第43話 8月1日前篇

 結菜は『南かぜ風』にバイトに行き、俺は一人でテレビのワイドショーを見ていた。加藤の授業と同じくらいつまらなかったから、本当は消してしまいたいのだが、八坂の部屋からドンドンと音が響いてくるので、つけっぱなしにしていた。

 佐藤の部屋のほうは、引越しが終わったようで、先ほどから静かだった。それはそれで、気になっていた。三上も一緒に部屋にいるのだろうか?

 いつ佐藤が訪ねてくるかもわからないので、一人でやることもできない。

 久しぶりにスマホでゲームをしようかとも思ったが、虚しくなりそうだったので、やめることにした。



『ピンポーン』

 俺は佐藤の部屋のチャイムを押した。八坂の部屋から聞こえてくる音と、佐藤の部屋から何も聞こえてこない無音が気になって仕方なかった。

 ドアが開き、

「おっ、正、どうかしたか?」

 部屋の中から本当に佐藤が出てきた。頭の中ではわかっていたことだが、こうやって実際に隣の部屋から佐藤が出てくると、本当に引越して来たのだと実感した。

「いや、ちょっと暇で……」

「そっか。なら、本でも読んでいけよ」

 佐藤にそう言われたので、遠慮なく中に入ると、三上が勉強をしていた。

 部屋には佐藤と三上の机と、一人掛けソファーが2つ、テーブル、壁一面に本棚が置かれていた。

「ほら、ここに座って好きな本、読んでいきなよ。友里が持って来てくれたんだ」

 俺にそう言うと、佐藤は机に向かう。

 本棚に並んでいる本を見てみると、『海辺のカ○カ』の上下巻があったので、上巻を手に取ろうとした。下巻はとっくに読み終わっていたが、結菜が意地悪をして上巻を貸してくれなかったので、まだ読めないでいた。

 だから、『海辺のカ○カ』の上巻を読んでみたかったのだが、やっぱり結菜が貸してくれるのを待とうと思ったので、『変○』を取ってソファーに座る。

「佐藤さ、卒業したら『アツアツ』で働くんだろ」

「ああ」

「だったら、どうしてこんなに勉強してるんだよ?」

「親父がさ、大学受験だけはして、合格してみせろって。勉強も青春の大切な一部だから、ちゃんとやっておかないと後悔するぞって言われたらさ、放っておけないじゃん」

 おじさんらしいアドバイスだ。俺も少し勉強したくなってきた。

「そこ、静かにして」

 俺と佐藤が喋っていると、三上が図書館の先生のように注意をする。

「ご、ごめん」

 俺は静かに『変○』を読むことにした。


 壁掛け時計は秒針の音が鳴らないタイプだったので、部屋の中は佐藤と三上が使う、えんぴつの音が支配していた。

 咳払い一つできない緊張感に耐えられず、俺は20ページほど読んだ『変○』を本棚にしまうと、『俺、戻る』と佐藤に指で合図して、すごすごと退散した。



 結菜の部屋に戻ると、八坂の部屋はすっかり静かになっていた。

 俺は暇だったので、洗濯物を取り込んでたたみ、パジャマをアイロンがけすることにした。

 パリッとしたパジャマを着て、結菜もきっと喜んでくれることだろう。結菜の喜ぶ顔を見ることが今から楽しみだ。

 平穏な心でアイロンがけをしていると、また八坂の部屋が騒がしくなる。いったい何ラウンド目なのだ? どれだけヤレば大人しくなるのだ? 負けてたまるか。こんなことでイライラして、気を取られて、結菜とお揃いのパジャマをアイロンで焦がしたりはしないぞ。心を穏やかに、穏やかにするんだ。

「ああーん」

 聞こえてしまった! 心を穏やかにしすぎたせいか、八坂の部屋から聞きたくなかった声を聞いてしまった! 向こうも、しまったと思ったのか、急に静かになる。

 俺が硬直していると、『トントン』と壁が叩かれる音がした。俺は意味がわからず、無視をした。もう一回、『トントン』と壁が叩かれる。俺はまた無視をする。

 そして、また八坂の部屋が騒がしくなる。何だこれは? 先ほどの『トントン』は俺が居るかどうかの確認だったのか? 俺はすぐにテレビをつけて、ボリュームを上げた。



「それで、焦がしてしまったのね……」

 アルバイトから戻って来た結菜を喜ばせることはできなかった。結菜が買ってくれた大切なパジャマを俺はアイロンで焦がしてしまっていた。八坂のせいだ、と言いたいところだが、負けた俺が悪い。

「よりによって、こんなところを焦がすなんて……。まあ、自業自得だわ。禁欲の意味も込めて着ることね」

 結菜はそう言うと、パジャマを俺に返した。見事に股間の部分を焦がしていた。ヤリたいだけヤッている八坂と、このパジャマを着て禁欲を続ける俺とでは、どちらが健全なのかますますわからなくなってくる。



 2日後の金曜日。この日は、俺も結菜もアルバイトが休みだったので、夏季講習が終わると、駅前のスーパーに買い物にでかけた。

 俺がカートを押して、結菜が食材を入れていく。幸せな時間だった。

「ふぁー」

 ふいにあくびをしてしまう。

「ごめんね。買い物に付き合わせちゃって」

 結菜が寂しそうな表情をした。

「ち、違う! 俺、今、最高に楽しい!」

「本当?」

「楽しいに決まっているよ! 結菜と一緒にスーパーで買い物ができるなんて、遊園地に行くよりも何倍も楽しいんだから!」

「フフフッ、よかった」

「あくびしたのはアレだよアレ。気になって眠れなくて」

「ああ、お隣さんね」

「結菜はよく平気で眠れるよな」

「だって、落合が一緒に居てくれるんだもん」

 今まで見た結菜の笑顔の中でも、ベスト3に入る笑顔を結菜は見せてくれた。もちろん、そのベスト3の笑顔はどんどん更新されるのだが。

 しかし、俺と一緒に居るとよく眠れるという言葉は、素直に喜んでいいものなのだろうか? 実際に、俺に対してドキドキして、眠れないでいるような素振りを結菜が見せたことはなかった。

 それに、俺のほうも、結菜と一緒だともっとドキドキして眠れないかと思っていたが、お隣が静かになると、すぐに眠ることができていた。結婚するまでセックスをしないと決めたからだろうか?


 そんなことを考えていたら、カゴにびっしりと食材が入れられていた。

「結菜って、まとめ買い派なんだ」

「違うよ。今日は、食事会をするから、6人分の材料を買っているの」

 6人分だって? 今、6人分と言ったよな? 6人目は……。

「佐藤と三上さんもお隣さんになったから、美樹と食事会しようって決めたんだ。今日なら、八坂君も来られるみたいだし」

 今日から8月になって、ただでさえ、気分は落ち込んでいるのに、どうして八坂と一緒に飯を食わないといけないんだ? それに、結菜の部屋に、八坂に入られるのは我慢がならない。

「俺、ヤダ」

「もう決めたことだもん」

「聞いてなかったぞ」

「言ったら反対するでしょ」

「そりゃそうだろ。あいつ、この間だって、美樹にだけ買い物した袋を持たせていたし、だいたいセフレっていう関係を続けているのが許せないね」

「だったら、美樹のことも嫌いなの?」

「……それは、別の話だろ」

「ちっとも別の話じゃないわ」

「とにかく、俺はヤダ」

「だったら、今晩はファミレスにでも食べに行ってよね。私たちだけで食事会するから」

 結菜はそう言いながら、さらに食材を追加で入れていく。

 クソッ。八坂に結菜の手料理を食べられるのも腹が立つ。どうにか食事会をなしにする方法はないものか?

「でも、今日は8月1日だよ」

「だから何なの?」

「いや、8月1日はやっぱり、結菜と二人ですごしたいなって思っていて……」

「もう、意味不明なこと言わないで。食事会は決定事項なの」

 本当に今日は結菜と二人きりですごしたかった。結菜と一緒にいられる最後の月……。泣いても笑っても、一ヶ月後には別れが待っているんだ。来年の4月には渚町に戻って来るとはいえ、長い間、結菜と離れ離れになってしまう。こうやってスーパーで一緒に買い物をできることは、本当に貴重な時間だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る