第30話エピローグ 清丸の家族

 俺の家族は、二人いる。

 一人は母親の田川まこと。

 もう一人は祖母の町田涼子だ。

 祖母は数年前に亡くなったが、それまでは二人の間を漂う雰囲気が尋常ではなかった。

 介護士の母親が自宅で祖母の世話をする休日、母親は祖母を蔑み、祖母は自分の娘である母親に怯えていた。俺もそのときの母親が恐ろしかった。

 母親に対する言葉は、懺悔ざんげ以外に覚えていない。

 母親の勤務日に、祖母が入居する介護施設を訪れると、祖母は俺との面会を喜ぶものの、それは一瞬で終わった。

 「ごめんね、清丸。ごめんね……」

 俺が部屋を出るまで、祖母は申し訳なさそうな態度を一度も崩さなかった。

 ときには不自由な体で精一杯、頭を何度も何度も下げた。

 申し訳ないのは、両腕のない祖母のために何もできない自分であり、祖母に責めるべきことは何一つないというのに。

 祖母にそんな思いをさせるのが辛くなり、俺が中学に上がるころには、施設への足が遠のいてしまった。

 俺と祖母の二人きりの時間が途絶えたこともあり、祖母は心労が原因で衰弱死した。


 葬式の際、俺はみっともなく号泣してしまい、学ランの袖が涙と鼻水で汚れた。

 一方、母親は凛としていて涙の一つも見せず、立派に喪主を務めた。

 ただ一つ俺に言葉をかけたときだけ、母親は機械的ではなかった。

 「清丸は、の優しい心を受け継いだのね」

 母親の意外な一面を目の当たりにし、俺はすっかり涙が止まってしまった。

 このことがきっかけで、母親への違和感はさらに増した。

 未婚である母親、祖母とは異なる姓、害虫として見下すような祖母への眼差し、そしてときどき俺自身を知らない誰かと重ねる哀しい表情。

 後に己の出生を知り、俺は異常な「箱」の中で育てられたのかと思い、掴みどころのない暗い感情に押し潰されそうになった。

 高校生になるころには、すでに己の存在理由、つまり母親を憎む気持ちを抑えることができなくなった。己の出生について、母親との口論が増えたのも、ちょうどそのころだ。

 以来、俺は人と距離を置くようになった。母親が俺にしたように、誰かへの憎しみを移植することないように。

 社会に出ると、さまざまな事情を抱えた多くの人と出会った。

 それでも彼らに比べると、俺は普通ではなかった。

 母親の復讐という使命を背負って生まれた私生児など、誰が理解してくれるだろうか。

 俺は心身ともにますます孤立し、やがて心は渦に呑まれ、完全に俺自身のものではなくなった。

 ある日気が付くと、俺は包丁を片手に自宅の台所に立っていた。

 その姿を目の当たりにした母親は、驚いて声を上げた。

 「何しているの? 自分を傷付けるなんて、やめなさい」

 包丁を持つ手から、母親は取り上げようとした。

 しかし俺が包丁を持ったまま手を上げると、小柄な母親の腕が届くはずもない。

 「違う、俺じゃない。あんただ、田川まこと」

 成長期を終えた俺が、今度は母親を害虫のように見下す。

 通常、ドラマなどのこういう場面では、女性は恐怖で泣き叫ぶことが多い。

 しかし母親は違った。

 腕を下ろし、俺を見上げたままの表情は静かになっていた。


 「……遂にこのときが来たのね」

 「え?」

 互いの視線が合うと、俺の手が勝手に落ちた。

 「う……ぐっ」

 胸に血を流し、母親はうずくまっている。俺が包丁で刺してしまったのだ。

 「ちょっ、ちょっと! おい!」

 両肩を揺さぶっても、母親は立ち上がることもなく、血も止まらない。


 「お父さん、ごめんね……愛しているよ、清……ま、る」


 これが俺の母親、田川まことの最期だった。

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加藤ゆうき @Yuki-Kato

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