ようこそ不思議の国へ

 町外れに降り立つと、ファフニルは飛び立っていった。

 より正確に言うのなら、ベルフェに追い返されたのだ。

 名残惜しそうだったが、クロナとしてもベルフェに賛成である。何が起きているにしろ、ドラゴンが手を出してマシになる事態など何一つ無い。


 見上げた空は、広がる色とりどりの煙に覆われていく。現在進行形で、事態は悪化しているらしい。

 辺りに人気はない。人っ子一人どころか、猫すらいないくらいだ。


 まるで町全体が息を潜めているような、不自然な沈黙の中、私とベルフェは顔を見合わせる。


「………僕はよく知らないんですが、普段の町はこんな感じなんですか?」

「いや、流石にこんなことはないな。騒々しいというわけではないが、これでは活気どころか生気も感じられない」

「とすると、巻き込まれましたかね………おや?」

「どうした?」


 不意に、ベルフェが何かを探すように視線をさ迷わせた。振り返り視線を追い掛けてみるが、そこには何も居ない。念のため耳を澄ましてみるが、何者かの息づかいはおろか足音さえ聞こえない。

 なんなんだ、と振り返り、


「………あれ?」


 呆然とした。


 そこには、誰もいなかった。耳を澄ましても、鼻を利かせても、目を凝らしても、ベルフェの姿どころか誰かが居た痕跡さえ感じ取れない。

 あの胡散臭い魔術師の悪ふざけかとも思ったが、流石にこの場面で悪ふざけをするようなはしゃいだ奴ではない筈だ。そう思いたい。

 しかし、だとすると………。


「………既に、巻き込まれてるかな………?」


 呟く私の足元に、うっすらと霧が立ち込めてくる。果たして、どちらが巻き込まれたのかは、わからなかったが。






「………………………ふむ」


 辺りを、キョロキョロと見回しつつ、ベルフェは頷いた。

 どうやら、クロナとははぐれたらしい。それも、一瞬のうちに、だ。

 町の裏路地に何か動く影を見たような気がしてそちらを見ていたら、目の前からクロナの姿が消え失せていた。


「まぁ、恐らくその表現は、間違っていますかね。………この場合、動いたのは僕の方ですか」


 周囲の景色を見つつ、独りごちる。


 目の前に広がっているのは、。白くて細かい砂の地面の柔らかい感触がブーツ越しに伝わるし、ラヴィでなくともわかるくらい濃厚な潮の香りが鼻を刺す。遠くを見れば、寄せては返す白波が、ザザンザザンと低く鳴く。

 幻覚などではない、紛れもない海がそこにはあった。


「ふむ………別な魔術師の横槍、というわけではないですよね、流石に」


 そんな気配は感じられなかったし、クロナも感じた様子はなかった。クロナも何かを感じたら、教えてくれるだろうし。もし二人同時に惑わすほどの魔術師がいるのなら、もはや自分達の出る幕ではない。


「僕だけならまぁいいや、と思われた可能性もありますけどね。………最有力候補は、やはり、例の本ですか」


 果たして件の魔導書に、海の描写でもあっただろうか。魔導書の管理人から聞かされた内容を思い返しつつ歩くと、足が何かを蹴飛ばした。


「………ん?」


 何だろう。小石よりは大きなもののようだし、それに、何か小さく声が聞こえたような気もするが。

 視線を足下に向ける。と、転がっていた岩がくるりと


「おい!何するんだ!」

「………おやおや」


 小さな怒鳴り声に、ベルフェは思わず目を見開く。

 驚き固まる魔術師に、転がっていた岩が詰め寄る。………いや、それは岩ではなかった。

 ゴツゴツとした灰色の殻が二枚、唇のようにパクパクと動いている。その間には、柔らかそうなピンク色の塊が蠢き、言葉を紡いでいる。


「貝ですかね?なかなか大きいですが」

「ふん、人間か。道理で図々しい大きさだと思ったよ。………おいら達はエルオーだ」

「………『達』?」


 首を傾げるのと、ゴトンという音がするのとは、ほとんど同時だった。続いてゴトン、ゴトン、ゴトンと数回、同じような音が聞こえてくる。

 視線を巡らす。先程まで砂浜だった辺りは、いつの間にか岩が幾つも転がっている。恐らく、それは岩ではないのだろう。


「突然の登場にもう驚きはしませんがね。ふむ、

「「「何をぶつぶつ言ってるんだよ。お前さん、こんなとこになんの用だ?」」」


 辺りの貝達が、一斉に声をあげた。子供のように甲高い声に囲まれるのは、気持ちの良いものではない。

 ベルフェは答えず、辺りに視線を巡らした。貝達のいる地面ではなく、空の方をだ。


「「「無視するなよ、どこ見てるんだ?人間め」」」

「いえ、僕は少々急いでましてね。早く来ないかな、と思いまして」


 は?という声に応じるように、彼等の頭上に影が差した。続いて、バサバサという羽ばたく音も。


「「「あ、あわわわわ!!」」」


 その正体に心当たりがあるのか、貝達が慌てふためいている。勿論、ベルフェにもその心当たりはある。

 降りてくる、その巨大な姿を見上げつつ、ベルフェはニヤリと笑った。ちょうど急いでいたところだ。

 空でも飛んでいきたいくらいに。





「………もう、驚く方が馬鹿らしいな、これは」


 ため息混じりに呟く私の周囲は、古くも堅牢な町並みが広がっては………いなかった。


 そこは、森だった。


 けして低くはない私の背丈を簡単に上回るほどの木々がいつの間にやら現れて、あっという間に森の中だ。

 気が付けば、足下も石畳ではなくただの土だった。


「………ベルフェは、どこに跳ばされたのかな………」


 まあ、あいつは魔導書のを知っている。心配する必要は無いだろう。

 寧ろ、問題はこっちだ。私は辺りに気を配りながら、腰の鞄を叩いた。


「いってぇっ!?何するんだよ、相棒!」

「寝た振りしてたんでしょう、バグ。事態は解ってる? 」


 ベルフェが来て以来一言も喋っていなかった姿相棒、バグは、パカパカと口を動かして、いつものように笑い声をあげる。


「もちろん聞いてたぜ、ギャハハ、相変わらず不味い事態だな? 【不思議の国のアリス】とはな、最低だな!!」

「知ってるの?」

「ギャハハ、さあねえ。この場面に役に立つとは思えないなぁ、ギャハハハ!!」


 絶妙に役に立たない台詞だった。とは言え、聞こえるだけでも気は楽だ。慣れ親しんだ声が聞けるというだけではない、バグの復帰は戦力的にもありがたい。


「何があるかわからない。慎重に行こう」

「あいよ。しかし、ギャハハ、どこへだい?」


 茶化すような声に、私は眉を寄せる。確かに、辺りは不気味な森。木々の隙間を覗こうとしても、白い霧が立ち込めていて全く見通しが利かない。

 道に沿って先にいこうにも、前後どちらが先だかわからないのだ。

 どうするか。立ち竦む私の耳が、微かな音を捉えた――背後だ。


「っ!?」

「おおっと、鋭いねぇ」


 弾かれるように振り返ると、そこには、一人の亜人が立っていた。


 ピンクと紫というひたすら目に悪そうな色合いの毛並みをした、キャッティアの女性だ。何故かロングコートの下には何も着ておらず、際どい部分だけ下着のように毛皮が覆っている。

 女性らしい凹凸が効いたボディラインに、バグが下手くそな口笛を吹いた。うざい。


「いいねぇ、ベッピンさんじゃねぇか!!ギャハハ!!目の保養だぜ」

「お前に目はないだろう」

「おやおや、いいんだよ、別に減るもんじゃないさ」


 ニヤニヤと笑いながら、キャッティアは歩み寄ってくる。足音のまるでしない、体重を感じさせない歩き方だった。

 警戒心の無さそうな態度だ。両手を広げてゆっくりと近付くキャッティアに、私もゆっくりと手を動かし、

 ナイフを投げた。


「おおっと、危ないな」


 それを苦もなく受け止めて、キャッティアはニヤニヤと笑う。


「いきなりなんだい?酷いなぁ」

「………この場面で私に警戒しないのは、関係者だけだろう?それに、キャッティアならかわせるだろうしな」


 キャッティアの目、特に動体視力はずば抜けている。不意をついたとは言え、投擲武器などは止まって見えるだろう。


「ふうん、魔導書に慣れてはいないけど、場馴れはしているらしいね」


 あっさりと飛び出した魔導書という言葉に、私は身構えた。やはりこいつは、そちら側か。

 流石に魔導書を操るやつではないと思いたいが………楽観はできない。

 バグに片手を突っ込む私に、キャッティアは笑いながら手を振った。


「安心してよ、君とは戦わない。寧ろ、君の味方なんだよ、僕は」

「あいにく、味方は間に合ってる」

「鞄一つでどこへでも、かい?それはそれでいいけれど、道くらい聞きたくないかな?」


 キャッティアの言葉は確かに魅力的だった。どこへいけばいいのかは、多分私では一生かかってもわからない。教えてもらえるのならそれに越したことはない。それが真実なら。


「その道をまっすぐ進むといい。道を知ってるやつがいるよ」


 キャッティアが私の背後を指差した。振り返ると、いつの間にか立て札が立っている。指差された方角は、一言【危険】と書いてあるだけだ。因みに、逆には【海】とだけ書いてある。


 危険じゃないか。文句を言いながら再び振り返ると、そこにはもうキャッティアの姿はなかった――いや、あるにはあった。


 その姿はほとんどが消え失せて、唯一、三日月のように裂けた口が浮かんでいるだけだ。

 その口が、笑いながら声を出した。


「危険は、何かを守るためにある。探し物は、守られるべきものなんじゃないのかな?僕、チェシャは嘘をつかないよ」


 選ぶのは君だけどね。

 そう言い残して、チェシャと名乗った口は消えてしまった。

 ため息をつき、私は立て札に向き直る。守るための危険、言い得て妙だ。


「まぁ、行くしかないか」


 意を決して、私は歩き出した。騒がしい相棒を肩に掛け、危険の方へ、危険な方へ。





 森は消えて、アリスはお城に着きました。見上げるほどに高いお城の前には、大きくて広い薔薇の園。


「おや、アリス。どこにいくんだい?」


 塀の上から声がしましたが、アリスは答えませんでした。割れた卵を片付ける手間が惜しかったのです。


「バラ園は、今閉まっているよ。何でも、白いバラを植えたバカが居たらしい」

「あらそうなの、ところで知っている?割れそうなのに塀の上に座るのは、バカのすることよ」


 そう言って、アリスはどんどん歩きます。背後で誰かが文句を言っていましたが、聞く耳は持っていませんでした。

 今は急いでいるのです。もうすぐ裁判が始まってしまうのですから。

 急がなくては。焦る彼女の中にはもう、【アリス】以外の誰かさんなど欠片も残っていませんでした。

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