。

 この手紙は一条くんがましろさんへ宛てたものだけれど、同時に彼が好敵手と認めたまでこさんへの挑戦状でもあるのです。

『さあ、解いてみるといい万研部のまでこくん』

『君ならこの程度の仕掛け易々と見抜けるだろう』

 そう言って挑戦的に笑う愉しそうな彼の顔が思い浮かぶかのようです。



「そも百人一首の中で、原歌が万葉集に編纂されているものは全てで4首あるのだよ。


 暗号に使われている山部赤人が詠みし4番歌、

 〈田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ〉


 柿本人麻呂が詠みし3番歌、

 〈あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む〉


 天智天皇が詠みし1番歌、

 〈秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ〉


 そして残るは持統天皇が読みし2番歌……、

 〈春すぎて 夏来にけらし 白妙の ころもほすてふ あま香久山かぐやま〉 」



「白妙……!?」


「そう。百人一首には二つの〈白妙〉が存在する。暗号の〈白妙〉に隠された最後のヒント……それは、『白妙が詠まれしもうひとつの和歌を使うこと』なのだよ」



 それこそが謎を解くための、最後の鍵。

 暗号に書かれた〈白妙様〉。

 それは宛名を記した手紙であり。

 百人一首を万葉集へと置き換える解き方を示し。

 もう一つの白妙の和歌を探せ、と伝えるための仕掛けだったのです。


 そしてこのもう一つの白妙の和歌には確かに、最後の謎であった〈ま〉の文字が隠されているのでした。

 そのことに気が付いたましろさんが高鳴る胸を押さえてその先を促します。



「そ、それで……万葉集では、その歌はなんと……!?」


「それはだね……」



 薄く笑みを湛えたまでこさんの桜色の唇が、その歌を紡ぐためにあえかに開かれました。

 そして。



〈春過ぎて 夏来たるらし 白栲しろたえの 衣干したり あめの香久山〉



 たどたどしくも力強い声で詠まれたその歌はまでこさんの口から出たものではありませんでした。までこさんとましろさん二人の目が驚きをもって第三の人物……アトソンくんへと向けられます。



「驚いた……まさか君がその歌を諳んじるとは……よくぞ覚えていたものだね」



 そう。その和歌は奇しくも今日、放課後の部室でまでこさんがキャンバスに描いていた香久山を歌ったものであり、そしてアトソンくんに教えたものだったのです。

 けれどまさかそれをこの勉強全般で可愛らしい成績が並ぶ彼が覚えていようとは。



「一生懸命覚えました。ヨーコさんと、もっといっぱい喋りたいっすから!」



 そう言ってはにかむように笑いながらアトソンくんは一冊の本を取り出します。それはまでこさんが部室で貸してあげた万葉集の解説書でした。

 アトソンくんは湯上がりのロビーで女子二人を待つ間、までこさんに教えてもらったこの和歌について彼なりに学ぼうとしていたのでした。

 意外な後輩の成長にまでこさんの顔もほころびます。



「見直したよ、アトソン君」



 そうしてついに、全ての謎が解き明かされました。

 ましろさんは緊張と興奮でドキドキしながら最後の一文字を暗号へと当てはめたのです。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


  真白様


      ゆめで待ちつづける


                  一条


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



「ゆ、め……?」



 先輩は、ゆめでわたしを待ちつづけている?

 現実ではもう会えないってこと?

 ――違う、そうじゃない。先輩が本当に伝えたいことがあるはず。

 ましろさんは目を丸くして、それから一生懸命考えます。心強い助っ人は自らが解くべき全ての謎は解かれたと、ただ静かにそんな彼女を見守ります。


 ましろさんは一生懸命に思い出します。

 

 一条先輩がこの手紙を渡してきた時のこと。その謎めいた瞳と去ってゆく背中。

 一条先輩が万研部部長の話をしてくれた時のこと。楽しそうにまでこ先輩を語る横顔にちくりとした心。

 一条先輩が失敗ばかりで落ち込んだ自分にチョコレートをくれたこと。嬉しくて食べるのがもったいなくて、結局食べずに机に飾ってしまっていること。

 一条先輩がいろは歌の秘密を教えてくれた時のこと。自分もそんな謎を作ってみたいだなんて言って笑っていたこと。


 そういえば、どうして先輩はあの時いろは歌の話を始めたんだったっけ――そう思い至った時、ましろさんの中で弾けるようにすべての記憶が繋がりました。

 それはいつもの通学路。いつもの景色。そこに出来た、いつもとは違う新しいお洒落なお店。そのお店を見て、お店の名前を見て、彼は言ったのです。



といえば、〈浅き見じ酔いもせず〉で締めくくられるいろは歌には秘密があるのを知っているかい?』



「あ……」



 ましろさんの口から幽かな声が零れます。



「”ゆめ”の場所、判りました……。すみません、わたし……わたし、行ってきます……!」



 何も言わず頷くまでこさんの優しい眼差しに後押しされてましろさんが飛び出していきます。そうして軽やかに駆けていく足音が小さくなってから、珍しく空気を読んで静かだったアトソンくんが恐る恐る手を上げたのでした。



「えーと、ヨーコさん、そろそろ俺にも解説してもらって、いいすかね?」


「そうだね、これはあくまで私の想像なのだけど……」



 暮れ始めた夕日を反射してキラキラと光る水滴を付けた硝子瓶を眩しそうに見つめながら、までこさんは答えます。



「例えば、一条君には彼を健気に慕う可愛らしい後輩がいて、彼も彼女からの好意を好もしく感じていたとしよう。けれども自分がもうすぐ転校してしまうことを思うと、彼は後輩の想いに応えてやることは出来ない、だから後輩から告白を受け取ろうとはしなかった」



 柔らかな指先が瓶を弾くとコツンと音を立てて隣の空瓶にぶつかって、中のコーヒー牛乳がちいさく波打ちました。



「……そうして代わりに恋文を謎の中に隠して渡した。もしそれでもまだ自分を探してくれるのなら、会いたいと願うのなら、その時こそこの想いを伝えよう……とね。期限は彼がこの地を発つまでの5日間。そうして彼はもう3日、後輩の彼女が現れてくれるのを“ゆめ”という場所で待っている」


「それって……うえーっ、なんて遠回りなやり方するんすか、イチジョー先輩って人は!? 両想いなら両想いだって、相手に教えてやればいいのに!」



 もしも相手が現れなければその時は、その想いを大切に胸にしまい旅立っていったのでしょう。気持ちが通じ合ったとしても、すぐに二人はまた遠い地へと離れ離れになってしまう未来が待っているのです。


 

「まったく、奥ゆかしいのか天邪鬼なのか……まぁ、これはあくまで私の想像。本当のところは彼にしか判らぬさ」



 私たちはただ二人の行く末が幸せであることを祈ろうじゃないか……そう言ってまでこさんは瓶に残った甘くほろ苦いコーヒー牛乳を味わい、善き友と可愛らしい後輩に贈る一首の和歌を口ずさむのです。



 〈恋ひ恋ひて 逢へる時だに うるわしき 言尽くしてよ 長くと思わば〉






 明るい暖色に照らされた店内を流れるゆったりとしたJAZZの旋律。

 穏やかな時間を提供する白壁も眩しい喫茶店の最も奥の、店内のすべてが見渡せる場所……まだ真新しく杉の香りを残す二人掛けの木製テーブルの座席に眼鏡を掛けた若者が一人腰掛け、読書をしています。

 ですが彼は約束があるのか先程から頻繁に本から腕時計へと視線を移すことを繰り返しているのです。卓上に置かれたカップに三分の一ほど残ったコーヒーはすっかりその温もりを失っているようでしたが、それすら彼は気になりません。

 それはここ三日の間繰り返される彼の日課でもありました。

 腕時計の針が18時を指す頃になってようやく若者が名残惜しそうに、どこか諦めた顔で席を立ちあがった時です。


 店の扉に備えられたドアベルが鳴り響き一人の少女が店内に駆け込んできます。余程急いでいたのか息を弾ませながらキョロキョロと店内を見渡し、そこに目当ての人物を見つけました。

 なんのことはありません。店内はそう広すぎることもなく、更に相手は立ち上がっているのですから、慌てふためいた彼女の様子はすべて相手から丸見えです。


 そうして若者は、はたとこちらに気が付いてみるみる顔を赤らめはじめる彼の"待ち焦がれた人”に。

 心からの親愛を込めて、微笑み返すのでした。












〈こひこひて あへるときだに うるわしき ことつくしてよ ながくとおもわば〉




『恋しくて、恋しくて、やっとお逢いできたせめて今だけは、


  どうか私にたくさんの愛の言葉を尽くしてください。


    二人の関係がこの先も長く続くことを願うのならば。』








◇おしまい◇



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